アップサイドダウン。
意味を確かめるように口の中で転がすと、杏子はそうだと頷いて、オーブンレンジの様子を確認しながら洗いものに取り掛かった。
いつもいつも食べるばかりで家事というものと縁がなさそうな杏子は、しかし意外にそつなく菓子作りに使った道具を洗い上げて行った。その道具もまた私にはいまいちよくわからないものばかりで、聞けば巴さんに借りたのだという。だったら巴さんの家でやればいいのにと言えばマミに食わせても面白くないという。私なら面白いのと聞けば時々何かうまいもの食わせないとダメになる気がするとよくわからないことを言われる。毎度のようにご飯をたかるのは誰かと聞けば、あたしだけど、あんたが自分の為にキッチンに立つのは想像できないと言われればぐうの音も出なかった。
紅茶はまだあるかと言うので、自分で飲むのは専ら珈琲ばかりで、杏子の持ち込んだ茶葉は使った覚えがないのであるはずだと答えたけれど、その場所までは覚えていなかった。しかし杏子はそうかいと答えるや、迷いなく棚を開いてブリキの缶を取り出し、殆ど置物と化したティーセットを洗って手際よく準備を始めてしまった。
「普段からやればいいのに」
我ながらどこから出てきたと思う拗ねたような響きだった。
杏子は布巾で手を拭きながら面白くない冗談でも聞いたように肩をすくめた。できるのとやりたいのとは別だのたまう。そりゃあ誰だってそうだろう。じゃあそのケーキはやりたくてやっているのかと聞けば、手間は手間だがふと食べたくなったという。食べたくなったがひとりじゃ食いきれないし、何より自分の為に焼くのはあんまりわびしいとぼやく。
巴さんの方がケーキ作りが美味くて面白くないなら、美樹さやかにでも食べさればいいのに。そう言うと、珍しく渋い顔をする。あいつは反応が鬱陶しいと短く言われ、なんとなく納得した。杏子が美樹さやかの家でケーキを焼き始めたら、きっとあの娘は大いに騒ぎ立て揶揄い、そして気を遣うことだろう。確かに実に鬱陶しい。
その点成程、私は杏子にとってちょうどいい距離感なのだろう。
子供の頃に習っただろうケーキを急に作りたくなった心境なんて私は尋ねたりしないし、本当に食べさせたかった相手の事なんて知りたくもないし、自分以外の誰かを思って作られたケージに不満を覚えたりもしない。余計な口もきかずただ消費してやって、郷愁を妨げたりしない。
我ながら便利な女だと鼻を鳴らすと、オーブンレンジが音を立てた。
灼熱のオーブンレンジから取り出され、しっかりと冷まされ、そうして裏返しに取り出されたケーキは、確か底に敷いていたりんごがきれいにその表面を彩っていた。
成程、アップサイドダウンだ。上が下に。下が上に。
カラメルで固められたりんごは、日頃の杏子からは想像もできないくらい丁寧に並べられていた。それはきっと杏子に教えた人が、そうしたからだろう。ケーキを食べる人のことを思って、並べたからだろう。
切り分けられたケーキに、りんごの皮を使って淹れたアップルティー。
ふんわり柔らかな生地の上で、カラメルが少し苦かった。