ルプスレギナ・ベータには、誰にも言えない秘密がある。
セバス・チャンにも、プレアデスの姉妹たちにも、創造主である獣王メコン川様にも、最後の主人であるアインズ・ウール・ゴウン様にも。
その秘密を知っているのは、今やこの世界にただの二人しかいない。
一人は、ルプスレギナ・ベータ自身。そしてもう一人は、あの忌々しい女――マタタビ。
秘密の共有者などと呼ぶのもおこがましい。実際にはただ、マタタビに弱みを握られているだけの話だ。しかも本人はそれを「握っている」ことすら意識していないのかもしれない。
あの女らしいといえば、それまでである。
あの日、カルネ村で監視任務に就いて間もない頃のこと。
自分だけの仕事にあのマタタビが割り込んできた。そのことが気に食わず、心のどこかで居なくなってくれればいいのにと思いながら、ルプスレギナは彼女に冷たく当たった。
それは小さいながらも確かに敵意で、みみっちいほどにしょうもない悪意。
子供の悪戯のような、ただの感情のはけ口。だが結果的に、ルプスレギナのその程度の軽率さが、取り返しのつかない大問題へと繋がることになったのだ。
『すいません、ちょっと私お手洗いに行くのでついてこないで下さい』
露骨に眉間に皺を寄せ、しょぼくれた子供のように膨れた顔。
これはあからさまな嘘である。
彼女の表情は誰にもあからさまにわかるぐらいルプスレギナを拒絶していて、逃げようとしている。
『なにいってんすか?』
ルプスレギナは彼女がいなくなることをわかっていた。
マタタビは結局戻らず、その日のうちにカルネ村を出て行った。
ルプスレギナは、それを止めなかった。止めるべきだという発想すら浮かばなかった。
――仕事が独占できるので都合がいい
そう思ったのは、心のどこかで「どうせ大したことにはならない」と、高を括っていたからだろう。
実際、マタタビほどの戦力であれば、多少の遊撃行動はアインズ様の許容範囲内だった。
だが、そのとき村の周辺には思いがけない不確定要素が潜んでおり、そして――偶然というにはあまりに最悪なタイミングで、それが火を噴いた。
世界級アイテムを所持する集団との不運な接触。シャルティアとマタタビそれぞれの失態によって、マタタビは制御不能になり、アウラとシャルティアが瀕死の事態に陥り、主人であるアインズ・ウール・ゴウン様が自ら出張る事態となった。
結果だけを見れば、マタタビが動いたのが直接の引き金である。
しかし、マタタビがその地へ向かった背中を押したのは、間違いなくルプスレギナだった。
あのとき、素直に報告していれば良かったのだ。
彼女が村を離れたことを即座に伝えていれば、ナザリックは早期に対応できた。損害も、主の憂いも、少しは抑えられたかもしれない。
だが、ルプスレギナは何もしなかった。
否、正確には――催眠菓子という、マタタビの軽薄な罠に引っかかり、パラソルの下で日が沈むまでうたたを寝していた。
その情けなさを誰が咎めるだろう。誰が知っているというのか。
アインズ様はルプスレギナに対し、何一つとがめなかった。
むしろ、マタタビが勝手に動いたことを容認し、「やむなし」とさえ捉えていた。
それが、ルプスレギナには堪えた。
あたしが報告していれば――
あたしが、あの女にもう少しだけ優しくしていれば――
あたしが、間抜けな甘味罠にかからなければ――
どれか一つでも違っていたら、事態は変わっていたかもしれない。
そして、その経緯を、ルプスレギナは口にすることができない。
主の寛容を裏切るような真実を、自らの口で暴くことなどできるはずもない。
仮にそれを明かせば、アインズ様は『お前には失望したぞ!』と言ってくるかもしれない。
その一言が、今のルプスレギナには、最も恐ろしいものだった。
