◆
『うーんアウラだけじゃ寂しいし、やっぱ弟キャラも欲しいかな』
元来双子とは一つの胎盤に同時に宿った二つの命のことを指す。
その定義に則れば、アウラという姉の後追いで生み出されたマーレは双子ではないし、そもそも母胎から産み落とされたわけでもないから血縁を分けているかも不確かだろう。
突き詰めて言えばアウラとマーレの関係は、あくまでも似た容姿で形成された一対のダークエルフでしかないと言える。
だがしかし、結局のところ誰が何と言おうとも、マーレ・ベロ・フィオーレはアウラ・ベラ・フィオーラの弟である。
気弱で、物怖じがちで、無垢な女児のように振舞いながら、姉には従順な弟。
それこそが創造主ぶくぶく茶釜に定義されたマーレという人物だ。
それ以外の何物であることもマーレは決して望まない。
『いいじゃん! こーゆー弟欲しかったんだよねぇ! あーかわいい!』
御望みとあらば如何様にでもと、心の底から強く思う。
未来永劫いつまでだって、御心に沿う己でありますように。
あるいはもしも、御身が己に何も望むものがなくなったなら、それでもせめて、御心に沿う己でありますように。
幸せなんて望まない。
幸せになるために生きているわけじゃないから。
だからマーレはマタタビに向けて反撃する。
アインズ様の愛を無碍にする。
それが一番《s》誰にとっても正しいこと《s》だ。
マーレは固く硬く杖を握った、左手に握る強い違和感を忘れたままに。
◆◇◆
この世で最も強いのは迷わず行動する人物だ。
アインズ様の強さには狡猾さや残虐さへの躊躇いがないことに起因しているし、逆にカタログスペック最強のツアーすら葛藤と苦悩が足を引っ張りマタタビ相手に後れを取ることもある。
こうしてマタタビがナザリック地下大墳墓へ王手をかけられたのも、マタタビの中の強いモチベーションが功を奏した上で、さらにNPCの皆様方が急激な事態に戸惑ってしまったという2点が重なったおかげなのだ。
たかが精神論と馬鹿にできたものではない。
プレイヤーの願望が形になったこの世界で、意志の力を軽んじるのは机上論好きの愚か者だ。
そしてだからこそ、彼は強い。
マーレ・ベロ・フィオーレはこの場の誰をも差し置いて、マタタビにとって最大の脅威だ。
「やってください」
宙に浮いたマーレさんは片手をかざし、とある二匹に向けて言い放つ。
『GRRRRR!『GAAAAR』!』
爆運を誇る やまいこ のレアガチャ竜。マーレさん唯一にして最大の手勢が、その巨体をもってして玉座のマタタビ目掛けて押し寄せた。
玉座の傷や仲間への余波を度外視した、巨体種自慢の質量攻撃。
当たればどのような存在もただではすまない、それだけの威力と意思が乗せられた巨獣による突進攻撃。
しかし、
「私だって本気なんですよ?」
瞬時、マタタビは玉座を足蹴に、自慢の脚力で高く高く天井近くまで飛び上がる。
もちろん竜たちもマタタビ向けてL字で急旋回しながら急上昇。
あわや現地勢どころか他NPCを巻き込むのをギリギリ回避してくれたことに気を緩める余裕もなく、マタタビは反撃の忍術を行使した。
「口寄せの術『
宙に両手をかざして、目いっぱいのMPを込めてながら召喚陣を大きく広げる。
波紋のように広がる召喚陣から、白金色に輝く巨大な竜、ツアー本体が顕現した。
「お願いツアー!」
「承知した」
白金に輝く巨大な竜は背にマタタビを乗せたまま、押し寄せる2体の竜と真っ向から大激突。
竜と竜の角と角、牙と牙が正面からぶつかり合い、周囲に特大の激突音が鳴り響いた。
