DIGIMON STORY デジモンに成った人間の物語   作:紅卵 由己

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 更新が遅すぎる(定番になってはいけない事実)。
 そんなわけで、今年初となるデジストの更新でございます。
 第二章もクライマックスに突入しているので更新はもっと早めないと……去年の内に終わらせたいと思っていたのにこの始末とか笑えないわー!!


七月十四日――『祈りよ、冷たき現実を照らせ』

 横方向に渦を巻いた水流が、電気を帯びて風船のように爆ぜる。

 大量の水が壁や床を叩く、雨にも似た音が屋内に響き渡る中、赤い竜人――司弩蒼矢は立っていた。

 彼が背後へと振り向くと、その視線の先には敵対者たる黒い礼服を身に包んだ『組織』の男が、意識を失い仰向けに倒れていた。

 その有様は、赤い竜人と炎の魔人の戦いの勝敗を明確に示していた。

 

「…………」

 

 雨音が途切れ、行使した技の影響で水浸しとなった屋内には静寂が訪れていた。

 敵対者である魔人が意識を失い、元々の姿であった人間の姿に戻るとほぼ同時に、彼の能力で辺りに満ちていた副産物たる冷え固まった鉄は最初から存在しなかったかのように消えていた。

 溶鉄を口から吐き出していた魔人が元に戻ったことによる影響だろうか。

 この分だと、竜人が元に戻った場合も同じように足元を浸している雨水が消えたりもするかもしれない。

 ……その事実自体も、あるいは重大な謎に関わる話なのかもしれないが、今の司弩蒼矢にとってはどうでもいい事だった。

 彼は魔人を倒しこそしたが、その姿を元の人間の姿に戻そうとはしない。

 まだ、この竜人の姿でやらねばならない事があるからだ。

 

(あの二人の安全を確保するまで、安心なんて出来ない。まずはどこに向かって逃げてくれているのか、調べて動かないと……)

『アテはあるのか?』

 

 蒼矢の呟きは思考という形でしかなかったのだが、応じる声が脳裏より在った。

 彼に宿っている(らしい)、リヴァイアモンと名乗る怪物の声だ。

 蒼矢はその声に対して、頭の中で自らの言葉を紡ぎながらも行動する。

 

(この男が本当に何らかの『組織』の一員として動いていたのなら、仲間と連絡を取るために電話ぐらいは持っているはずだ。まずはそれを……)

 

 蒼矢は目の前の、自らの技を受けて倒れ付す男の衣類に目をやると、それなりに高価に見える黒い礼服と同じく黒一食で薄そうな生地のズボン――そのポケットに右手を突っ込んでいく。

 その手が何か固いものに触れ、目当ての物が見つかったと判断した蒼矢は竜人の手でうっかり壊してしまわぬように『それ』をポケットから慎重に取り出す。

 取り出したものは、高校生として周りの人間達が手にしているのを見た事がある、割とありふれた型のスマートフォン。

 その画面を見て、空いた左手で触れると、蒼矢の表情が曇った。

 反応が無かったらしい。

 

(……壊れてる。無理も無いか……)

『正直機械に詳しくは無いんだが、あんだけの攻撃をぶっ放しておいてこんな薄っぺらい板みたいな物が何事も無いってのは考えにくいな』

 

 試しに電源キーを長く押し続けてみるが、電源が点く気配は無い。

 蒼矢自身予想していない可能性ではなかったが、魔人と化していた男が所持しているスマートフォンは既に壊れていた。

 戦闘の過程で魔人の体ごと水没させてしまったからか、魔人に向かって電気を用いた攻撃を直撃させたからか、あるいはそもそもずぶ濡れの手で触れてしまったからか――様々な可能性は考えられるが、恐らく濃厚なのは二番目の可能性だろう。

 近頃のスマートフォンは防水機能が付与されている機種が多く、むしろその機能を有さない機種を探す方が難しい。

 一方で、防電機能を備えたスマートフォン――及び機械など避雷器ぐらいしか聞き覚え自体が無い。

 そもそも常識の話として、10億ボルトの電圧を誇る自然の雷が電線に命中すると、充電中の携帯電話を含めたコンセントを繋いで機能させる家電製品が壊れてしまう可能性があるとさえ言われている。

 竜人自身、魔人を撃破するために全力で鎧の発電機能を行使していた。

 自然の雷と同じく10億ボルトとまでは言わなくとも、家電の許容量を超えた電圧・電流を有していた可能性は十分に考えられるだろう。

 他に手がかりとなりえる道具が無いかと辺りを見回すが、現時点で水浸し、少し前には一度溶鉱に一掃された建物内に『何か』が原型を留めて残されているとはそもそも考え難く、仮に『何か』が在ったとしてもそれが二人の少女の足取りに繋がるものである可能性は低い。

 むしろ、此処で微かな可能性を導き出そうとするよりは、外に出て実際に探しに向かった方が二人の少女の危機に『間に合う』可能性は高くなるだろう――そう考え、蒼矢は気絶した男を放置してひとまず建物の外に出る事にした。

 建物を出てすぐに、思わず内心で当然の疑問を呟いた。

 

(……何処だ、ここ……)

『少なくともお前が知ってる場所では無いだろうな』

 

 目の前に見えるのは、先ほどまで自分が連れ込まれていたものとは異なる建物がいくつも並んだ街並み。

 どの建物にも、焦げ痕か何かのように黒い色がちらほら見えている。

 足元に広がるのは、ひび割れすら所々に見える荒れたアスファルトの地面。

 率直に言って、都会――それも島国の首都の景色としては、昔に大規模な災害があってその跡地なのだと説明されても納得出来るほどに荒廃した有様だった。

 実際に起きたことが火災か地震かは知らないが、少なくとも真っ当に学生として生活していく上では立ち寄る必要すら無い場所に立っている事だけは蒼矢にも理解が出来た。

 ふと、自らが連れ込まれていた建物の方へと振り返ってみる。

 看板は見当たらなかった。外壁には他の建物と同じく黒い染みのような汚れが所々に見えていた。漂う臭気に好ましさは感じ取れなかった。

 ただ主観として、あるいは自分が生まれるよりも以前に存在していたと思わしき、何処かの企業が経済目的に建てていたものだと蒼矢は思った。

 戦いの場となった一階の空間自体、元は巨大な観葉植物か何かでも設置するためか、床から天井まで信号機の電柱程度の高さを有した空間が設けられていたためだ。

 ……仮にそうだとすると、戦いの終盤に魔人が吐き出した溶鉄が建物を支える柱を溶かし尽くしていた場合、機転を利かせて溶鉄を冷やし固めていなければ、いずれ建物が丸ごと倒壊してしまう可能性もあったのだろう。

 そうなった場合、溶鉄を放った魔人の男はともかく蒼矢は脱出する事が出来ず、崩落に飲み込まれていたかもしれない。

 

(……くそっ、どっちに向かったんだ……?)

