佐倉杏子は慈悲深い性質ではなかった。
情がないとは言わないし、言う気もないが、情け深くはないと自認している。
優しさというものとは縁遠くなって久しく、とてもではないが仲良くしているとは言い難い関係だ。
物事を解決するための手段として、暴力が選択肢の一つに必ず上がるような人種だし、関係のない他人の命がどこでどう散ったところで胸を痛めるようなこともない程度には薄情だ。
だからそれは単なる気まぐれだった。少なくとも杏子はそう思っている。
ここしばらくのこと、猫に餌をやるように、佐倉杏子は少女に餌付けしていた。
杏子がコンビニのビニール袋を片手にいつもの場所を訪れると、彼女は変わらずにそこにいた。へたり込むように座り込んで、薄い肩をゆらゆらと揺らしていた。
杏子は「よう」と短く声をかけ、それから短く舌打ちした。自分の行いの馬鹿馬鹿しさを再確認したからである。
杏子の声は彼女には届かない。もしかしたら届いているのかもしれないが、ちらとも反応も示したことはない。杏子の姿も目に入らないし、杏子のやることなすことを気にかけることもない。なにもできない。
そりゃそうだ、と杏子は再度諦めと自虐を込めて舌打ちした。
杏子はどっかりと少女の隣に腰を下ろし、ビニール袋を開いた。中身は紙パックの紅茶と、ゼリータイプの栄養補助食品。どちらも杏子の好みでは、全然ない。紙パックの紅茶なんて甘ったるく紙臭いだけだし、栄養食品なんて味気のないものを腹に入れたくもない。せめてかじられる奴でなければ、食いでがない。
「なあ……なあ、あんた、好き嫌いあんのか? あってもわかんないかな、それじゃ」
杏子は少女の名前を知らない。顔だって知らないのだ。いまも馬鹿馬鹿しいと思いながら話しかけているが、実際のところ独り言に過ぎない。
その少女には頭がなかった。
愚かということではない。文字通り、少女の頭部は欠落していた。ほっそりとした色素の薄い下あごと、艶やかな黒髪の流れるうなじを残して、それから上はどこにもないのだった。ただ赤黒い断面だけがそこにさらされていて、おとがいに小さく収まった舌が時々ぴちゃりと音を立てた。
目を向けても視線が合わず、行儀よく並んだ歯と横たわる舌を見下ろすとき、杏子は酷くいたたまれない気持ちにさせられた。
はじめてこの少女を見つけたのも、この場所だった。
夢見るような足取りで、辛うじてバランスを保ちながら、頭のない少女はふらりふらりと彷徨っていた。どこへ行くわけでもなく、ただ、どうしようもなくふらふらとしていた。
その奇怪な姿を目撃した時、何を思ったのか、杏子は正直なところあまり覚えていない。
試しにと槍の石突でそっと肩をつついてみて、何の抵抗もなくぐらりと倒れ込むのを咄嗟に抱え込み、迂闊だなと思いながらも地面に座らせた。その肩は薄く、身体は軽く、あまりにも弱々しい生き物のように思われた。いや、そもそも頭がないのだ、それで生きているということ自体が奇妙でならなかった。
杏子はそれでもその少女が確かに呼吸をし、心臓を動かしている事実に気づいて、ほとんど現実逃避のように鶏を思い出していた。マイケルだかジョンソンだか、なんとかいう鶏が、首を落とされた後も一年以上生きていたという話だった。
そしてその手に紫に輝く宝石を見つけて、杏子はそう言うこともあるのかと自分を納得させた。
魔法少女の本体はソウルジェムだ。ソウルジェムが砕ければ死ぬし、そうでなければ死なない、ゾンビのようなもの。こいつは頭を吹き飛ばされて、それでもなお死を認めず、さりとて回復も出来ず、こうしてここで彷徨っていたのか、そのように判断した。
杏子はその境遇に同情などしなかったし、その胸のうちに慈悲などなかった。
だから、そう、それはやはり気まぐれだったのだ。
杏子はそのように考えている。
紙パックの紅茶を慎重に少しずつ舌に垂らしてやり、こくりこくりと反射的に嚥下するのを見守る。ゼリータイプの栄養補助食品のアルミパウチをそっと喉に差し込んでやり、じわりじわりと絞ってやる。それから背中を軽く叩いてやると、少女の肉の管の奥から小さくげっぷが上がった。
「リンゴ味だってさ。この前のは、グレープフルーツ。ま、どっちにしろこれじゃ味もわかんないよな。値段は一緒だから、次は在庫がある方を買うよ」
もちろん返事などない。
だが黙っていると自分の頭がおかしくなりそうで、杏子はどうもでもいい独り言を繰り返した。あるいはそれこそが頭がおかしくなった証左なのかもしれない。
