「ふう……」
用足しを終えて、提督は廊下の窓辺でひと息吐く。
張り詰めていた神経が緩んだ途端、この日まで蓄積していた疲労がドッと押し寄せてきた。
(思い切って『日替わり秘書艦』を始めてはみたのはいいが……まさかここまで苦労する羽目になるとは)
初日の皐月はまことに模範的だったらしい。その後の秘書艦はとにかく目も当てられない。
個性的な艦娘たちに細かな作業を教えるのは、それなりに骨が折れるだろうと覚悟はしていたが、よもやここまでマトモに秘書艦をこなしてくれる者がいないとは。
絶対の信頼を置いていた加賀でさえ、いきなり膝に座ってくるような突拍子も無いことをしてくる始末だ。
……もっとも、加賀は以前から意図の読めない行動を仕掛けてくることが多々あったわけだが。
さり気なく近づいてはキュッと服の袖を掴んだり、好物のアイスを無言で提督の口元に差し向けたり、仮眠から目覚めると至近距離で見つめられていた等、いろいろ心臓に悪いことをしてくる。
古参兵である加賀とはこれまでずっと苦境を乗り越えてきた仲だ。
お互い不器用なりに支え合い、ときには励まし合って、栄光の勝利を掴んできた実績がある。
少なくとも気心知れた関係だと思っている。
それでも今回のことを含め、たまに彼女の考えを理解できないことがある。
なにせ感情が表に出ないため、彼女が内心で何を思ってあのようなことしてくるのか、判断しにくいのだ。
ただでさえ、こちらは感情の機微を計ることが苦手な身。
できればもっと言葉にして伝えて欲しいのだが……それとも単に乙女心への理解が不足しているだけなのだろうか。鈴谷にもよく鈍感と言われるし。
しかし提督とて、あれだけ露骨な行為をされれば普通に甘酸っぱいイメージを膨らます。
ついつい都合のいい期待をし、胸を弾ませてしまうことだって避けられない。
それが加賀ほどのスタイル抜群の美女ともなれば尚更だ。
……が、憲兵所属の妖精さん的には、加賀ですらアウトの範疇らしい。
加賀さんほどの大人びた女性ならさすがにセーフなんじゃね? と思っていた提督だったが、どこまでも奴は容赦がなかった(そもそも彼女の目的は艦娘の身を守ることなので例外はまずないわけだが)。
加賀の豊満なヒップを直に──それも最も危険なポジションで──受け止め、
──敢えて言おう。暴発寸前だったと。
よくぞ耐えてくれた。と己の精神力に誇らしさを感じつつも、先行きのことを考えると瞬く間にブルーな気分になってしまう提督。
はたして平常心で仕事を教えられるような無害な艦娘が、後どれだけいることだろうか。
こうなってくると、やはり浜風は秘書艦として優秀だったと実感する。
特定の艦娘を贔屓にするのは、あまり良くないとは思うが、いまとなっては浜風のあの付かず離れずの絶妙な距離感が恋しくなる。
憲兵妖精の監視に怯える意味では浜風も要警戒の対象ではあったが、他の艦娘と比べて過剰にスキンシップを取ってこない分、まだまだ良心的であった。
かと言って、また浜風ばかりに秘書艦を押し付けるようでは本末転倒だ。
今回のことは浜風の慰労も含めているのだから。
さて、加賀以上に感情の読めないかの駆逐艦は、久方ぶりの自由時間を満喫しているだろうか。
こんなときぐらい肩ひじを張らず親しい仲間たちと有意義に過ごして欲しいものだが。
普段の働きぶりを慮ってそう労いの気持ちをいだいていると、目先の窓にポツポツといくつもの滴が張り付いていることに気づいた。
「雨か」
今朝から薄暗い曇天雲だとは思っていたが、瞬く間に本降りの悪天候となった。
さすがの時雨も「いい雨だね」とは言わないだろう、そんな滝のような豪雨である。
自然の風景とは、ときに印象深い思い出を呼び起こす。
(そういえば浜風が着任した日も、こんな雨だったな)
あのときのことは、よく覚えている。
着任したての艦娘の中には、軍艦の姿から人の身を得たことで、戸惑う者が何人かいる。