 

 道標となるものが無い以上、どの方向へ進むかは直感で選ぶしか無い。

 だが、仮に兎の耳を生やしたあの少女が波音を担いで逃げた方とは違う方へと向かってしまった場合、少女達が魔人の属するらしい『組織』の者の手によって()()()になってしまう可能性は飛躍的に上がってしまう。

 少なくともあの少女は、自分の耳と足で『組織』が蒼矢を拉致した建物の場所を探り当てた以上、人気のある場所への逃げ道は理解しているはずだが、それでも人を担いだ状態ではあまり速く走る事は出来ないだろう。

 少女達が建物の外へと出たタイミングと、追跡者が建物の外へ少女達を追い出したタイミングも多少離れてこそいるが、逃げ切れるだけの十分な時間があったとは言い切れない。

 急がねばならない状況にありながらも、同時に間違えてはならないという事実が蒼矢の心に不安と焦りを募らせる。

 だが、それによって生じた躊躇は五秒にも満たなかった。

 

(……迷っていられる時間は無い)

 

 意識を研ぎ澄ますと同時、体の各部に存在する甲殻の鎧から――厳密にはその内部に組み込まれた発電装置から、蒼白い電光が迸る。

 それは速やかに全身内部に行き渡り、心拍を跳ね上げ五感を醒まし、全身の筋肉を強制的に伸縮させる事で運動機能を向上させる。

 まるで電気を纏ったかのような姿になった蒼矢は即断する。

 

(不足は文字通り足で補うしか無い。諦める理由に運なんて言葉を使ってたまるか……!!)

 

 駄目元で方向を決め、一息に駆け出そうとする。

 その、一歩目を踏み出す直前の事だった。

 

 ――突如として、右腕と右脚を除いた全身に鋭い痛みが生じた。

 

「――ッ!!?」

 

 まるで筋肉痛を何倍も悪化させたかのような、あるいは筋繊維の一本一本に針で穴を開けたかのような鋭い痛みに、思わずバランスを崩して右膝からくず折れる蒼矢。

 全身に纏っていた電気の勢いが衰え、口元から苦悶の声が漏れ出す。

 頭の中からリヴァイアモンの声が響く。

 

『……言わんこっちゃ無い。考えてみれば当然の事だぞ、痛いのは』

 

 その声もまた、少しだけ痛みに震えているようだった。

 肉体的にも精神的にも『共に在る』今、蒼矢が感じている痛みをリヴァイアモンもまた感じているのかもしれない。

 最初からこうなる事を理解していたかのような言い分に、蒼矢は思考で言葉を紡ぐ。

 

(……甲殻の中に仕込まれている装置によって電気の力を使えるって事を教えてくれたのは、リヴァイアモンじゃないか)

『それにしたって電気を自分自身の体に流しだすとかマジで正気を疑ったわけだが。ついでに頭にしか無かったはずの甲殻が鎧として体の色んなとこにくっ付いてるってのも、その全部に発電のための装置が仕込まれている事についても予想外だったわけだが。……何より、何で俺より先にお前がその事実に気付いてんの?』

(気合を入れたら勝手にああなってこうなっただけ。一から十まで解ってたわけじゃない)

 

 言葉を返しながらも蒼矢は膝を曲げた右脚を起点に立ち上がろうとするが、まるで麻痺でもしているかのように力が入らず、気付けば右脚だけでなく右腕もまた力が入りにくくなっていた。

 

 元々生身であった部位に対しての激痛、そして機械仕掛けと化していた部位の、痙攣にも似た感覚麻痺――原因はわざわざ問うまでも無い。

 

『いーしーえむ……だったか? それの理屈は知らんのだが、要は電気で無理やり動かしているわけだろ? 体を。ロクに加減もせずに敵殺せそうなぐらい全力全開の電気なんて流したら壊して当然だ。そりゃまぁ、多少の耐性は備わってるつもりだけどよ……』

(……こうでもしない限り、アイツを倒す事さえ出来なかったのも事実だろ)

『そこは認めざるも得ないが、もうちょい加減は出来なかったのかって話だ。最後の一撃の時に出してた電気の量だって、明らかに過剰だったしな。それで動く事も出来なくなったらそれこそ本末転倒だろうが』

 

 苦い表情を浮かべたまま立ち上がるが、体の内側から伝わる痛みは一向に途切れず、右脚と右腕の感覚は鈍いままだ。

 痛みは過度極まる筋肉の強制伸縮によって生じた筋肉痛と、炎と鎖を操る魔人との戦いによって受けたダメージによるものだと推測出来る一方で、右脚と右腕の感覚麻痺については不確定要素が多く、確証を持てるような回答を蒼矢には導き出せない。

 今の形に変わる前が人間の血肉ではなく機械仕掛けの擬肢であった事を考えると、莫大な電流に負荷が掛かり、人工の神経に障害が生じてしまっているのかもしれないが、そもそも変化する『前』の体の状態が何処まで変化した『後』の体に影響を及ぼすのかが解らないのだ。

 どちらの問題も、時間と金さえあれば解決出来なくも無い話ではあるのだろう。

 だが、今は痛みに悶えて立ち止まっていられるほどの時間も無ければ、動かしづらくなった義肢を修理するための金も場所も目に見える範囲には無い。

 少女達に迫る危機へ追い付くためには、全ての要因を飲み込んだ上で走るしか無い。

 痛みも不具合も承知の上で、改めて体に蒼色の電気を帯びさせる。

 

「……ぐうっ……!!」

 

 理解して尚、口から苦悶の声が漏れる。

 歯を食い縛って痛み耐えながら、路地を駆け出していく。

 だが、苦痛に耐える努力も空しく、駆ける速度は中々上がってくれない。

 不安と恐怖が、胸の内にただ募っていく。

 

(……くそっ、こうしている間にもあの子達が危険な目に遭ってるかもしれないのに……!!)

