早朝の見滝原市に、爽やかで涼しい風が吹いていた。
風はそれ自体が光をもって輝いているようですらあり、木々の間をすり抜けては葉を揺らして木漏れ日に遊び、立ちならぶビルの間を駆け抜けては思いも寄らぬ強い風となって地に吹き付けて笑った。
それは当たり前の光景であった。何年も前からずっと見滝原市をそよいできた風であり、照らしてきた日差しであり、きっと何年後になっても変わらずに続くだろう朝の光景だった。
しかしそんな当然であって然るべき光景が、さやかの目には眩かった。灰色の内臓を晒して瀕死の吐息を漏らす暇もなく、たちまちの内に悲劇を演出する大道具か何かにでもなってしまったあの見滝原の終焉を見てきたさやかにとっては、今まで何度も見てきたにもかかわらず、生まれてこの方はじめて見る美しさと尊さが感じられた。
顔を出したばかりの朝日の山吹色に目を細め、纏わりついて遊ぶ風に髪を抑え、さやかはいま、改めて見滝原の地に立っていた。子供の頃から暮らしてきた町並みだった。幼い頃から眺めてきた景色だった。そして初めて感じるものが胸に押し寄せてきていた。ただいまとそう感慨深げに呟きでもすればよかっただろうか。しかしさやかにはどんな言葉も相応しくないように思えた。何故ならこの情景はずっとさやかの中にあったものなのだ。ずっとずっと、物心つく前から今の今に至るまで、ずっと胸の中に積み重ねられてきた、さやかの生涯ともいえる光景なのだ。ただ、その当たり前の風景を、当たり前すぎて意識せずにきただけなのだ。いま改めて、向き合っただけの事なのだ。いつも一緒だった原風景に、いま気づいただけの事なのだ。
この当たり前を守らなければならない。自身の半身ともいえるこの見滝原を、守らなければならない。そんな決意が、朝日に照らされながら静かに結ばれた。
さやかは木陰に入り、そっと木漏れ日を見上げた。きらきらと零れ落ちてくる光に目を細め、そよぐ風に流される髪にそっと右手を当てる。
「……バカか、あたしは…………」
次いで、左手を当てる。
「寧ろバカだ、あたしは……」
そして盛大に頭を抱えて、さやかは崩れ落ちた。
「あたしって、ほんとバカ……ッ!」
街路樹の下、バカバカと繰り返しながら悶絶する女子中学生の姿は、朝早くから大変なのねと見るものに同情と敬遠の念を抱かせるに十分な醜態だった。尤も、朝練の学生と犬の散歩に出た老人位しかいない様な早朝だ。ジョギングがてら登校する野球部はなんだまた美樹かとすぐに忘れたし、老人は今朝は朝飯を食べたかどうかを悩み、またおむつをしてきたか自信がないので股間の蛇口に意識を向けていた為、一瞥すらくれなかった。この中で最も優れた知能の持ち主である犬は勿論美樹さやかの醜態を目撃していたが、賢いので関わり合いにならない事を選んだ。そんなことより失禁間近の匂いをさせている飼い主を早々に自宅に送り届けたかったのである。
そんな周囲の事などまるで気づかず、さやかは悶えた。悶え苦しんだ。自身の青さにである。
「なによ騎士って……!」
暁美ほむらの記憶を受けとり、その使命を託されたことで、壮大な戦いの後で疲れていたのもあって色々と一人盛り上がってしまい、なんか盛大に泣きわめきながらこっぱずかしい決意をキメたりしちゃったことで、美樹さやかの精神はくすぐったい羞恥に襲われているのであった。ソウルジェムは僅かたりとも濁らないが、さやかの精神はまるで拷問で設けているかのように消耗していた。完全な自業自得で。
青春過ぎる。泣き喚きながらだったので記憶がいまいち定かではないが、あまりにもポエットな事をわめきすぎた気がする。口に出していないのが唯一の幸いだ。多分、口には出してない、筈。まあもし万が一出していたとしても聞くに堪えない嗚咽に沈んで何が何やらわからなかっただろうが。
結局あの後、泣き止んださやかはなんだか気恥ずかしくなって、朝食も摂らずにさっさと家を出てしまった。両親は休んだらどうかと言ってくれたが、とてもではないがあれだけの醜態を晒した後に両親に甘々に甘やかされるのはさやかの精神防壁強度では不可能だった。あのままでは生まれたての日本人ヒップホップMCのように片言で感謝を述べるだけの機械になっていたことだろう。優しさに殺される前に、逃げ出したのだった。