中には過去のトラウマから錯乱する娘も珍しくはない。
そのたびに提督は彼女たちの心を落ち着かせるべく、あの手この手を尽くして彼女たちに歩み寄ろうと努めるのだ。
艦娘は人類にとって希望の存在。彼女たちが戦場に立たなければ、人類に生存の道はない。
そんな彼女たちのメンタルケアは、すべての提督が背負うべき義務である。
……しかし浜風との出会いは、さすがの提督も「どう接するべきか……」と戸惑いを起こさせるものだった。
『駆逐艦、浜風です。これより貴艦隊所属となります』
着任当初の浜風は、いま以上に情緒が欠けていた。
目に光はなく、口にする言葉もどこか機械的で、一切の感情も伺えなかった。
命令には忠実だが、そこには自己らしきものはなく、ただ与えられた指示に従うロボットのようだった。
提督の目には、それがひどく悲しく映った。
浜風本人がそれで良しとするならば、余計なことを口出しするつもりはなかった。
艦娘の中には、人間の身勝手な価値観を押し付けるほうが、却って悪影響を及ぼす場合もある。
実際、提督が浜風に対していだく憐れみは、個人的感傷も過ぎる押しつけがましいものだったに違いない。
……しかし、そうだとしても、他の艦娘たちが感情豊かに第二の人生を楽しげに過ごしている姿を見てしまうと、浜風にも同じように生きて欲しいと考えてしまうのだった。
理解できなくとも構わない。だが、せめて戦い以外の生き方も知って欲しいと。
暇さえあれば、提督は浜風を街に連れ出した。
鈴谷のアドバイスに従って、女子が喜ぶであろう洋服店やアクセサリー店に足を運んだが……浜風はほとんど無反応だった。唯一関心らしきものを示したのは、洋菓子ぐらいだった。
その後も何かとお節介を焼いたが、そのほとんどが徒労に終わることとなった。
やはり、浜風に人間らしい生き方は不要なのかと、一瞬でも思った。
しかし、浦風たちが着任すると、それが間違いだったことが分かった。
親しい仲間と再会を果たした浜風は、徐々に人間らしい反応を見せてくれるようになった。
結局、提督が何かをするまでも、なかったのだろう。
仲間内だけではあるが、微笑を浮かべたり、ムキになったり、ふざけ合っている浜風の姿を見て、心底ほっとしたものである。
……いまだに提督である自分に心を許してくれていないのは、残念ではあるが。
「ん?」
窓の外に奇妙な人影が横切ったことで、回想に耽っていた意識を現在に引き戻す。
見間違いか。
こんな雨の中を傘も差さず全力疾走している艦娘がいる。
「あれは……浜風?」
ちょうど考え事の対象だった当人が通りがかるとは、妙な偶然もあるものだ。
遠目からだとハッキリしないが、銀髪のボブヘアーに十七駆のセーラー服から見て、きっと浜風だろう。
なにより、あの小柄な体型でありながら走るたびに盛大に揺れる巨大な膨らみから見て、やはり浜風……
どこ見て判断しとんじゃワレェ、と憲兵妖精さんに睨まれる。
毎度お勤めご苦労様ですと提督は恭しく頭を下げた。
さて、お約束はともかくとして……
「浜風の奴、いったいどうしたんだ?」
気のせいか、泣いているように見えた。
あのクールな浜風がだ。
それも幼児のように「びえええん!」と。
──────
びえええん!
もう頭の中グチャグチャですよ~!
提督に甘えたい。
ただそれだけなのに、何故ここまで事態が複雑になってしまったのか!
自分でも、もう何がしたいのか、わけがわかりません。
わからないので、とりあえず走っています。
雨が降ってきましたが、知ったこっちゃねーです。熱した頭を冷ますには、ちょうどいいぐらいです。
「うぅ……ぐすっ」
惨めです。
少し勇気を出して、素直になれば、それだけで簡単に願いは叶うのに。
そんな度胸も自分にはないのです。
こんな情けない私なんて、雨でずぶ濡れになるのがお似合いです!
