「あんた、おかずにはなに使ってるの?」
深夜の四畳半に響いた下世話な質問に、肉じゃがをつついていた箸が止まった。
問いかけを発した美樹さやか自身も、思わずぽろりと漏れた失言に硬直し、問われた方の暁美ほむらは肉じゃがに向けていた視線をさやかにむけて、沈黙した。
かちりかちりと無慈悲な時計の針だけが、冷酷に時間を刻んだ。
夜九時以降に食事を摂ると実際太る。もはや格言の如く口々に言われることではあったけれど、成長期真っ盛りの健康優良児にして、カロリーと魔力の消費に喘ぐ美樹さやかにとっては自動販売機の下に転がっているかどうかさえ分からない一円玉位にはどうでもいい事だった。つまり切羽詰ってようやく省みる様な、そういう程度の認識だった。明日の自分が体重計の上で重力と戦おうが、明後日の自分が臍出しルックの装束に危機感を覚えるようになろうが、現在進行形の空腹の前ではそんなものは無価値で無意味で無関係だ。少なくとも、現在においては。
真面目に魔法少女やっている女子は――つまり、
眠気は魔法でどうとでもなる。細やかな魔力の消費で、少ない睡眠時間を濃密な休息に充てられる。気付かぬ間に太くなっていくふくらはぎの筋肉も、ちょっと身体強化魔法に気をかけて遣れば抑えられる。しかし宿題と空腹はどうにもならない。いや、まあ、宿題はやる気さえ出ればどうとでもなるが、勤勉なるロマンの追及者たる美樹さやかには、魔女との戦いを終えた後の体が熱くなって後頭部辺りがちりちりするような快感の中で机に向かうような無粋な真似は出来なかった。
とにかく、空腹はどうにもならない。何か腹に入れねばならない。
だが魔女狩りを終えた後の夜更けでは、女子中学生が気軽に入れる店は少ない。補導されかねない。よしんば上手いこと潜り込めたとして、今度は金銭的な問題が発生する。魔女狩りでは夢とロマンと自尊心と仲間内での名声は稼げる。しかし物理的質量を伴う報酬も、社会的信頼を伴う対価も得られない。以前、魔法少女稼業の元締めにあたるキュゥべえに、使用済みグリーフシードを駄賃と引き換えてくれないものかと交渉したら、構わないけど、命に値段をつけるのは
ならばどうするか。
巴マミは打ち上げ的に紅茶や茶菓子を振る舞うことはある。しかし何時もではない。女子中学生として破格の豊満な肉体を持つマミは、その分だけ脂肪分や糖分の摂取には気を遣っていたし、第一彼女はどちらかと言えば頭脳派だ。見栄え良く飛び回るが、運動に使うエネルギーより、弾道計算やリボンの配置などの思考に使うエネルギーの方が大きい。腹持ちよりエネルギー補給を優先してさっと糖分を摂取して回復するのが常だ。
鹿目まどかは魔女狩りが終われば、明日も学校だからと早々と家に帰ってしまう。勘の鋭い母親を警戒しているようで、あまり生活リズムを崩したくないようだ。それに宿題までするのだという。さやかには理解できない真面目さだ。理解はできないが、授業直前に写させてもらうのに大変頼りになるのでそのままのキミでいてほしいというのがさやかの細やかな本音だ。
佐倉杏子は意外に夜食を食べない。さやかと同じ様なタイプだと思っていたので腹が減らないのかと聞いてみたことはあったが、そもそも常に何か口にしている様な手合いだった。小分けにして常に補給しているから、空腹感があまり来ないのだという。その癖一緒に食事すると誰より食べるし、しかも太らない。成長というものを
どいつもこいつも、金を出し合って夜食を買い求めるにはどうにも相性が悪い。このまま空腹を抱えて眠れぬ夜を過ごす日々が続くのだろうかと本人ばかりは大真面目に苦悩するさやかに声をかけたのは、こいつだけはまずこの手の話題に食いつかないだろうと思っていた少女だった。
「あたしさ。あんたってカロリーメイトとウィダーインゼリーが主食だと思ってたわ」
「便利なのは認めるわ」
暁美ほむらであった。