紙おしぼりで、頬をぬぐい、首筋をぬぐい、手を拭いてやる。汚れはない。だがそれでも、いくらかはさっぱりするだろうと考えて、また自嘲する。こいつには何かを感じる脳みその欠片だってありゃしないのだ。こんなものは何の意味もない自己満足だ。お人形遊びだ。
吐き捨てながら、杏子は手を止めなかった。
少女の左手をそっと持ち上げてやれば、そこには紫の宝石が鈍く光っている。この色合いは、澄んでいるのか濁っているのか、一目にはわかりづらい。グリーフシードを押し付けてやれば、少し穢れを吸ったような気がする。気のせいかもしれないが。
「考えたり、感じることができないんだからさ……苦しいとか辛いとか、そう言う穢れも出てこないのかもな」
何にも感じないというのが幸せかと言えば、恐らくはノーだが。
ビニール袋をあさり、駄菓子を取り出して無造作に口にしながら、杏子はゆらゆらと揺れる首無しの魔法少女を眺めた。
あたしはこいつをどうしたいんだろうか。
自問ははじめてのことではなかった。何度となく繰り返してきた。
食事を与え、身を清め、穢れをはらってやり、そして、それでどうしたいのだと自問する。
失われた頭部を回復させてやれば満足なのか。不自由なく生きられるようにしてやりたいのか。どうしてまた一銭の足しにもならないことをしようなどと考えるのか。
佐倉杏子は慈悲深い性質ではない。
関係のない他人の生き死になどに心動かされることのない程度には薄情だ。
しかし、道端に転がる生き物を放っておけない程度には、杏子の中には杏子を育てたものが染みついていた。杏子自身が拒もうと、蔑もうと、その性質は杏子自身を形作るものだった。杏子を育て杏子の肉となり、今更別つことのできないものだった。
少女はふらりと立ち上がり、そして何もしなかった。
ただそこに立って、ふらふらとしている。あるいは何かをしようとしているのかもしれない。どうしようもなくどうしようもない何かを前に、これが最大限の努力なのかもしれない。
足掻いても足掻いてもどうしようもなく、どこへも進めず何にもなれず、それでも終わることも終わらせることもできず、諦めることも逃げ去ることもできず、生きているのか死んでいるのかわからなくなってなお、なにかであろうとしているのだろうか。
それは杏子の独り相撲に過ぎないのかもしれない。
しかし、それは杏子自身にもどうしようのないことだった。
「なあ、あんた――」
答えの返らない問いかけは、しかし形になる前に銃声に掻き消えた。
頭のない少女のその下あごがはじけ飛び、薄い肩がえぐれ、ふらつく足が跳ね飛び、そして不器用なダンスでも踊るようにぐらんと回りながら崩れ落ちた。
途端に周囲の景色は色彩を取り戻し、ビルのはざまの路地裏がコンクリートの地肌をさらしていく。
杏子は冷たいコンクリートに腰を下ろしていた。杏子はビニール袋を手にしていた。杏子は独りだった。
「何をしているの、杏子。あなたらしくもない」
「……あん?」
「結界に出入りはするのにグリーフシードは持ち帰らない。巴マミの家にも顔を出さない。おかげで私は探偵の真似事。笑えないジョークね」
月明かりに浮かんだ姿に、杏子は目を細めた。自分を見下ろせば、深紅の魔法少女装束。そばにはグリーフシードが転がっている。
「……魔女だったのか」
「魔女以外の何? 幻術使いのあなたが惑わされるとはね」
「惑わされたんじゃねえ……ただの気まぐれだ」
そうだ。ただの気まぐれだ。
杏子はグリーフシードを槍で弾いて、拳銃を携えた女に放ってやった。
「何か因縁のある魔女だったのかしら?」
「いや……いいや、なんでもない」
色素の薄い肌に、黒い髪。暁美ほむらのいけ好かない顔を一瞥して、杏子はため息をついた。
杏子は慈悲深い性質ではない。優しさとは縁遠く、薄情で身勝手。
だからあれは同情じゃなかった。哀れみなんかじゃなかった。
ただ、どうにも、似ている奴の顔が頭によぎった。
それだけのこと、それだけの話だ。
「ラーメンでも食うか?」
「あなたの奢りならね」
「いいよ、奢ってやる。面倒かけたし」
「……………」
「お前その不審そうな顔させたら右に出る奴いねえな」
そう、それはそれだけの話だった。
無力の魔女
その性質は停滞。
この魔女は何もしないし、何もできない。
救いを求めることすら、もはやできない。
なんにもならず、どうにもならない。
しかしどうしたわけか、惹かれ惑うものが少なからずいるようだ。