いくらツアーがカンストレベルのドラゴンでも、相手だって90レベルのドラゴンが2体。ステータス上の計算で考えればツアーの方が大きく劣っている。
通常考えれば明らかに劣勢なのだが、マタタビは欠片も彼のことを心配なんてしていない。
「流石ですねぇ」
そしてマタタビの期待通りに、勢いをつけた2体の猛攻に対してツアーは難もなく受け止めて見せたのだ。
「こいつら体の扱いがなっちゃいない。図体だけのひよっ子だ」
彼我の実力は圧倒的な年輪の差によって広がっていた。
片や数百年以上生きている竜王種、片やつい数か月前に実体化しただけの生まれたて。
やはり課金などナンセンス、本当に必要なものは自分の手でつかみ取るに限る。
プレイヤーや同族相手にしのぎを削り生き残ってきたツアーを前に、初陣ドラゴンは相手が悪いにもほどがあるというものだ。
もっとも飼い主である初陣マーレさんは、初心さの欠片もない模様。
せっかくの やまいこ の贈呈物すら躊躇なく囮に使い潰して、本命の攻撃へと移行する。
「〈
レアガチャ竜2匹を囮にマーレさんが放つのは、お得意
荒れ狂わんばかりの暴風雨が、マーレが握る杖の先から放射状に迸る。
雨、とは言っても一粒一粒が鉄骨を貫通する威力のソレは、正しく弾幕と呼ぶにふさわしい殺意に満ちていた。
とはいえど、ツアーの体力であれば問題なくしのぎ切れるし、マタタビは範囲外まで跳躍して逃げればいい。
「味方諸共お構いなしですか!」
ただ問題なのはこのまま攻撃を通せばレアガチャ竜どころか、下にいるNPC皆様方まで巻き込みかねないこと。
「ツアー!!」
「ッ!」
マタタビの呼びに応じたツアーは、両手で2匹の竜を抑えながら器用に巨翼を盛大にはためかせ、盛大な突風を生み出した。
「〈火遁・烈火砲〉!」
さらにマタタビが放った十位階魔法相当の火遁忍術が合わさって爆炎の渦が巻き起こり、マーレの放った暴風雨と対衝突。盛大に水蒸気をまき散らしながら相殺していき、上空は雲の中のように白煙で覆いつくされた。
味方を巻き込んだ攻撃が有効であると実感し、ゆえに躊躇いもなく追撃の範囲魔法を放とうとするマーレ。
ただし彼は自分の背後が、濃霧によって大きな影になっていることに気づいていない。
「〈
「〈影渡り〉」
影と影をつなぐ短距離転移の忍術が、マーレの死角にマタタビの凶刃を送り届ける。
振るうのはギルド武器から放たれる神速の一閃。狙うは首や心臓……ではなくて、彼の
ただしいくらマタタビの腕が早かろうとも、空間転移で生じる一瞬のラグは無くならない。
「ッ!!」
「やるね」
そして直接戦闘も可能とする
だから弐の太刀。すでに受け止められたギルド武器は即座に手放し、懐に忍ばせていた短刀を抜き出して振りぬいた。
杖の内側、マーレの懐に潜り込んだ込んだ刀の軌道は、後ろずさる彼の首元を薄皮一枚だけ軽く掠める。
「うっ!」
ギリギリの回避、一瞬の攻防に感じた僅かな安堵をマタタビは決して見逃さない。
元より首なんて狙ってないから。
首元を通り過ぎた刃の軌道は弧を描いて、杖を握っていないマーレの左手を斬り飛ばした。
失くしてはならない、マーレの左手首を斬り飛ばした。
◆◇◆
マーレの手先を、鋭い鋼が切断する。
血を流すなんてことは、生まれて初めての経験だ。
今まで転んで擦りむいたことすらないのに、突然体の一部が消えてく感覚なんて、我がごとながら信じられない。
かなり痛い。痛いが、死闘の心構えを整えたマーレにとっては苦痛というほど辛くはない。ただ痛み以上の大きな何かがマーレの神経に流れ込んで、刹那のやり取りの中で妙な居心地を覚えてしまうのだ。
肌に感じる欠片ほどの殺意も感じられ無いマタタビの刃は、いっそ人肌のような温もりすらこもっている。
