巴マミが気だるい気持ちのまま、しかしちらともそれを表には見せずあくまでも余裕ある態度を心がけて訪れた市立見滝原中学校の屋上。そこで待っていたのは何処にでもいる少女のようだった。
ベンチに浅く腰を掛けて、短い髪を風に遊ばせて、手持無沙汰にスマートフォンをいじる姿は、正しく今時の女子中学生といった風情だ。退屈そうに画面を覗き込む姿も、こちらに気づいて慌てて立ち上がるや、はにかんだ様に笑いながら会釈してくる様も、あまりにも普通過ぎるものだから、マミは一瞬反応に困った。
どうにも事前に想定していた、敵対する可能性や悪意のある魔法少女という印象があまり感じられない。寧ろ少し間の抜けた笑顔は、健全な爽やかさを感じさせる。体育系の部活やってそうというのが第一印象だ。態度もいたって平然としていて、こちらに何かしてやろうと考えているにしては、後ろめたさや押し隠そうとする強張り等が見られない。ともすれば何も考えていないんじゃないかと言う位あっけらかんとした態度だ。
「ええと……貴女が私に会いたいっていう……」
「はい。美樹さやかって言います。……はじめまして」
「ええ、はじめまして。巴マミよ」
やはり彼女で間違いないようだ。あまり見たことのない顔だし、後輩だろう。制服の着こなしにも慣れがあり、初々しさに乏しいから、二年生だろうか。
「すみません、わざわざお呼び立てしちゃって。クラスに直接顔出したら、迷惑かもって」
「そう、そうね。クラスの皆に変に噂されるのも困るものね」
中学生の一学年違いと言うものは、たかが一年、されど一年、大きな隔たりなのだ。同学年の違う教室に顔を出すのさえ憚られるという子もいる。これと言って付き合いもないのに違う学年の教室に出向くというのは結構緊張するし、好奇の視線も集まるというものだ。その点を考えれば、先輩を呼びつけたのは失礼と言うより寧ろ気を遣ってくれたというべきだろう。
マミの中でいい子そうだという印象が持ち上がってくる。誰だって素直で明るい元気な子にはなかなか悪い印象は抱けないものだ。
「それで、私に用っていうのは?」
「キュゥべえからもう聞いてるとは思いますけど、私も実はご同業って奴でして。先輩にはちゃんと挨拶して、顔を通しておかないとって思いまして」
「ふふ、なんだかその言い回し、任侠モノみたいね」
「お控えなすってェ。手前、生まれも育ちも上州は見滝原。姓は美樹、名はさやか。稼業、昨今の駆出し魔法少女で御座います。以後万事万端、お願いなんしてざっくばらんにお頼り申しますってな具合です」
なかなかノリの良い少女だ。恥じる様子もなく流れるように口上を述べるあたりに、普段からのお調子者の姿が垣間見える。きっと友達も多く、クラスのムードメーカーなのだろう。彼女が場を盛り上げる様はありありと想像できた。
誰が見ても美樹さやかと言う少女は、善性を持って生きる快活な女の子だっただろう。
そしてだからこそ、そう見えるからこそ、巴マミは屋上への扉を開いて一歩を踏み出した、その位置から進まない。美樹さやかと距離を詰めようとしない。にこやかに和やかに、微笑みと共に会話を進めながら、しかし自分に有利な距離を維持して外さない。ソウルジェムは手の中に握り込まれ、すぐにでも変身できることだろう。
そして、マミのその露骨な警戒を向こうもはっきり察しているのだろう。あえて盛り上げようとした軽口は、結局戦果を得られず噤まれ、朗らかな笑みは困ったように眉尻を落とし、大げさに両手を上げて肩をすくめてみせる。
「えーっと。あたし、そんなに警戒されるようなことした覚えがないんですけど……」
「そうね。普通なら私の方がおかしい事になるのかしら」