『気持ちは解ってるつもりだが、落ち着け。気合だけ先走って、先に体が壊れたら俺でもどうにも出来ないぞ』

 

 頭の奥から聞こえる怪物の声は、蒼矢とは対照的に焦りの色を感じさせないものだった。

 走ろうと奮闘しながらも、怪物の冷や水でも浴びせ掛けるような口ぶりに、蒼矢は苛立ちを覚えた。

 心の声で、思い浮かぶままの言葉を投げ掛ける。

 

(……どうして、そんなに冷静でいられるんだ)

『焦ってどうにかなる話じゃないからに決まってんだろ』

 

 真剣な声で、怪物はそう返していた。

 その言葉には、若干の苛立ちが込められているように思えた。

 

『本当に失敗したくないのなら、こういう時こそ冷静にならなきゃならない。今のお前のそれは全力とは言わねぇよ。ただの力任せだ』

(……けど、もっと速く走らないと、間に合わないかもしれない……)

『その前に辿り着けないだろ、そのままだと。疲れは気合でどうにか出来ても、体は気合だけで治せないってのは俺でも解る話だぞ。そりゃ一時的には馬鹿みたいな速さで動けるだろうが、それ以上は途中で体の方が駄目になるのがオチだ』

 

 そんな事は、言われるまでも無く解っているつもりだった。

 だが、怪物からの声でその事実を改めて認識して、ふと蒼矢は疑問を覚えた。

 もしかすると気付かぬ内に、自分は都合の良い方向に自らの行いを正当化しようとしていたのではないだろうか、と。

 例え自分の体が、与えて貰った機械仕掛けの手足が壊れてしまっても、それを許容さえすれば少女たちを救える可能性を見い出せるのなら構わない――と。

 実際はそこまで辿り着く事さえ出来ない可能性の方が高いというのに、そんな自己犠牲を前提とした理想論を前提に行動しようとしていた――その事実を、認識する。

 確実性を求めようとしているようで、自ら確実性を放棄しているようなものだと。

 心を落ち着かせ、体内に廻らせていた電気の力を弱めていきながら、彼は素直に怪物の知恵を頼る事にした。

 

(……だったら、どうすれば良い? ここは水場じゃないんだ。さっきやったように『海水』に変えた水を操作して擬似的に『海流』を作る、なんて芸当は出来ないと思うけど。その上で速く移動するための方法に心当たりは?)

『それなんだが、その電気の使い方と同じで、完全にお前のイメージに頼る形になるぞ』

(構わない。アイデアさえあれば、後はこっちで形にしてみせる)

 

 頭の中で意思を伝えると、怪物は真剣な声色でこう告げた。

 

『……確か、陸地だと氷ってのは「滑る」ものなんだよな?』

 

 

 ◆ ◆ ◆ ◆

 

 

 数分前、その身を兎と人間を混ぜ合わせた(それでいてバニーガールのそれとは異なる拳法着にも似た黄色い服に身を包んだ)獣人の姿に変えた縁芽好夢は、自分よりも年上と思わしき――彼女は知らないが磯月波音と言う名の少女の体を両腕で抱えながら走っていた。

 未知の力で身体能力を強化されているおかげか、その足取りは人間一人を抱えている割りには速い方だが、一方でその長い耳は確かに背後から迫る追跡者と思わしき存在の足音や息遣いを聞き取っている――距離を離すことに至っていない事は明白だった。

 逃げ始めた時点からひたすら勘を頼りに道は角に曲がったり、追跡者の目から逃れようと意識しているものの、芳しい結果には結びついていないようだ。

 

(……このままだと、追い付かれる)

 

 特撮番組にでも出演してそうな外見のイカの怪人、江戸時代の侍を思わせる風貌の鳥人、両腕に鎖を巻き全身を青く燃え上がらせた炎の魔人、片腕が『蛇』と化し脚が『尾』と化した青緑色の半漁人――そしてそれが『進化』したと思わしき、稲妻の剣を携え甲殻の鎧と赤い鱗に覆われた竜人。

 これまで見てきた、誰も彼もが何処かに『人間』の要素を含んだ姿をした異形は、外見の違いと同じくその身体能力にも明確な差異があった。

 こうして追い付いて来ている以上、恐らくは今の自分と同じ類の力を用いて異形と化しているであろう追跡者の足の速さは、最低でも少女を抱えて走っている自分を上回るものなのだろう――と好夢は走りながら確信する。

 実際問題、逃げる前に交戦した炎の魔人の力は明らかに自分が使っているそれより上で、その仲間であろう追跡者が宿す力もまた今の自分を上回っている可能性が高い。

 致命傷と言えるほどではないが、先の戦闘でダメージを受けている今、無防備な少女を守りながら追跡者と直接戦闘して勝てる確率は低いだろう。

 せめて何処か、身を隠せる場所があれば好ましいのだが……。

 

(……とは言っても、この辺りにどういう建物があるかなんてわからない。下手すると袋小路に迷い込む可能性だってある……)

 

 であれば、やはり人混みの賑わう表通りの方へと走り抜ける以外に逃げ切る方法は無い。

 これまで通ってきた道を辿るわけではないが、幸いにもどの方角に向かえば表通りに出られるかどうかはある程度予測が出来る。

 後は、うっかり行き止まりに向かってしまわない事を祈りつつ、走り続けるのみ。

 ……なのだが。

 

(……あーくそっ、あのファイヤー魔人(マン)の攻撃……思ったより体にキテるわね……骨は折れてないはずだけど、滅茶苦茶痛むし……)

 

 文字通り体を焼くような痛みに表情を歪ませる好夢。

 炎の魔人の攻撃を受けた部位は決して軽くは無い火傷を負っており、確実に好夢の走りを阻害していた。

 気持ちとしては痛みを堪えて全力で走っているつもりでも、実際問題背後から聞こえてくる重みのある足音は確実に近付いて来ている。

 そして、

 