だから、彼女は黙っている。
いつも平然と、無邪気に笑い、悪戯を繰り返す仮面の奥で。
ルプスレギナ・ベータは、ひとつの罪を抱えたまま、誰にも知られぬ苦悩を抱き続けていた。
そして、その事実を知っているのは――
ルプスレギナ自身と、あの女だけ。
何も語らず、何も責めず、何も求めない、あの忌々しい女。
マタタビは、あれきり何も言わなかった。
あの日、自分がカルネ村を出て行ったことの理由を「退屈だから」と説明し、また、ルプスレギナの態度についても咎めなかった。ただ、どこまでも自分が悪かったという認識で、ごく自然な態度で再びナザリックに戻ってきた。
まるで、自分が“正しくあろうとすること”を手放した人間のようだった。
それがルプスレギナには、苛立ちを通り越して、恐ろしかった。
ルプスレギナは彼女に責められるなら、よかった。
殴られても、軽蔑されても、それなら納得できた。
けれど、マタタビはそれすらしなかった。
だから、ルプスレギナはずっと逃げている。
視線を合わせず、気安い声もかけず、偶然を装ってすれ違うふりをする。
だが、知っているのだ。
あの女はすべてを知っていて、それでもなお黙っているということを。
――あたしが、あの日、お前に冷たくしたこと。
――あたしが、お前の背中を押したこと。
――あたしが、報告を怠ったこと。
――そして、間抜けな罠にかかって何時間も寝こけていたこと。
すべて、マタタビは知っている。
そして、それらを一言も語らない。咎めない。責めない。罰しない。
それは、優しさではない。
それは、信頼でもない。
むしろ――無関心に近い、諦念だった。
お前は、お前の責任を果たした。
私は、私の失態を飲み込んだ。
それだけのことだと、言わんばかりに。
ルプスレギナは、その態度に救われるどころか、追い詰められていく。
まるで、赦されないまま放置されている罪人のように。
アインズ様があの事件で深く心を痛められたことは、ナザリックの誰もかれもが知っている。マタタビの正体が至高の御方々に近しく、アインズ様が〈
アインズ様にとって今では数少ない対等であろう人物、そんな彼女と精神支配の罠で殺し合いを演じてしまったということだから。
そんなアインズ様が、ルプスレギナを咎めなかったことが、何よりも重い。
主が信じてくださったのだと、頭ではわかっている。
その寛容に応えねばと、心でも感じている。
だが、それでもルプスレギナは言えなかった。
「すみません」と。
「私のせいです」と。
たった一言すら、どうしても、口にできなかった。
誰にも言えないまま、さもマタタビの被害者であるかのように振舞って、今日まで来てしまった。
今さら、何もかも白状して、すべてを投げ出す勇気など、ルプスレギナにはない。
だってもし『お前には失望したぞ!』などと言われて捨てられたら、それは死ぬこと以上に恐ろしい。
だから、夜ごと夢に見る。
もし、あの日に戻れるならと。
もし、ほんの少しだけでも違う選択ができていればと。
マタタビに優しい言葉をかけられたら。
あのとき、催眠菓子に手を伸ばさず、報告に向かっていれば。
アインズ様を煩わせずに済んだ未来があったのなら。
それを願うことが、どれだけ許されない妄執であるかを知りながら。
ルプスレギナはいつだって、主の前で笑う。
何も知らぬふりで、何もなかったように、ルプスレギナ・ベータを演じた。
悩みなんて一つも無いような、人懐っこく明るい口調の陽気なメイドとして。
それが、ルプスレギナ・ベータにできる、せめてもの忠誠の形。あるいはそれは――
◆
とはいえ、姉妹というのは侮れぬもの。
ルプスレギナの人知れぬ心機一転を、頼んでもいないのに目ざとく見抜いてくる。