そしてマーレの瞳を射抜くような透き通った眼差しは、マーレの心の奥底をどこまでも深く見通しているようだった。
そう、彼女はマーレを理解しているのだ。誰にも理解されるわけの無いマーレの本性に共感し、だから彼女はマーレが打って出ることもわかっていた。
全てが彼女の手の平だ。
とてもとても、気持ち悪い。
「〈
悪寒を振り払うようにマーレは転移で距離を取り、天井に背をもたれかかって浮遊した。せめて背後だけは取られないようにと。
そうしてマーレが一呼吸入れると同時に轟音が響きわたる。
「AAAAA!?「GYAAARR!」」
「口ほどにもないね」
水蒸気が衝撃で晴れ渡ると、絶望的な光景が露になった。
マーレ手勢の二頭の竜が、両首を
そして既に首の骨を関節技でポッキリへし折られていたのだ。
魔法相殺による水蒸気爆発の直後、怯む2頭に間髪入れずに押し倒したのだろう。
レベル上ではほぼ遜色のないマーレの2頭が
そしてマタタビを相手にするマーレ自身も全く同じことが言える。
いくら
膨大な戦闘経験を有し、正確無比の体捌きで超速戦闘を得意とするマタタビは、マーレにすれば普通の前衛戦士よりもはるかに相手にしづらい難敵。
どころか姉のアウラがいったように、普通に戦えば絶対勝てない。
今だって、きっと彼女はすぐにでも距離を詰めなおしてマーレを切り裂きにかかるだろう。
だが、今の特殊状況による戦闘ならば、マーレにだって勝ち筋はある。
「……気づかないのねぇ!」
壁面を足場にして猛スピードで接近してくるマタタビ。
そんな彼女の呟きを頭に入れることすら放棄し、稼いだ距離でマーレは特大の魔法を下へと放った
「〈
杖の先から膨大な質量の土砂が三重の山になって、猛烈な勢いで玉座全体を押しつぶそうとなだれ落ちる。
全てを飲み込む質量攻撃。マタタビも、
マタタビは強いが、アサシンである彼女では守りながらの戦いは不得手だろう。
そしてマーレは、同胞のシモベ達が自分の範囲攻撃に碌な抵抗もしようとできないことを知っている。
なぜなら今の彼らは無力だから。
マーレのようにすべてを受け入れてなお創造主だけを優先することも、マタタビのようにアインズ様に尽くすこともできないでいる。
「どうしようもないじゃない!」と姉のアウラがとマタタビの暴挙を受け入れてしまったのと同じ。
マーレがマタタビを止めるために他のシモベを巻き添えにすることを、彼らは否定することができないのだ。
マーレは、心折られて動けなくなった他のシモベたちを責めるつもりは欠片も無かった。
今のマタタビに立ち向かえる自分の精神が異質であるのだということも理解していた。
ただただ黙ってマタタビを追い詰めるための道具になってくれるなら、マーレにとってこれ以上は求められなかった。
理解されなくたって構わない。
「自分を見ているようで気分が悪いですねぇ」
だがしかし、マーレの全てを見通しているマタタビと言う怪物は、度し難いほど気色悪かった。
「【
「え!?」
マタタビが抜き出した短杖にマーレは思わず声を漏らす。
黒く小さなソレは、アルベドが至高の御方から賜ったはずである世界級アイテム【
彼女が弧を描くようにソレを振るえば、土砂の山々を飲み込むような破壊の奔流が迸り、やがて土雪崩はチリ一つ残さず掻き消えてしまった。
対物質破壊属性の広範囲攻撃を可能とする【
なるほど、これを使ってナザリックの隔壁を突破したというわけだ。
手にした経緯を考えても仕方が無い。
ただ物質破壊属性というなら、有機物である植物系の広範囲魔法は防げないだろう。
