魔法少女まどか☆マギカ短編集   作:長串望

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負け犬共の一夜(ほむあん)

 それは、暁美ほむらの100万回の徒労の中の、多分50万回目か60万回目くらいの一か月のことだった。

 その時ほむらは酒に溺れていた。比喩的な意味でも、物理的な意味でも。

 ケース単位で盗んできた瓶ビールを、次から次に開けては、次から次へと空けていった。ビクトリノクスの十徳ナイフに栓抜きがついていた筈なのだが、それを使ったのは最初の一本目位で、あとはアルコールで力加減の利かない指先に癇癪を起して、並べて手刀で首を落としては、唇が切れ口で裂けるのも気にせずラッパ飲みを繰り返した。出血が気にならないくらいにアルコールが回って、回る視界の中で増え続ける瓶を数えることさえ出来ない癖に、瓶ビールを切り裂くほむらの手刀はますます冴えていくばかりだ。

 一体どんな飲み方をしたのか、折角伸ばしに伸ばした黒髪の先から片方行方不明になった靴の中までビール漬けで、栄養価としてはビールだけでも人は生きていけると豪語するベルギー人でも眉をしかめる位だった――経皮接種は効率が良くないと。

 酒に逃げたところでどうにもならないなんて言うのは昔からの定型句だが、酒でも飲まなければやっていられないというのも古典的常套句だ。ほむらは前者を自覚した上で、しかし後者を支持する立場だった。どうにもならないしどうしようもないから、どうもこうもなく酒に逃げているのだ。

 運命とかいう地獄製のアナログマシンに挑みかかっては襤褸雑巾にされ、そして襤褸雑巾にされてはまた立ち上がって性懲りもなく断頭歯車に食って掛かる、そんな生産性も発展性もない繰り返しの中で、ほむらが酒と言うサービスエリアを見つけたのは多分10万回か20万回か、かなり最初の頃だったように思う。

 そうよ、サービスエリアよ。逃げ道じゃあない。

 給油して、休憩して、また走り出す為の正当な寄り道。逃げじゃない。

 ほむらは誰にともなくそう言い訳して、また一瓶、味もわからない大麦の香る炭酸エタノール水を呷った。

 飲む前から低気圧気味だった精神は、アルコールの力を借りて今や捻くれた小型の台風になりかけていた。誰にぶつけるにも当てのない苛立ちと悔しさと無力感と絶望とそれからアルコール由来の頭痛とめまいと肩こりが、ほむらの精神を荒れに荒れさせていた。

 空気諸共に飲み込んだ炭酸が喉を押し広げて、盛大におくびを洩らした。それと一緒にエタノールと胃酸の混合液が上ってきそうになったが、微かに残った理性がごくりごくりと飲み下して嘔吐を避けた。今更理性など、出遅れにも程があるが。

 込み上げてくる吐き気を飲み下す様に更に呷ったビールは、一番目立つ所にあったケースを盗んできただけあって、その銘柄は100万回の一か月前に世間と没交渉を決めこんだほむらでも何度かテレビのコマーシャルで見たことのあるものだった。しかしどうにもそのコマーシャルは広告会社と製造元の薄暗い協定による多大なる欺瞞に満ち溢れているように思われた。だってそうだろう。画面の向こうの人々はみな一様に笑顔で乾杯し、暖かな幸福に満ち溢れている。だが実際はどうだ。こうだ。ご覧の有様だ。意識しない程度の幸福の内に生きているだろう平均的消費者の年間平均消費量のまあ大体三分の一くらいは乾したというのに、ほむらの神経を駆け巡るのはコルチゾール(つかれた)ノルアドレナリン(くるしい)ばかりで、ちっとも幸せになんかなれない。

 世の中間違っている。

 ほむらは新しい瓶を震える手で取り、そのほっそりとした指先で無造作に栓を瓶の口ごと捩じ切った。そうだ。世の中は間違っている。その間違いを正すべくほむらは頑張ってきたのだ。頑張っているのだ。頑張っている、のに。