キュゥべえによって伝えられたイレギュラーな魔法少女だという情報。或いは敵対的な魔法少女かも知れないという事前の想像。それらを差し引いても、マミの警戒度合いは随分なものだ。初対面の、友好的に振る舞う相手に対しての態度としては、被害妄想も甚だしい振る舞いだ。
「でも、とびっきり警戒している相手に、こっちが警戒しない訳にもいかないじゃない?」
「…………っ」
マミが扉を開けた時、或いは開ける以前から、さやかは警戒していた。
退屈そうにスマートフォンをいじる素振りを見せながらも、すぐに立ち上がれるように浅く腰掛けた体勢。マミが扉を開けるなりすぐに立ち上がり、どの方向にでもすぐに移動できるよう僅かに踵を浮かせた構え。おどけたように振る舞う中でも体幹は崩さず、真っ直ぐにマミへと向けられた視線は殆ど無意識のうちに攻撃の基点を探っていた。それらは天性の勘と、明確な実戦経験を思わせた。
距離を詰めてからの話ではない。殴り合い切り結ぶ距離での警戒ではない。さやかの警戒は明確に、マミの射程距離を知っていた。撃たれることを恐れていた。マミがたおやかに振るう手からマスケット銃が零れ出る瞬間を警戒していた。
マミはさやかを知らない。
しかし、さやかはマミの戦い方を知っているのだ。
「あー……待って。誤解です。あたしは別に、その、」
「そうね。警戒するのはおかしなことじゃないわ。初めて会う魔法少女だもの。もしかしたら喧嘩になるかもって思ったら、警戒するのは当然。私だって警戒したし、人のことは言えないわ。事前に相手の事を下調べしておくのも、悪いことではないわ」
そう、当然のことだ。魔法少女の縄張りと言う概念を理解して、顔を通しに来たと言うようなさやかだ。警戒も下調べも、注意深いと褒めてやりたいくらいだ。だからその程度であれば、マミは警戒こそすれここまで露骨に表したりはしなかっただろう。いっそ牽制と言えるほどのあからさまな態度は、だから、もう一つの疑念に対してである。
「キュゥべえ」
「うん、間違いないよ。今朝会った時にも確認したけど、彼女の指にあるのはソウルジェムだ」
魔法少女がソウルジェムを指輪の形に変えて身に着けるのは良くある話だ。しかしそれが二つとなると普通ではない。
美樹さやかの左手には、中指と薬指、二本の指にソウルジェムの指輪が嵌められていた。
「ソウルジェムは一人の魔法少女につき一つだけ。それが二つっていうのは、普通じゃないね」
「一つは貴女の物として、もう一つは一体誰から奪ったのかしら」
「えっ、あ、あー……そっか。そういうことか……っ」
しまった、と顔をしかめるさやか。どうやら自己顕示欲の一環として指に嵌めていたのではなく、純粋にうっかりしていたらしい。だがそれは余りにも悍ましい気の緩みだ。他の魔法少女からソウルジェムを奪うということが、彼女の中でその程度の価値しか持っていないのだと思わせる。
マミの中で撃鉄が起こされた。
魔法少女が縄張り争いをすることは、いいことだとは思わないが、仕方のない事だという思いもある。自分の利益のために魔法を使うつもりのないマミとて、万全な状態で魔女と戦い続ける為には、ある程度安定してグリーフシードを得られる狩場が必要だ。狩場を荒されないために、協力するつもりのない魔法少女と戦い、追い払ったことも一度や二度ではない。街を守るために、街を独占しなければならない。魔女を討つために、同じ魔女狩りの徒を追い払わなければならない。先ほどのさやかとの会話ではないが、まるでヤクザだ。
しかし言ってみればこの縄張り争いは、魔法少女と言うシステムに必然的に付きまとうものだ。魔法少女が棲み分けをするために必要な小競り合いだ。マミは争いはしても、命までは取らない。賠償金を請求することもない。ただ追い払うだけだ。