短期決戦を好むマタタビ相手にMPの出し惜しみなどまるで無意味だ。
再び魔法強化を重ね掛けて範囲魔法を詠唱する。
「〈|魔法最強化三重詠唱効果範囲拡大《マキシマイズ・トリプレット・ワイデンマジック》
『GYYAAAA!!!!!』
「ううぅ!」
放とうとした直前に、眼下の
どうにか飛行操作で横にそれるも、マーレの魔法は発動を防がれてしまった。魔法強化をガン積みした魔法は詠唱が長いので妨害されやすいのだ。
そしてひときわ大きな隙を見せたマーレを前に、当然マタタビは次の手を討つ。
それはきっと、今のマーレには致命打に至る詰みの一手に違いない。
「【世界断絶障壁】」
マタタビの右手、不釣り合いな白金色のごつごつなガンドレッドが光り輝いた。
やがて淡い薄膜がマーレとマタタビだけをのみ込んで、球体状の障壁となり二人を一つに閉じ込めた。
王国の動乱で
◆
マーレとマタタビを閉じ込めた球体は、玉座の間の中に収める必要性があったので、王国の時のそれより非常に狭い。
直径わずか70メートルしかない球心体は、マーレの範囲魔法を回避できる余地がない。だがマタタビの最高速なら魔法より速くマーレの襟首へと到達できるだろう。
そしてマーレは、マタタビが魔法を防げる手札を持っていることを知っている。
ホワイトブリム様から与えられたという例の強力な防御衣装を身に着けた彼女なら、マーレの魔法も耐えられるだろう。
勝てる可能性はゼロではないが、しかし非常に分が悪い。
こうも見事に閉じ込められては他のシモベの皆を巻き込んで陽動することもできないし、当然逃げ場もどこにもない。
そしてこれまでの戦いの流れが全てマタタビの思惑通りであるならば、このまま戦うレールに乗っても勝てる気はしなかった。
ならばどうすれば、マタタビの想定を超えられるのだろう。
アインズ様がマタタビを超えたように、マーレに同じことができるのだろうか。
「………」
「………」
互いの間合いを読み合う、静の時間が両者に流れた。
その貴重な時間で目いっぱい、マーレは勝利の道筋を探る。
「降参しろとは言いません」
そして静を突き破ったのは、マタタビの親し気な言葉だった。
「マーレさんも並々ならぬ意志でこの場に立っているのでしょう。ただ少し、お話を聞いてもらえませんでしょうか」
交渉、コミュニケーション。
それは一見今のマーレに残された数少ない手立てだと言える。
力で完封した相手に残された、マーレ唯一の逆転法。
「うーん」
「あの?」
だがマーレは足元を見降ろして考える。
視線の先には自己矛盾で動けなくなった同胞のシモベ達と、そんな彼らに放置されているマタタビの手勢がいるだけだ。
彼らがああも無力になってしまったのは、何もマタタビがハチャメチャに強いからというワケではない。
忠義と使命で動いている自分たちは単なる武力で屈するような存在でないのだ。
マタタビの本領は、相手を理解しその行動を誘導する術にある。
アインズ様をナザリックから引き離したのも、脆弱なこの世界でここまで手勢を集めたのも、折れるはずの無かったシモベの心すら捻じ曲げたのも同じこと。
ならば当然、今のマーレ・ベロ・フィオーレを変える術すらマタタビは用意しているに違いないのだ。
「だったら、こうするのが一番ですね」
力では勝てない。言葉でもきっと勝てない。
ならこれが、最後に残された選択肢。
マーレはゆっくり両手を挙げて、頭の真横に掲げた。
そして、
「降参ですか?」
「違います」
両手の人差し指を両耳に突っ込んで、自分の鼓膜をぶち破る。
そしてそれを我が事かのように驚愕するマタタビの様子を見て、マーレは初めてこの戦いに確かな手応えを覚えた。