手早く顔を洗い、歯を磨き、制服に着替え、鞄を引っ掴み、そして飛び出したその手には、しっかりとソウルジェムが握られていた。本来この時点ではまだ持っていなかったはずの、青く輝く宝石。そして、どんな時であれ持つことは許されなかっただろう、深い紫色の輝き。その二つのソウルジェムを指輪に変えて指に嵌め、さやかはこうして早朝の爽やかな空気をみっともない悶絶で汚しているのだった。
ひとしきり悶えた後、さやかはおもむろにむくりと起き上がった。
切り替えが大事だ。恥ずかしい事は恥ずかしいが、それで死ぬわけではない。第一あれはさやかの素直な気持ちだったのだ。恥ずかしくはなったが、悔いることはない。そんなことよりも今後の事だ。
まずは目下の問題として、恥ずかしさを振り切るだけの苦情を言い立ててきた腹の虫をどうにかしてやらなければならない。
さやかは左手に紫の、ほむらのソウルジェムを握りしめた。この時間軸ではまだ変身自体を試みたことがない。まして他人のソウルジェムだ。しかしさやかには確信があった。握りしめたソウルジェムはほのかに暖かかった。呼びかけても答えはないし、何かしらの信号を送ってくることもない。深い眠りの底にあるような穏やかな波動が感じられるだけだ。だが、ほむらはきっと自分を拒まない。そういう不思議な確信があった。
普段変身するときの感覚を、思い出す。舞い踊るようにして一つずつ魔法を帯びていくあの感覚を。
がちりと歯車が合うように、ほむらのソウルジェムが穏やかな光を放ち、さやかの左腕は指先から順に、絵本のページをめくるようにばらりと変化していく。光が収まった時、そこにあったのは、あのいつも遠くからしか見ることのできなかったほむらの左腕だった。落ち着いた色合いの袖に、奇妙な装飾の楯。それに、病的に白い指先。これはほむらの指だ、とさやかは直感的に感じた。ほむらの左腕だけが今、こうして顕現しているのだと思わせた。
「……すっごい、妙な感覚だわ。初めて使うってーのに、使い方がよーくわかる。使い慣れた財布の、何処にレシートが挟まってて、何処に小銭があって、お札が一枚も入っていないって、開く前からわかるみたい。……我ながらボキャ貧というか、小市民的な喩えだけど」
おずおずと楯に手を伸ばせば、指先はあっさりとその陰に飲み込まれていく。空間が拡大されているのか、どこか別の亜空間に繋がっているのか、そこら辺ほむら自身にもさっぱりわからないという何気に恐ろしい楯だが、便利なのは確かだ。何も知らなかった時はほむらのことを色んな武器を使う魔法少女だと漠然に思っていただけだったが、時間を止めるという規格外の能力と、それ以外は魔法少女最弱と言うピーキー過ぎる性能を、無数の武器や道具を集めて埋めていたのだ。それらの武器や道具なしでやり合えば、魔法少女になりたてのさやかだってやりようによっては勝てたことだろう。
楯の中のものは、全て記憶にあった。まさぐって探す必要はない。欲しいと思ったものが手元に来るのだ。暖かくも冷たくもない、奇妙な楯の中の感触に、さやかは魔法と言うより、何処かSFじみたベクトルの違うものを感じていた。宇宙人由来の技術と考えれば、SFの方があっているのかもしれないが。自分には理解できない仕組みで動いていることには変わりはないのだし。
しかしそう考えると、これを制御できている事の方がおかしいのであって、いつ楯が暴走して、突っ込んでいる腕が食いちぎられてもおかしくはないのではないか。そんな妄想にさやかはひやりとした。ほむらの左腕への信頼が揺らいだのではない。魔法少女と言う存在そのものに対する信頼の問題だ。ほむらの知識から得た魔女化するという最悪の結末だけではない。一見安定しているように見える魔法少女と言う形でさえ、或いは不安定でバグだらけなのではないかと、そう恐ろしくなったのだった。
「へ、へへっ。これがほむらの中かー。口では何と言ってもさやかちゃんを素直に受け入れちゃって」