 ぬるい炭酸エタノール水が、勢い良く喉を落ちていった。落ちていった先の胃の腑では、さっきからずっと熾火の様なじわじわとした不快な熱がわだかまっていた。その熱がアルコールのせいなのか、ストレス・ホルモンのせいなのか、ほむらにはいまいち判然としなかったし、どちらでも大差はなかった。どちらだったところで、救いはない。

「どう……すれば……っ」

 どうすれば、いいというのか。どうしろと、いうのか。

 ほむらは生まれた時から体が弱かった。幼い頃から病院の消毒液と薬品の匂いの中で育ち、同い年の子供よりも先に、ずっと年上の看護師と顔見知りになった。走ることはできず、歌うこともできず、立っている時間よりベッドに横になっている時間の方が長かった。碌に見たこともない両親の顔よりも、夜勤明けの医師の顔の方が親しみを覚える程だった。それを当たり前のものとして受け入れてきた。ずっとずっと、運命を享受し続けてきた。そういうものなのだと、俯いて生きてきた。敬虔な信者の様に、ほむらは従順だった。運命は何時だって、ほむらをそのレールに乗せて運んでくれた。だがただ一度。たった一度、その指し示す先を拒んだというだけで、運命はほむらを磨り潰すことに決めた。ほむらはただ間違っていると叫んだだけだった。こんなのは酷いと。余りにも惨いと。

 ただ笑い合って隣に佇むだけのことが、許されないのかと。

 運命はただ無慈悲な礫を持って答えた。許されないのだ(、、、、、、、)と。

 運命への叛逆は、決まって最悪に最悪を塗り重ねる様な残酷な仕打ちとなってほむらに跳ね返った。より良い結果を求めて遣り直しているというのに、繰り返す度に事態は悪化を続けた。一つの問題を解決しようという試みは、大抵問題を拗れさせるか、新たな問題を二つ三つと増やすのが関の山だった。その一つ一つを潰そうとすれば、手の届かない全てが寄って集ってほむらを押し潰しにかかった。手が足りないのならば妥協しようと、最初に定めたたった一つだけを守ろうと足掻けば、切り捨てたはずのものたちが足元に絡みついて身動きが取れなくなる始末。

 そして終いには、護るべきたった一人の少女にすら、恐れをもって見られたと来れば、本当に、どうしろと言うのだ。何の見返りもなく、報いもなく、ただ一人傷付いて苦しんで、誰にも褒めて貰えず認めても貰えず、その悩みを相談することさえ出来ない。この、苦しみの、中で!

「どうしろって―――言うのヴぇッ」

「とりあえず飲むのを止めろ」

 酒に酔い、悲劇に酔い、自分に酔っていた暁美ほむらの側頭部に吸い込まれるように叩きつけられた蹴り足が、容赦なく飲んだくれの体をビール瓶の山に沈めた。

 アルコールのせいか痛みはあまり感じなかったが、とにかく頭がぐらんぐらんと揺れに揺れ、ただでさえ数えるのも面倒な瓶が、無数に分裂して踊り始めた。万華鏡染みて回り始めた景色の中で、鮮烈な赤が垣間見えた、様な気がした。

 次にほむらが目を覚ましたのは、薄っぺらな毛布の中だった。少し臭い。人の気配の色濃く残るそれに、ほむらは眉を顰めた。無菌室めいた病室で人格を形成し、希望と理想だけを詰め込んだような華やかな魔法少女に一瞬だけ触れ、そして余りにも過酷な試練に心をすり減らし、誰にも頼らないとばかりに人と触れ合わない孤独なマシーン生活を続ける。そんな人間の壊し方の例文その2みたいな生き方が、生身の人間に対する奇妙な潔癖をほむらに与えていた。

 しかしその薄っぺらな毛布は、少なくともその頼りなさと同程度には思い遣りと善意のこもったものだった。

 ほむらは毛布の下でなお寒気を覚えて、小さくくしゃみをした。酒を飲めば感覚が鈍り、血管が広がることで血流は増え、暖かくなったように錯覚する。しかし当然のように体は熱を効率よく発散してしまい、後に残るのは冷え切った体だ。まだ少し肌寒い春先には堪える。ただ飲むだけならばともかく、全身に浴びるようにして飲んだのだ。それは冷え切りもする。

