はじめに
・上条恭介と付き合っていた志筑仁美概念あります。
・暴力シーン、グロテスクな流血描写があります。
・不安定な精神状態の描写が含まれます。
・何も解決しません。落ちもありません。
お楽しみください。
近頃の仁美は浮き沈みが激しかった。
精神的に不安定といってよかった。
俯きがちになり、ため息が増え、微笑みも力ない。
まどかは酷く心配して気にかけてやっていたし、さやかにもほとんど挨拶のように仁美ちゃんを気にかけてあげてねとことあるごとに告げた。
さやかも仁美の友人である。自惚れてもいいなら、親友と言っても良い。
だからもちろんさやかもよくよく気にかけてやっていたし、慰めてやりたいと思っていた。はしゃいだようにおどけて見て、反応が悪ければそっと寄り添って穏やかに過ごしてやっても見せた。
そうして気遣いをされること自体に仁美は申し訳なさそうだったが、友人の不調を思い遣りこそすれ負担に思うようなものはひとりとていなかった。
とくにさやかは、仁美の不調の訳を知っていたから、ずいぶんかわいそうに思って、親身になってやっていた。
その訳というものは、折角付き合うようになった相手である上条恭介であった。もっと正確に言えば、付き合うようになったけれど、近頃うまくいかずに破局にいたってしまった上条恭介である。
上条恭介は将来有望なヴァイオリニストであり、顔も悪くなく、性格も酷いということはなく、端的に言って有望株である。そういう表向きのラベルをなくしても、幼馴染であるさやかは恭介のことをよく知っていたし、そして、恋もしていた。
正直なところ、いまとなってはその恋心は告白しなくてよかったと思う。仁美は正々堂々さやかに告げてから恭介に告白し、見事恋人となったが、傍から見ているとその恋人関係は妬ましさや恨めしさよりも心配が多かったのだ。
恭介は悪い人間ではない。普通に笑うし、冗談も言うし、古い漫画を読んで面白いと感じたり、人に勧めたりするような立派な社交性もある。クラス内でも、良くも悪くも年頃の男子といった具合だ。ただ、その優先順位のかなり上の方に、ヴァイオリンがあるというのが問題だった。
恭介は音楽を愛し、ヴァイオリンに誇りを抱いていた。ヴァイオリンを弾くことが、恭介の人生の中でかなりのウェイトを占めていた。
仁美と付き合うようになって、年頃の男の子らしくはにかんだように照れ笑いしたり、仁美の微笑みに頬を染めて微笑み返したり、仲睦まじく遊園地でデートなどもしてみせた。プレゼントに大いに頭を悩ませて、幼馴染であるさやかに必死になって相談を持ち掛けてきた時など、そう言うところだと思いながらも絆されてしまった。
そう、悪い人間ではない。ただ、まあ、相性が、悪い。
ヴァイオリンに夢中で時間を忘れ、デートに遅刻したりすっぽかしたことは数知れず、じゃあお家デートにしようかと仁美が気を利かせれば一日中ヴァイオリンを弾いて聞かせる気の利かなさである。
コンクールを前にして振るわなかったり、なにかにつまずいてうまく弾けない時にはその空気の読めなさもひとしおだった。苦悩し、足掻き、努力する。それは美徳だろう。しかしそうしてもがいている時の恭介に他人を思いやる余裕はなかった。
仁美も支えてやろう慰めてやろうとはするのだが、いくら教養があるとはいっても仁美は奏者ではない。恭介の悩むところももどかしさも、仁美にはわからない。わからない人間が慰めようとしても、とても噛み合うものではない。
破綻は時間の問題で、そしてその時は来てしまったというだけだった。
さやかははたからそれを見て、自分が辿るかもしれなかった恋路を客観的に理解させられてしまっていた。
そりゃあ、恋をした。
その恋は紛れもなく本物で、輝かしいものだった。
しかしいま思うに、さやかは割と恋に恋をしていた。
恭介に恋をしていたというよりも、恭介のヴァイオリンに恋をしていた。
あの日、さやかは美しい音色を聞いた。それを生み出す指先を輝けるもののように感じた。
さやかの恋は本物だった。そしてその恋の落ち着くべき場所は恭介の隣ではなく、恭介が演じるコンサートホールの座席の一つだということがよくよくわかった。
だからいまでは割とさっぱりとした気持ちで恭介を罵倒できた。
仁美を泣かせてんなよと。
結局、恭介が仁美に謝罪したのは、コンクールが無事に終わり、スランプを抜け出してからのことで、その時には二人ともこれ以上続けるのは無理そうだと感じていた。結果的には、時間が二人の恋をなだめて、安穏に終わらせてくれたのだった。