「■■■!!??」
彼女は叫ぶが、マーレは何も聞こえない。
これでもうマタタビの言葉がマーレを惑わすことは無い。防御魔法のようなものだ。
そしてマーレの言葉は一方的にマタタビへ届くのだ。
「動かないでください」
握った杖を逆手に持って、鋭く尖った反対側を自分の顎下に置いた。
このまま突き刺せば、マタタビの手が届くよりも早くマーレの命は潰えるだろう。
「僕が死ぬか、あなたが死ぬか。どちらか一つを選んでください」
マーレはマタタビに狂った二択を突きつける。
どちらを選んでも間違いなくマタタビが望む最善は得られない。
そんな手詰まりな2択である。
「■■■!! ■■■、■■■■■■!」
なぜならマタタビの推論が真実ならば、マーレが死んでも、マタタビが死んでも、きっとアインズ様は傷つくだろうから。
そしてどちらを選ぶにしても、マーレがマーレで無くなることは無いだろう。
マタタビの死で【魔神化】を阻止するか、【魔神化】の前にマーレは死ぬ。
だからどの道死ぬまでずっと、ぶくぶく茶釜様のマーレ・ベロ・フィオーレで居られるだろう。
「■■■■■■■■■■■■」
何を言っているのかわからないが、それが間違いなく抗議であるということはわかった。
わからなかったがわからないなりに、マーレは彼女に応じて答えた。
「僕はもういいんです。どうせあなたが死んでくれるとは思いませんし、ぶくぶく茶釜様の為に成れないぼくなんて、死んでいるのと同じですから。
もちろんあなたがこうする理由も、僕と同じでしょうけど」
マタタビの信念を否定するつもりはない。
アインズ様は確かに彼女が深く心酔するだけの、力と人格を兼ね備えたとても偉大な主人である。
それでもマーレは自分の優先順位を変えられなかった。それだけだ。
どうして自分がこうも頑固なのかはわからない。
マタタビの言うような【創造主への優先】というシステムによって生み出された感情だったとしても、別にそこはどうだって良かった。
ただただマーレは、成りたいように成るしかない。
愚直にどこまでも己を貫く。それがきっと、マーレの大事なモノ《s》たち《s》を守る唯一の術だと知っているから。
マタタビもきっと、同じなのではなかろうか。
「■■■■■■■■」
マーレが言いたいことを言い切ると、マタタビは目を細めて表情を硬く引き締めた。相変わらず彼女の言葉は聞こえない。
ただ納得して何かを覚悟したかのような、そんな雰囲気の変化をマーレはなんとなく感じる。
「■■■」
やがてマタタビは腰をかがめ、取り出した日本刀を片脇に構えた。
そして彼女を中心に濃密な殺意が渦巻いて、マーレ一人へと向けられる。
「僕を、殺すつもりですか?」
確証は持てなかった。
彼女は、マーレが自分の脳を杖で貫くより速く、マーレを切り伏せようとしているのだろうか。
いやそれができるのなら、そもそもマーレの自殺だって止められる。
なら彼女の目的は何か。
何かはわからないが、どのみちマーレが自分で死ねばその目的は果たせなくなるだろう。彼女の野望が一歩遠のくだろう。主の御心へ一歩近づくことだろう。
ならば、であれば、マーレは自害を躊躇わない。
マーレは下あごを貫くようにして、握った杖に力を込めて突き立てる。同時に、マタタビが駆け出す足音がした。
「さよなら」
マタタビは直前何かをマーレへ投げつけていたが、この瞬間は意識の外にあった。
◆
刹那、一瞬が永遠へと変貌した。
命の危機に瀕して、脳内処理が高速化するための現象だ。
体感時間あたりに網膜が受け取る光量が減ることで、視界が徐々に闇へと近づく。