「――デストロイ

「――――っ!!」

 ――キャノンッ!!」

 

 好夢が、その長い耳で不穏な単語を聞き取り、殆ど反射的に裏路地の一本道――その右の壁際に向かって動いた直後の事だった。

 彼女のすぐ隣――数瞬前まで好夢が立っていた場所を、何か得体の知れない黒いエネルギーのようなものが通り抜けて、

 

 ドギュゴッッッ!! という、爆竹や風船が破裂するそれとは異なる現実離れした爆音と共に、眼前に見えるアスファルトの路面の一部が砕け散った。

 

 心音が高鳴る。

 背筋に嫌でも冷たいものが走る。

 もう、すぐ背後に追跡者は来ている事を理解する。

 

 それでも、振り返る事はしない。

 砕け散った路面の上をそのまま駆け抜けていく。

 その行動に苛立ちでも募らせたのか、背後から男の声が強く響く。

 

「逃げんなウサギ女ァ!! 人のツラ殴り倒しておきながらお返しが無いとか思ってんじゃねぇぞ!!」

(――だぁうっさい!! っていうか追って来てたの、やっぱりあたしが一発でダウンさせた奴かよ!!)

 

 ドスドスドスドス!! と。

 背後から追い迫る怪物の、不必要なほどに重い足音には明らかに負の念が乗っていた。

 捕まった後の末路など考えたくも無かったが、こうもリアルに恨みを買った事実を目の当たりにしてしまうと、直接的に殺される事もそうだが、官能小説染みた展開も覚悟しなくてはならないのかもしれない――と、好夢は真剣に恐怖を覚え始めた。

 

(――あー、こういう妄想があっさり浮かぶのって、絶対苦朗にぃから没収したエロ本の中身を少し『確認』しちゃった影響なのかなぁ……あーもー割と自業自得っぽいのがムカつくっていうか何ていうか……!! ちょっと真面目に妄想の元凶っぽい苦朗にぃの事ブン殴りたい……!!)

 

 理不尽だと多少思いながらも、この場にはいない義兄に対して恨みの念を放つ好夢。

 しかし今は不穏な未来図に不安を覚えていられる余裕など無い。

 日陰しか無い裏路地を駆け抜け、日向の広がる錆びれた路道に出る。

 左右に視界を泳がせ、遠くの音を聞き取ろうと意識を一瞬でも研ぎ澄まそうとする。

 一つの結論を出す。

 

 ――これ以上は逃げ切れない。

 

(……仕方無い、か)

「――あん?」

 

 開けた路道で立ち止まる。

 突然の行動に疑問を浮かべたのだろうか――追跡者の足音が止まる。

 好夢は抱えていた少女の体を地べたにゆっくりと下ろす。

 振り返り、初めて追跡者の姿を視界に捉える。

 

 その姿を一言で説明するならば――黒毛の熊の人形。

 間接部に縫い糸が見え、内部には綿でも詰まっているのか少し膨らんで見えて、人型と言うには丸みを帯びた輪郭。

 腹は裂けており、その奥には底の知れない闇と覗き込む怪しげな光が見えていて、太い四肢の先端には灰色熊のそれを想わせる爪が人間の指と同じく五本存在している。

 そして、よく見てみると背中越しに赤色のマントが取り付けられていた。

 生物のようにも見えて、人形のようにも見える――生物として扱うべきか、無機物として扱うべきか、境界線がとても曖昧な身体。

 これまで見てきたもの全てとは異なる異形の姿がそこにあった。

 作り物にしか見えない両目を細めつつ、人間の身長など軽く超える体躯をした黒いテディベアは言葉を発する。

 

「諦めたのか、それとも立ち塞がってるつもりか。まぁ何にせよ一旦ボコるのは確定だがよ」

「勘違いしないで。諦めたりなんかしない」

 

 真っ向から言葉を返しつつ、好夢はすぐ背後で横になっている庇護対象の事を考える。

 

(……あんな蹴りを貰ったんだ。多分、何処かしらの内臓がヤバい事になってる……)

 

 冗談抜きに、命の危機だという事は素人目でも理解が出来た。

 一部始終を目の当たりにしていた好夢から見て、腹の辺りを蹴られていたように見えた事から、辛うじて心臓や肺に折れた場合刺さる危険のある肋骨は折られていないだろうと思う――思いたい。

 だが、それでも内臓に伝わっているダメージは甚大なものだろう。

 早急に病院まで搬送しなければならないが、手持ちの電話で連絡を取っていられるほどの余裕は無いし、そもそもイカの怪人や侍の鳥人と遭遇した時も急にデジタル表記な腕時計の調子が悪くなっていた事を考えると、携帯電話もマトモに使えるかどうか怪しまれる。

 

(……まずはこいつを倒す。どんな手を使ってでも。それ以外に道は無い!!)

「何だ、不意討ちもせず勝てるつもりなのか? そんな細腕で」

「……その細腕の一撃でダウンしてたヤツが言う台詞だとは思えないんだけど」

「そこはまぁ、言い返せねえが」

 

 力不足は理解している。

 難題である事など承知の上。

 それでも、誰かが立ち向かわなければこの危機は乗り入れない。

 黒い熊の人形が嗤う。

 身体を染める色が示すように、悪意が言葉として表れる。

 

「もう不意討ちが通るようなチャンスは与えねえ。そんな生意気な口が利けなくなるよう、しっかり痛めつけてやるよ」 

 

 後ろには一歩も引けない。

 攻撃だって一つも通させてはならない。

 故に少女は、意を決して真正面から熊人形の化け物に突撃する。

 

「はあああああああああああああっ!!」

 

 渾身の力を込めて駆け出し跳び、熊人形の顔面――より正確に言えば鼻にあたる部位に向かって足を放つ。

 防御も回避もされず、好夢の蹴りは確かに熊人形の顔面に突き刺さり、その威力でもって熊人形の体を少し後方へと圧し返した。

 マトモな人間であれば、下手をすると顔どころか首の骨が折れかねない一撃。

 だが、

 

「……その程度か?」

「――っ!!」

 

