少女が一人、電車に揺られていた。
「すべてを投げ出して逃げ出してしまえたらと、そう思ったことはありませんか」
平日昼過ぎのこと、各駅停車の鈍行列車の車内は閑散としていた。
少し前まではどこか懐かしい土の匂いのする荷を抱えた夫人が同乗していたが、何駅か前にその姿も消えた。
規則的な揺れと、時折聞こえる車内放送。
冴えていたはずの目がいつしか眠りに沈みそうな、そんな。
だからななかが溢した言葉を、さやかは取り逃しかけた。
それは問いかけのような、独り言のような、曖昧な呟きだった。
聞かせる気があったのか、どうなのか、それさえわからない。
ちらと見上げたななかの横顔は、静かに車窓から外を眺めていた。
その横顔をさやかは美しいと思う。
てらいもなく、ただ、きれいだなと思う。
その中身を考えなければ、常盤ななかは美少女であった。いや、その中身もまた、その美しさを何らかげらせるものではない。むしろその内面こそが、彼女の静かな横顔にしみ出す何かを生み出していた。
さやかにはそれが何なのかわからない。わからないから、さやかは素直に認めることができないのだろうか。まるで子供の嫉妬だ。何を妬んでいるのか、うらやんでいるのか、それさえもわかっていない。
「不思議な話ですね。奇妙なことです。復讐のために立ち上がり、その一心で戦ってきたつもりです。なのに、時々、何でもないような一瞬に、ふと思うのです。家に帰りたいと。あるいはまた、どこか遠くへ行ってしまいたいと。全然別の方向のことを、同じように思うのです。ただただここから離れてしまいたくなるんです」
ぽつりぽつりと、ななかは呟いた。
その声には、ななかの言う通り心底不思議に思う色と同時に、なんだか奇妙に腑に落ちたような納得の色がうかがえた。わからないのに、わかっている。知らないのに、知っている。
納得できない納得がななかの中にあって、それがいまこうしてさやかの前で形にならないままに吐き出されているようだった。
「ファスト・フードを利用したことがありませんでした。馴染みというものがありませんでした。おかしな話で、魔法少女となって、魔法少女達とかかわるようになって、そうして非日常の世界で戦うようになって、私ははじめて当たり前の世界を見るようになりました。繊細さの欠片もない安っぽい派手な色使いは、しかし弟子たちが好き勝手にふるまい始めたあの外連味のようなものは感じられませんでした。それはありふれた町中に溶け込んだ色でした。そして」
ななかは眼鏡越しの視線をさやかに向けた。
それから、そしてと何回か囁くように繰り返してから、ふいと視線を切って車窓の外を見やった。
「そしてあなたを見ました」
さやかはそれを黙って聞いていた。それをどんな気持ちで聞いていたらいいのかわからなかった。
ただ聞くよりほかになくて、そうしていた。
「あなたはきっと、ほんの少し通りかかっただけの、目も合わなかった見知らぬ女のことなど、覚えてはいないことでしょうね。でも、その時のことはどうにも奇妙に私の中に残っています。あなたはお友達と話していましたね。きっと、学校のことや、テレビで観たドラマのこと、そんな些細なことを。笑顔が何種類もあることを、私はそのほんの少しの間に知りました。歯を見せ、喉を反らして、声をあげて笑う姿が、私にはなんだか眩しく思えました」
さやかはそれを覚えていなかった。
そもそも最初から気付いてさえいなかった。
ありふれた日常の中の、その背景にさえきっと映り込んでいなかった。
それでもそのどこかに、彼女はいたのだ。
「あなたの戦う姿を見ました。あなたはいつの間にか魔法少女になっていて、そして戦っていた。風のように踊りながら、あなたは真剣な目をしていましたね。綺麗だと思いました。美しいと感じました。光り輝くようにさえ見えました。そして声をかけられませんでした。きっと私の目は曇り始めていたから。ええ。ええ。そうです。私はきっと」
ななかは笑ったようだった。
それはななかの言う何種類もの笑顔の中で、彼女が持ち合わせるほんのいくつかのうちの、一番馴染んでしまったものだったのだろう。苦い溜息がこぼれて落ちた。
こぼれて落ちたそれを掬い上げて、大切に押し頂くように、ななかはあてどもなく手をさまよわせた。半端に持ち上げた掌が、どこへも行けず迷っている。
「ええ。私は、きっと、恋をしていました」
それはまるで懺悔のようだった。
信じてもいない神に、それでも吐き出さねばならないようだった。
許しを乞うわけでも、罰を求めるわけでもない。
ただ、それを胸のうちだけにとどめておくことができないのだった。
そうしてその吐き出す相手としてさやかを選んだくせに、すべてを預けることも出来ずに半端に手元で転がしている。
さやかはななかのそう言うところが好きではなかった。
そう言うところが、もどかしくて仕方がなかった。
「すべてを投げ出して逃げ出してしまえたらと、そう思ったことはありませんか。私は時々あるんです。そうするつもりが全くなく、そうできる機能もきっともうすでに捨て去ってしまったというのに、それでも思いだけは時々よぎるんです。当たり前のように、当たり前の日常を、当たり前に笑いながら、当たり前に誰かと過ごしたいと────あなたと過ごしたいと」
さやかはそれを黙って聞いていた。
応えられるかどうかは別として、受け止めてやりたいとさえ思った。
けれどななかはそれを求めなかった。半分だけ手のひらに吐き出した、形のない思いを、独りでそっと呑み込んだ。
「そんな夢を見ることもあるというだけの。それだけの話です」
ななかの指がそっと伸びて、さやかの目の前で蓋を閉じた。
閉ざされた箱と少女が一人、電車に揺られていた。
次の駅はまだ、遠い。
◆◇◆◇◆
「あんたなんか言いたいことないの?」
「はて。あなたと歩いているだけで満足です、とでも言えば?」
「そういうんじゃなくってさあ。なんかこう、悩みとか……妙な性癖とか」
「は?」
常盤ななかの目を丸くする顔というのはあるいはレアかもしれない。
ただ、気まずい空気と引き換えにしてまで見たいかというと別だが。
さやかはなんでか知らないけれどいつの間にか同道していた魔法少女にため息をついた。
「人様の手足ぶった切ったり、箱に詰めたりとか、そう言う猟奇的なこととかさ」
「さやかさんは私をどんな目で見ているんですか……?」
「いや、別にそう言うわけじゃないけど……おとなしい子って、なんか胸にしまい込んでることとか、ありそうじゃん」
「それは……それは、どうもお気遣いを?」
気遣いとかそう言うわけではないのだが、かといってどうにも説明のしようがない。
さやかは諦めて頭を軽く振り、黙ってパトロールを続けた。
そしてななかも当然のようについてくる。
なんでかな、と思う。なんだかな、とも思う。
成程、もやもやしたまま吐き出してもなあ、という気持ちにもなる。
それでもなんだか吐き出さないとすっきりしなくて、さやかはこぼすように呟いた。
「あんたさ」
「はい?」
「眼鏡、けっこう似合ってるよね」
「……は?」
そんな夢を見たこともあるというだけの。
それだけの話だった。