飯の代わりにガソリンを補給して戦う未来から来たターミネートマシーンガールというのが、さやかのほむらに対する食事事情の想像であった。もしくは魔女を捕食している悪食のソウルイーターガール。学校でも大抵購買のパンを大して美味そうでもなくもそもそ食べていたり、あまり食事に興味がないのではないかと思っていたのだ。
なので、そのほむらからうちに食べに来るかと誘われた時はすわ殺されるのではなどと警戒したものだが、よりにもよってすばしっこい魔女を猟犬よろしく走り回ってようやく仕留めた後の提案だったものだから、つい頷いてしまったのだった。
初めて訪れたほむらの家は存外質素で、薄い座布団を寄越されて卓袱台で向き合って白飯と肉じゃがと味噌汁に漬物というこれまた平穏な品を食わされ、赤く細長い顔の宇宙人が夕陽の差しこむ卓袱台を前に胡坐している様なとんでもないシュールさを感じさせられた。いや、一人暮らしの女子中学生ということを考えれば極めて普通の光景だったのだろうが、なにせ顔ばかりはちょっと見ないくらいの美少女で、しかもミステリアスな陰がある。それが卓袱台に向かって肉じゃがを頬張り、ほうじ茶をふうふうと冷ましている姿など、思わずギャグでやっているのかと突っ込みかけた光景だった。
そんなショッキングな会食は、今やすっかり馴染の物となっていた。
さやかが今晩大丈夫かと尋ねることもあったし、ほむらが今夜は食べていくのと問う事もあった。そして最近ではその遣り取りさえなくなってきた位には、深夜の会食は日常となっていた。
暁美ほむらは、身近に美形が多くて目の肥えたさやかから見ても、手放しで賞賛できる美少女だった。教養の良さというか、育ちの良さというか、そういうものを思わせる歯並びの良さ。いつも伏し目がちだけれど真っ直ぐ覗き込んでみると、その潤んだような深紫の宝石は吸い込まれるようだ。すぐに薔薇色の血の色が透けて見える肌は、少し病的と不安になる時もあるが、夜のビロードを背景にすっとその横顔が見えると神秘的な美しさがあった。あまり周囲で見ることのない、長く伸ばした黒髪もさやかの美的感覚をくすぐった。手櫛を通すとまるで抵抗なくするすると自分の重みで流れていってしまう程に滑らかで艶やかで、こんなに触り心地の良い髪があるのかと驚き、嫉妬したほどだった。さやかが髪を伸ばしたって、きっとこんなに魅力的な艶は出ないだろう。
そして美しいだけでなく、ほむらは意外な事に料理がうまかった。初めて食べさせて貰った時、この人間性を捧げきったような魔法少女が人間味のある食い物を出すとはと驚かされたものだった。
しかしこの件に関しては、果たしてただ料理がうまいといっていいのかはさやかには判断がつかなかった。上手いのも当然で、この女、完全にマニュアルに従って作っているのだった。材料の切り方は定規で計ったようで、台所より研究室に置いてありそうななんとかいう高性能の精密計りで調味料をミリグラム単位で計っている。加熱時間も恐ろしく厳密にタイマーで計り、盛り方さえ毎度毎度誤差範囲内のコピーっぷりである。手慣れた様子で作業をこなしていく様は、料理をしているというよりもはや精密工業だ。多分爆弾を作っている時と全く同じスタイルだ。作り終えた時のやりきった顔は、熟練の職人を思わせた。
しかも作れるのは肉じゃがだけだ。白飯は炊飯器で炊くだけ。味噌汁はインスタント。漬物は買ってきたものだ。
なんで肉じゃがしか作れないのか、というよりなんで肉じゃがだけこんなに極まっているのかと、三回目くらいの会食で食品サンプルじみて同じ姿をさらしてきた肉じゃがをつつきながら困惑気味に尋ねたてみた。
そうしたところ、小さく小首を傾げ、また小さく小首を戻し、あなた肉じゃが嫌いだったかしらと平坦に尋ね返してくる。まあ肉じゃがは好きだ。何時だったか好きな食べ物を聞かれて適当にぽんと答えた位には、まあ、好きな方だろう。肉じゃがが嫌いな日本人はそういないと思う。しかしそういうことじゃない。そういうことじゃないのだが、面倒臭くなって、まあ好きよと答えると、何やら満足げに頷いてそのまま白飯をちまちま食べ始めてしまった。それでさやかもまあいいかと、結局答えは聞きそびれたのだった。