緊張を誤魔化すための軽口は、酷く下卑た物になってしまった。言っていて自分でもこれはないなと思いながら、甚だしく低下したテンションのまま、ほむらの記憶から食べるものを頭に浮かべて手を引き抜く。
「おー、これこれ。手軽に食べれてね、時間もかからないし、便利だよねー、って」
10秒チャージのゼリー飲料である。
「バカかッ! メシじゃないよこれゼリーだよ! よく言っておやつだよ! おやつとしてもあんまりにも味気ないからッ!」
否定する気はない。急場のエネルギー補給としてまあ悪くない手段かもしれない。実際売れているから今もこの手の商品がコンビニで必ず見かけられるのだろう。だが健全に燃費の悪い成長期の女子中学生であるところのさやかはこれをご飯として認めることはできなかった。エネルギーは補給できるかもしれないがこんなもので腹は膨れない。よしんば膨れたとしても心の胃袋がそれを認めないのである。
しかしかといって捨てるのももったいないので、マジカル肺活量で10秒かからず吸引、嚥下。パックは速やかに折りたたんで鞄に突っ込み、次を探す。しかし、楯の中にもほむらの記憶の中にも、碌な物はなかった。レパートリーだけ豊富な栄養食品の山である。ブロックタイプからスープタイプまでより取り見取りだ。
「そこまで幅広く揃えるんならもっと考えろあほむらッ! どうせ楯の中は時間進まないんだしおにぎりとか惣菜パンとかさー、もーさー、あーもー……」
どうにも暁美ほむらには食事に対する欲求があまりなかったらしい。と言うよりそもそも食事の経験自体が乏しいのだ。半年の入院期間中はずっと味気のない病人食で、それ以前も色々と制限されていて、嗜好品などの類はほとんど食べたことがないようだった。買い食いなどもっての外だ。そのため食事と言えば栄養補給として完全に割り切っているようで、ほむらにとって魅力的な食事とはすなわち手軽で高カロリーで栄養素を十分に摂取できるというただそれだけなのだ。付け加えるとしても安価であるとかその程度で、味などさして気にしたこともない。飲み下すだけだ。
例外と言っていいのは、稀な事だが巴マミの家でご馳走になる紅茶やケーキ、極めて稀だがまどかやさやかと摂った弁当や、下校中のクレープと言ったものは非常に魅力的に映っていたようだった。しかしそれすらもほむらの未発達な味覚と経験では美味しいのかどうかすらわからず、単純に自分がそこにいることを許され、同じものを食べているということがほむらの精神安定に非常に貢献していた、つまり幸福感を覚えていたというその事実だけをもって評価されていた。さやかにとっては何処か刺々しい空気のあった『前回』におけるお茶会ですら、ほむらにとってはとても良い一日だったと特筆される程度には特別だったのだ。
ずむずむと湧き上がる非常な腹立たしさを覚えながら、さやかは取り出した栄養食品を次々と平らげ、その包装を乱雑に畳んで鞄に放り込んだ。イライラして、むかっ腹が立って、やり場のないそいつを口の中にあるブロックタイプの栄養食品に叩きつけるようにもりむりと頬張り、咀嚼し、嚥下する。バカじゃないのか。ふざけているのか。働き過ぎで脳にすかっすかの隙間でもできてるんじゃないか。さやかは口元を乱雑に拭って、しかし何に当たることもできず、ほむらに対する怒りを持て余した。
本当に、馬鹿じゃないのか。ただ同じ場所で、同じものを口にできるだけで、それだけで勝ち目もない戦いに挑む一か月、自分を支える糧に出来るだなんて。微笑みかけて貰えなくても、信用してもらえなくても、ただほんの一杯の紅茶を共にするだけで、それだけでいいだなんて。
「ふざっけんなよ、暁美ほむら」
それだけでいいなんて、許さない。暁美ほむらが自分にそれを許しても、美樹さやかは決して許してやらない。その程度で満たされるなんて、許してやらないのだ。暁美ほむらは頑張ったのだ。頑張り続けたのだ。いまだって、さやかがそうするべきだと言ったから、その言葉に甘えてちょっと休んでいるだけで、まだ頑張り続けているのだ。頑張った奴が、頑張っている奴が、報われないなんてそんなのは間違っている。
「決めた。きーめーたっ!」
