With You.   作:長串望

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夢の中で誓ったの、だから。

 いまはあまり見ないが、昔はVHSと言うものが主流だった。ビデオテープと言う奴だ。さやかが子供の頃はあの黒いテープがまだ家では現役で、今はどこかに行ってしまったビデオデッキにテープを突っ込んで、少しノイズの走り始めた古い洋画を、父の膝の上で馬鹿みたいに口を開けてみていた記憶がある。両親は洋画の他に、あの馴染のテープよりちっちゃなカセットを、下駄をはかせるみたいに黒い枠にはめて、ビデオデッキに押し込んで手振れの酷い映像を見るのを好んでいた。後になってどういうものか知ったのだったが、あれはハンディカメラで録画するためのカセットで、あの黒い枠はそれを普通のビデオデッキで見れるようにするためのアダプターだったらしい。つまり両親が満たされたような笑顔で眺めていた退屈なあの映像は、幼少のさやかの姿を撮ったホームビデオだったのだ。あんまりやんちゃで腕白すぎててっきり男の子だと思ってみていた自分がさやかはいっそ憐れだった。

 いまでこそほとんどのテープの中身をDVDやハードディスクに移してしまったが、子供の頃の記憶や経験と言うものは偉大な物で、今でも映像と言うとさやかの中ではビデオテープの印象が強かった。

 そのビデオテープが、今さやかの目の前で再生されていた。

 画質の荒いブラウン管テレビに接続された古めかしいビデオデッキの中で、きゅるきゅるとビデオテープが回っている。長い間、映し出される映像は退屈な展開を続けていた。景色は何時も変わり映えしない病室がほとんどだった。視点が低い頃はまだ屋外や学校といった光景が見て取れたが、ある時を境に視点は真っ白な部屋のベッドの上から動かなくなった。片隅のカレンダーに刻まれるバツ印だけが辛うじて時の流れを思わせたが、それさえも気が遠くなるほどに遅々としていた。

 時折人の姿が映ることもあった。医者。看護師。患者。それ以外の姿はなかった。

 やがて本を読むことが増えた。有り余る時間を潰して殺すために、それ以外の武器を持ち合わせていなかった。そしてそれすらも、端が擦り切れ、黒ずんできた頼りのない武器に過ぎなかった。少しすると、新しい本が続々と増えていったが、それを持ってくるのはいつも看護師で、本を送ってくれる人間の姿は見られなく、視点の主はありがとうの一つも言えず、ありがとうの一つを言う意味も分からなくなってきていた。

 積むほどに本が増えて、その全てに目を通したが、少女が最後に抱えるのは、一番最初から持っていた絵本だった。表紙には生意気そうな釣り目に、ふさふさした縞模様の毛並みの虎猫が描かれていて、何とも言えない不思議な目付きでこっちをじっと見つめているのだ。

 永遠とも思われた白い病室での時間が終わったのは、長い長い、恐ろしい真っ暗闇の時間が過ぎて、胸に大きな傷跡が出来てから暫くの事だった。手術が終わったのだった。

 転校先は少女の知らない所で勝手に決められていた。両親からだという手紙には、空気も良くて静養には良い所だとか、優しい人ばかりだとか書かれていたような気もするが、要するに入院しているこの病院がその土地にあったからと言う、ただそれだけなのだろう。面倒な病気だ。何かあった時、すぐに対処できる病院が近い方がいいに決まっている。それは少女の想像に過ぎなかったが、一度も顔を見せない両親を思えば、或いは事実だったのかもしれない。しかしそこに皮肉や毒はなかった。ただ諦めがあった。仕方がないのだと。自分が悪いのだと。

 退院してしばらくは、何もかもが初めての事ばかりで、少女は困惑していた。何をするにしても勝手がわからず、道を歩けば迷い、人に尋ねるにも怖気づき、少ない荷物の整理さえ苦労した。未知への不安は強かった。くじけそうだった。しかし初めての一人暮らしに対する不安はあまりなかった。それは既知の事だったから。ただ、手助けをしてくれた医師や看護師がいなくなって、不便であるというだけだった。寂しいという気持ちは知っているつもりだったが、しかしそれをうまく感じ取るには、少女の心は余りにも独りに慣れ切っていた。

 何をするでもなく、何をすればいいのかもわからず、ただただぼんやりと一週間余りを過ごし、それは転校先の学校に始めて足を運んでも変わらなかった。ただ言われるがままに行動し、溢れかえるような情報量に心をすり減らし、心無い言葉にへこみ、ともすればあの白い病室に帰りたいと思う程だった。惰性で生きてきただけの自分に何を期待するのかと、惰性のまま死んでいればよかったのではないかと、気持ちは暗い方へと傾いて行った。

 そうしてその気持ちがどんどん傾いて、ついには倒れ込みそうになった時、少女の世界に一輪の花が咲いた。ふわりと咲き誇る可憐な花。少女の持ち合わせていない自信と余裕にあふれた微笑み。そしてこんな自分に差し伸べられた細い指先。

