Bの来訪/ウィンディ・シティ・ダークナイト   作:ゐづみ

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プロローグ

 デヴィッド・マケインは酔っていた。

 空になったウォッカの瓶を片手に、千鳥足で街を徘徊する。夜風は肌を刺すように冷たいが、酒によって火照った体はそのことを意識させない。視界は歪み、蹴躓いて何度も転びそうになる。吐き気はひっきりなしに押し寄せてきて、気を抜くと直ぐにでも腹の中のものをぶちまけてしまいそうだった。

 お世辞にも幸福な人生とは言えなかった。

 生来、気の小さい男だった。常に他人の目を意識しながら、誰の目にも障らないように生きてきた。特別真面目な性格だったというわけでもなく、自分に対して悪意を向けてくる人間を心のなかで口汚く罵りつつも、言われたことには只々頷くばかりだった。敵を作らないように頼まれごとは常に、はい、はい、と従い続けてきた。どんなに嫌なことでも、それが自分の平穏無事な人生のためなのだと言い聞かせて。敵を作らなければ安泰、悪意は自分の中で留めおけば良い、それがデヴィッドの人生哲学だった。

 だからこそ、悪い奴らにつけ込まれた。もともと悪徳が跋扈するような街だ、清廉潔白に生きようとすることは難しい。この街に生きる人間は皆、それなりに自らの手を汚すことで、それなりの人生を送ることをよしとしている。ジュニア・ハイスクールに入る頃には、ほとんどの人間が軽犯罪を犯していた。人の腐敗とはすなわちシステムの腐敗だ。警察や司法だって、街の悪徳とべったり懇ろになりながら、臆面もなくその看板を掲げている。デヴィッドも例外ではない。窃盗や傷害は彼の日常の一部だった。ただ他の人間と違っていたのは、デヴィッドは自らすすんでそういった行為をしなかったということ。悪友の誘いがあればまず断りはしなかったが、胸の裡に蟠る罪悪感は常に彼を蝕んでいた。本当はこんなことはしたくない、平穏無事な人生を送りたい。自らの想いとは裏腹に、頼みを断らないデヴィッドの気質は、彼を裏社会のより深い部分へと誘って行った。

 その日の仕事も、悪友からの誘いだった。ごく簡単なトランスポート。男からアタッシュケースを受け取り、駅にあるロッカーに仕舞う。たったそれだけのことで、莫大な報酬が支払われる。配達物がまともでないことは明らかだった。

 悪友は実働をデヴィッドに一任した。仕事を持ってくる自分とそれをこなすデヴィッド、完全に公平な分業であり故に報酬は折半だと彼は言う。実際に危険を伴うのはデヴィッド一人であり、到底受け入れられるものではなかった。それでも誘いは断らなかった。報酬に対する異議も唱えない。いつものように、はい、はい、とただ従う。この悪友とは既に何度も危ない橋を渡っている。いまさら彼が敵になるようなことがあれば、自分の人生の平穏は望めなくなるだろう。

 仕事の当日、指定されたのは寂れたアパートの一室。建物の壁面は塗装が剥げ落ち、今にも崩れてしまいそうなほど老朽化している。まともな人間であればまず近づこうとはしない場所であり、だからこそ犯罪組織が利用するのにはうってつてだといえる。中に入ると饐えた臭いが鼻を突いた。なま物が腐ったような異臭に胸がムカムカしてくる。裏社会に足を踏み入れた者なら誰だって嗅いだことのある不快な臭い。これは死の臭いだ。死体の腐敗臭だ。この部屋には既に死体は転がっていないが、処刑や拷問に何度も使われているのだということは容易に想像がついた。血液や体液を幾度と無く吸い込んだ床や壁が、その記録だと言わんばかりに死の空気を主張している。一刻も早くこんなところからは出て行きたい。

 しばらくすると男がやってきた。麦わら帽子を目深にかぶっていて、顔を伺うことはできない。半ズボンにアロハシャツというふざけた出で立ちで、この場所には全くもって似つかわしくない。男が差し出したアタッシュケースをデヴィッドは黙って受け取る。持ってみると、想定していたよりもいくらか軽かった。少し揺らしてみると中からジャラジャラとした音が聞こえてくる。金属かプラスチック製の何かが箱いっぱいに詰まっているようだ。てっきりドラッグの類だと思っていたので少し意外だった。

 男は一言「頼んだぜ」と言い残し部屋を出て行った。説明は一切なく、デヴィッドについても全く関心が無いようだった。こういう普通じゃない仕事を請け負う際には、潔癖なまでに身辺を洗われるのが常だ。そして、自分のような若い者が雇われる場合は「妙な気は起こすんじゃないぞ」と必ず一言釘を差される。こういう末端の仕事をきっかけに裏社会でのし上がろうとする野心を持った若者は多くいる。そういった連中は商材をくすねたり、仕事を反故にして組織と取引しようとする。そんなことをしても待っているのは無残な死だけだというのに。