とはいえ、客観的に見ることのできたさやかとは違い、正面から恭介と向き合わなければならなかった仁美のショックは決して小さいものではなかった。
コンクール会場できっぱりと別れ話を終えた後、まどかとさやかに挟まれて安っぽいラーメン屋の味の濃いラーメンを涙ながらにスープまで飲み干した仁美は、カラオケ屋で声が嗄れるまで歌い、門限を少し過ぎてから帰っていったほどであった。ここまでの不良行為を仁美がしたのははじめてだった。
仁美の失恋はいまもあとをひき、慰めてやったさやかに甘えてその傷を癒しているのだった。
授業中はともかくとして、休み時間になる度に仁美はさやかの席にやってきたし、昼休みにはぴったりと隣に座って昼食を摂った。時折肩に頭を預けてきたり、意味もなく手をつないでみたりと、とにかく触れたがった。きっと心が寂しくて、誰かのぬくもりに飢えているのだろうとかわいそうになって、さやかはそれに丁寧に答えてやった。どこかのヴァイオリンバカと違ってさやかは気が利くと自負していた。
最初のうちはまどかもそれに同席して、時々冷やかすようなこともあったが、近頃はほとんど仁美と二人きりである。
朝は、いままでも一緒に登校していたが、近頃は家を出ると門の前に仁美が待っている。それから手をつないだり、腕を組んだりして、途中でまどかと合流し、当校する流れだ。本当なら恭介のやつがこうして一緒に登校してやっていたはずなのだ。代役があたしなんかでごめんねとさやかはなんだか申し訳なかった。
下校時間は、最近遅くなった。さやかは部活もしていないので、のんびり家に帰るか、そのまま魔法少女としてパトロールに出るのが日課だったが、仁美が寂しがるので、付き添ってやるようになった。門限ぎりぎりまで校舎でお喋りしたり、のんべんだらりとお散歩したり。時々ショッピングに出ることもあった。
仁美はことあるごとにさやかに何かしら奢ろうとしてくれたが、これは断った。付き合わせて申し訳なく思っているのだろうが、さやかも友人とこうして遊ぶのが楽しいから気にするようなことではない。そこにお金が絡んでしまうと、かえってよくない。
勿論、二人で同じように金を出して買い食いしたり、そう言うことは喜んでした。さやかが小遣いが足りないと嘆いたときは、二人で折半して一つのクレープを分け合ったりもした。なんだかユウジョウって感じだとさやかは青春を覚えたりもしたものだ。
いよいよ門限が近くなると、仁美は人気のない当たりで、さやかに体当たりでもするようにぶつかってくる。それがわかっているから、さやかは痛覚を切っておいて、全然なんでもない風を装ってこれを抱き留めてやっていた。
震えるその背中を撫でてやり、大丈夫だと声をかけてやり、仁美はがんばってるよ、あたしがそばにいるよと慰めてやった。
呆然と見上げてくる仁美の頬を撫でて、明日もちゃんと会えるからと微笑んでやり、ふらつく仁美が迎えに来た黒塗りの車に乗り込むまでしっかり見送る。
それでようやくさやかはパトロールに出るのだった。
ほとんどいつも仁美がべったりで、大変と言えば大変だし、疲れると言えば疲れるのだが、むしろそんなにまで仁美が大変なのだと思えば、その程度は苦でもなかった。
さやかは仁美の親友なのだから。
迎えの車に揺られながら、仁美は自分の手を見つめていた。
そのかすかな手の震えは、気取られていないだろうか。顔色の悪さは。
ちらと視線をやった先で、運転手は寡黙に業務に勤めていた。あくまでも業務として仕事に専念し、顧客の都合は気に留めない。気が利かないとも言えるその武骨さが、いまの仁美にはありがたかった。
そっと手で口元を覆い、深く息を吸う。
さやかのにおいがした。それだけでくらりとするような少女のにおい。
そしてなまぐささと鉄さびの香り。
仁美にはそれが現実なのか幻覚なのかもうわからなかった。
先程まで、この手の中には包丁が握られていた。
それは笑顔のさやかの腹に垂直に突き立てられ、そして今もそのまま笑顔のさやかの腹に垂直に突き立っているはずだった。そんな破綻したストーリーなど、幻覚だと考えた方が自然ではないだろうか。しかしさやかの温もりも、刃を突き立てた衝撃も、はっきりと思い出せるほどにその手に残っていた。
鞄の中には包丁ケースが収まっている。中身はない。いや、そもそも最初からあったのだろうか。仁美には自信がない。包丁なんて持ってきただろうか。ケースだけが入っていたのではないだろうか。そもそもこのケースさえ幻覚なのではないだろうか。
しかし確かめる術などない。