……でも少し、
「きゃうん!」
しかも転んだ。おでこ痛い。
胸がクッション代わりにならなければ即死でした。
「ひぐっ……うぐぅ」
ケガをしたわけじゃないのに、立ち上がれない。
カラダではなく、他のところが痛いあまりに。
「提督……ぐすっ。提督ぅ」
まるで親鳥を求める雛鳥のように泣きだしてしまう。
……いえ、生まれが特殊な私たち艦娘にとって、提督は父親のような存在と言っても過言ではないでしょう。
人間の娘が親に甘えるように、私が提督に甘えたいと思うのは、そう考えると自然なことなのかもしれません。
でも、いつからだろう。
こんなにも、あの人の温もりを求めるようになったのは。
濡れた顔を上げる。
ちょうど雨水が溜まってできた水面に、私の泣き顔が映っている。
いつからだろう。
私にも、こんな顔ができるようになったのは。
感情というものを知らなかった、私が。
着任したばかりの頃の私は、感情のない人形も同然でした。
戦うことしか知らない、生きた兵器。
そんな私に感情を教えてくれたのが提督でした。
彼はたびたび私を気にかけて、声をかけてくださいました。
でも、命令以外のことを言われても私は困惑するだけでした。
街に連れて行ってもらって、お洋服や装飾を勧められたりしても、どう反応すればいいのかわかりませんでした。
そんな私に、提督は言いました。
『理解できなくてもいい。……ただ、俺たちはこの人々の暮らしを守るために戦っている。それだけは、胸に留めておいてくれないか?』
心のない人形は、そう言われ街を見回しました。
深海棲艦に生存を脅かされている。そんな恐ろしい現実が嘘のように、街は人々の笑顔で満ち溢れていました。
それは、戦場しか知らなかった私にとって、未知の光景でした。
だけど……
かつての自分も、この平和を守るために戦っていた筈なのです。
でも、いつのまにか、勝つこと、相手を倒すことしか頭になくて。
そもそもの目的が、いつのまにか抜け落ちていたのです。
一番、大切なこと。
一番、したかったこと。
一番、忘れてはならなかったこと。
それからかも、しれません。
人間の心を、もっと深く理解したいと思ったのは。
人の身だからこそ、理解できることがもっとあるのではないかと、そう考えるようになったのです。
だからこそ。
『浜風、久しぶりじゃね。ふふ♪ ええね。こうやって、口と口でお話しできるの』
浦風と再会したとき、微笑みを浮かべることができた。
『よぉ浜風~! なんだいなんだい、艦娘になっても無愛想な感じだね~。ん? ははは、そんなむくれんなよ~。まっ、とにかく! また、よろしくな!』
谷風のからかいにも、カッとなって反応を返せた。
『浜風、またお前と共に戦えること、嬉しく思うぞ。……ん? おいおい、泣く奴があるか。ふっ、まったく、相変わらず泣き虫な妹め』
磯風の胸の中で、泣くことができた。
感情を知れたからこそ、掛け替えのない仲間たちと一緒に、和気藹々と日常を楽しめるようになった。
あの街の人々のように。
……いえ、きっと私は、怖くて感情を封じ込めていただけだったのでしょう。
もし感情をいだいてしまったら、きっと否応なしに昔のことを思い出してしまうから。
辛くて、悲しい過去を。
守りたいものがあった。
沈めたくない人たちがいた。
失いたくない仲間がいた。
一人きりになることが、嫌だった。
あんな思いは、もう二度としたくない。だから心を閉ざしたのです。
でも、提督が教えてくれました。
彼は知っていたのです。
何も感じられなくなる。そのほうが、ずっと辛いということを。
感情があって始めて、幸せを感じることができるのだと。
いまなら、それが理解できます。
心を持てたこと。感動を知れたこと。それを私は嬉しく思っています。
でも……まだ、わからないこともあります。
どうしても、扱いきれない感情があるのです。
喜びとか、怒りとか、悲しみとも違う。いろんなものが、ごちゃ混ぜになったような。
その感情は、提督を見るたびに膨れ上がります。
ケガをしていないのに、胸が熱くなって、苦しくなって、切なくなる。
今日まで何度も何度も味わってきた痛み。
これは、いったい何?
わからない。
だから、提督のお傍にいれば、それがわかるかもしれないと思いました。
他の駆逐艦みたいに、彼に甘えてみれば、この感情の正体がわかるかもしれないと。
なのに……いまは、この気持ちをいだいていることが、とても辛い。
「提督……」
教えてください、提督。
この気持ちは何なんですか?