さやかは決めた。ほむらには何としても食事の喜びを叩き込んでやる。舌の味蕾を通じて神経に訴える刺激、咀嚼するときに歯応えで、温度で、舌に受ける感触で口内を満たす幸福、舌だけでなく歯茎ですら感じる悦楽、飲み下されて喉を押し広げながら食道へと落ちていき、蠕動する繊毛の一本一本を喜ばせる愉悦、胃袋が膨らんで苦しくなりながらも、甘味となればよし来たとばかりに居場所をつくりはじめる別腹の存在、数々の工程を経て、無数の神経を辿って脳内に作り出される幸福理論。食べさせて飲ませて満たさせて、それらの全てを叩き込んでやる。こんなにも偉大な人生の楽しみを今まで知らずにいたのかと驚嘆させてやる。あの、腕の中に簡単に閉じ込められそうな平坦な胸と骨でできた細い身体を、体重計を恐れる様な柔らかで抱き心地の良い具合に仕立ててやる。
最後の栄養食品ブロックを飲み下し、さやかは左腕だけの変身を解除し、紫のソウルジェムを睨みつける。
「あんたなんか幸せ太りさせてやるからね、ほむら」
ソウルジェムはただ陽光を受けてきらりと輝いただけだった。
その日、いつもの待ち合わせ場所に辿り着いた鹿目まどかは、直感的に違和感を覚えた。
「あ、おっはよー、まどか」
「おはようございます、まどかさん」
「あ、う、うん、おはよう、さやかちゃん、仁美ちゃん」
すぐにはその正体がつかめなくて、まどかは一体何だろうと小首をかしげて、先に待っていてくれた美樹さやかと志筑仁美、二人の友人をきょとりと眺めた。
「んー? どうしたまどかー。まだ寝ぼけてる?」
「ち、違うよ、さやかちゃん」
からかうように覗き込んでくるさやかに、気恥しくなって顔をそむけようとして気付いた。恐る恐る見つめ返したさやかの目。その目が、なんだか違う気がするのだ。具体的にどこがどう違うのかと言うと、まどかにはそれをうまく説明することが出来ないのだが、しかし確かに、昨日まで見ていたさやかの目ではないように思えたのだった。日々を楽しく過ごし、根拠のない楽観から明るい輝きを宿し、ころころとその彩を変えていたあの目では、ないように思えたのだ。
「…………さやかちゃん、なにかあった?」
学校に向かい歩き始めてから、まどかは仁美に気づかれないようそっとさやかに尋ねてみた。気のせいであればいい、なんでもなければいい、そんな思いでぶつけた質問に、海の様な深みを思わせる眼差しが返ってきた。その表面は、風を受けて白兎が水面を遊ぶ、そんな表情豊かな目だ。けれど覗き込んだその向こう側には、波立つ水面のすぐ下には、驚くほど深く静かな深海が横たわっていた。まるで何年も何年もかけて蓄えられたような、そんなずっしりとした重みのある視線だった。
さやかは軽薄に振る舞うことはあれど、実際には独り思考に沈むこともある娘だった。それはさやかをただの明るいだけの少女ではない、明るくあろうとする少女として形作る、13歳の少女としては有り触れた、しかし十分な思慮深さだった。彼女をずっと隣で見てきたまどかは、その事を良く知っているつもりだった。
しかし今こうして見つめてくるさやかの目は、まどかの知る以上の深みを湛えていた。たった一晩の間に、さやかの中で重大な変化が起こったように思われた。ともすれば別人なのではないか、この人は姿かたちばかり美樹さやかなのであって、中身は何処か見知らぬ世界からやってきた旅人なのではないだろうか、そう思わせるものがあった。
じっと見つめられ、不安から胸元を抑えるまどかに、しかし視線はふっとやわらぎ、その深さは変わらぬものの、その表面を流れるさざなみは、実に表情豊かに微笑んだ。それは重たく、深く、まどかの知らない経験をたっぷりと積んだ、しかしまどかの良く知るさやかの笑みだった。
「なんにも、って言いたいけど、あんた、昔っから妙なとこで鋭いよね、まどか」
くしゃっと笑って、さやかは乱雑にまどかの頭を撫でた。それは乱暴で、適当で、折角整えた髪を乱してしまうけれど、まどかの大好きなぬくもりだった。
「そうだね、なにかあったんだ。何かは言えないけど、でも、何かあって、そんで、頑張らなくちゃって、ちょっと張り切ってるんだ。めっちゃ頑張らなくちゃいけなくてさ、どうしようかなーって思ってたんだけど、なんだかまどかを見てたら気が抜けちゃった」