プレアデスの長女、ユリ姉からはもっぱらの好評で、ルプスレギナにとってはかえって鬱陶しかった。
『最近貴方、すっかり悪戯しなくなったわよね。いいと思うわ。そう、真面目になったわね』 『気のせいっすよ』
『聞いたわよ、カルネ村での任務もちゃんとやってるそうね。
アウラ様とトブの大森林の生態情報は逐一共有しているみたいだし、アインズ様への報告書も端的で丁寧。姉として誇らしい仕事ぶりね。カルネ村の住人からもとても慕われているようだし』
『いやいやそんなことはないっすよー、報告をきちんとするなんて常識じゃないっすか』
ルプスレギナは褒められることが多くなった。
そのカラクリは実に簡単。
あのトラブルメーカーであるマタタビと、逆のことをすればいいだけだ。
マタタビは口ががさつでメイドたちやアインズ様とか周囲としょっちゅう摩擦を生みだす。
ならルプスレギナはカルネ村で親しい演技を徹底して人気者になる。残酷な本性を隠して善人みたいに友好関係をより深めた。
マタタビは一人で考え一人で突っ走っていろんなことを台無しにする。精神支配の一件も、王国のことも。
ならルプスレギナは、常日頃からいろんな人に相談をしてみた。頭のいいデミウルゴス様やアルベド様に、「カルネ村が盗賊やモンスターなどに襲われたときはどうするべきか」とかを尋ねたり。コキュートス様には「もし格上の相手に対敵した時は、どうするべきか。逃げるべきか、立ち向かうべきか」とかを聞いてみた。
マタタビはしょっちゅう悪戯することで有名だ。透明化で盗み聞きしたり、お菓子の罠でルプスレギナを嵌めたりと。
ならルプスレギナは、誰かが嫌がりそうな意味のない悪戯はしないように心がけた。
マタタビは、白金の竜王の報告情報を握りつぶして大問題を引き起こした。
ならルプスレギナは、自分で定期報告書を用意してこまめな報告を心がけた。人口推移や村の防衛工事、監視対象ンフィーレアたちのポーション研究の進展など。
マタタビはアインズ様が知りたがってたスレイン法国の情報を独り占めしていた。
ならルプスレギナは、必要そうな情報の連携を徹底する。アウラ様と顔を合わせる機会があれば、積極的にトブの大森林の生体情報を共有する。
振り返ればなんてことはない。ただの……常識である。
『よくやったな、ルプスレギナ。お前の報告や判断は実に的確だった』
『もったいなきお言葉です』
心の底から、勿体無い言葉であるとルプスレギナは思っている。
だってルプスレギナが間違えずに済んだのは、マタタビの失敗を先に見たからだ。もしも彼女が居なかったらルプスレギナは、彼女と同じような失態をして、失望されていたかもしれないのだ。
アインズ様からのお褒めの言葉で、むしろ心は重くなる。
『それにくらべてマタタビ……アイツはまったく……』 マタタビへの苦言を聞くほど、ルプスレギナの心は張り詰める。
だってルプスレギナの本質は、マタタビとよく似ていたから。 彼女のことを考えれば考えるほど、彼女の悪い活躍を見るほどに、それが自分のことのようにしか思えないから。
ルプスレギナは褒められたいわけじゃなかった。
ただ自分の中にある、マタタビと同じ部分を否定したいだけなのだ。
――あたしはアイツとは違う。
--違わない
何度心で唱えても、姉妹たちやアインズ様から賞賛を受けても、ルプスレギナの心だけが否定する。
心臓に、小さな銀の針が刺さってしまったかのように。
マタタビを見るたび、自分の中の獣が鏡を突きつけられるようだ。
ルプスレギナと似た匂い――悪戯好きで、衝動的で、規範を鼻で笑う獣の匂い。
「違う」と何度心で叩きつけても、マタタビの背中に自分の影が縫い付けられている気がしてならない。