さやかとしては献立の壊滅的な幅の狭さに若干辟易はするものの、折半した材料費だけの格安の夜食に文句はなかったし、暁美ほむらは最初から何も言わなかった。いつも疲れた体を引きずって暁美宅に上がり、さやかは愚痴と共に卓袱台に沈み、ほむらは無言で台所で調合をし始める。大抵はさやかがうつらうつらとし始めた頃に起こされ、会食はいただきますと召し上がれで始まる。食事中の会話はぽつりぽつりと時々他愛もないことを話すくらいで、専ら味ばかりは文句のつけようのない肉じゃがを味わうことに専念した。そしてご馳走様とお粗末さまでしたで会食は終わり、また明日とさやかは出ていく。一か月も続ける頃にはもはや仕事の一環なのではないかと感じ始める程のルーチンが出来上がっていた。
物事が安定してくると余計な事を考える余裕が出てくるもので、さやかも普段から余計なことばかり考えているのに、余分に余計な事を考えていた。
ちょっと見ないくらいの美少女で、料理も美味くて、沈黙が嫌にならない。これで可愛げがあればパーフェクトな嫁なのだが、などとぼんやり考えているうちに、この完璧超人の鉄面皮を崩せないものかと妙な対抗心が出てきたのである。
それでぐにぐにと頭の中で奇案妙案を捏ね繰り回しているうちに、思わずぽろりとこぼしてしまったのが冒頭の一文だった。
「あんた、おかずにはなに使ってるの?」
深夜の四畳半に響いた下世話な質問に、肉じゃがをつついていた箸が止まった。
問いかけを発した美樹さやか自身も、思わずぽろりと漏れた失言に硬直し、問われた方の暁美ほむらは肉じゃがに向けていた視線をさやかにむけて、沈黙した。
かちりかちりと無慈悲な時計の針だけが、冷酷に時間を刻んだ。
さやかとしては、ほむらの回答は二通り予想された。一つは、日頃の浮世離れした様子から、下品だとか食事中に何をとか、潔癖な拒絶を返してくるもの。そしてもう一つは、これはちょっと夢見過ぎではあったが、入院生活が長かった初心な少女らしく、恥ずかしげに頬を染めてばか、とでも可愛らしく罵ってもらえたら、などともはや願望だ。
しかし現実は三択目だった。
「……じゃがいもと、豚肉と、白滝と、」
「そういうことじゃなくて」
まさかのガチ回答。よもや意味が解らない程に初心だったとは。
「じゃあ、どういうことかしら?」
「あー、その、ほらさー、わかんないかなー」
「おかずというのが……惣菜でないというのは分かったわ」
「だからさー、その、体をさ、持て余した時とかさ、ほら!」
「…………もう少し、具体的な説明をしてくれるかしら」
「つまり、だからァ、その、マ、マで始まる言葉でさー」
「マ? 魔女? 魔法少女?」
「……マ、マス……その、つまり、マスタ~~…………ベ~~~ション………よ」
誤魔化し誤魔化し、自分で言っていて勝手に顔を赤くしながらさやかが悶絶する様を、ほむらはじっと見つめ、そしてゆっくりと瞬きした。
「マスターベーション」
機械音声じみた正確な発音で、ほむらは呟く。
「……マスターベーション」
頭の中を探るように、再度。
大真面目にわからないらしいほむらの様子に、さやかは一人、何処からか湧いてきた罪深さに悶えた。両親が教えるキャベツ畑やコウノトリといった誤魔化しをを信じている無垢な女の子に、ママのキャベツにパパのコウノトリを突っ込んで激しく前後する無修正のポルノを突き付ける時を想像するような、そんな罪悪感と下卑た興奮を覚えていた。主に興奮の方を。
「待って。喉まで出かかっているの。確かどこかで聞いた言葉だわ」
「いい、いいんだよほむら……そのまま知らないままで……」
「いえ、確かに聞いた覚えが……」
しばらく瞑目していたほむらは、小さく小首を傾げ、そして小さく小首を戻した。それから目を開いて、潤んだような深紫の宝石みたいな目で、さやかをまじまじと見つめた。それからまた小さく小首を傾げ、また小さく小首を戻した。