 しかし先程の男はデヴィッドに対して何も言わなかった。しかも驚いたことに、受け取ったアタッシュケースには鍵すらついていないのだ。見たところよくある形の何の変哲もないケースで、外観からはセンサーの類も見受けられない。不用心を通り越して最早無関心といえる。受け取ったデヴィッドがこれでなにをしようが、別にどうでもいいと言わんばかりに。

 僅かな好奇心が疼いた。今まで悪友の持ってきた仕事を何度かこなしてきたが、ここまで放任されたのは初めてだった。仕事の相手はいつもデヴィッドのことを威圧してきた。「妙な気」なんて起こりうるはずがなかった。必要以上に裏社会に踏み込むことは自分の平穏な人生をふいにしてしまう行為であり、与えられた仕事は無感情に淡々とこなすよう努めてきた。今回もそうするつもりだった。だが、手に持ったアタッシュケースが、蠱惑的にデヴィッドの精神を誘惑してくる。闇への招致。背徳への渇望。自らを律し続けた結果、抑圧に晒されていたデヴィッドの精神が解き放たれる瞬間を今か今かと待っていた。

 思えば自分は既に取り返しの付かないほどに手を汚してしまっている。言われるがままに、はい、はい、と従ってきたためにもう立派な裏社会の一員だ。平穏な生活なんてとっくに手放してしまっていた。今更何故、自己欺瞞を続けていたのだろう。もう、いいんじゃないか。自分はもう自由になっていいんじゃないか。この街で生きていく最善手が今手の中に収まっている。

 デヴィッドは指定された駅とは反対方向に走りだしていた。

 近くにあったマーケットに駆け込み、ウォッカのボトルを買い込む。はやる心を落ち着かせられず、ポケットから紙幣を掴み出して、カウンターにたたきつけた。面食らった店員を無視して、急いで店を後にした。汗が噴き出る。息が上がっている。自分史上かつてない危険を今犯している。後戻りするなら今だ。平穏な人生はまだ背後にある。いや、そんなものは最初からなかった。自分で自分を偽っていただけだ。

 ボトルを開け放ち、浴びるようにウォッカをあおる。嚥下する度に喉が灼けるように熱い。胸も、腹も、全身が灼熱していく。数秒のうちにボトルを空にするとそれを投げ捨て、次を開けた。シラフでなんて居られない。冷静でいればきっと後悔する。意識を混濁させろ。忘我になれ。今までの自分を捨てろ。古い精神をアルコール消毒してしまえ。一瞬のうちにデヴィッドは、蕩けるような泥酔状態に陥っていた。

 割れるように痛む頭をぶら下げながら街を徘徊する。ひと目につかないところを。暗がりの中を。裏路地から裏路地へ、汚水を踏みしめ、汚泥を蹴飛ばし、汚濁を泳ぎながら。いつしか道は行き詰まり、袋小路に至っていた。先ほどのアパートの一室とは性質を異にする悪臭が漂っている。ゴミや泥や糞便の臭いだ。裏社会のものとは違う、ごくありふれた人の営みの成れの果て。人間社会の底辺、そんなものを思わせる臭いだ。

 この辺りでいいだろう。自分の人生をここからリスタートする。底辺からのし上がる。お誂え向きだ。あたりを見渡し人の姿がないことを確認すると、ズボンや服が汚れるのも気にしないでその場に腰を下ろした。あぐらをかき、その上にアタッシュケースをのせる。この中にきっと、自分の人生を変えてくれるシロモノが入っているはずだ。酔いのお陰で緊張も後悔もない。新しい自分の幕開けを宣言するようにケースを開け放つ。

 中には全長10cm程の長方形をした物体がびっしりと詰まっていた。骨を思わせる意匠が施されていて、中央には骸骨を彷彿とさせるデザインロゴで『M』と記されている。そして先端にはUSBコネクタのような突起がある。というより、外観そのものが大きなUSBメモリのようだ。

「これってもしかして……」

 デヴィッドは聞き覚えがあった。

 “ガイアメモリ”。近頃俄に裏社会で話題に上がるようになった商材。ドラッグの一種であり、使用すればコカインやヘロインなどとは比べ物にならないほどの快感が得られるのだという。USBメモリのような形をしていて、注射器のように肌に直接刺し込むことで中の薬物が浸透していく。依存性は極めて高いが繰り返しの使用ができるため、一本一本が尋常じゃない値段で取引されているという。噂には聞いていたが、実在するとは思っていなかった。

 ざっと見ただけで50本は入っているだろうか。これの商いを橋頭堡にすれば、裏社会でのし上がっていくのも夢ではない。想像以上のシロモノに、意図せず笑いがこみ上げてくる。これは神の恵みか悪魔の誘いか。どちらでも構わない。自分の人生は今まさに新たな局面を迎えようとしている。平穏なんて糞食らえだ。デヴィッドの頭のなかには、快楽に溢れた未来の光景がありありと広がっていた。