 人外の膂力でもって放たれた蹴りを受けた熊人形には、全くと言ってもいい程に堪えた様子が無かった。

 足を突き出した姿勢から空中で回転し、危なげなく両脚で着地をした好夢にとって、その反応は疑問を浮かばせるに十分なもの。

 蹴りを放った好夢自身からしても、放った足に伝わる感触は違和感を覚えるものだった。

 まるでそれは、布団かサンドバックでも殴っているかのような――確実に威力は伝わっているはずなのに、その全てが何事も無く吸収されているような、いっそ空しささえ覚える感触。

 事実としてダメージらしいダメージを与えられてはおらず、当の熊人形は痒そうに左手の熊の爪で蹴りを受けた鼻の辺りを擦るだけだった。

 

「まだだっ!!」

 

 好夢は走ると言うよりは跳ねるような形で駆け出し、熊人形の懐に潜り込んでいく。

 その速さは、磯月波音の体を抱えていた時と比べても二倍以上――常人の走行速度を軽く凌駕していた。

 勢いのまま、今度は地に足を着けて右の拳を腹部に向かってアッパーカットの形で放つ。

 ぼすっ、という音だけがあった。

 音は蹴りを放った時と同じく空しく、そして――

 

(――こいつの体、柔らかいくせに重い……!! 何よ、ガワの内側には鉛でも入ってんの……!?)

「おいおい、この程度じゃ話にならねぇぞ」

 

 言葉と共に無造作に振るわれる凶器の右手を、後ろに跳ぶ事で辛うじて避ける好夢。

 逃走中の一本道で放って来た飛び道具――それに用いていた力を掌か爪にでも込めていたのか、先ほどまで好夢の立っていたアスファルトの路道はあっさりと砕け散っていた。

 マトモに受けていれば、とても五体無事に済んでいたとは思えない有様だ。

 その威力もそうだが、拳で直に殴った時の感触でもって、改めて敵に宿っていると思わしき怪物の能力(スペック)を思い知らされる。

 

(……さっきの火炎男といい、相性が悪過ぎる……!! こんなの、燃やすか切り裂くかしない限り無理じゃない!!)

 

 熊人形の反応から見ても、単なる打撃が通用する身体ではないのかもしれない。

 仮にそうだとすれば、これまで目にしてきた怪物の力を振るう者たちとは異なり、四肢を用いた物理攻撃以外に攻撃の手段に心当たりの無い好夢には文字通り打つ手が無い。

 唯一の弱点と思わしきは裂けた腹部の奥に見える謎の『光る目』だが――それを視界に入れているだけで、得体の知れない恐怖が胸の内に湧き出てしまう。

 アレは、触れてはならないものだと。

 何故そう想ってしまったのか、好夢自身その理由は解らないが――実際に拒もうとする感情が止め処なく溢れてくるのだ。

 だが、だとすれば何処を狙えば良いというのか。

 答えを導き出す前に、熊人形が言葉を紡ぐ。

 

「さて、あまり時間を掛けられねぇんだ。手っ取り早く済まさせてもらおうか?」

「……何度も言わせないで。そう簡単に……」

「言い忘れてたんだがよ、痛めつけるってのは体もそうだが、()()()()()()()()()()

 

 意味の解らない言葉の直後だった。

 熊人形が右手の爪を、さながら拳銃のジェスチャーでも作るような調子で無造作に突き出すと、その先端に真っ黒な色をした何かが収束していく。

 それはやがて愛情や恋情を示すハートの形を成すが、形作られたハートには亀裂のようなものが生じている。

 最初、その謎の攻撃に対して警戒をしていた好夢は、よく見ると右手が自身ではなくその背後へ向けられている事を知り、目を見開いた。

 そう――熊人形の狙いは、好夢ではなく磯月波音――!!

 

「駄目ええええええええっ!!」

 

 熊人形の思惑は察していた。

 その黒いハートの形をした物体がどれほどの殺傷力を秘めているかは知らないが、それを使って好夢にとっては庇護対象である磯月波音を殺害出来ればそれで良し。

 仮に好夢がその狙いを阻もうと庇う選択をしたとしても、それはそれで邪魔者を排除出来る。

 どちらを選択したとしても、熊人形の思惑に沿う展開になる。

 そして、解っていても――それ以外の道を模索する時間など、無かった。

 好夢は咄嗟に熊人形の謎の攻撃の射線に飛び込んだ。

 申し訳程度に両腕を交差させ、防御の姿勢を取ろうとする

 そして、熊人形の口から言葉が紡がれた。

 

大失恋劇(ハートブレイクアタック)

 

 必殺技のような言霊の直後。

 亀裂の入った黒いハートが真っ直ぐに磯月波音へと向かい、それを遮らんとした好夢の体に直撃する。

 両腕を交差し作った防御が功を制したのか、黒く罅割れたハートは途端に砕け散った。

 謎の攻撃を受け止め、防ぎ切った。

 そう思った。

 だが、

 

「……っ、ぁ……」

 

 罅割れたハートを受け止めた好夢は、着地に失敗して尻餅をついていた。

 それだけならば空中でバランスを取る事に失敗した、だけで済ませられる話だったが――尻餅をついた好夢の身体は、小刻みに震えていた。

 今すぐにでも起き上がらなければならないというのに、腕にも足にも力が入っていない。

 何か、身体を動かすための柱とも呼べるものを折られたかのような様子だった。

 

「終わりだなぁ」

 

 熊人形が嘲るような口ぶりで喋る。

 神経を逆撫でる声を耳にしても、好夢は立ち上がれない。

 その瞳から光は失せ、漏れる言葉はどれもか細い。

 

(……何よ、この感じ……)

 

 身体はまだ動かせるはずなのに。

 背後で倒れている女性を助けたい、見捨てられないと思う気持ちは、間違い無く胸の内に在るはずなのに。

 抑え込んでいたはずの恐怖が――いや、それ以外にも現在の状況に対して自身が意識して抱く理由も無いはずの哀しさや寂しさなど――負の感情が、胸の内にあった闘志を丸ごと押し殺すほどに湧き出てしまっている。

 それは悔しさにも怒りにも変換出来ない。

 

(……怖いのは、解る。でも、何で哀しいの。何で寂しいの。心が、寒い。苦しい。やだ、こんなの……)