「つまり、自慰行為ね」
「あーはいはいはいそうですそうですよッ!」
「自慰行為に、使う……?」
大真面目に考え込むほむらに、逆に何だか辱めを受けたような気分で、さやかはげんなりとしながら、おかずというものをざっくりと説明した。その内容を、つまりさやかの発したあまりにも唐突で凄まじく下世話でプライベートに踏み込むような質問をようよう理解したほむらは、やっぱり小さく小首を傾げて、また小さく小首を戻した。
ほむらとはそれなりに親しくなったような気がしていたが、それでもまどかとのお泊り会での秘密の女子トークや、杏子と馬鹿みたいに盛り上がった深夜のテンションのようなノリでこういった話題を交わすにはまだ新密度が足りなかっただろうか。嫌な汗が背中を伝うのをさやかは感じた。
ほむらはそれから止まっていた箸を動かして、じゃが芋を口に放り、暫くもむもむと頬張って、こくりと小さく飲み込んだ。それから白米を小さくとって口に入れ、暫くもむもむと頬張って、やはりこくりと小さく飲み込んだ。それから味噌汁を啜り、ぱきぱきと小気味の良い音を立てながらたくあんを齧り、徐に口を開いた。
「おかずには、じゃがいも、豚肉、白滝、」
「それさっきやったから!」
思わず平手で空を切るさやかを気にした風もなく、ほむらは箸をおいてつづけた。
「下準備が大事なの。じゃがいもは出来るだけ身を多く残す様に、でも皮が残ったりしないように丁寧に向いて、面取りする。油で一度上げてあげる。温度が高すぎると焦げるし、低すぎると油を沢山吸ってしまうわ」
文章読み上げソフトのように淡々と説明を続けるほむらに、さやかは溜息と共に卓袱台に沈んだ。説明が通じなかったのか。それともその上でこういう風にあしらわれているのか。なんにせよ、コミュニケーションに重大な齟齬が発生している。
これはもうBGMと割り切ってしまおう。そう決めつけて、さやかは食事を再開した。毎回毎回全く変わりなく同じ味だが、しかしさやかの好みに合った味付けだった。飽きが来ない。毎日作ってくれるというなら毎日でも食べるし、実際ここ一か月はほとんど毎日お世話になっていた。餌付けされているのだろうか。
「隠し味には愛情が大事だと言われたから、たっぷりと籠めているの」
料理の常套句だ。要するに手間暇かけた丁寧な仕事のことだろうとさやかは素っ気なく聞き流そうとして、ちらと見上げたほむらの顔に硬直した。
「それまで料理なんてしたことがなかったから、沢山予習したわ」
さやかは初めて見るものに、半分口に入りかけていた芋が落下するのも気づかず、まじまじと凝視してしまった。
ほむらの顔に血が上って赤みを帯びていた。
つまり、ほむらははにかむように、頬を染めていたのだった。
「あなたが寝入る頃を見計らって、愛情を込めるの。その、一つずつ、お芋に口づけて、炊くの」
はふり。温かなじゃが芋を、ほむらは一口、ついばむように頬張った。
「あなたがそれを食べるのだと思うと、悪い事をしているようで、でも、とても嬉しくて、すごく、きもちよくなるわ。そして実際に食べているのを見ていると、とてもとてもきもちよくなって、胸の辺りが一杯になってしまうの」
口元を軽く拭って、ほむらはご馳走様と手を合わせた。
「自慰って、自分で、気持ちよくなることなのでしょう? なら、私のおかずはそれよ」
素っ気ない調子で呟くようにそう言うや、ほむらは黙り込んでうつむき、卓袱台の木目を数える作業に没頭し始めた。いつもなら澄ましたように背筋を伸ばしてさっさと食器を洗いに立ってしまうはずなのに、今のほむらは小さく縮こまってしまっていた。
かちりかちりと時計の針が時を刻むだけの静寂の中、その艶やかな黒髪の間にのぞく、目も綾な薄紅が、何より雄弁だった。
ちょっと見ないくらいの美少女で、料理も美味くて、沈黙が嫌にならない、可愛げに溢れたパーフェクトな嫁が、そこにいた。