かたととん。かたととん。かたととん。
寝惚けた昼下がりのことだ。間延びした陽射しはシェードに遮られ、車内は陽光に目を眇める必要のない日陰と、柔らかな蛍光灯による明るさという、現代文明の生み出す二者両立の快適な空間を築いていた。あとはこのどうしてまだ耐用年数を過ぎていないのか殆ど誰も知らないし説明のしようもないような古びた鈍行列車が、ちょっと気合を入れてクーラーを回復してくれれば最高だ。しかし今の所、このロートルは自分を引きずって線路の上をえっちらおっちら走るので手一杯のようだった。
気休めの様に隅の方に置かれた扇風機が、首をふりふり生ぬるい空気をかき混ぜたが、涼しく感じるのは風の触れる一瞬だけで、あとはただただ耳障りなだけだった。
そしてまた、大して客もいない各駅に停車する度に、アスファルトの上で良く良く熱せられた空気がじわじわと忍び込んでくるのも頂けなかった。
特急に乗っていれば今頃はクーラーの良く利いた新品の車内で、ちんたら走る鉄の長虫とは大違いの快適快速の旅が楽しめた筈なのに。だがさやかはその件でほむらを責めることはできなかった。そしてほむらもまたさやかを責めることはできなかった。どうせ急ぐ旅でもないし、特急料金は節約して土産代の足しにし、今日日は寧ろ贅沢な部類に当たる、のんびりとした路線の旅を楽しもう。そんな呑気な旅程を組んだのは二人でだったし、お互いそれはそれで楽しみにしていたのだ。現地の魔法少女の要請を受けて遠征に行くのだという本来の目的でさえ、久方ぶりの遠出にはしゃぐ少女のこころには関係のない事だった。
本当に、せめてクーラーさえ利いていればな、とさやかは嘆息した。
そして気長な列車の旅を最も退屈なものに貶めるのは、同乗者が先程から没頭している一冊の本だ。文庫本だ。鞄に忍ばせて、すっと取り出して気軽に読めるサイズの小説だ。暁美ほむらは乗り込んでしばらくの、あの旅特有の奇妙な盛り上がりがゆっくりと落ち着いていくにつれて、読みかけの小説を取り出して読み始めたのだった。
「あのさあ。列車の旅ってこう……もっと車窓からの景色とかさ、そういう風情を楽しむもんじゃないの?」
「走り出してものの数分で飽きたのはあなたでしょ」
「いや、まあそうなんだけどさ。でも普段滅多にしない折角の旅行なんだしさ、こう、電車の中じゃなきゃできないようなこととか」
「電車の中での読書は、電車の中でしかできないわ」
「またそうやって屁理屈こねる」
「屁理屈じゃあないわ。読書にも風情はある。環境が読み心地に影響を与える。それに最近はゆっくり読書する暇も取れなかったのだもの。赤点だけは取れないって騒ぐ誰かさんのおかげで」
「その節はご迷惑おかけしましたっ」
これだ。さやかが少し、ほんのすこうし構って欲しいなと声をかければ、にべもない。そりゃあ、まあ、言わんとすることは分かる。リズミカルな振動は心地よく、移動中の電車には無理難題を持ってくる忌々しいマスコットも来ない。長時間の拘束が前提なのだから読書するのに時間を気にしなくていいし、保温水筒に詰めた紅茶に、駅で買ってきた駅弁もあるのだから、大概のことでは席を離れなくていい。実に理想的な読書環境だ。
だがさやかはその間一人ぼっちだ。トランプもウノも携帯チェスも、相手がいなきゃどうしようもない。せっかく珍しい事にほむらと二人で組んでの遠出なのに、これじゃああんまりだ。いつもより近い筈なのに、教室にいるときより遠く感じる。
こうなったらもう、一人でエイトクイーンにでも挑んで暇潰ししようか。
そんなことを考えながらの今日何度目かの溜息に、ついにほむらは折れた。ほむらなりの形で。
「はい」
「…………なにこれ」
「本よ。こう……紙の束に物語を印刷したもので、あ、印刷は分かるかしら」
「そういうことじゃなくって! 本くらい知ってるわ!」
「なら使い方くらいわかるでしょう。ああ、普段は枕か、早弁隠すのに使っているのだったかしら」
「読みますよ読めばいいんでしょ!」