うじうじと、くだらないことで懊悩する自分自身の姿。 皆が知れば、笑いものにでもされるだろうか。
こんな者を、誰が望んで生み出すというのだろう。
――こんなのはあたしじゃない。獣王メコン川様が望んだ、ルプスレギナ・ベータじゃない。
それは明らかに、創造主にかくあれと言われた姿とは醜くかけ離れていて、おぞましくて忌々しくて仕方がなくて、自分が自分じゃないようだった。
こんな出来損ないはシモベにはまるで不適格で、こんな根暗はルプスレギナ・ベータ失格だ。
だからルプスレギナはいつだって笑う。
人懐っこく明るい口調のおバカなメイドを、ナザリックの皆々とアインズ様に装うのだ。
誰にも決してバレないように。
――やっぱりこれはきっと、忠誠心ではないだろう。
卑小で下劣で恥じるべき、鼻が曲がるほど腐りきった、くだらない自己保身でしかない。
『ルプスレギナさんはすごいねぇ……』
そしてあいつは、マタタビは、ルプスレギナが必死に塗り固めている仮面をいともたやすく引っぺがす。
すれ違う廊下で、穏やかな笑みを浮かべ、たったの一瞥でどこまでも見抜いてしまうのである
『あなたの尊い自己変革に、私は心から敬服の意を示します』
彼女と目を合わせるくらいなら、ルプスレギナは溶けた銀を飲み込んだほうがずっとマシ。
大大大大、大っ嫌い
◆
マタタビが嫌い、マタタビが憎い、マタタビが怖い、マタタビが悍ましい。
その負の心を同じくする者は、たぶんルプスレギナだけではない。
マタタビの質の悪いところは、あんな性格のくせナザリックの誰よりも優秀で、そしてアインズ様にとって大切な存在であるということ。
一般メイドたちは知っていた。メイド業務を習熟しているマタタビであれば、影分身で人手を増やして仕事の全部を奪えてしまうことを。
プレアデスはみんな知っていた。マタタビが、ナザリックの全ての警備をすり抜けて、十階層まで辿り着くことができたことを。
階層守護者たちは知っていた。今のナザリックでマタタビに勝てるのは、アインズ様だけであると。
アルベド様は知っていた。あの生意気で不遜な彼女が、至高の御方々にも届くくらいアインズ様にとって大切な存在であることくらい。
そして玉座の間での言葉、嘘偽りのない彼女の身の丈。
『モモンガ様は、40柱もの至高を失ったナザリックにおいて、まさしく夜陰を照らす月光の如き御方にあらせられます』
『各々が造物主という名の太陽を見失ったシモベ達は、その反射光を宿すモモンガ様に蛾のごとく群がっては絶対の忠誠を嘯いているに過ぎません。真の忠誠は、やはり自らを生み出した主にのみあるのです』
『モモンガ様はそんなシモベ共の気持ちを鑑みて自らギルド名を名乗られようとしておられるのでしょうが、私はそれに我慢ならないというわけです』
ナザリックに属する全てのシモベは知っていた。
マタタビの、アインズ様への強い想いは、ナザリックの誰を比しても計り知れないということを。
だから、やっぱり怖くて恐ろしくて悍ましくって大嫌い。
◆
ただまぁ、一人で感情をため込むとロクなことがない、という話もある。
これもまたマタタビの反面教師から得た知見である。
曰く、一人で大きな悩み事をうじうじ抱え込んでいると、性格がひん曲がってマタタビみたいになってしまうらしい。
そしてルプスレギナは死んだってあんな性格にはなりたくない。
だからルプスレギナはやむ負えず、マタタビという忌々しい存在についての愚痴を仕方なーく打ち明けることにしたのだ。
現カルネ村村長のエンリ・エモットに。
せめてナザリック地下大墳墓の誰でもない、どうなってもいい奴。
『その、思ったよりすごい人なんですねマタタビ……じゃなくて、ゴウン様のお嬢様って』
『そっすねぇー、良くも悪くも』
アインズ様の娘で通っているエンリの設定が極めて不快。