仁美はここしばらくの間、そんな現実と幻覚の間をさまよっていた。
恭介との間に決定的な破局が訪れた時、仁美は自分がひどくショックを受けていることにショックを受けていた。覚悟は決めていたはずだった。こうなるだろうと予想がついていたはずだった。なのに、いざ別れを切り出し、それが認められてしまったとき、仁美の心は奇妙にかしいだ。
そのかしいだ心をさやかが支えてくれた時、仁美は致命的に揺らいでしまった。
親身になって慰めてくれるさやかが、まるでかみさまのように思えた。
恋敵であったはずの自分と友情を続けてくれ、そして失恋した自分を柔らかく受け止め慰めてくれる。こんな尊い存在がいていいのだろうか。
仁美の中の冷静な部分は、さやかのお人好しな性格と、その情の深さ、そして恭介の幼馴染であるからという奇妙な責任感などを正確に分析し、さもありなんと納得していた。しかし感情は、どうしようもなかった。致命的なタイミングで、致命的な角度で、さやかという存在は仁美の懐の深いところに刺さってしまった。
自分でものめり込みすぎだというのは感じていた。志筑仁美はもっと冷静でなくてはならない。そのような教育を受け、そのような教養を育んできたはずだ。
わかっている。
わかっていた。
しかし、これは、沼だ。沼にずぶずぶとはまり込むように、仁美はさやかにのめり込んでいた。
最初はただ慰めが欲しかった。失恋直後の期間限定の優しさが心地よかった。しかし近寄れば触れたくなり、触れれば離れたくなくなる。そして離れがたくなった次は、独り占めしたくなっていた。
友人であるはずのまどかの隣にいることさえも、苦しく感じ始める自分の異常に、仁美は限界を迎えた。
ある日のこと、仁美は人気のない放課後の校舎の裏で、さやかの腹に包丁をねじ込んでいた。
適当な店で最初に目についたからという理由で購入したセラミックの文化包丁は、仁美が思い切るようにぶつかりながら刺したからか、柄までしっかりと突き刺さり、指にぬるりと血が絡みついた。
わあと気の抜けた声とともに尻もちをついたさやかは、何をされたのかわからないといったようにきょとんとした顔で仁美を見上げた。
「仁美?」
お腹に包丁が突き刺さって制服に赤い染みを広げていくさやかが、どうしたのとでもいうような顔で仁美を見上げてくる。
非日常と日常が、仁美の脳内でねじれて爆ぜた。
仁美は逃げ出した。息も絶え絶えに走って逃げ、迎えの車に飛び込んで、訳も言わずただ出してと怒鳴った。
指先に残った血を見つけて恐慌しそうになり、でもハンカチで拭いたら血の染みが家のものに見つかると冷静な部分が呟く。そして恐慌と冷静の間で湯だった脳が、咄嗟に指を口に含んで血を舐めとっていた。生臭く、塩気と鉄の味がする、ぬるい血液。仁美はパンクした。
はしたなくも指をくわえたまま家に辿り着き、なにをどうしたものか、気づけば翌朝だった。
ぼんやりした頭で指先を嗅いでみたが、もちろん血の匂いなどしなかった。
家のものはいつも通りで、空はよく晴れて心地よい風も吹いていた。
運転手はいつも通り仁美をさやかの家まで送り、さやかはいつもどおりあくびをしながら出てきて仁美に微笑みかけた。
夢。だったのだろうか。仁美は咄嗟に笑顔をつくりながら、頭がおかしくなりそうな夢を頭から追い払った。
そうだ。あれは夢だったのだ。
あれは、あんな、ああ、
「あ、仁美、忘れ物。あたし以外にしちゃだめだよ?」
「え、あ」
いつも通りの日常から、非日常がまろび出る。
さやかはハンカチで刃を巻いたセラミック包丁をそっと取り出して、仁美に握らせた。それは夢の中で散々リフレインした手触りだった。
仁美は咄嗟にそれを鞄にしまい込み、青ざめてさやかを見た。
さやかはそんな仁美を不思議そうに見つめ返して、ちょっと小首を傾げた。
それは、まだ寝癖が残ってたかなとでも考えているような、あどけない表情だった。
仁美はますますわからなくなった。
いまのやり取りさえ幻覚なのだろうか。白昼夢なのだろうか。
「仁美、顔色悪いよ。辛かったらあたしに言いなよ」
さやかに手を取られ、ふわふわとした心地で仁美は歩いた。
これは。これも夢なのだろうか。それとも現実。
あれから毎日、仁美は放課後になる度にさやかを刺し、朝になる度に突き立てた包丁をさやかの手から受け取った。
確かに刺したはずなのに、それとも刺していなかったはずなのに。
どちらが夢で、どちらが現実か、仁美にはもうわからない。
ただわかるのは、それでもさやかは優しく、この夢の終わりを仁美はもう望んでいないということだった。