ソウルジェムは魔法少女が魔法を使う上で欠かせないアイテム。当然、奪われないように酷く抵抗したことだろう。それを奪い取ったとなれば、どんなことをしたのか想像に難くない。脅したか、掠め取ったか、或いは殺して奪ったか。何にせよ、マミの遣り方とは相容れない手段だったことだろう。そしてそれだけの手段をもってして奪い取った所で、他人のソウルジェムを使えはしない。他の魔法少女にとっては、ただただ綺麗な宝石でしかないのだ。トロフィーか何かのつもりか。
「待って待って待って待って! ちがっ、違いますってば!」
普段の舞い踊るような前振りもなく、瞬時に変身し、展開したリボンでマスケット銃を構築するまで一秒かからない。両手を上げて敵意がない事を全身でアピールするさやかに殺意の具現を突き付け、マミは細く息を吐いた。
さやかは両手を広げてこちらにむけて攻撃の意思はないと表明し、その上で腰を浅く落とし、すぐにでも回避行動に移れるよう構えている。焦りからか笑みの吹き飛んだ顔は緊張で強張り、空転する思考の音が聞こえる程に、瞳は動揺に揺れている。
この期に及んで変身しないか。マミは目を細めた。そして逃げもしない。魔法少女の身体能力をもってすれば、学校の屋上から飛び出すくらいは訳のない話だ。まだ何か、この場を覆す奥の手があるとでもいうのだろうか。
「マミ。彼女を撃つべきだ。同じ学校に魔法少女狩りが在籍していたらいつ狙われるかわかったものじゃない。早く無力化しないと」
キュゥべえの言葉は実に合理的だ。リスクを放置すべきではない。手の届く内に処理しなければならない案件だ。
しかし、マミは引き金を絞れない。
覚悟がない訳ではない。しかし、言いようのないもやもやとした違和感が付きまとっていた。それがためにマミはこうして銃を向けながらも、決定的な一撃を見舞うことが出来ないでいた。
「……美樹さん。納得のいく説明が、聞けるのかしら?」
「マミ!」
「黙ってキュゥべえ。納得は何よりも優先するわ」
「……全く。僕は警告したからね」
真っ直ぐに向けられたマスケット銃のその先で、それでも話は聞いてくれるらしいと知って美樹さやかは少なからず安堵したようだった。それがまたマミに違和感を覚えさせる。
さやかは最初にマミを見た瞬間から、マミの攻撃を警戒した体勢をとっていた。しかしその顔に浮かんだ笑顔は何の陰りもない、いっそ安堵すら感じさせるほどの親しみのあるものだった。他の魔法少女のソウルジェムを奪ったとしか思えないけれど、しかし戦利品であるはずのソウルジェムを顕示することもなく、むしろそこにあるのが当然のようにごく自然に身に着けていた。いまもマミに決定的な敵意を向けられて、身構えこそしているが、しかし立ち向かうでも逃げるでもなく、あくまで話し合おうとしている。
全てがちぐはぐだ。まるで、全く性格の違う二人の人間が、全くの同座標に同時に存在しているようでさえある。
「えーっと、何から話せばいいか……」
そして今や、がりがりと頭をかきながら、大真面目な顔で悩んでさえ見せる。いっそ間の抜けたその振る舞いさえ、こちらの気を緩めさせる策なのか。それともこれが彼女の素の態度なのか。戦いなれた振る舞いと、相反するように拙い交渉。混乱してきた。
「そうね。じゃあ、まずはそのソウルジェムについて聞きましょうか」
「あ、はい。ええと、これは確かに、あたしのじゃありません。あたしの……あー、なんていうか。友達っていうんじゃないし……相棒、そう、相棒ですかね、そいつのソウルジェムなんです。あたしはそれを預かってるんです」
そっと指輪を撫でる仕草は、まるで慈しむようだ。まさか本当に、その相棒とやらから受け取ったというのだろうか。ソウルジェムを他人に渡す魔法少女がいるというのか。マミには信じられない話だった。ソウルジェムを手放せばもう魔法は使えなくなる。一度魔法を使う事を覚えた少女が、魔法から離れられるものだろうか。