それを度外視するなら相談相手としては、なかなか悪くないチョイスだとは思っている。
曲がりなりにも身内であるマタタビの情報を吹聴するのは良くないが、それなら元から面識がある相手でいればいい。具体的な能力の情報など、防衛上で問題になる情報も伏せればいいし。
『なんだか嬉しいです。ルプスレギナさんには、村長になるかならない相談して、お世話になりましたから』
『あたしはアドバイスとかいらねーすから、聞いてくれるだけでいいっす』
くだらない人間風情に少しでも胸襟を開くのは、プライドとして微妙なところ。
ただマタタビのような性格になってしまうくらいなら、そんなプライドは安売りでもして手放すしかない。 背に腹はかえら得ない。
『あと
『いいの? じゃあ、ルプー!』
満面の笑みを浮かべるエンリ。
もちろんルプスレギナは気を許したつもりなんてなくて、ただ逐一呼ばれるたびに虫唾が走っては敵わないだけ。
マタタビだったらルプスレギナをルプーと呼ぶことは絶対無いし、ルプスレギナ自身が許さない。
(あとこうするとアインズ様が嬉しそうなんすよね)
外部の人間と友好関係を深めると、アインズ様はわざとらしく喜ぶことを最近知った。
御自分が、冒険者モモンとしてエ・ランテルで堅い信頼を勝ち得ていることと同じだろう。単に恐れられ距離を置かれるよりは、相手によく思ってもらった方がいざという時利用しやすいという合理主義。
まさかルプスレギナ個人に友達ができたことを純真に喜んでいる、なんてことではないだろう。
アインズ様の顔色を窺い、媚びを売るような卑しい思考を自認して、ルプスレギナは辟易する。マタタビがいなければこんな自分にはならなかったろうに。どこまでもあいつは憎らしい。
『うーん』
『どうしたっすか』
『ルプーが気にしてるのって、もっと別のことじゃない?』
ルプスレギナは気晴らしに愚痴を吐き出したかっただけ。
さも友人のために頭を悩ませる具合のエンリだが、ルプスレギナは人間風情からの助言なんて必要ない。
『何が』
回りくどそうな話だった。
鬱陶しかったが、ルプスレギナは嫌々聞いた。
『ほらこの前さ、私と妹とンフィーレアでゴウン様のお屋敷に招待されたじゃない?』
エンリが言っているのは、ンフィーレア・バレアレがポーションの実験を進展させた時、褒賞を兼ねて行われたナザリックへの招待式だ。もちろんルプスレギナはよく覚えている。
『あんまりにも立派なお屋敷だったからネムが大はしゃぎしちゃって、それを見たゴウン様がネムにいろんなところを見せていただいて……私あの時とても生きた心地しなかったんだけど』
それも覚えている。ネムという純粋な子供からの賞賛に、主人は大層気を良くされていた。だからカルネ村の重要保護リストに、目の前のエンリを差し置いて加えられたのだ。
『それの何が』
『でも、後から私思ったの。ちょっと子供が褒めただけなのよ? なのにあそこまで寛大にしてくださって、結局2時間もネムに付き合ってくださったじゃない。
どう考えても、心が広いとかじゃなくて普通じゃないわ
だからゴウン様ってば本当に、あのお屋敷とルプーたちのことが大好きなんだって』
(なにを、アインズ様の心をわかったようなことを)
反射的にルプスレギナは思った。
エンリの言葉に「なるほど」と、単純だった頃の自分ならすぐ飛びついたろう。
でも今は、外の人間に解ったようなことを言われて腹立たしい。
そして顔を歪めてしまっていたことを、ルプスレギナは遅れて気付いた。
しくじったとは思ったが、意外とエンリは気にしていなかった。
『ただの村娘でもわかるわよ。お屋敷も、ルプーも、他の皆さんも、ゴウン様はとっても大切にしているわ。絶対に大丈夫!