 灰色の世界が、ぶわりと花咲くように色づいていくのが感じられた。

 少女は花に連れられて、色鮮やかな世界を見た。今まで見落としてきた、見ようともしていなかった灰色の中に、こんなにも美しい世界が広がっていることを初めて知った。どんなに辛い事も、恐ろしい事も、この一輪の花がある限りきっと必ず救われるのだと、そう思った。

 だからその花がいとも容易く嵐の前に折れた時、少女はそんな世界の方を否定した。ただ見ていることしかできなかった自分を否定した。花によって救われた自分が、今度は花を救ってやりたいと、そう願った。花のもたらす救いにただただ縋りつき無慈悲に見捨てる様なこんな世界等捨ててしまって、一輪の花を救うために世界をこそ捧げようと。

 その傲慢が、少女を呪った。

 ビデオテープがかちりと止まる。きゅるきゅると音を立てて、巻き戻しが始まった。

 世界は二度目を少女に与えた。

 退院のその日に戻った少女は、花を救うために、花の隣に立って戦うことを選んだ。花が与えてくれた沢山の事を、全部花に捧げようと思った。先輩の指導を受け、花の激励を受け、少女は二人の後を追いかけて駆け抜け、そして、再び花は折れた。それも花自身が悪夢と成り果てるという最悪の展開をもって。

 少女は失敗したのだった。

 ビデオテープがかちりと止まる。きゅるきゅると音を立てて、巻き戻しが始まった。

 世界は三度目を少女に寄越した。

 少女は訴えた。魔法少女が至る結末を。自分たちが騙されていることを。

 しかし少女の言葉は余りにも突飛で、誰の信用を得ることもできなかった。信じさせるだけの根拠もなく、信じさせるだけの言葉もなく、少女はひたすらに無力だった。それでも、少女は諦めなかった。諦めればすべては台無しになってしまう。あの嵐も決して手の届かない悪夢ではないのだ。

 しかしそんな少女の幻想は、よりにもよって仲間たち自身によって引き裂かれる。

 花の友達は失意の先に悪夢と化し、先輩は絶望のままに心中を図った。事態は繰り返すたびに悪化している。見えない悪意が少女を弄んでいるようですらあった。

 少女は花と二人、嵐に立ち向かった。もう後がない。仲間たちはみんな死んでしまった。そして嵐を退けたけれど、その頃には二人はすっかり黒ずんで、もう先は長くないように思われた。

 ああ、何もかもうまく行かない。ただこの一輪の花を守りたいだけなのに。大切なものは、大切になったものは、みんな零れ落ちていってしまって、たった一つ守りたいものさえ、手が届かない。

 こんな残酷な世界等見限って、二人で一緒に壊してしまおうか。

 そんな少女の絶望を、しかし花は許さなかった。騙される前の自分を救ってやってくれと、花は少女に運命を託した。それは空っぽの少女の中身を全て埋め尽くす、あまりに強い呪いだった。

 ビデオテープがかちりと止まる。きゅるきゅると音を立てて、巻き戻しが始まった。

 世界は少女に挫折を許さない。例えどれだけ失敗しても、花の呪いが少女に遣り直しを強制する。どれだけくじけそうになっても、もう歩けないと思っても、それでもあきらめることを許さない。立ち止まること、諦めることは、捨ててきた全てのものが無価値だったと認めることだから。

 ビデオテープがかちりと止まる。きゅるきゅると音を立てて、巻き戻しが始まった。

 ビデオテープがかちりと止まる。きゅるきゅると音を立てて、巻き戻しが始まった。

 ビデオテープがかちりと止まる。きゅるきゅると音を立てて、巻き戻しが始まった。

 ビデオテープがかちりと止まる。きゅるきゅると音を立てて、巻き戻しが始まった。

 ビデオテープがかちりと止まる。きゅるきゅると音を立てて、巻き戻しが始まった。

 世界は何度も繰り返す。何度も何度も何度でも。再生し過ぎでテープが擦り切れはじめ、最初に抱いた願いの意味さえも掠れ始めて、それでも何度でも繰り返す。100万回、少女は死に続けた。

 そして少女はその果てに、少しだけ、休むことにした。ほんの少しだけ、肩を預けさせてもらうことにした。ずっと昔に捨てたはずの、捨てたつもりだった筈の優しい微笑みが、少女の心を受け止めてくれたから。なにもわからないまま、それでも、そうするべきだというだけで、そうしてくれたから。

 がちりと音を立て、ビデオデッキからテープが吐き出された。

 日焼けしたラベルには、かすれかけたか細い文字で、こう題されていた。

 暁美ほむら、と。

 さやかは今そのテープを手にしている。暁美ほむらの13年と100万回の一ヶ月が、さやかの左手に乗せられていた。悍ましい程に純粋な呪いでがんじがらめに縛り付けられた、暁美ほむらの生涯が、そこにあった。さやかの手に預けられていた。