「イイ顔だ。こうして見ると中々可愛らしいじゃねぇか」

 

 気付けば、好夢の身体からノイズのようなものが生じていた。

 湧き出た恐怖によって削ぎ落とされつつあるのか、彼女の身体を変えていた力が徐々に薄れている。

 それを望んでいるわけでも無いはずなのに、ただの人間に戻ろうとしている。

 拒むように、好夢は口を開いた。

 

「……駄、目……まだ……闘わなくちゃ……ならないの……」

「あん? まだ完全には折れてないのか」

 

 どんな形でも良い。

 臆病で惰弱な自分自身に訴え続け、奮い立たせろ。

 マイナスの感情を抑え込むプラスの感情を、強引にでも再稼動させるために。

 だが、

 

「時間は掛けない方がいいんだが、まぁいいか――」

 

 再び熊人形の口元が悪意に笑みの形を作る。

 その両手の上にそれぞれ、黒く暗いエネルギーのようなものが収束していく。

 罅割れたハートの形を成し、浮遊する。

 直後に何がどうなるのか、予想は出来ても回避は出来ない。

 それだけのための力も、湧き出て来ない。

 

「倍プッシュだ。どこまで耐えられるか見物だな」

 

 黒く暗い力が、再び好夢の身体に当たり炸裂する。

 同時に、先に注入されたもの以上の負の感情が胸の内に更に注入される。

 許容量を超えた恐怖と哀しみと寂しさに、好夢の心と共に視界までもが黒く染まっていく。

 

「…………」

 

 言葉さえ出ない。

 耐え切れない感情の奔流に、思考も纏まらなくなる。

 熊人形の悪意ある言葉と、重みのある足音だけが、好夢の耳に嫌でも入ってくる。

 

「――ったく、部外者の分際で手間を取らせやがって。だがまぁ、思わぬ収穫って事にしておくかね」

 

 勝負は着いた、と言わんばかりの口ぶりだった。

 実際問題、今の好夢には最早熊人形と戦うだけの力は無い。

 情けなかった。無様だった。惨めだった。何の役にも立てなかった。

 その事実に沸き立ってくるはずの悔しさも、恐怖や哀しみに阻害されてぼやけてしまう。

 

(……あた、しは……)

 

 暗く冷たい心の激流に押し流される。

 五感の全てに嫌気が刺す。

 力が抜ける。

 

(……結局、あたしじゃ、駄目って事なのかな……)

 

 もう無理だ。

 これ以上、自分に出来る事は何も無い。

 体を熊人形の右手で掴み取られながら、流されるようにそう想っていた。

 人為的な圧迫感の中、嘲る声が再び耳を打つ。

 

「ご苦労さん。まぁ世の中そんな都合の良い救いなんて無いと諦めるんだな」

(――――)

 

 その言葉に、好夢の中で何かが揺さ振られた。

 ふつふつと、胸の内に何かが泡立っていく。

 

(――この世に、救いなんて、無い?)

 

 責められるだけなら構わない。

 自身の無力を嘲られるのはいい。

 が、その言葉だけは許せなかった。

 

「……ふざ、けんなっ……」

「あん?」

 

 胴体に密着した両腕に力を込める。

 当然、抵抗の意思がまだあると見なされ、体に加わる圧迫感は増した。

 作り物の指とは思えない力に握り潰されそうになりながら、それでも好夢は言葉を紡ぐ。

 

「……救いってのが、都合良く簡単に訪れるものじゃない事ぐらい知ってる……」

 

 骨肉を襲う痛みに歯を食い縛りながら。

 その瞳に光を宿し――だけど、と真っ向から睨み付ける。

 

「……救いはある。救われた事があるから解ってる!! 世の中の全ての人が救われる事が無いとしても、失われたものは絶対に戻らないとしても、それでも世の中の何処かには救いがあるんだって!!」

「現実ってやつを知らんガキだな。アニメの見すぎじゃねぇのか? 全ての悪党に対して本当に等しくヒーローがやってくるなんて、夢物語にも程がある」

「それでも、例え夢物語だとしても、実際にヒーローはやってきた!! あたしを頼りにしてくれたあの人は、必ずあの野朗に打ち勝つ。そして此処に救われないこの()()を救いに来る!! それこそ本当に、ご都合主義に溢れたアニメみたいに!!」

「――ぎゃあぎゃあ五月蝿いな。黙って凹んでろよ」

 

 鬱陶しいとでも言いたげな口ぶりの言葉と共に、手の平越しに黒い力が好夢の全身を包み、その心を蝕まんとする。

 三度目となる、冬の海の中に放り込まれるが如き冷たい感情の奔流。

 その渦中に三度流されそうになりながらも、好夢は怒りと共にこう思った。

 

(……こんな紛い物の苦しみなんかに、負けてたまるか……)

 

 与えられた紛い物ではなく、現実の苦しみの味を、少女は知っている。

 寂しさも哀しさも、それ等に対して抱く恐怖も――とっくの昔に。

 そして、その直後に与えられた現実の救いの味も、強く心に刻まれている。

 故に。

 

 都合の良い救いなんて有り得ない、なんて言葉を許すわけにはいかない。

 そんな言葉が罷り通ってしまうような、冷たい現実を認めるわけにはいかない。

 絶対に。

 

(……あたしに出来る事を、全力で……)

 

 心身共に抵抗する。

 華奢な身体を握り潰さんとする握力に。

 心を絶望で押し潰さんとする作り物の冷たい濁流に。

 無論、それだけで現実は変わらない。

 

 だから、自身の力不足を理解する少女は、苦しみに耐えながら祈り続けた。

 救いを、助けを、願いを、ただただ請いた。

 

 あるいは、今も尚炎の魔人と闘っているかもしれない赤き竜のヒーローに。

 あるいは、文明の発達と共に信仰こそ廃れど、何処かで人間達の営みを見守ってくれているかもしれない神様という存在に。

 あるいは、今の姿に成るための力を与えてくれたかもしれない、自分の中に宿る声も素性も知らない誰かに。

 

 早く護り手をバトンタッチしろ、と。

 心から救われない人に、どうか救いの手を与えてください、と。

 この冷たい現実を変えるための力を貸してくれ、と。

 

 声の無い訴えが何処に届いたのかは知らない。

 あるいは、それは弱い心が生んだ幻聴だったのかもしれない。

 それでも、救いを請う少女の脳裏に、一つの声が届いた。

 

 ――確かに、聞き届けたよ。

 

 気付いた時、少女の視界は真っ白に染まっていた。

 此処は何処だ、という疑問を解決する前に、眼前に見覚えの無い像が見えた。

 今の自分の姿の元になっていると思わしき兎の獣人とは、少し違う――だけど、何処か似ているような輪郭。

 

(……誰……?)