ゴウン様がルプーたちを見捨てるなんて、絶対絶対にありえないんだから!』
親指を突き立てんばかりに自信満々に言い切ったエンリ・エモット。
ルプスレギナは「なるほど」と心から思わされた、まさかの人間風情にである。
『……そういうことっすか』
エンリの言う通りだと思ったわけではない。彼女の励ましに納得したわけではない。
ただ一番単純なことに気付かされただけ。
ルプスレギナが悩んでいるのはマタタビのことじゃなかった。
(アインズ様に見捨てられるのが怖い、それだけのことじゃないっすか)
マタタビはたしかに嫌い。
でもルプスレギナにとっての彼女は恐怖の根源ではなくて、自分を測る物差しだ。
自分はマタタビのように劣っていると思ったし、マタタビよりも遥かに足りないとも思った。
だからルプスレギナが真に恐れたのは、醜く至らないと断じた自分自身。だから究極、マタタビなんて関係ない。
『礼を言うわよ、人間風情。気にするだけ無駄だったわ』
『え?』
いっそマタタビなんて、どうでもいい。
彼女への悪感情は、自分の弱さから意識をズラすノイズなのだから。
そう考えると面白いくらい頭がすっきりして、自分が為すべきことが見えてくる。
そもそもだ。レベルも経験も立場も違うなら、ルプスレギナはマタタビのように強くなることを目指す意味がない。
せめて自分にできるのは、少しでも彼女を反省教師にして、自分が間違えないようにすることだけ。
ただもし、それでもアインズ様の望みに足りないのなら、本当にどうしようもない。
(捨てられたくないなぁ)
改めて思い知った、ルプスレギナの心の根っこ。
これはきっと忠義じゃないと、ルプスレギナは確信した。
◆◇◆
(捨てられたくないっす)
皮肉な話もあるものだ。
忠義こそあるべき姿で、それ以外何一つ不要。
生まれた時からずっとこれまで、たとえ心の道を踏み外そうともそのイデアだけは揺らがなかった。
なのに今ルプスレギナの心を繋いでいるのは、忠義にあるまじき浅ましい自己保身だったのだから。
(捨てられたくないっす)
全部全部がマタタビの言う通り。
彼女の手でギルド武器が破壊され、ナザリック地下大墳墓とギルド:アインズ・ウール・ゴウンは壊滅した。
そしてルプスレギナを含め全てのシモベの中にあった、創造主を含む至高の御方々への忠誠と、ナザリックとギルドへの帰属意識。
それら一切が、まるで夢でも冷めたかのように霧散した。
もはや今は創造主である獣王メコン川様のことすら
どうして、当たり前のようにあった大好きの心が、その輪郭を思い出せないほどに欠落。
そして、ルプスレギナはルプスレギナでなくなって、ルプスレギナからルプスレギナが引き算されて残ったのは――
(捨てられたくないっす)
どうして、アインズ様に捨てられたくない。
玉座の間を見渡して、シモベのだれ一人残らず
ルプスレギナとは少し違う、けれどみんなの心に沈殿していた心のカスが、ルプスレギナの鋭い鼻腔へと収束する。
(捨てられたくないっす)
(捨てないで) (一緒に居て) (何でもします) (寂しい)
(置き去りにしないで) (信じてください) (守って) (見放さないで)
(必要です) (忘れないで) (愛してください) (ここに居させて)
(頼ってください) (離れないで) (見ていて) (見捨てないで)
(傷つかないで) (守らせて) (助けて) (認めて)
(私を信じて) (背中を預けて) (見ていてほしい) (抱きしめて)
(大切にして) (期待に応えたい) (見逃さないで) (声をかけて)
(一人にしないで) (居場所をください) (共にいてください) (愛をください)
(側にいて) (頼らせて) (認めてほしい) (許して)
たしかにみんな、誰一人残らずロクでもない。
吐き気がするほど皆皆それぞれ卑しくって、とても正気とはいいがたい。
だというのに輪をかけて、本当にどうしようもないことだ。
今ルプスレギナの眼前には、自らが捨てられてしかるべき理由の総決算、絶望的光景が繰り広げられていたのだから。
マタタビたちに著しく荒らされた玉座の間。
御方々の御旗の多くは焼け焦げて、壁天井や柱には亀裂が何か所も走ってる。