魔法少女は願いを叶えて貰うことと引き換えに魔女との戦いを求められる。だがそこに強制力はない。願いを叶えたことで十分に満足し、魔女と戦い魔力を回復するというハイリスクハイリターンの生活を疎む者もいるだろう。命の危険もあるのだ、拒んで当然の使命だ。願いを叶えて貰った恩はあるだろうけれど、それで命を懸けて恩返しをしようというほどに人間は律儀にできていないし、魂まで捧げて隷属しているわけでもない。平穏に生きたいものにとってソウルジェムの輝きはむしろ疎ましいものだろう。
しかし実際はどうかといえば、マミの知る限り魔法少女の多くは魔法を求め、魔女狩りに勤しむ。一度味わってしまった利便性に、そして願いを叶えられたことで見えてくる更なる障害を除くための手段として魔法を望む。例えそうでなくても、マミのように自ら使命を受け入れて、人々を守るために、街を守るために、或いはもっと身近な、家族や友人の為に、命を懸けることを選択する。向こう見ずと思えるほどに、魔法少女たちは魂を燃やして魔女との戦いに挑む。それが自分の為であれ他人の為であれ、ソウルジェムを手放すことなど考えもしない。魔法少女にとってもはや魔法とは自身の一部なのだ。
それだけ魔法というものの持つ魅力が凄まじいのかとぞっとするほどに、魔法少女たちは直向きに戦いに身を投じる。或いは、そういった者たちを指して魔法少女としての素質と呼ぶのかもしれない。
マミとて、平和な生活に戻りたくはないわけではない。しかしそれでもソウルジェムを手放し、魔女との戦いを止めるかと問われれば、マミはこの指名に背を向けることはないだろう。街が、人々が、亡くなった両親が、出会ってきた魔法少女たちが、倒してきた魔女たちが、マミを魔法少女という在り様に縛り付けている。そして巴マミもまた、自身をそうあれと縛り付けている。どう足掻いても魔法少女は魔法から逃れられない。
実際、マミは
「その相棒さんは、いま……?」
「…………いまは、ちょっと、疲れて休んでるんです。あたしが無理やり休ませたんです。でも、あれで真面目な奴だから、何時か戻ってくるとは思うんですけど」
「……そう」
どういった経緯があったのかはわからない。しかしその瞳には、複雑に揺れながらもその相棒とやらへの確かな信頼が見て取れた。
いよいよマミは混乱した。
美樹さやかという少女がわからない。何もかもがちぐはぐだ。
さやかの話には証拠となるような確たるものがない。何か伏せているのか、言いたくないのか、説明もあやふやだ。内容もマミには信じられるものではない。しかしそれを語るこの少女は、いっそ愚かなのではないかというほどに、ただただ信じてくれとばかりに真直ぐ見つめてくる。いっそ言葉を尽くして説得にかかってくればはっきり疑えもする。だがこの少女はそれさえしない。交渉でさえない。誠意というものが形や重さをもって相手に訴えかけるのだと心底信じているように、マミを縋るように見てくるのだ。歴戦を思わせるあのマミへの警戒と全く真逆の、子供のような愚直さだ。疑ってかかるマミこそ底抜けの阿呆なのではないかと思わせるほどに、美樹さやかは全く考えなしに見えるような
果たして本当に信じさせる気があるのか。
マミは軽い頭痛を感じながら、変身を解いた。信用したわけではない。ただ相手をするのが疲れたのだ。
「悪いけれど、とても全てを信じることはできないわ」
「ま、マミさん!」
「あなたが魔法少女として活動することはわかったわ。私も魔女を倒す手が増えるのは嬉しいことよ。けれどあなたに背中を預ける気にはなれないの。あなたがよき魔法少女である内は、私も干渉しないわ。お互い不干渉で行きましょう」
「マミ、さん……」
