学校の先生に憧れていた。
子供たちを教え諭し、時には厳しく、時には優しく、その成長を見守り支える先生という仕事に憧れを抱いて、私は教壇を目指した。ドラマで見る様な大事件を華やかに解決したり、教え子たちと真正面からぶつかっていく熱血教師のような、派手なものでなくても良かった。ただ、子供たちが成長するその切欠となれればよかった。その支えとなれればよかった。自分一人ではきっと思いも寄らなかっただろう溢れんばかりの希望と可能性が、大きく花開いていく姿を見守りたかった。記憶に残らなくても良かった。ただふとした時にあんな先生がいたなと思いだしてくれればそれでよかった。忘れかけた頃にふと足を運んで、通り過ぎる様な挨拶でも交わせればなおよかった。
そういう先生というものになりたかった。
しかしそんなロマンティックな夢は、給料も安いし腰も痛くなる実際の教師生活と、動物卒業後すぐの半人間もとい思春期に悩む生徒達と向き合う日々とに摩耗し、少しでも油断すればモンスターペアレントがポップするダンジョンアンドクレーマーズから逃げ出したくなるようなときさえあった。
それでも私は耐えた。
自分を頼る生徒達の信頼が一つでもある限り私はそれに応えたいと思ったし、無限に広がる可能性へとおずおずと翼を広げようとしている雛鳥たちを支えたかった。そして何より結婚を見据えた交際も捗々しくなく貯蓄も心許なく転職先の便りもないので辞めようがなかった。
しかし今日という今日はさしもの私も心が折れそうだった。
授業を終えた放課後、部活動に勤しむ生徒たちの掛け声が遠く校庭に響くのをぼんやりと聞きながら、私は言葉を纏めようと試みた。しかし手を伸ばせば伸ばすほど、言葉はほろほろと崩れて形にならない。
「あのね、鹿目さん」
「はい」
素直な返事。
まだ大分子供っぽい容姿をした受け持ちの生徒は、しかしどこか親譲りの頑固さを思わせる意志の強さを目に宿している、ように思えた。
鹿目まどか。
私の旧友である鹿目詢子の娘は、本当に素直で愛らしく育った。暫くアメリカで暮らしていたから、まだ色々と日本での生活には不慣れな所もあるけれど、控えめな振る舞いと言い花の綻ぶ様に笑う様と言い、とても海外で育ったとは思えなかった。ずっとこの小さな島国で育ち、この見滝原の風に吹かれて育ったような、そんな風にさえ思える。
しかしそんなささやかな疑問はすぐにほろほろと崩れ、目下の問題に私の思考は向けられ、そしてやっぱり崩れた。
現実から逃れる様にそっと目を遣った窓の向こうでは、野球部の生徒が青春に汗を流しながら青春を燃やして校庭をランニングしている。あそこで費やされる青春のエネルギーがきちんと将来に昇華するのは果たして何人くらいだろうかと酷薄に考えてしまい、頭を振る。
いま私が考えなければいけないのは、目の前の少女の将来、の筈なのだ。本来。
一学期末。夏休み前に設けた三者面談の席で、私はクーラーの良く利いた教室でかいてもない汗をぬぐった。
「あのね、鹿目さん」
「はい」
間抜けにも繰り返した呼びかけに、まどかちゃんは律儀に返事を返してくれた。
私はその素直な視線に負ける様に再び視線を逸らし、そして逸らした先で目下の問題と目があった。
「あのね、鹿目さん」
三度目の呼びかけに続けて、私はついに言葉をまとめた。
「学校に子供を連れてくるのはどうかなって、先生思います」
子供である。
私とばっちり視線が合ってしまった、まだ小さな子供。中学生用の椅子に腰掛けて、それでも大きすぎるものだから足をプラプラと揺らしている幼い子供。見た所、まだ小学校に就学する前の子供に見える。勝気そうな目に、これから健やかに育つことを予見させるふっくらと柔らかそうな頬。退屈そうに足を揺らす様は何とも愛らしくさえある。
私も人間だ。子供は愛らしく思うし、何もしていない子供を憎たらしく思ったりはしない。しかし、それはそれとしてここは学校で私は先生で今は三者面談の時間だ。そこにどうして子どもを連れてくるのか。鹿目家にこの位の年頃の娘はいなかったはずなので、親戚の子供でも預かっているのだろうか。いやそれだってこの場に、いやそもそも学校に連れて来る必要など、
「母です」
捲し立てたくなるのを堪えて言葉を選んでいると、思考を叩っ切るようにまどかちゃんが何でもない事の様に問題発言をしてくる。
「……何が?」
「こちらが。母です」
「…………私、鹿目さんのお母さんとは昔からのお友達なのだけれど」
「まま、いえ母から聞いています。なので連れてきました」
「……その子供を?」
「母です」
頭がおかしくなりそうだった。或いは既におかしくなっているのだろうか。それともおかしいのはこの娘だろうか。困ったように微笑みながら、しかしそれでも全く平静としては母ですと繰り返すまどかちゃんの目つきは、少なくとも正気であるように思われた。というよりそう信じたかった。教え子がトチ狂った時の対処法なんて和子マニュアルにはない。
頭を抱える私に、まどかちゃんは退屈そうな子供の頭を撫でてやりながら、暇を持て余した白痴の神々がダイスロールで適当に組んだシナリオのような説明をしてくれた。
「母が急に子供になってしまいまして」
「待っ……いえ、続けて」