薄暗くなる景色の中で、あのマタタビの駆け足がひどく緩慢なスローモーションとなっていているのがわかった。
もちろんマーレが自分の首を刺し貫く勢いも遅くなっているので、すぐさまマーレの死で結果がついたわけでもない。
ただ単純なペースの比較として、マタタビの足はマーレの命にギリギリ間に合わないということは明らかだった。
そんなこと、知るまでもなく当たり前な事実だ。
だというのにマーレの生存本能は、マーレの心に抗って懸命に体内時間を引き延ばす。
緩慢な時間の中で、存在しない生存への糸口を探そうとする。
自分の体ながらあまりにも余計なお世話だが、仕方ないのだ。
なにせ、マーレに斬りかかるマタタビの姿はこの上なく恐ろしい殺意に満ちていたから。
希死するマーレをして心底悍ましいと思うほどの脅威を感じてしまうから。
そのマタタビから迸る殺意とは、アインズ様の絶望のオーラのようなスキルとは全く違う。
ただ彼女の姿かたちが、剣を振りぬき駆け走る無駄のない一連の動きが、マーレを絶死に至らしめる殺害の意志をこの上なく表しているのだ。
まるで頭上に設置された断頭台の刃を見たような、それを何万倍にも濃縮したようなこの上ない殺意を、マタタビの一閃は何より鮮明に描いていた。
だから、どうしようもなく、仕方がない。
マタタビの刃がマーレの生存本能を刺激して、命じられたように生存する方法を探してしまう。
そしてそれこそが他ならぬマタタビの意図であったのだと、緩慢な時間の中でマーレは理解した。理解してしまった。
なぜならマーレは掴んでしまったからだ。掴んではならない生存への糸口を。
◆
体感で10秒程度。マーレはソレに気付いてしまった。
(あ……)
それは他ならぬマーレの手だ。
マタタビが斬り飛ばしたはずの、マーレの左手。
マタタビが駆けだす直前に、いつの間にか頭上に投げつけていた、マーレの体の一部分。
宙回転するマーレの左手には銀色に輝く指輪、リング・オブ・アインズ・ウール・ゴウンが嵌められていたのである。
今はとてつもなくどうでもいい《s》絶対に失くしてはいけなかった《s》、マーレの大事な宝物。
この地にただ一人残ってくださった至高の御方が、マーレの働きを労って与えたシモベ史上最初の褒章品なのだから。
しかもこの指輪は本来至高の方々しか所持を許されない至高の一品。
アインズ様がマーレに心底からの『感謝』抱いたというこの上ない証であり、これによってぶくぶく茶釜様の隠居以降、マーレという存在に初めて明確な価値と意義を与えるっことになった。
それも、デミウルゴスでもアルベドでもシャルティアでもコキュートスでも姉のアウラでも無くて、この世界に来てから誰より一番最初に頂いた、マーレだけの特別な宝物。
『今後もこれほどの宝に相応しい働きをお見せしたいと思います!』
◆
だから、マーレ・ベロ・フィオーレは間違えたのだ。
マーレがぶくぶく茶釜様だけを選んだなら、こんな見え透いた陽動に引っかかってはいけなかった。
淡々と無視するべきだった。
あるいはそもそも、アインズ様を切り捨てマタタビに歯向かうと決めた時点で、足元に棄て置くべきだった。
刹那の迷いが、顎を貫くはずだった杖の勢いを僅かに弱める。
やがて先端が下顎と舌を貫通するも、上顎にたどり着く寸前で、マタタビの足が間に合ってしまった。
「◆■■っ■」
横薙ぎな一閃が、首を突くマーレの杖を叩き落とす。
そして代わりに鋭い蹴りがマーレの顎を貫いて、その衝撃に意識が飛んだ
マーレは負けたのだ。
敗因と生因は、 大事なモノがブレてしまったことだろう。