 くしゃみをして頭が揺れれば、途端にひどい痛みが襲った。酒に溺れた後はいつもやってくる頭痛だ。こうなるとわかっていて、この苦痛としばし付き合わなければならないと知っていて、それでも酒に逃げざるを得ない。多大な苦痛から逃れるために少量の苦痛を甘受する。つくづく救われない生き方だ。

「起きたのかい」

 どこか幼さの残る舌足らずな声だった。その癖、その声には甘さなんて欠片もなかった。かといって厳しさもない。心底どうでもいいと言ったフラットな響きだった。投遣りで、面倒臭そうな、それだけの声だった。

 頭を押さえながら見遣れば、彼女は丁度、あれ程散乱していたビール瓶をまとめてビニール袋に放り込んで、しっかりと口を縛っている所だった。海を乾すような気持ちで飲んでいたけれど、それはやっぱり精々一ケース24本でしかなかった。

 がしゃがしゃと頭に響く音を立てて袋をどけて、まだぼんやりとしているほむらを呆れたように見つめて、少女はがりがりと頭をかいた。

「まだ起きてないのか?」

「……ら、…………」

「あん?」

「さくら、きょうこ」

 佐倉杏子。ほむらが痛む頭の中から絞り出した名前を聞いて、少女は、杏子は片眉を持ち上げて探るようにほむらを見た。しかし、そこにあるのは見覚えのある顔ではない。見知らぬ酔っ払いだ。だが同姓同名の人違いでもなさそうだ。どんより濁ったほむらの目は、しかしそれでもはっきりと杏子を認識している、ように見えた。

「酔っ払いが唱えるのは、政治家への悪口かサッカー選手の名前くらいだと思ってたけど、あたしもそんなに有名になったもんかね」

「…………あなたが、酔いどれを介抱するような甲斐甲斐しい人だとは知らなかったわ」

 知りもしない相手から、意外そうにそんなことを言われて、杏子は鼻で笑った。

「そこまでお人好しじゃない。ただまあ、軒先で野垂れ死にされても寝覚めが悪いんでね」

「……軒先……?」

 痛む頭を巡らせて、ぐるりを見回してみれば、いつの間にか自分は屋内に引っ張り込まれていたようだった。窓は割れ、内装は荒れに荒れていたが、しかしどこか格式を感じさせる、天井の高い建物だった。以前、ほむらはこういった様式の傍で暮らしたことがあった。入院して見滝原に越してくる前だ。まだ東京にいた頃のことだ。見滝原にいることが、彼女の姿を見ることに耐えられなくて地の果てまでも逃げたしたつもりが、結局まだ風見野あたりをうろついていたらしい。

「……教会?」

「仮にも神の家の前で飲んだくれるなんざ、あんたも随分罰当たりだよ」

 がさがさと菓子の包装を開けながら、杏子はそう言った。この教会に、いや、その廃墟に、もはや神はいない。神のいない建物は、ただの石くれに過ぎない。しかしその石くれが、佐倉杏子にとってはただ一つの教会だ。神はいない。だが感傷はある。感傷だけが、佐倉杏子の足をここに運ばせ、そして感傷が、暁美ほむらを介抱した、理由と言えば理由だった。

「お人好しじゃあないけど、まあ、拾い上げて面倒も見ない程薄情でもない。風邪ひかれて死なれても、胸糞悪い」

 もとより紙のように白い顔を、いまや死人のように青ざめさせて口元を抑えるほむらを見て、杏子は顔を抑えて天を仰いだ。Oh my Goshと思わず漏らす。

「風呂と、着替えと、その前に、ああ、Jee、終わったばっかでまた掃除だ」

 黄金色の滝を生み出す蒼褪めたマーライオンは、そのまま輝ける吐瀉物に沈んだ。

 

 

 

 

 