 

 当たり前の疑問があった。

 だが、それを解決するより前に、白い世界に佇むその存在に一つの動きがあった。

 自らの――人間のそれと比べるとあまりに大きな、あるいは翼のようにも見える右手を好夢に向かって差し出したのだ。

 握手を求めている――直感的にそう判断した好夢だったが、応じる前に変化は生じる。

 好夢の身体の内側に、何か暖かいものが満ちてきたのだ。

 それは心に巣食っていた紛い物の苦しみを瞬時に拭い去り、それだけには留まらず身体から失われた活力をある程度取り戻させていく。

 未知の力と、それによって与えられた癒し。

 誰がやったのかなど、わざわざ考えるまでも無かった。

 視線を、翼にも似た両手を有する存在へと向ける。

 表情も実態も解ったものではないが、不思議とその存在は悲しんでいるように見えた。

 

 ――()使()のクセに、この程度の助力しか出来なくて申し訳無いけど。

 

 男性のようにも、女性のようにも聞こえる声が響く。

 謝罪とも憤慨ともとれる声色に、決して少なくは無い優しさを見た気がした。

 

 ――それでも、与えられる限りの『光』は確かに託したよ。

 

 この、自身を『天使』と呼ぶ何者かが、自分に『変わる力』を与えた存在の正体なのだろうか。

 疑問は尽きず、聞きたい事は山ほどあれど、まるで夢から覚めるように『天使』の輪郭がぼやけてきた。

 

 ――強く、イメージして。輝くものを。それだけで、きっと使えるから。

 

 もう、話をするだけの時間も無いのだという事だけが解った。

 だから、ただ一言だけを好夢は伝えた。

 

 ――ありがとう。

 

 そうして少女の視界に現れた幻想は消える。

 視界は嫌になるほどの闇一色で、身体に加わる圧迫感が少女に現実を思い出させる。

 だが、その身体の内側には確かに力が(みなぎ)っていた。

 白い夢の中で『天使』に与えられた力は、決して幻想などでは無かったのだと、そう思った。

 故に、好夢は闇の中、一度だけ深呼吸をして、あるイメージを頭の中で固めていく。

 眼前の闇を払うほどに強く、そして暖かくて輝かしい『光』の力を。

 力を与えてくれた、あの『天使』の言葉に従って。

 言霊を、放つ。

 

「……輝いて……」

 

 直後の事だった。

 好夢の身体から、黄色く眩い閃光が爆発的に迸った。

 それは文字通り瞬く間に周囲を覆っていた闇を祓い、闇の向こう側で嘲る笑みを浮かべていた熊人形に届く。

 

「なッ、まぶ……!?」

 

 堪らずといった調子で、熊人形は右手で掴み取っていた好夢の身体を放していた。

 両脚で安全に着地をして、熊人形の拘束から開放された好夢は、空いた左の熊の手で自分の目元を覆う熊人形の懐に向かって即座に駆け出す。

 そして握り締めた右の拳を、輝きのイメージと共に裂けた腹の奥に見える『輝く目』に向かって突き出す。

 

「そこだああああっ!!」

「――ぎっ、がああああああああ!?」

 

 裂けた腹の奥が好夢の立ち位置からでは確認出来ないが、暗闇の奥に隠れた標的を捉えたらしい。

 ここに来て初めて、熊人形の口から明確な苦悶の声が漏れたのがその証拠。

 予想通り、熊人形の弱点はその裂けた腹の奥より見える『輝く目』であったらしい。

 そして、恐らくは『天使』が与えた輝く光によるものなのか、心を蝕んだ黒いエネルギーの源泉であるようにも見えていた得体の知れない暗闇に手を突っ込んでも、好夢の心は何の冷たさも感じず平常心を保てていた。

 

「て、めぇぇぇえええええええええ!!」

「っ!!」

 

 だが、一撃ではやはり足りなかったのか、熊人形は怒りの声と共に抵抗を見せた。

 鋭い爪を有した熊の両手を、至近距離にまで踏み込んだ好夢に向かって振り下ろしたのだ。

 巨腕でもって叩き潰すためか、あるいは凶爪によって引き裂くためか。

 どちらにせよ、好夢がとるべき行動は一つだけだった。

 即座に後方へと跳躍し、その勢いでもって裂けた腹に突っ込んでいた右腕を引き抜く。

 力加減などせずに跳躍してしまったため、好夢は磯月波音の体が前方に見える位置にまで後退してしまう。

 今、倒れている磯月波音に一番近い位置に立っているのは追跡者たる熊人形だ。

 余程先ほどの攻撃が堪えたのか、よろめきながら近付いて来る。

 

「よくもやりやがったな……一度ならず二度までも、痛手を負わせやがって……」

(ま……ずっ……!!)

 

 好夢はすぐさま前に駆け出そうとするが、その前に熊人形の右手が磯月波音の体を掴み取ってしまった。

 元々、追跡者の目的の優先順位としては部外者である好夢よりも磯月波音の方が高いはずだ。

 そして、この状況において、磯月波音の身柄は人質としての要素も孕む事になる。

 ただでさえ、体の中身がどうなっているのか定かではないのだ――少し握力を加えただけで、どうなるか解ったものではない。

 殺すも生きるも手の平の上に乗せられた以上、好夢はこれ以上抵抗する事が出来ない……!!