「今朝起きたらこんなに小っちゃくなってまして。お仕事は有給がたくさん残ってたのでなんとかなったんですけど、ぱぱ、じゃなくて父がオジサン呼ばわりされてショックで寝込んじゃって、私一人でおうちのことも、たっくんのお世話もしないとでもう大変なんです」
両親が旅行で出掛けちゃって自炊しないといけないんです、などと言った軽い調子でなかなか頭がおかしくなりそうな事を言ってくる。
「詢子ちゃんのお世話も見たいんですけど私一人じゃ手が回らないし、パパが現実逃避から帰ってこれないので、出来れば余所で誰かいないかなと思って、そしたら先生がママの友達だってこと思い出して、連れてきちゃいました」
きちゃいました、じゃない。
可愛らしくはあるが、同時に憎たらしくもある。
「ほら、詢子ちゃん、和子お姉ちゃんですよー」
「んー、カズコぉー」
舌足らずに呼んでくる声に現実逃避しかけた脳が思わずほっこりしていると、流石は詢子の娘、まどかちゃんは油断ならない。気付けば膝の上に預けられ、子供体温とふにゃふにゃした小さい身体をどう支えたものかとあたふたしている内に席を立たれた。
「母も困ったら先生に頼るように言ってましたし、お願いしますね」
ぱたんと戸の閉じられる音を聞きながら、私は膝の上のぬくもりにげんなりと顔をうずめた。やられた。置いて行かれた。あの与太話を信じる信じないは別として、子供を独り押し付けられた。流石に今から追いかけて無理だ駄目だ返すと言っても後の祭りだし、この子供も悲しい思いをすることだろう。くそう。ああ見えて詢子の娘か。鹿目家が今日の三者面談最後の組で良かった。いやそれすらも計算の内か。ああ、頭が痛い。お腹も痛い。内申書には腹が立つほどしっかりしたお子さんですと書いてやろう。
しかし、とにかく、何はともあれ。
「……えっと。よろしく、詢子ちゃん」
「あーい」
直視し難い現実を受け入れるコツは、すべて受け入れる事でもすべて拒むことでもない。半分受け入れて半分目を逸らす事だ。私は面倒な事を全て放り投げて、小さくなった詢子を、親戚の子供でも預かったようなつもりで引き受けたのだった。
しかし、引き受けたはいいがちょっと考え無しが過ぎた。
早々と後始末を終えて、小さな詢子を連れて家に帰ってきたはいいが、何しろ私は独身の独り暮らしだ。出勤するときこそ生徒の目もあるし、お手本足らんとしてきちんとした身なりをしているが、家ではずぼらなものだ。自炊など暫くしていないし、冷蔵庫の中身はビールと何時の物か覚えていないおつまみのチーズが少しだけ。そしてお腹を空かせた子供と大人が一匹ずつ。
「……詢子ちゃん、お寿司好き?」
「おすし! すき!」
出前のチラシばかりは豊富だった。
こうなればもうやけくそだった。私はチラシの中で一等高い桶を注文し、ファンシーなキャラクターものの子供寿司を頼み、アイスも付けた。届いた寿司を受け取り、少し迷って、ビールを一缶手に取った。
私は詢子を膝に乗せて、片手でビールのプルタブを開けると、詢子に持たせたプラスチックのコップにジュースを注いでやった。くぴくぴと愛らしく喉を鳴らす様を見下ろしながら、今日はやけに苦く感じるビールを呷り、景気づけ。あとはもう自棄も自棄だ。詢子が欲しいという寿司を取っては口に運んでやり、時折ぷっくりした唇や桜貝を削って作ったような小さな歯に指先を捕えられては、玩具みたいな体を擽っては報いを与えた。口に含み切れずにぽろぽろと零せば甲斐甲斐しく拭いてやり、美味しいからと小さな手で差し出された寿司は恭しく頂戴した。
詢子は余所の家だというのに実に図々しいもので子供らしく子供らしさを発揮し、終いには私をママ呼ばわりまでしはじめた。あんたみたいにでかい子持った覚えはないと言いたいところだったが、なにしろもう一回り大きな子供の面倒を毎日見ている身分だ。それに週末ともなればバーで34歳のでかい子供の愚痴に付き合うのが恒例となればもうママでいい気がしてきた。
気づけばビールの空き缶は増え、酔いきれぬまま現実逃避だけは成し遂げて、私は賑やかな夕食を終えて、片付けもそこそこに二人して倒れ込むようにベッドに横になった。
そんな有様だったから、カーテンから差し込む払暁の光に目をさまし、空っぽのベッドを這い出て綺麗に片付いたリビングを発見した時は、あれは夢だったのだろうかと不思議な気分だった。
熱いシャワーを浴びて、化粧をし、身なりを整えて家を出ると、玄関先に寿司桶が回収を待つように鎮座していた。一番お高い桶だった。
昨夜のビールによってもたらされた軽い頭痛を引きずるように駐車場に向かうと、朝日に照らされた真紅のロードスターがやんちゃ止めしていた。真っ赤なコブラなどと言う目に痛い代物を乗り回せるのは、人類最強を除けば見滝原では一人しか心当たりがなかった。
「おはよ」
「……おはよう」
「なに。二日酔い?」
「コンビニ寄って」
「仰せのままに」
環境と頭痛に悪い排気をかまして、鹿目詢子のコブラは滑らかに走り出した。
早朝の風煌めく見滝原の景色にまじる違和感に、眼鏡を外して日に翳すと、小さな指紋がべったりついている。クロスファイバーの眼鏡ふきを取り出して磨きながら、私は欠伸交じりに呟いた。
「ねえ詢子」
「なにさ和子」
「お寿司美味しかった?」
「コーンの軍艦って意外と美味いのな」
「あとで請求するからね詢子ちゃん」
「マジかよママ」
ロードスターは軽やかに、ファビュラスな夢の続きを駆け抜けた。