踵を返して、マミは足早に階段を下りていく。短い会談だったが、酷く疲れていた。美樹さやかという正体不明の魔法少女の存在は、これからのことを考えると頭が痛くなるばかりだ。自分の疑念がただの警戒し過ぎで、彼女がただの底抜けの能天気であればいいのに。溜息は鉛のように重たかった。
もう何も考えたくなくて、教室に戻るなりマミは腕枕の聖域に籠って、暖かな暗闇にもぐりこんだ。人を疑うことは疲れることだ。はっきりと敵対するよりも、或いは面倒なことだ。マミの心はすっかり疲れ切っていた。
瞼の裏の静寂には、去り際に追い縋るようにこちらを見る、捨てられた子犬のような呆然とした顔が、いつまでも焼き付いて離れなかった。
教室に戻るなり、さやかはぐったりと机に沈んだ。後悔の念が、さやかの元来能天気な精神をすっかり痛めつけ、沈みこませていた。
何もかもがうまくいくと楽観的に考えていたわけではなかった。しかし結果から言えばさやかはどこまでも希望的観測に身を任せていたのだということが身に染みてよくわかった。
ほむらの百万回の一か月の記憶に触れたときは、どうしてこいつはこんなにも不器用なのだろうかと呆れたものだった。傷付きながら傷付けながら、迷いながら迷わせながら、どこまでも真直ぐに直向きに目的を見据えているのに、どこまでも迂遠に遠回りにすら見える行動をとるほむら。どうしてと、何故と、不思議でならなかった。
しかし実際に自分がほむらの立場になってみれば、ちっぽけな小娘にとって世界はあまりにも優しさに欠いた。
端的に言えば、あの目だ。あの目がほむらを、そして今日さやかをああまで痛めつけたのだ。暖かな血を巡らせ、柔らかな肉をまとい、繊細な心を持っていたほむらを、血の匂いと硝煙で燻し、武骨な鉛と鋼で武装させ、壊れない為に感情を鈍麻させた歪な機械に作り替えたのだ。
ああ、あの目。
覚悟していたつもりだった。
わかっているつもりだった。
だがさやかの覚悟など形ばかりで、ほむらが味わってきた孤独の百万分の一もわかってなどいなかったのだ。
マミがさやかを見る、あの不信と警戒に満ちた目!
さやかはどこかで、
だが
巴マミは、美樹さやかなど知らないのだから。
彼女にとって美樹さやかは突然現れた正体不明の魔法少女でしかないのだから。
面倒を見てやるべき魔法少女成り立ての後輩などではなく、馴染みの顔ぶれの中で場を盛り上げるお調子者などではなく、共に魔女と戦いを繰り広げた戦友などではなく、荒れ狂うワルプルギスの夜との絶望的な戦いの中で死に別れた仲間でさえない。ただただ怪しいばかりの余所者なのだ。
余所者。
ああ、そうだ。
美樹さやかは余所者だ。
暁美ほむらがそうであったように、この世界にとってさやかは余所者なのだ。
マミばかりがさやかをあの目で見るのではない。
誰も彼もがさやかを見て思うのは、
それは迷うことなく一番だと宣言できる親友のまどかであってもそうだ。むしろ、まどかこそがさやかの胸を抉った。最初はただぼんやりと、この娘は知らないのだなと、そう思っただけだった。だが今やさやかは自覚してしまった。巴マミの拒絶によって、さやかは自分が余所者であることを自覚してしまった。まどかは自分を親友である美樹さやかとして微笑みかけてくれる。でも
――あたしを見て!
さやかは思わず叫びそうになった。
だが、実際はさやかこそが世界を置いて行ったのだ。みんなは忘れたわけではない。最初から知らないのだ。そんな事実はなかったのだから。その一か月はまだ来ていない一か月なのだから。さやかだけがこの世界から浮いているのだ。
ほむらは、暁美ほむらは百万回もこれを繰り返したのだ。この理不尽な忘却に何度も向き合い、繰り返す度に原点から外れ続け、どんどん周囲と噛み合わなくなっていって、それでも最後には帳尻が合うことを信じて、たった一人の笑顔を護ることだけを望んで、この圧倒的な孤独を耐えてきたのだった。
――あたしには耐えられない!