 試しに一本を手にとってみる。芸術品めいた精緻な細工が施されている。ロゴの下部にはスイッチのようなものが有り、きっとこれで薬物を注入するのであろうことが伺える。

 酒に惑わされた頭が、再び好奇心を煽り立ててきた。現存するあらゆる薬物を凌駕する快感。果たして一体どういったものなのか。デヴィッド自身、悪友の誘いでドラッグをヤったことはある。現世から解き放たれるような、名状しがたい快感を何度か経験している。しかし、依存症になる程ではなかった。きっと薬物依存に耐性があるのだろうと自分では思っていた。ただ、そんな過去の薬物など比じゃないほどの快感となればどうだろう。どんな心地がするのだろう。自分は耐えられるだろうか。一度鎌首をもたげた興味は、尽きること無く溢れ出る。

 大切な商材の一本を中古にしてしまうのは惜しい。だが、売人であればこそその味を知っておかなければ。自分の理性を言い負かす言い訳ばかりがデヴィッドの頭に浮かんでくる。そもそもアルコール漬けになった頭には理性などわずかばかりしか残っていなかった。

 一度だけ。ほんの一度だけ。デヴィッドは手に持ったガイアメモリを徐ろに手首に突き立てようとした。

「そいつを渡してもらおうか」

 暗闇から声がした。

 直後、何かにデヴィッドの手が弾かれる。気づくと、持っていたはずのガイアメモリが消えていた。

 バチッ。飛び散る火花。

 前方の壁に壊れたガイアメモリが縫い付けられていた。蝙蝠型をした手裏剣によって。

 まさか。

 アタッシュケースを閉じ、立ち上がる。先ほどのくぐもったような声は背後から聞こえた気がした。しかし、正確な位置は読めない。振り返ると見通しの悪い暗闇が広がっている。どこだ。

 急速に酔いが冷めていくような錯覚を覚える。この体を奔る寒気は夜風だけが原因じゃないだろう。デヴィッドは闇に目を凝らす。そこに潜むであろう存在を探す。

 まさか。

 見当たらない。長く夜を彷徨って闇に目は慣れているはずだ。袋小路である以上、来る方向は限られる。手裏剣も背後から飛んできた。道幅は広くない。見当たらないはずはない。

 まさか。

「こっちだ」

 上からの声。見上げる。同時に視界が暗転する。胸部に衝撃。いつの間にかデヴィッドは汚泥の上に仰臥していた。

 胃の中の物が逆流し、寝転びながら盛大に嘔吐する。口や鼻が吐瀉物でふさがり、窒息寸前になる。

 相手は斜め上空から飛来し、デヴィッドの胸に強烈な蹴りを食らわせたのだ。

 何度も咳き込みながら立ち上がろうとするが、全身に力が入らない。手足がしびれて言うことを聞かない。たった一撃で、デヴィッドは戦闘不能状態となった。

 デヴィッドの視界がはためくマントをとらえる。暗闇の中にある漆黒。そのマントを纏う者は、同じく漆黒の甲冑と漆黒のマスクを身につけている。闇の騎士の名が表す通り、闇そのものが具現化したような存在感。

 この街の裏社会に生きるものなら誰もがその名を知り、恐れる。この街の番人にして、恐怖の象徴。

 バットマンがデヴィッドを見下ろしていた。

「若いな。それに体も脆い。さっさと足を洗うことだ」

 そう言ってアタッシュケースを拾い上げると、バットマンは天へとグラップネル・ガンを放ち、そのまま飛び去っていった。

 あぁ、そうだった……。

 デヴィッドは動かぬ体から力を抜き、思う。ゴッサムシティにはバットマンがいる。この街の悪徳はバットマンが排除する。この街の裏社会に入っていくということは、バットマンと敵対するということだ。

 敵を作るのが嫌だった。平穏な人生を送りたかった。なのにどうして、もっとも敵に回しちゃいけない相手と対立する道を選ぼうとしたのだろうか。

 汚物と自身の吐瀉物にまみれながら、デヴィッドは意識を失った。もう二度と犯罪に手を染めることはしないと胸に誓いながら。

 

 アタッシュケースを開けると大量のガイアメモリが詰まっていた。その徴はすべて『M』、マスカレイド。現在ゴッサムで流通しているガイアメモリの全てはこのマスカレイドだ。

 流通速度が遅々としていることからも、単一犯の可能性が大いにある。しかし遅いからといって、すべての流れを押さえられているわけではない。このままではいずれ、自分の手に負えない事態になってしまうだろう。或いは、もう既になってしまっているのかもしれない。

 状況を打開するには、根元を断つより他ない。

 バットケイブへと通信をつなぐ。

「アルフレッド、日本へ発つ。手配をしてくれ」

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