創造主、ぶくぶく茶釜様の威光すらも陰らせる、アインズ様の慈悲深さ。
この時ばかりは疎ましく思ってしまうのだった。
◆◇◆
気が付いた時には両手足を枷にはめられ、ポーションによって左手も治癒されてしまっていた。元通りに指輪まではめられてしまっている。
白金の竜王による隔離結界は既に解除されていて、動けず座り込んでいたマーレの前でマタタビは腰を下ろしていた。
他のシモベも、誰も口出しできず場は静寂に支配されていた。
「マーレさんはアインズ様に負けだんです、私じゃなくて」
鼓膜も治癒されたことによって、聞きたくもなかったマタタビの言葉が否応なくマーレに響いた。
「あなたは僕の、何を知っているんですか?」
こうしてマタタビと会話するのは、マーレにとって初めてのことだ。
マーレはマタタビことを周辺情報しか知らないし、普通ならマタタビ側だって同じのはずだ。
なのに彼女は、マーレの心を知り尽くしたようにあらゆる行動を掌握してみせた。
正直酷く不気味である。
「お互い様、私からすれば不気味なのはマーレさんです。どうしてあなたがそんな割り切り良くアインズ様を切り捨てられたのか、私には一生理解できませんよ」
「そんなこと言われても」
マーレとて、どうしてマーレが他のシモベと違うのかはわからない。
そうあれと造られたのか、また別に理由があるのか。
それこそ ぶくぶく茶釜様ご本人にしか知りえないことだろう。
「ただマーレさんがアインズ様に恋してることは一目瞭然でした。
最初は原因はわからなくて、シャルティアさんやアルベドさんみたいに設定が絡んでいるわけじゃないし、かといって ぶくぶく茶釜の因子が影響していたなんてことは絶対にありえない」
「うえ……えっと、その?」
突然なマーレの恥ずかしいカミングアウトに赤面しつつ、理解できない理論を語るマタタビの言葉に首をかしげる。
「理由はアルベドさんが教えてくれました。アインズ様も罪な男です。
NPCの中で一番精神が不安定なマーレさんに、一番最初に感謝と褒賞のギルド指輪を授けるなんてね。そんなことされたらそりゃあ、シモベなら男女問わず惚れますよ。マーレさんにはパーフェクトコミュニケーションもいいところです」
私だったら拒否るけど、と余計な一言からマタタビは続ける。
「私はただ、アインズ様ならマーレさんの闇の心も照らしてくれると信じていただけですよ。結果的に、指輪を外さず私の前に立ち向かったところで大体の勝利は確信しました」
「いやでも……僕が生き残ったのってかなり紙一重でしたよね?」
自殺の瞬間僅かに意識がそがれることでギリギリ、マーレは死を免れた。
マタタビの足がどれだけ速くても、どれだけ剣術に秀でていようと、不確定要素が大きすぎるやり取りだったはずなのだ。
ここまで入念にナザリックに踏み込んだ彼女が、そんな運試しをしたというのか。
「ううんべつに。もしマーレさんに死なれても、生き返らせる算段はありましたから。
ほらあの、カルネ村のンフィーレア・バレアレって知ってるでしょ?」
マタタビは恐るべき舞台裏を語り始めた。
「あの人の、マジックアイテムの使用者条件を踏み倒すタレントがあるじゃないですか。
もしマーレさんが死んだならあの人を口寄せで召喚して、この場でギルドメンバーしか使えないスタッフ・オブ・アインズ・ウール・ゴウンの蘇生機能を使ってもらうつもりだったんですよ。
もちろん検証だってばっちりです。事前に八欲王の天空都市までツアーに顔パスしてもらって、あっちのギルド武器でも同じことができたって確認してからこの算段を立てたんですから。