一々嫌味なしでは会話できないのかこの女は。涼しげに髪をかきあげる仕草に少しどきりとしながらも、差し出された文庫本を受け取る。
「いつもあなたの趣味に付き合っているのだもの。たまには私の趣味に付き合いなさい」
「ほむらだっていつも楽しんでなんでもないです黙って読みます」
視線の圧力に負けて、仕方なくさやかは本を開いた。普段本を読むことが少ないものだから、あまり活字慣れしていないさやかは、とりあえず表紙を眺めてみた。カタカナの著者名からして、海外の作品の邦訳らしい。裏表紙の粗筋によればどうやらSFのようだ。
ちらとほむらの読んでいる本に目を遣れば、そちらもSFらしい。背表紙から読み取ったタイトルは、鼠と竜のゲーム、とあった。なかなか興味深いタイトルだ。
「こっちは、断絶への航海、か」
なんだか難しそうなタイトルだ。表紙に書かれた宇宙船の様なものからして、きっとこの航海と言うのは宇宙への旅の事を指しているのだろう。
意を決してさやかは、つっかえつっかえ読み始めることにした。
最初は読書とただそれ言うだけでなんとなくとっつき辛さを覚えていたが、色々と出てくる用語をしっかり理解しようとするのではなく、なんとなく雰囲気を理解しようという風に切り替えてしまえば、するするとはなしは呑み込めてきた。大事なのは電子情報将校とか低空飛翔型の遠隔操縦機とか超水源とか超排水孔とか、そういう単語は興味が出たら後で調べればいいのだ。大体どんな役回りで、どんな筋なのかがわかればいい。小説とはドラマなのだとさやかは理解した。
もともと読書に慣れていないので、読み進む速度はあまり早くないが、さやかとしては自分でも驚くほどのペースでするすると読めた。SFというとなんとなく男の子と言うイメージだったのだが、人間ドラマと言う視点で見ればそこに男女の差異はない。作中に登場する地球人とケイロン人の価値観の違いがさやかを楽しませた。また軍人と民間人の違いが、男女の機微の違いが、また楽しませた。
ある程度きりの良い所で一度手を止め、さやかはステンレスのカップに口をつけた。紅茶はすっかり冷めていて、少しの渋みが舌に残った。惑星ケイロンに紅茶畑はあるだろうかと、さやかはぼんやり考えた。あるなら、移住していいかもしれない。美味しい紅茶の飲める場所は、さやかにとって帰るべき場所だ。それは巴マミの家であり、魔法少女達の集いであり、そして気紛れに紅茶を淹れては、感想を聞くでもなく黙って寄越してくるほむらの隣だった。
ちらとほむらに目を遣れば、熱心に本を覗き込んでいるところだった。
「それさ、読み終わったら感想教えてよ」
鼠と竜のゲーム。やはり気になるタイトルに、そう声をかけてみたけれど、余程に熱中しているのか返事はなかった。まただ。さやかにはよくわからない機械を弄っていたり、どういう配合なのかさっぱりわからない薬品を調合している時、ほむらは大抵さやかの事など頭になく、返しても気のない生返事ばかりだ。
肩をすくめて、さやかはメイフラワー二世の人々とケイロンの人々との奇妙に噛み合わない、けれど段々馴染つつある不思議な交流に意識を戻すのだった。さやかはさやかで、この宇宙のどこかで行われている人間ドラマに集中していて、意識はすっかり銀河の彼方だ。
だからさやかは気付かない。
ほむらの手元の文庫本は、先程から一ページも捲られていなくて、ヘレン・アメリカは故障した船の中で延々と同じ時を過ごしたまま、ミスター・グレイ=ノー=モアとの再会にあと一歩の所で届かない。
ほむらの視線は同じ文字列を何度も辿り、それからちらと本の外へと視線を飛ばし、普段は見られない程に真剣な眼差しで文字列を辿る、伏し目がちなさやかの顔を息を潜めて見つめるのだった。そして息苦しくなって、かたととん、かたととん、リズミカルな電車の振動よりも鼓動が大きくなりかけると、その度に慌てて顔を伏せ、何処からだったろうかとまた同じ文字列を辿るのだった。
ゆるゆると死にかけの扇風機が首を振り、温い風がページを揺らした。
「……あついわね」
「ん、そうだね」
車内には局所的な温度差があった。