 

「だがテメェの抵抗もここまでだ。コイツを殺されたくなければ、大人しく……」

 

 だが、追跡者はこの瞬間失念していた。

 磯月波音を救おうと闘っているのは、好夢一人ではない事を。

 そして、好夢もまたこう発言していた。

 

 ――必ず打ち克つ。そして救いに来ると。

 

「うおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」

「――なッ!?」

 

 故に。

 これもまた、あるいは必然だった。

 咆哮の如き声と共に、赤い竜人が磯月波音の危機に辿り着く。

 背後から――右腕に装備された稲妻の形をした刃で熊人形の右肩を突き刺す形で。

 

「テメェ……!! まさか、アイツに勝ちやがったのか……!!」

「――当たり前だ。まだ僕達は諦めていないんだからな――頼む!!」

「りょーかい!!」

 

 好夢の応答を聞くと、すぐさま赤い竜人――司弩蒼矢は、容赦無く熊人形の右肩に見える人形の縫い痕らしき部分を稲妻の刃で力を込めて切り裂く。

 熊人形の右肩が半分ほど切れ、必然的に握力を失った右手から磯月波音の体が落ちる。

 その瞬間を逃さず、好夢は即座に駆け出し滑り込み、地面に当たる前に磯月波音の体を安全にその両腕で抱き留めた。

 即座に跳び退き、距離を取る。

 司弩蒼矢もまた着地をすると、すぐさま移動し好夢のすぐ横に並び立つ。

 よく見ると、その両脚はアイススケートで用いられるような靴――を模した形の白い氷で覆われていた。

 それだけで、少なくともどんな方法でここまでやってきたのかは簡単に想像出来た。

 

「……滑って来たの? アスファルトの上を?」

「今可能な範囲で、速さを得られる方法がこれしか無くて……遅くなってごめん」

「いいよ。少なくとも、まだ手遅れじゃなかったんだし」

 

 瞳と言葉を交わし、二人は共に視線を熊人形の方へと投げる。

 怒り心頭とでも言わんばかりの表情を浮かべる、追跡者の姿がそこにあった。

 

「クソったれが……好き勝手してくれやがって。そこまで痛い目を見ないと解らないってんなら、もう容赦はしねぇ。心身共に凹ませてやる……」

「随分負担をかけて申し訳無いけど、また走ってもらってもいいかな。コイツはこっちで食い止めるから」

 

 怒りの声を聞き流し、蒼矢は好夢に語りかける。

 その言葉を聞いて、好夢は即答した。

 

「すぐ戻るわよ」

「えっ」

 

 どうやら蒼矢からすれば意外な言葉だったようだが、好夢は気にせず間の抜けた声を漏らす蒼矢に対してこう言葉を返した。

 

「こっちもこっちで、アンタが来るまでボコられててね。お返しがたったの一発じゃ気に食わない。この人を少し離れた場所に寝かせてから、すぐ助けに来る」

「いや、でも君……大丈夫なのか?」

「少なくとも、目に見えて火傷だらけのアンタに言われたくはないわよ……っと!!」

 

 蒼矢の返答も待たず、迫り来る熊人形から退く形で好夢は飛ぶように駆け出す。

 裏路地を再度進み、一分も経たない距離に放棄されたものと思わしきコンビニを見つけると、好夢はガラスの割れた入り口からその内部に侵入し、本来は店員が立つレジの奥の方へと磯月波音の身柄を隠した。

 これで足取りを追われていない限り、この場所に追跡者はやってこないだろう。

 すぐさま踵を返し、司弩蒼矢の救援に向かわなければならないが、その前に好夢は意識も無く床に横になった磯月波音の手を掴み、念じた。

 きっと、声は届かないだろうけれど。

 白い世界の中で『天使』が自身に対してやったのと同じように、磯月波音の体に少しでも活力を与えるために。

 瞼を閉じて、黒に染まる視界に輝きを強く想起し、言霊と共に祈る。

 

「……どうか、助かって……」

 

 本当は意味なんて無かったのかもしれない。

 祈りなんて、願望なんて、現実を変えてくれはしないのかもしれない。

 それでも、事実として起きた奇跡を好夢は信じぬくと決めた。

 偶然と奇跡が生んだ新しい力を、それを与えてくれた存在の優しさを、決して否定はしないと。

 

「…………」

 

 瞼を開き、未だ幸福の訪れない女性から手を放す。

 踵を返し、救われぬ者を背にして、少女は戦場へ駆け出していく。

 悲劇では終わらせない――それだけを決意し、自らに言葉を投げ掛けながら。

 

「ここからが本番よ、縁芽好夢」

 




 ……そんなわけで最新話ですが、いかがだったでしょうか?
 
 今回は前回の話の途中、建物の中から磯月波音を抱えて逃走した縁芽好夢をメインに添えた話となりました。
 ぶっちゃけ、炎の魔人に全く歯が立って無かった時点で、今回の事件における縁芽好夢の役割ってかませ犬なの? って思った読者もいたかと思います。前回の話で助けるべき少女(好夢からすれば年上)を抱えて逃げた時も、あるいは釈然としない人もいたかもしれません。
 しかし、今回の話で彼女がどれだけ重要な役を担っていたのかを理解してもらえたと思います。今回の事件の事情もよく知らない部外者であり、更には力不足で足手纏いになりかねなかった彼女の役割……本編を読んだ方なら察してくれるかと。

 正直今回の話、2話に割った方が良いんでは? とも思ったのですが……何処で切ろうかな? 自称天使が登場する辺りか? でもそこで切ると正直後半の話が短くならねぇ? ってなってしまい、1話で済ませる事にしました。こんな無駄に長くしまくるからNEXTとかに投稿した話も企画に期限間に合わなかったりするんだよ己よ。

 前回の戦闘においても色々やっていた司弩蒼矢の能力もまだまだ可能性を見い出せるかなー? と少し模索してます。今回チラ見せした『氷の靴』のイメージは、某王国心の氷系鍵剣の第二変形だったり。アレ大好きです。

 随分と更新の期間が開いてしまいましたが、クライマックスに向けてどんどん更新していきたいです。いやマジで。ホントに。流石に長く続き過ぎてますし。そろそろデジタルワールド側の話も書きたいですわマジで。

 それでは、相も変わらず感想やら質問やらはいつでもお待ちしております。
 次回もお楽しみに。

 PS ハートブレイクされた辺りで暗黒進化ルートに入ると思ってた人は手を挙げてー。

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