その森の様子は、ルシファーが倒れていた頃のざわめきがすっかり収まっており、つまり、いつも通りの静けさだった。ちょこちょこと、野生の小動物が木の枝を飛び回り、餌となる木の実を探している。私は草陰からそっと顔を覗かせ、近くの枝からしこたま取っておいた小さな実を、地面に投げ撒き、再び隠れる様に身を縮め、姿を草陰に忍ばせる。
少しの時間が過ぎた頃、地面に群生している草花の陰から、小さなリスの親子がちょこちょこと出てきた。先ほど私が撒いた餌の方を、チラチラと見ている。一回り大きい親リスが、後ろ足で立ち、警戒するように、当たりの様子を伺っていた。
(ごめんね……。でも、来い、来い! さぁ、早くこの男に自然社会の残酷さを見せ付けるんだ!)
念力が伝わったのか、安心した様子で、リスの家族は小さな実に近付き、少しずつ食べ始めた。
その瞬間である。「ドッ」とも「ダッ」とも聞こえる、重く鈍い物音が聞こえたかと思うと、太い木の幹に張り付いていた何かが、リスの家族に襲い掛かったのである。それは、茶色く、一見しただけでは、木の皮が風に煽られ、リスの親子の側に落ちてきたようにしか見えない。だが、長年の経験がある私には簡単に見抜ける。あれは、進化したスライムだ。
突然の襲撃に驚いたリスたちは、蜘蛛の子を散らすように逃げて行った。しかし、逃げ遅れた子供のリスがスライムに捕まってしまったようで、キュウキュウと、苦しそうに鳴き声を上げていた。
「……あれが、スライムよ。奴は何でも溶かすから、気を付けなさい」
スライムに自分たちの存在がばれないように、私は小声でルシファーに忠告をする。ルシファーは本物のモンスターに驚いているのか、声も出せない様子で、その残酷な現実を黙って見続けている。どうだ、自然は怖いだろう? 人間がいくら強くなろうが、自然界には、それ以上の強者が存在するのだ。でも、そんな怯えた様子のルシファーが、とても愛おしく感じられる。これが、母性本能?
「あのスライムは、あれでも子供なんだから。成長すると、ルシファーの胴体くらいの大きさに、なっちゃうんだから」
私はボソボソと、声を潜めて伝える。どんなに子供のスライムだとしても、気付かれたらどうなるか、分かったもんじゃない。子リスで満足してくれれば良いのだけど、もしも、スライムが更に獲物を求めてしまったら…………。
頭に思い浮かべてしまった恐ろしい未来に、私が身を震わせていると、運が良い事に子リスで満足したのか、スライムが静かに、その場から離れて行こうとしている。ちらりとルシファーの様子を見てみると、スライムの食欲に恐れをなしたのか、腰が抜けて立てなくなったのか、その場から動く事も出来ないのか、恐怖で身を固まらせていた。まったく、世話の焼けるやつだ。これだから、勇気と無謀を勘違いしがちな、都会のぼっちゃんは……。
「ほらっ、もう良いでしょ? こんな状態でラビットなんかに見つかったら、挟まれて死んじゃうんだからね?」
「…………スライムが強敵? いや、この世界のレベル水準の問題か……? どう見ても一桁レベルだけど…………まあ、ちょっと試してみるようかな?」
ブツブツと意味の分からない言葉を呟いている。錯乱してしまったルシファーを正気に戻す為に、右手をグイグイと引っ張ってみるけど、ちっとも動きやしない。まったく、重いし動かないし、とんだ足手まといだよ!
仕方がないので、私がいざという時の為に持ってきた笛を吹こうと、準備を始める。すると、ルシファーは何を思ったのか、無造作に立ち上がり、ズンズンとスライムに近寄って行ってしまった。おいおい! あいつ正気なの?! 間違いなく、死んじゃうよ!!
スライムの側には、食べられてしまったリスの骨が散らかっていた。ルシファーが、気配を隠す様子も無く、スライムの隣に立つ。突然の足音と、その気配に気付いたスライムは、準備運動のつもりか、ぐにゃりとその身体を宙に伸ばすと、ルシファーに目を向けた、気がする。
「ねぇ! 早く戻って! 走れば大丈夫だから!」
私の声にルシファーが反応するよりも早く、スライムのその粘着質な身体は、新たな獲物を目指して、飛び掛かってしまった。万事休す、である!