「もー、なにそれ」
「あんたはそのままでいてってこと」
「お二人とも、私を置いて何を楽しそうにしてらっしゃるんですの?」
じゃれ合う二人に、仁美が拗ねたように割り込んでくる。
「なんでもないよ。ちょっと考え事してただけ」
「まあ、さやかさんが?」
「ちょっと仁美ー?」
「ふふ、冗談ですわ」
大げさに両手を上げて追いかけるさやかと、おどけて逃げる仁美。それを追って笑いながら駆けだすまどか。
さやかは存分に日常を呼吸した。今まで気にしたこともなかったような、何気ないじゃれ合いが、途方もなく貴重で尊いもののように思われて、我知らずさやかは目を細めた。なんて眩しいのだろうか。魔法少女になり、この世の終わりの様な大嵐に打ち負かされ、百万回の一か月を追体験し、明かすべきではない秘密を知り、散々に打ちのめされでもしなければ、この奇跡のような光景の価値を知らないままだっただろう。
でも、そんな価値なんて知らないままでよかったのだ、知らないままでいるべきだったのだ。何も知らずに享受すること、それこそが連綿と続く歴史の中で積み重ねられ、洗練され、社会から個人へと、大人から子供へと与えられ、許された最大の幸福なのだ。
さやかはその仕組みから、枠組から、ふとしたことで零れ落ちてしまい、はじめて美しく輝く光を見た。人目に触れず、誰からも意識されない事で、最も価値ある輝きを湛える光を。それは見てはいけなかった、禁断の光だ。
さやかがしなければいけないのは、その輝きを守る事でも、大事に胸にしまっておくことでもない。忘れることだ。魔法少女としての宿命を我が物として、次の舞台を始めるために大嵐を打ち払い、百万と一回目の一か月を終わらせ、秘密を支配し、運命を打ち壊し、そうしてその先に、その果てに、有り触れた何でもない日常を無為に享受し、それがどんなにか尊いものであるかを忘れてしまわなければならない。すっかり忘れ果てて、当たり前のものとして日常を送れるようにならなければならない。そうした時、初めてさやかは、そしてほむらは、本当の意味で勝利に至るのだ。セピア色の思い出にしてしまって、時折、ふとした拍子にその断片を思い出しては、そんなこともあったかと、そう笑い飛ばせる境地に。
そんな未来の為に、さやかがしなくてはならない事は膨大だった。ほむらが百万回の繰り返しの中で模索し、磨き上げてきたメソッドを、さやかなりにアレンジして、使い物になるように仕立てなければいけない。それもほむらが切り捨ててきたものを、可能な限り拾い上げていった上で。理想をそのままに成し遂げられるほど容易な道ではないとほむらの記憶は何より雄弁に語っていた。しかし理想がなければ、未来がないのだ。
鹿目まどかを守る。ただそれだけの為に戦い、ただそれだけの為の道具に成り果ててしまっては、ワルプルギスの夜を撃退したのち、きっとほむらは生きていけない。立ち止まれば死んでしまう、しかし成し遂げたとしても先はない。そんなのは余りにも報われない。ほむらはそれで満足かもしれない。そうして果てられるなら、そうするだろう。
だがさやかがそれを認めない。ほむらが嫌がっても、認めない。弱っていた所に不意打ちを食らったようなものかもしれないが、それでもさやかに頼ったのが悪いのだ。理想を抱いて水面に沈み、足枷をつけて無様に泳ぎ、溺れ死ぬかどうかの瀬戸際で足掻くのが美樹さやかなのだ。浪漫の騎士なのだ。
さやかは辿り着いた校舎を見上げて、一度深く呼吸をした。まずは一つ目の障碍だ。ワルプルギスの夜を打ち払う上でも、一か月間を無事に乗り越えるためにも、この障害は確実に処理しなければならない。可能な限り平和的に、友好的に解決しなければならない。
見滝原における実質上最強の戦力にして、場合によっては最大の敵となる魔法少女。長きにわたる孤独の為に、孤高の高みにつかざるを得なかった繊細な少女。弱い心を鋼のリボンで幾重にも包み込んだ乙女。
巴、マミ。さやかは彼女を何としても仲間に引き込まなければならない。ワルプルギスの夜に対する戦力としても、見滝原で魔法少女として活動する上でも、彼女を味方に付けなければ話にならない。