さやかは腕枕の薄っぺらい結界の中でひとり、途方もない寒さに凍えた。
暁美ほむらの騎士になろうと、さやかは決意した。しかし朝焼けの決意は早くも潰えかけていた。騎士の誓いは尊いものだった。しかし余りに幼いものだった。剣を掲げて力を得たつもりになり、守るものを得て騎士として立ったつもりになった。しかしその眼はまだ真実を知らなかった。邪悪な竜に向けて駆けたいたいけな勇気は、風車に弾き飛ばされて呆気なく潰えた。浪漫の酒精が抜けてみれば、なんということはない、さやかは相変わらず無力で、考えなしで、臆病な、馬鹿な女子中学生だった。
打ち据えられ、目を覚ました今のさやかに、浪漫の騎士は余りにもみすぼらしく見えた。掲げるは折れた棒切れ、跨るは蒼褪めた驢馬、溢れる蛮勇に替わって痛がり屋の臆病風が吹き荒れた。なにが巴マミを救わなければならないだ。救いたいと思った相手に拒絶され、そのただ一叩きでくずおれる騎士に何が救えようか。
ましてや支えてくれる従者の一人も、護るべき姫も持たない、孤独な騎士に。
ああ、寒い。どこまでも寒い。
――あたしはひとりぼっちなんだ!
どうやって一日をやり過ごしたかも定かでないまま、放課後になるやさやかはひとりで街をさまよった。心配するまどかを振り切り、マミのことも今は忘れ、ただ自分の孤独のやり場所を求めてさまよい歩いた。
誰も美樹さやかのことを知らない街を歩くと、さやかの孤独は少し薄れた。この街はさやかの生まれ育った街だった。しかし街はさやかのことなど気にもかけはしなかった。背中の見えない所にある小さな黒子のようなものでしかなくて、或いはもっと小さく目にも見えない細胞の一つに過ぎなかった。しかしその細胞の一つとしてここにあることを許されているのだと、そう無理矢理に思い込むことを許す寛容さがあった。
さやかの足は自然と慣れた道を歩きはじめていた。気付けばその足取りは確信を持ってその道筋をたどっていた。かつて歩んだ道。それはつまりこれから歩むはずだった道。そして二度と歩めないかもしれない道。かつて仲間と共に歩んだ警邏の路を、今さやかは一人で歩いていた。孤独さを慰めるために懐かしい道を辿り、その懐かしさが孤独を苛む。だがそうとわかっていてももはやさやかは道を変えるだけの気力もなかった。歩むほどにソウルジェムは濁る。しかし歩みを止めれば今度こそさやかは立ち直れなかっただろう。
何故こいつは濁るのだろうと、さやかはぼんやりと指輪を眺めた。
濁る理由は幾らでも思いついた。しかし、その中のどれが決定的に自分の魂を苛むのかとさやかは思った。マミとわかりあえなかったことか。自分と世界の断絶に気付いたことか。かつての暖かな世界にはもはや戻れないことか。そんなことなど思いつきもしなかった自分の愚かさにか。それとも、それとも。
さやかの足取りは徐々に重く、鈍くなっていき、そしてあるとき突然に力強く踏み出した。
自分でも驚くほどに、頭がついて行かない内から体は地面を蹴りつけ、ゆっくりと、しかし確実に足を速めつつあった。やがて駆け足になり、ソウルジェムを握りしめる段になって、ようやくさやかのあたまは魂の導きに追いついた。
――魔女だ!