私は、いったいどうすればいいのですか?
まるで私の意思とは無関係に、成長を続ける謎の感情。
それは、もう抑えきれないほどに膨れ上がっている。
「はぁ、はぁ……」
胸が締め付けられてしまいそう。
こんな感情、いったいどう制御すればいいのか。その術もわからない。
怖い。
自分の感情なのに、とても怖い。
一人じゃ抱えきれない。
「提督、助けて……」
助けを求めたところで、当然届く筈がない。
寂しい。冷たい。
まるで、あの暗い海の底にいるようだ。
いっそ、捨ててしまおうか。
こんなにも辛いなら、心なんて捨てて、また感情のない人形に戻ってしまおうか。
そうすれば、もうこんな惨めな思いなんて、しなくて済む。
だから……
「浜風!」
え?
雨に濡れたカラダを、抱き起こされる。
一度、頭を撫でてもらった、大きな手で。
ずっと求めている、暖かなその手で。
抱き起された視線の先に、私の会いたい人がいた。
「提、督……」
「何をやってるんだ! こんな雨の中で!」
バカな真似をしている私をそう叱咤してから、彼はすぐに心配げな顔を作る。
「どこかケガしたのか? 痛いところとか、ないか?」
痛いところ。
はい、ありました。さっきまでは。
あんなに痛かったのに……でも。
いまは嘘のように引いている。
それどころか……とても、暖かく、心地がいい。
「いろいろ聞きたいことあるけど、とにかく中に入ろう。そのままじゃ風邪をひいて……ぶっ!? と、とりあえず歩けるよな?」
「はい……」
夢見心地で頷く。なぜか目を逸らす提督の手に曳かれて立ち上がる。
掌に満ちる、確かな温もり。
それを感じているだけで、私の心は呆気ないほどに、安らぎを取り戻した。
ああ、提督です。
本当に、久しぶりに見られた提督の顔。久しぶりに聞けた提督の声。
それを直に感じられるだけで、浜風はもう、もう……
もう絶好調です~~♪
ふにゃあああああ♪ 提督とお手々つないじゃいました~♪
嬉しいよぉおお!
というかさっきは抱き起されちゃいました~! はわわわわ~♪ 恥ずかしいです~! でも嬉しいぃぃい!
ああ、それにしても久しぶりのためか提督の顔がいつも以上に凛々しく見えます♪
というか提督! もっと浜風のこと見てくださいよ! 何でお目々逸らしちゃうんですか~?
あ、でも一緒にいられるだけでも浜風は幸せです♪ うふふふ~♪
我ながら本当にほんっと~に現金だとは思いますが……浜風は
えへへ♪ 提督のお手々あたたか~い♪
──────
様子のおかしい浜風から聞き出したいことは、いろいろとある。
だがその前に、提督はあるひとつの試練を乗り越えなければならなかった。
浜風は現在、びしょ濡れである。
身に着けているのは、ただでさえ透けやすい白色のセーラー服。
即ち、あの凶悪な胸部装甲がスケスケなのだ。
しかも……
(浜風……なぜブラをしていないいいいいい!)
艦娘の中には「胸が締め付けられるからヤダ」という理由でいまだにブラジャーを付けない者がいる。
案件が案件なので、羞恥心も合わさって強く言うのは控えてきたのだが……やはりしっかりとブラの着用は義務付けるべきだったようだ
一瞬チラっと見てしまった、ふたつの桃色の突起物。
健全な男児ならば、しばらくはアレのネタに困らないぜと舞い上がるほどに素晴らしい光景だったが……この提督はそれを即座に記憶から抹消せねばならない。
肩に乗っかかった憲兵妖精さんが「相手は駆逐艦やで? わかっとるな?」と警告を発しているからだ。
決して後ろを振り向いてはならない!
鋼の理性で込み上がるオスの本能と戦いながら、提督は険しい顔で浜風の手を曳くのであった。
落ち着いて話を聞くのは、まず浜風を風呂に行かせてからになりそうだ。
本能「次回で浜風ちゃんの入浴シーンねっちり書いたろ!(ゲス顔)」
理性「そんなことに時間を割くぐらいなら、さっさと本筋を進めるべきではないかね?(賢者顔)」
現在こんな具合に葛藤中。