そして可能であれば、いや、なんとしても。
「助けてあげないと」
一人ぼっちの寂しがり屋の少女を、救い上げてやらなければならない。魔法少女の過酷な運命に屈さぬよう、涙も流せずただただひとり佇むことのないよう、美しい虚飾の中で孤独に戦い続けることのないよう、その手を取ってやらなければならない。
それは呼吸のように自然な傲慢であった。
自分勝手で身勝手で、鼻持ちならない傲岸不遜であった。
そしてそれは暁美ほむらの記憶と言う、極めて冷ややかな第三者の視点を得てなお、改善される事のない、改善する気もない美樹さやかの信念だった。
巴マミを救う。
それはさやかの中ですでに決定事項だった。
何故ならば、頑張ってきたマミは報われるべきだとさやかの理想が告げるからだった。
何故ならば、嘗て振る舞われたただ一杯の紅茶に、暁美ほむらが救われたからだった。
何故ならば、美樹さやかは納得と言うものをこの世で最も重視する人間だからだった。
だから、さやかは巴マミを救うのだ。
巴マミは真面目な生徒だった。華やかな容姿をしていたが、学校内で目立つ行動をしたことは一度もないし、入学以来一度とて声を荒げたこともない。宿題は必ず完璧な形で仕上げてくるし、授業態度は模範的だ。昼食後の眠たい授業だろうと欠伸の一つも漏らしたことはないし、念仏でも唱えるようだと退屈さの象徴と化した歴史の授業においても、板書の手を休めたことはない。そしてそれはそうしよう、そうするべきだと気を張った結果のものではなく、幼少からの育ちの良さゆえの、極めて自然体な真面目さだった。
それはもはや周囲にとっても当たり前の事実であり、空に雲があり海に波があることを誰も疑わないように、マミがそうあることを今更気にも留めないし、殊更注意を向けることもなかった。だから幸いにも、教師も含め誰にも気づかれることなく午前中の授業を終えることが出来た。
『マミ、今日はあんまり集中してなかったみたいだね』
『あなたがあんなこと言うからじゃない』
『僕は伝言を頼まれただけだよ』
ああ言えばこう言う。念話越しにもシャムネコみたいな澄ました態度が目に見えるようで、マミは溜息を一つ吐いた。この見た目ばかりは愛らしい生き物は、その癖わりと生意気で図々しくて理屈屋で、度々マミの神経を逆なでるのだった。魔法少女のマスコットをやっているのに、女の子の扱いが全然わかっていないのだ。
今朝方、朝の予習として教科書を流し読みしていたマミに、キュゥべえは珍しく念話を送ってきた。中学生として学業はきちんと送りたいというマミの意思を尊重して、普段は魔女絡みなど余程の事がない限りは休憩時間以外に声をかけてくることなどないのに。何か危急の事態だろうか。警戒するマミに、キュゥべえは簡潔に『君に会いたがっている魔法少女がいる。昼休みに屋上で待っているそうだよ』とだけ伝えて、あとはマミの望んだ通り、邪魔にならないよう黙り込んでしまった。どういう事かと尋ねても、詳しくは聞いていないの一点張り。少しでも情報を得ようと問いかけても、終いには『ほら授業が始まるよ』とまるでマミが悪いみたいな言い方をされてしまった。
おかげでマミは午前中ずっと気も漫ろで、短い休憩時間の度に繰り返される問答に不機嫌さを募らせていた。何の用なのか。『知らないよ』。何故マミを知っているのか。『わからない』。ところで浮き粉の正体ってなんなのかしら。『小麦粉か何かかな』。畳み掛ける様なマミの質問に返ってくるのはすげない返事ばかりだ。しかもマミが知りたいことは知らぬ存ぜぬでのらりくらりとかわす癖に、マミが知りたくもない情報は寄越してくるのだ。
『イレギュラーって、どういう事かしら』
『魔法少女はみんな願いを叶えて、契約することで成り立つんだ。でも、僕には彼女と契約した記憶がない。それなのに彼女はちゃんと魔法少女なんだ』
『他の子と契約したって事かしら?』
『それは有り得ないよ。僕以外に魔法少女の契約は結べないし、もし結べたとしても、もっと違う形の魔法少女になっている筈なんだ。君達の持っている携帯電話もそうだ。一見同じように見えるけれど、契約会社が違うとプランも別物になるだろう?』