しみついた習慣が、さやかを魔女の気配に走らせた。
周囲はいつの間にか人気もなく、霧が立ち込めはじめていた。間違いない。
さやかはステップを踏む。
重たい心と裏腹に、足取りはあくまでも軽い。
変身とは単に着替えることではない。
身も心も、魔女に負けない魔法少女として相応しいものに切り替わらなければならない。
魔女との戦いは楽しいものではない。気楽なものではない。魔女は恐ろしく、悍ましく、油断すればこちらの命が危うくなる。
魔法少女は何時だって、軽やかなステップを踏んで変身し、
魔法少女は希望の
それは遠い昔に、或いはほんのひと月前に、そしてもう来ない何時かのあの日に、誰よりも笑顔を振り向いたあの人に教わったことだった。
一筋の涙を風に預け、さやかはマントを翻して駆けた。
いじけて蹲った少女の面影はそこにはない。
たとえどんなに心が辛くても、今のさやかはそれを切り替えなければならないから。
美樹さやかは、魔法少女なのだから。
鉛の様に重くなる心を笑い飛ばし、さやかは駆ける。駆ける。駆ける。
唇を持ち上げ、やけくその様に使い魔を切り飛ばし、ひたすら駆ける。
駆けて、駆けて、また一粒零した涙を置き去りに、力のかぎり駆ける。
魔女が気付いた時にはもう遅い。
振り向く暇など与えない。
さやかは一陣の風だった。或いは一筋の流星だった。そしてまた或いは一発の弾丸だった。
止まればそれで終わってしまう一振りの刃だった。
すれ違いにぎらりと輝いた一閃が、魔女のそっ首をなで斬りに切り落とし、そのまま勢いを殺しきれずさやかは激しく転がり、壁にぶつかり跳ね返って、強かに地面に打ち付けられ、それでようやく止まった。
痛覚を消し忘れていたせいで、打ち付けた顔面と頭と肩と腰と足の小指とその他諸々が、扱いの悪さにシュプレヒコールを上げる。立ち上がろうとすれば、膝に至っては乾いた笑い声を上げ始める。
今更痛みを消す気にもなれず、治癒魔法をかける気にもなれず、ただ魔女の死だけを確実に確かめて、消えゆく結界に溜息を一つ。転がるグリーフシードを拾い上げ、殆ど自動的にソウルジェムの穢れを落とす。それはやけくそ気味の美樹さやかの仕草ではなく、あきれ果てたような左腕の仕草だった。
穢れを落とした時の感覚は他に例えようがない。
負の感情を余所へ押し付けるという、意識すればそれだけで負の感情を招きそうなこの行為は、重荷を下ろすような開放感であり、身を清めた時のような爽快感であり、薄暗い背徳感であった。何かが満たされる訳ではない。寧ろほんの少し自分から何かが落ちていく空虚な感覚があり、そして強張りや辛さが抜けていく心地がある。
少し楽になったような思いで、さやかは深呼吸し、そして息苦しさに軽く手鼻をかむと、鼻血が抜けていった。流石に鼻血は鬱陶しいし見栄えも良くないので軽く治癒魔法をかけて傷を塞いでいると、視界の端で動くものはあった。
おやと見遣れば、そこには呆然とこちらを見る姿があった。
恐らくは魔女の結界に誘い込まれ、まさに餌食とならんとしていたのだろう。やけにやけを重ねて無心に突っ込んださやかは気付かなかったが、どうやら一連の無様な様を見られていたらしい。
「あ、あの、いまのは……?」
怯え、恐れるように、少し上目づかいに見上げてくる少女。
おどおどとして、いかにも心根の弱そうなか弱い女の子。
覚えていても魔女の夢に夜ごとうなされるかもしれない。
軽い
「あ、あの……?」
まるで印象は違った。
きっとあの日の誰が見てもすぐに彼女だとは気付かなかっただろう。
目付きも、雰囲気も、何もかもが違う。違うが、しかしさやかにはすぐにそうとわかった。
わかって、込み上げてくるものがあった。
まただ。
またあんたはこうしてあたしが諦めることを許さないのだ。
あたしの挫けそうなときに、こうしてひょっこり現れるのだ。
「あのさ、これから、意味わかんないこと言うと思うけど、聞いてほしいんだ」
「ぇ、ええと」
「お願い」
「は……はい」
さやかは呼吸を整え、言葉を選ぼうとして、結局諦めた。もとより纏まる事などない言葉だ。
「あたしは、あたしはあんたを、護る。護りたい。護らせてほしい。あんたがそんなことしなくていいんだって、もういいんだって、そう言ったって、あたしは、あたしが、そうしたいんだ。美樹さやかはあんたの、あんただけの騎士になる。あんたを、救わせて欲しい」
それは全く意味不明だった。支離滅裂で、理解の及ばない発言だった。
自分を今しがた助けてくれたらしい少女が、まるであべこべに大粒の涙を溢しながら縋りついてくる現状は意味不明で理解不能で説明不可の不可解な状況だった。
ただ、まるで物狂いのようですらあるこの少女の、物狂いそのものである必死さに、自分なんかの為に涙を流してくれているその事実に、気付けば小さく頷いていた。
その日、暁美ほむらは浪漫の騎士と出会ったのだった。