磨きたてだったシャンデリアからも半数近い魔光石が砕けていて、ワイヤーの一部が切れて傾いている。
右壁面には地上まで続いてしまう、侵入経路に開けられた大穴が開いている。
そして最も重要なこと。
アインズ様が腰かけるはずの諸王の玉座の間横には、マタタビの手で無残にも破壊されたスタッフ・オブ・アインズ・ウール・ゴウンの残骸が並び置かれていたのである。
(捨てられたくないっす)
どう考えても、捨てられてしかるべきことだろう。
少なくともルプスレギナがアインズ様だったら、見捨てるどころの話じゃない。
玉座の間、理由はどうあれナザリックのシモベ全員が揃っていたというのに、ギルド武器:スタッフ・オブ・アインズ・ウール・ゴウンを守り切れなかったのだから。
マタタビと、白金の竜王と、法国の神人二人と、最高位天使の召喚獣と、ドラゴンゾンビと、アダマンタイト級冒険者達。
相手はほんのたったそれだけだったのに。
エクレアの甘言に出し抜かれ、シモベたち一同で、たったあれだけの戦力相手に何一つ守り切ることが出来なかった。
なのになのに、わかってるのにルプスレギナは
(捨てられたくないっす)
(見てほしい) (忘れないで) (信頼してください) (離さないで)
(必要とされたい) (見守って) (ごめんなさい)
(安心させて) (抱きしめてほしい) (放さないで) (側にいさせて)
(一緒に居て) (必要です) (忘れないで)
(守って) (見放さないで) (離れないで) (頼ってください)
(見ていて) (抱きしめて) (信じてください) (側にいて)
(安心させて) (見守って) (側に居させて) (心配しないで)
(温めて) (放さないで) (許して) (期待に応えたい)
(頼らせて) (共にいてください) (忘れないで) (認めてほしい)
(声をかけて) (大切にして) (必要とされたい) (抱きしめてほしい)
(見てほしい) (愛をください) (心を預けて) (離さないで)
(安心して) (守らせて) (信頼してください) (居場所をください)
(背中を預けて) (許してください) (見逃さないで) (守ってほしい)
(見捨てないで) (大事にして) (一緒にいさせて) (愛してください)
(怖いけど側に居たい) (傷つけないで) (応えたい) (見守らせて)
(必要だよね) (誰よりも傍に) (抱きしめさせて) (失いたくない)
玉座の間に、皆と同様、面を伏せるルプスレギナの鼻腔を、ひとつひとつの「捨てられたくない」が押し寄せてくる。
それは空気の隙間に充満した見えない重さで、柱や天井に当たって跳ね返り、宙に揺れる魔光石の破片を震わせる。
耳を塞いでも、目を閉じても、背筋に纏わりつくように感じるその感情の総量は、ナザリック全員の心が一斉に発した悲鳴の残像のようだった。
ひとつの小さな願いも、ひとつの恐怖も、互いにぶつかり合い、絡み合い、玉座の間全体を厚い霧のような心理の圧力で覆い尽くす。
それは感情の激臭で、その極まりはルプスレギナにはどんなアンモニアよりも濃厚だった。
懸命に目を瞑り、心を無にして控えても、ひとたび意識すればどうしようもない。
獣人の鋭敏さがただただ苦痛。
(捨てられたくないっす)
自分の心ひとつすら手いっぱいだというのに。
もうどうにかなってしまいそうで、いっそ気絶したいくらい。
(あぁ、むりかも)と、意識が限界に達した時だった。
「面を上げよ」
待ちに待ったその声が、つんざめく腐った悲鳴の激臭を、驚愕の波で押しつぶした。
言い訳というか自白ですが 「アインズ様が玉座の間で演説して一括で〆る」という1話を作ることをプロットで決めていて、 ところが実際にそこで起きる心情の変化をどうやって描くべきなのか、そもそもその前過程はちゃんと描写で来ていたのか、みたいなのを書くときになって逐一気にするタイプでして。そのために過去話読み返してルプスレギナ視点を導入するのが一番いいな、って決めて唐突にこうなりました。
このSSの更新遅いの、行き当たりあったりでこんなことばっかしてるからなんですけどね。
オリ主がたっち・みー様の娘なのも実はげふんげふん
重ね重ね御詫び申し上げます。
こんなんで、自分では割と楽しんでやってます。