 暖かな水音に、ほむらは三度目覚めた。

 ほむらの体は浅い浴槽に横たえられ、温めの湯の中にあった。溺れないようにか、浴槽のふちに持ち上げられた頭の下には、しっとりと濡れたタオルの枕があった。

「今度こそ起きたかい」

 身じろいだほむらに気づいたのか、シャワーの湯を浴びて泡を流していた杏子が、のそりと覗き込んできた。まだ少しぼやける頭が、小さな体だ、と意味のない感想を漏らした。実際、杏子の裸体は小さな子供のものだった。中学生としても、少し小さい部類。魔女に対しても恐れなく向かい合い、長大な槍を振るう背中の印象よりも、ずっと小さく見えた。髪を解いて流している今は、もっとはっきり言って、幼くさえ見えた。いや、実際幼いのだ。佐倉杏子は十代も前半の小さな少女なのだ。そして自分も。その事実が、頭痛と相まってほむらを奇妙に不可解な気持ちにさせた。

 頭痛に顔を歪め、それでも何とか起き上がろうとするほむらの背に、無造作に杏子の手が回された。浴槽の中で座り込んだほむらに、杏子はそのまま座っていろと言い置いて、小さなシャンプーのボトルを手に取った。そしてさも当然の様にほむらの髪を洗い始めるものだから、スロースターターのほむらの脳も、ようやく回り始めて、その手から逃れようともがいた。

「大人しくしてろ。臭いんだから」

「く、くさ……っ!?」

 しかし事実だった。

 艶やかなほむらの黒髪はすっかりビールの匂いをしみこませていたし、盛大に沈み込んだ先の胃液の匂いまでしていた。手慣れたようにほむらの髪を洗う杏子の手つきに、迷いはない。先程から、他人の手が髪を好き勝手弄っている感触に背筋を不快感で震わせているほむらと違い、杏子は裸を晒しあう事も、こうして他人の体に触れることにも遠慮がないようだった。ほむらなど、美容院で髪を任せるときでさえ、一時も落ち着く事などできないのに。

 いや、違うか。ようやく目覚めてきた頭で、ほむらは杏子の奇妙な振る舞いにようやく気付いた。ほむらの知る限り、佐倉杏子と言う魔法少女は、面倒見こそいいが、どこかで一線を引いている少女だった。一度親しくなれば見かけ上人懐っこいが、決して踏み越えさせないラインがあった。その杏子がどうして自分をそのパーソナルスペースの内側に引き入れたのかとほむらは不思議でならなかったのだが、答えはほむら自身にあるとすぐに気付いた。ほむらが弱っているからだった。酒に酔い、悲劇に酔い、自分に酔い、そして立ち上がり損ねていたから、杏子はほむらを引き上げたのだ。言ってみれば今のほむらは、手のかかる子供でしかない。だから杏子はそのように扱うし、そんな相手に遠慮することがない。子供だからだ。

 かっ、とほむらは頭の中が熱くなるのを感じた。強烈な羞恥心がほむらを襲った。裸を見られたことが恥ずかしいのではない。触れられていることが恥ずかしいのではない。このような醜態を晒し、よりにもよって佐倉杏子に助けられたという事実が、凄まじい恥と感じられた。

 鹿目まどかに頼りたいと思ったことは数えきれない。そもそもまどかがほむらを救ってくれたのだ。いまやまどかを救う自分にならんと努めてはいるが、それでも押し潰されそうになった時、その心が頼るのはまどかの面影だ。その思いを恥じることはない。その為だけに、まどかの為だけに走り続ける自分を自覚するからだ。理解できないものを見る目で見られても、尚。

 巴マミに甘えたいとずっと思っていた。まどかは自分を救ってくれた。何もなかった自分に意味を与えれくれた。マミはほむらを受け止めてくれた。優しい人だった。寂しそうな人だった。年上で、美しく、そして弱い人。ほむらはマミに甘え、頼り、そしてマミを満たしてやりたいと思っていた。すれ違い、敵視され、言葉が通じなくなってしまっても、尚。

 美樹さやかに守ってもらえたらと思ったことは一度ではない。さやかはお調子者で、感情に振り回され、でも、弱い者を放っておけない優しい人だった。もしまどかがほむらを救わなかったら、タイミングが違ったら、出会いが違ったら、あるいはさやかはほむらの手を取ってくれたかもしれなかった。その真っ直ぐな瞳に憧れ、頼れたらと思う気持ちは、今も消すことが出来なかった。