もちろんポケットマネーが痛いから、死なれないに越したことありませんけでしたけど」
「あなたの手の平だったんですね」
姉アウラの言う通り、どこまでも勝算の無い戦いだったのである。
迂闊な博打撃ちなようでいて、抜け目ない計画性にマーレは溜息を吐いた。
「耳をふさがれた時は驚きましたよ。それだけ好きだったんですよね、ぶくぶく茶釜のことが」
「着易く呼び捨てるあなたが死んでほしいと思うくらい好きです」
「私はおどおどしない素のマーレさんのことも結構好きですけどね」
「…………」
気付けばすっかりマーレは
創造主にかくあれと定められた個性に反したことが悔やましい。マタタビが向けるマーレへの好感は、どこまでもマーレにとって皮肉だった。
「あはは」
マーレの嫌悪を意に介さないマタタビは、不快に笑い声を挙げた。
「安心してくださいよ。【魔神化】によって消えるのは、植え付けられた忠誠心だけですから。ユグドラシルでぶくぶく茶釜に大事にされた記憶はちゃんと残るし、アインズ様がそうであるように、間違いなくこれからのマーレさんの支えになる。本当にあのひとのことが大事なんでしょう?」
マタタビがどう言おうとも、今までのマーレが変わってしまうことは変わらない。
ぶくぶく茶釜様を一番にできない自分など自分ではない。
「それでも、決して悪いことにはなりませんよ。マーレさんが変わっても、アインズ様はあなたを愛し続けるでしょう。なぜならあなたはアインズ様にとって ぶくぶく茶釜との大事な思い出の証だから。
たとえ億が一に ぶくぶく茶釜が敵対しても、決してアインズ様はあの人の命を無碍に扱うことはしない。私がさせない。アインズ様に誓っていいよ」
現在進行形でアインズ様に反目し続けている彼女が、どの口でアインズ様に誓うというのか。
マーレはあきれてモノが言えないが、しかしその辺りが妥協点なのかもしれないと思った。
「……なら、いいです。僕が僕でなくなっても、アインズ様が ぶくぶく茶釜様を尊んでくださるなら。僕はアインズ様のモノになります」
案の定、マタタビの言葉はマーレを変えて、マーレの心をへし折った。
他のシモベ達がそうであるように、マーレにはマタタビの意志に抗う理由がなくなったのだ。
マーレ・ベロ・フィオーレは心の底からアインズ様に屈服した。
◆◇◆
止められる者はもうどこにも居なかった。
「私、信じてますから」
今度こそマタタビは、壊れかけのギルド武器を高く掲げて破壊する旨を宣言する。
反対の手で【
錆びついた黄金のスタッフは見る見るうちに罅割れて、間もなくあっけもなくポッキリ――
折れた
刹那、地響きにも似た不動の衝撃が、玉座の間一帯に響き渡る。
無音に凪いだ空間の中で、大事だったはずの者が取り返せない崩壊を迎える。
心の芯から、大事な何かが引っこ抜けるような、ひどく肌寒い虚脱感。
鳴き声、呻き声すら広がって、明らかに怪しい雲行きにマタタビの頬を汗が伝う。
だがやがて、皆の目に確かな一筋の光が宿った。
いっそその輝きは、幻影から解き放たれたことによってかつてないほど煌めいて燃え上がっているようでもあった。
マタタビの座す壇上に、一人の少女が声を挙げる。
アウラ・ベラ・フィオーレが、迷いなき強い声で問いかけた。
「アインズ様の敵はどこ?」
臆面もない笑みで、マタタビはその言葉を聞き入れる。
破壊しても破壊し尽くせぬギルド拠点。
屋台崩しマタタビは、ユグドラシルで得られなかった栄誉ある初敗北を喫し、満足そうに彼女の言葉に応えるのだった。
エレンやユミルの気持ちが分かったかもしれません。
言い訳は活動報告に載せています