『プランも似た様なものじゃないかしら?』
『似ていても違うんだよ。でも彼女は確かに僕の知る魔法少女だ。僕が契約した覚えがないのに、僕との契約と同じ形の魔法少女。極めつけのイレギュラーだ』
よくはわからないが、キュゥべえにとっては重大な問題であるらしい。そしてそんな所属不明の魔法少女となると、実感はあまり湧かないが、マミにとっても安心して対峙できる相手ではないのかもしれない。普通の魔法少女であっても、必ずしも友好的とは限らないのだし。
でもそれでも契約しているのに契約した覚えがないなんて言うのは、単にキュゥべえがすっかり忘れてしまっているだけなんじゃないかとは思う。人間の言葉は喋るし、それどころか結構難解な言葉もしばしば使うから知能は高いのだろうけれど、なにせ猫みたいなサイズだ。小さな脳みそでは記憶容量も少ないかもしれない。行動だって猫と大差ない。放っておけばソファの上で丸まって動かないし、でもご飯を用意するといつの間にかするっとやってきて待っているし、ダメだというのに爪を砥ぐし、たまに毛玉吐いてるし、時折部屋の隅をじっと見つめているし、猫と同じくらい忘れっぽくてもおかしくはないんじゃないだろうか。寧ろ一寸間の抜けた顔のキュゥべえより猫の方が気品があるかもしれない。
『マミ、君結構失礼なこと考えてないかな』
『なんのことかしら?』
『マミは嘘を吐くとソウルジェムが濁るからすぐわかるよ。……嘘だよ。でもマミも嘘を吐いてたからおあいこだ』
『意地悪ね。全くあなた意地悪だわ』
やれやれ。しかし下らないやり取りをしているうちに、倦怠感は晴れてきた。弁当を手に教室を出て、屋上へとまっすぐ向かう。今日のお昼はサンドイッチだ。お手製のハニー・マスタードソース仕立てのチキン・サラダ・サンドイッチ。それに水筒につめたアイスのジンジャー・ティー。レシピは仕入れたばかりの新しいものだから、早く食べたいものだ。ともすれば敵対的魔法少女との戦闘になるかもしれないという状況を前に、しかし巴マミの精神は昼食を気にする程度の誤差範囲内の揺れに収まっていた。
悪い方向に転ぶかもしれないという想像は、しかし致命的な緊張に至る程のものではなかった。ぽっと出の魔法少女位であれば十分対処できるという自負があったし、なにより自分に都合の悪い展開はもう慣れ切っていた。世の中はマミに対して意地悪に出来ているのだということを、彼女は良く良く知っていた。その中でうまく立ち回って、せめて本当の本当の最悪にまでは陥らないよう、踊りきるしかない。
そんな自分でも気づかない程に僅かな穢れに、ソウルジェムが微かに黒ずんだ。それも誤差範囲内だ。生きていくという汚れだ。
意識して飄々とした思考を保ち、マミの足をとらえて地面に引き倒し跪かせて泣き言を言わせようとする重力に抗って、マミは階段を一段一段確実に上っていく。Mami, Va bene? Si, Tutto bene.世は並べて事もなしだ。
屋上へ続く扉を前に、マカロニ・ウェスタンのガンマンが早撃ちを前にそっと腰の銃に手をやるように、マミはソウルジェムをそっと撫でる。いや、マミの場合はマカロニじゃない。スパゲッティ魔法少女だ。スパゲッティじゃ細くて弱そうかもしれないが、マミのリボンはしなやかで芯のあるスパゲッティだ。例え中身は中空で空っぽかも知れなくても。
まあ、マミは西部劇なんて見たことないのだけれど。あのからっからの荒野を見ているだけで、なんだか喉が渇いてお腹が空いてくるものだから。
覚悟はできた。心は決めた。余裕を刻んだ仮面を被った。
精神を冷たい鋼の様に落ち着かせて、マミは扉を開けた。
その向こうには、随分早い事に既に待ち合わせの客が佇んでいた。彼女が敵対的でなければいい。交渉の通じる相手であればいい。最悪、力だ言うことをきかせられれば、それでいい。
(ああ、でも……)
マミは差し込む真昼の陽光にそっと目を細めた。
(もしも友好的だったら、それはちょっと嬉しいわね)
風の吹く屋上で、巴マミはそうして美樹さやかと対峙した。