 けれど、佐倉杏子に弱さを見せることは、ほむらにとって認められることではなかった。戦力として期待でき、性格的に協力を得やすく、頼りにはなる。しかし杏子に協力を頼むことと、助けを求めることはまるで違った。弱さを晒し、助けを求めれば、杏子が必ず手を差し伸べることを知っていたからだ。そしてそれが、責任感や利他的な感情故ではなく、杏子自身の癒えない傷の、その痛みからだと知っていたから。ともすれば、傷つき堕ちた魂の為に、自らも連れだって煉獄への道を歩む程度のその傷を、知っていたから。

 杏子に助けを求めることは、杏子の傷に付けこむことだった。それも戦闘で傷付いたり、行き詰ってどうしようもなくなったりしたわけでもない。疲れ果て、酒に逃げて酔いつぶれ、それを助けられるなど、最悪だった。その場で死んでしまいたくなるほどの恥だった。しかしそれを謝罪することもできないのだった。それは杏子の矜持に、真正面から傷をつけようとする行為だった。

 杏子はそんなほむらの葛藤を気にした風もなく、手早くほむらを洗い上げると、躊躇う事もなく抱き上げて浴室を出て、バスタオルでほむらの体を拭き上げ、髪の水気を取った。

 バスローブで包まれて放り投げられた先のベッドは、安物ではあるがしっかりとベッドメイクのされたものだった。清潔なシーツの上でぐるりと見回した室内は、どこかの安ホテルのようだった。

「あたしのヤサの一つだ。勝手に使ってるだけだけど」

 ほむらの訝しげな様子に、杏子は自分もタオルで乱雑に髪を拭きながら、短く言った。

「流石に教会(あそこ)じゃ居心地が悪いんでな」

 杏子は据え付けの冷蔵庫を開け、炭酸飲料を二本取り出して、一本をほむらに放って寄越した。良く冷えていた。ぼんやりとアルミ缶を眺めるほむらを、杏子は菓子の包装を開けながら一瞥した。

「酒も入ってるけど、もう止めとけ。子供が飲むもんじゃない」

 いかにも子供な容姿をした杏子にそう言われて、ほむらはなんだか可笑しくなってくつくつと笑った。自分でも意外に思う程、それは自然と零れてきた。笑うなど、何時振りだろう。

「あなたはお酒は飲まないの?」

「飲まないね」

「煙草は?」

「やらない」

「意外ね。あなたはもっと無法者(アウトロー)だと思ってた」

保険適用外(アウトロー)は人一倍健康に気を遣わなきゃあ、長生きできないのさ」

魔法少女(わたしたち)は早々病気にはならないわ」

 ちらりと指輪(ソウルジェム)を翳して見せたが、杏子は小さく首を振って、チョコレート菓子を口にした。

「風邪はひかないかもな。けど、こころは風邪をひく」

「こころ?」

「そうだ。こころの風邪に、酒は利かない」

 かしゅ、と杏子はプルタブを開けた。ほむらも思い出したように、手元の炭酸飲料を開ける。しゅわしゅわと白い泡が、飲み口で踊った。

「酒は、大人の為のものだ。大人の薬だ。あたしたち子どもは、好き勝手やって、甘いお菓子を食べて、悪戯をして、そうしてこころの風邪を治す。でも大人はそうできない。だから酒を飲む。酒を飲んでいいのは、大人だけだ」

 炭酸飲料を呷ってそう語る杏子は、その舌足らずな声に相違して、何処か悟ったような気配があった。大人びていると言えば大人びている。しかし、それは充実した大人ではなさそうだった。

「あなたは、色々縛られているように見えるわ。縛られているのは、大人じゃないかしら」

「大人なんかじゃあない。子供さ。悪戯のつもりで騒ぎを起こして、取り返しがつかなくなって青くなって、開き直って悪ぶって、でも叱られたくてたまらない。そんなのは大人の遣る事じゃあない」

「それは、」

「何でもない事さ。喋り過ぎた。そこまであんたを甘やかす気はないよ」

 杏子はベッドの上に寝そべって、ごろりと転がってこちらに背を向けた。一線がそこに横たわっていた。ほむらはもう杏子の庇護下ではないのだ。手のかかる子供ではないのだ。手を引いてやらねばならない幼子ではないのだ。ほむらが回復してきたことを、杏子は会話の内で知ったのだ。