 それは余りにも重たい代物だった。13歳の少女が受け取るにはあまりにも重たい運命で、そして13歳の少女が背負ってきた余りにも残酷な人生だった。さやかは怖気づいた。ただの一か月を鉛のような重さになるまで繰り返した、あまりに濃密な人生の物語に圧倒されそうだった。逃げ出したかった。放り捨てたかった。だがそうしなかった。逃げられないからでも、手から離れないからでもなかった。そうすべきだと思ったからだった。さやかを作り出してきた全てのものが、さやかにそうすべきだと言ってきたからだった。さやかを愛し慈しんできた両親が、さやかの情緒を育ててきた幾つもの物語が、さやかの過ごしてきた生活すべてが、そうすべきだとさやかをつくったからだった。どんなに偉い学者が、そんなことをしてやる必要なんてないんだって論理的に説明してきたとしても、さやかはきっとこの重い物語を受け取ったことだろう。必要なんてなくたって、論理的じゃなくったって、そうしなければ気持ちが悪いからだ。美樹さやかとして、呼吸できなくなってしまうからだ。

 さやかはほむらを受け入れた。

 その13年と100万回の一か月を、自分のビデオデッキに押し込んだ。

 衝撃は劇的だった。

 莫大な記憶情報が、さやかの中を蹂躙していった。整理されない無数の思い出が、さやかの脳でスパークした。ほむら自身が受け止めきれずに沈めて行った数えきれない感傷が、さやかの神経を一時に奏でて行った。

 うなされ、悶え、深い眠りから目覚めた時、さやかは溢れる涙を抑えきれなかった。見慣れた部屋、見慣れた天井を見上げながら、さやかは泣いた。泣き喚いた。それはさやかの涙ではなかった。小さなな魂のその限界までため込んだ、暁美ほむらの涙だった。暁美ほむらとして流すことを許されなかった涙の全てが、さやかの涙腺を通していま一時に流れ出ていった。誰にもさらす事の出来なかった涙が、さやかの体を借りて初めて溢れ出たのだった。

 さやかはそれを止めなかった。止めようともしなかった。泣け、泣いてしまえと後押しさえした。ほむらにはそれが許されるはずだったのだ。もっと早く、誰かが言ってやるべきだったのだ。泣いていいんだよって、言ってやるべきだったのだ。だってそうじゃないか。ほむらはずっと、あんなにも泣きそうな目でさやかたちを見てきたたのだから。

 いま、ほむらは初めて泣いているのだった。もうだれにも頼らないと決めたあの日から、ずっと溜め込んでいた涙を、隠してきた涙を、憚ることなく流しているのだった。産声を上げて生れ落ちる赤子のように、暁美ほむらはいま生まれ直しているのだった。

 明け方に盛大に泣き出したさやかに、両親は大慌てで駆けつけてくれた。どうした、大丈夫か、何かあったのか。暁美ほむらの記憶をすっかり通しで見てしまって、人間に対する不信と言うものを見せつけられた今のさやかにとってさえ、両親の心配は全くの赤心からのものだということが見て取れた。自分がどれだけ幸福な家庭にあり、自分がどれほどさいわいなのかをさやかは初めて自覚した。

 更なる涙がこぼれたが、それはもう暁美ほむらの涙ではなかった。美樹さやかの心が流した涙だった。悲しみからでもない、悔しさからでもない、憐みからでもない。さやか自身形容しがたい、ひたすらの感謝の気持ちと、再会を許された喜びとが、涙となって滝のように溢れ出た。そしてまた申し訳ないという謝罪の気持ちが零れ落ちて行った。この世のすべての幸いを集めて育て上げてくれたというのに、貴女方の娘は、もう人間ではないのだ。もはや人間とは別物になってしまったのだ。果ての知れぬ戦いに身を投じてしまったのだ。魔法少女になってしまったのだ。幾つまで生きられるかすら定かではない者に成り果ててしまったのだ。両親の死に目に寄り添うことはできるだろうか。花嫁姿を見せられるだろうか。それとも、卒業式の晴れ姿さえ見せることはできないのだろうか。泣き暮れる娘を、この世のどんな宝物より大事そうに抱きしめて慈しんでくれる両親に、さやかは何を返せるだろうか。

 きっと何も返せない。もう何も返すことが出来ない。だからせめてさやかは約束する。自分自身に決意する。両親が真心をもって育て上げてくれた、さやか自身の良心に恥じぬ生き方をしようと。両親がそうあるべきと教えてくれた全てのものに恥じぬよう、自分の中の正義を貫こう。そうして、例え人間ではなくなってしまったとしても、魔法少女に成り果ててしまったとしても、美樹さやかとして生きて美樹さやかとして果てよう。両親が確かに自分たちの娘だったのだと、そう思ってくれるよう生きよう。

 差し込む朝日に決意した。

 美樹さやかは暁美ほむらの騎士になろう。

 たった一人戦い続けた孤独な少女の為に、ただ一振りの剣となろう。

 そうすべきなら、そうしよう。

 その日、美樹さやかは本当の意味で魔法少女になった。誰かを救うことを決意した。

 

 

 

 

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