「ねえ、杏子」

「名乗った覚えはないんだけど」

「そうね、じゃあ、善きサマリア人とでも?」

「今日日はソマリア人の真似事だ」

「善き海賊ね」

「少年誌に出れるほどご立派でもない」

「どうして私を助けたの」

 杏子は少しの間、黙り込んだ。炭酸飲料を呷り、菓子をつまみ、腹をかき、じっと壁を見つめた。ほむらが弱っていたから。ほむらが救いを求めていたから。ほむらが無意識の内に教会へと足を運んだから。色々理由はあるだろう。だがほむらは杏子の口から聞きたかった。ただ放っておけなかっただけにしても、杏子自身の口から聞きたかった。随分と久しぶりに、暁美ほむらは他人の気持ちに興味を抱いたのだった。ちらりと晒された杏子の内側に触れて、もっとよく知りたいと、自分は知らねばならないのだと、そう感じたのだった。

「別に大した理由はないさ。最初はそうさ、あたしがたまたま立ち寄った時に、あんたが黙示録の喇叭でも聞いたように自棄酒してたから、人んちでなにしてんだって蹴り飛ばしただけさ」

 そう言えばほむらは、杏子に蹴り飛ばされたのだった。或いは頭痛の何割かは、それが原因かも知れなかった。

「一応介抱してやって、あんたが魔法少女だとは分かった。どんな理由かは知らないけど、少なくとも楽しそうな飲み方じゃあなかったからな、嫌な事でもあったんだろうとは思ったよ。そんで目を覚ましてみたら、あの目だ。まるで魚の死んだような目だった。スーパーの鮮魚売り場に並んでるやつらでも、もうちょっとは綺麗な目をしてるだろうさ。地獄の底を見てきたばかりのダンテだってもう少し明るい顔だったろうよ。だから最初はもうこいつはダメだと思ったよ。生きる気力がまるでない。このまま死んでいくしかないだろうってな」

 酷い言われ様だ。だが、実際そうだったのだろう。それはほむら自身自覚している。

 けど、と杏子はつづけた。

「あんたのソウルジェムは、それだけ濁ってて、まだ光ってたのさ」

 ほむらは自分の指輪を見つめた。恐ろしく黒ずんで、まるで今にも魔女の卵と化しそうだった。しかしその中心には、生き意地の悪い紫の輝きが灯っているのだった。

「ソウルジェムの輝きはこころの輝きだ。疲れ果てて倒れ伏した負け犬が、それでもまだ諦めるって事だけは出来ずに、指輪の中でぎらぎら光ってた。そいつを見て、まだ死ぬことはないだろうって思っただけさ。ただ、それだけのことさ。大した意味なんかありゃしない」

 杏子は空になった缶をゴミ箱に放り、外し、面倒臭そうにそれを拾って、近くまでいって放り込んだ。そこにはどうしてだか、照れくさそうな色があった。外したことにではない。ほむらを助けたことに対して、杏子は恥を覚えているのだった。ほむらが杏子に助けられたことに恥を覚えているように、杏子は、自分のような人間が他人を助けようという行為に、恥を覚えているようだった。

「あたしは寝る。あんたも寝な。そんで、明日には出ていっちまいな。それ以上は、面倒は見ない」

 それきり、杏子は黙り込んだ。

 ほむらもわかったと返事を返して、そのまま眠りについた。

 翌朝杏子が目覚めた時には、ほむらは何も残さず去っていた。謝礼も残さなかった。杏子がそれを望むとは思えず、かえってプライドに傷をつけるだけと解っていたからだった。

 そうして一か月後、杏子は見滝原が凄まじいまでの災害に見舞われ、マミや、新人の魔法少女が巻き込まれて死んだことを知り、その中に黒髪の少女がいたことを知ったが、ただ、そうかと零しただけだった。少なくとも負け犬は、牙は剥いたのだ。負けて伏すだけということはなかったのだ。

 この一か月に意味があったのかどうかは定かではないけれど、いまも暁美ほむらは懲りずに100万回目の徒労を始めようとしている。

 そういうことなのだ。

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