しかし、私の思い描いていた不吉な未来は、現実とはならなかった。しかし、あまりにも予想外の事が目の前で起こってしまった。飛び掛かってきたスライムをルシファーが何の気なしに右足で蹴っ飛ばしたら、「ピギィ!」と一鳴きし、地面に転がって動かなくなったのだ。
「…………え、もしかして、これで…………終わり?!」
「…………え? …………え?」
何が起こったのか、展開に付いて行けない私の傍らに、釈然としない顔をしているルシファーが戻って来たのだけど、それにしても、何と声を掛けて良いのか分からない。私と彼の間には、何とも言えない、微妙な空気が流れていたのだった。
◆
「ねぇ! あなた凄いじゃない! スライムを一撃でやっつけるなんて、強いのね!」
「ああ、…………うん。ありがとう…………」
憎っくきスライムを何の苦も無く倒したというのに、ルシファーの顔に喜びが表れる事は無かった。きっと、彼は自分の成した功績を理解していないのだ。まったく、これだから都会のぼっちゃんは!
仕方がないので、私がルシファーの分まで大喜びしてあげている。そう、夫の成果を労ってあげるのも、妻の役目なんだからね! あんなに、怖くて、憎たらしい存在を、あっという間にやっつけるなんて、凄すぎるから! この晴れやかな気持ちを、早く誰かに伝えたい! 歌にして後世に残してあげたい!
「…………あ! ごめん、ちょっと待ってもらえるかな」
ルシファーは喜んでいる私にそう告げると、静かに立ち止まり、何やら空中を触り始める。
と、思うや否や、片手で持てるようなサイズの長方形の何かが、突然そこに現れた!
「……?! え、今なにしたの?! それが、魔法ってやつなの?!」
「いや、これは別に魔法でもなんでも……ないと思うんだけど……」
初めて目の当たりにした魔法に大興奮し、どんなものかとそれをバシバシ叩いてみると、私の予想外の行動に戸惑ったのか、ルシファーが「ちょ、ちょっと待って待って! 俺も使い方まだ分かってないから! やめて! やめて!」と慌て始めた。自分も良く分かって無い物を急に出現させるルシファーに私が良く分からないんだけど、まあ、私もついつい興奮しちまったからな。あっはっは、すまんな、ルシファー。
ともあれ、それは何か板のような物で、細かい数字が色々書いてあるように見える。真剣な眼差しでそれを見ているルシファーの横顔に多少、色気を感じてしまったりもしたものだけど、まあ、それはそれとして、私も横から顔を覗かせて、見る。
「…………?!?! ちょ、ちょっと! 顔が近いですよアリーさん!」
ひょいっ、と顔を近づけただけなのに、すごい勢いで離れられてしまった。なんだなんだ、隠し事か?! しかも私、その素っ気無い態度に、割と傷ついたからな!
一応の身嗜みとして、自分の汗臭さを確認すべく腕をスンスンと嗅いでいたら、「いや、急で驚いただけだから、大丈夫です。うん、平気平気。全然平気。…………この世界の女性の距離感は、これくらいね。よしよし、覚えた。覚えた」と良く分からないフォローを入れながら再び私の方に寄って来てくれた。よし、物は試しだ。そのままルシファーに密着してみたところ、彼は気にした素振りも見せずに、再び、謎の板を真面目な顔で見始める。だが、ピュアボーイ。私にはばれているぞ? その赤い顔はなんなのかな? ふふふ、初々しい奴め。
「………………この名前は、あなたの名前でしょ? その下の数字は?」
「レベルですねぇ」
「100ってどれくらい凄いの? スライム何匹分?」
「…………えっ?! スライム換算ですか?! スライムだと…………100匹……だと凄さが伝わらない! クソっ、1000匹だとどうなんだ?! いや! 『0』が相手だと何匹掛けても『0』のままじゃないか! くそっ! スライムじゃ…………伝えきれない!!?!」
「……? じゃあ、次のHPって何? 8000くらいあるけど、つまり?」
「HPは体力……? いや、生命力なのか…………? ぐああっ! ゲームではよくある表示なのに、それを現地の人に伝えるとなると、どう言えば正解なのか分からない! …………?! よく見ると俺のステータス、他の項目に比べて知力が著しく低い?! な、なんで?! 普通こういうのって、リアルの知識で無双できるはずだよね?! あれ? この世界の水準が分からないけど……300って高いのか? 低いのか? でもレベル100で999カンストって事を考えると…………?!?!?!?!!! あれ?! 魅力も300切ってる! 何で?! 何で?!」
ルシファーが目の前の板を見進めると同時に、どんどん彼から平静さが失われていってしまった。もしかしたら、ルシファーにとって都合の悪い事が書いてある可能性が高いけど、そもそも私には見方が良く分からないので、どうにもフォローが入れられない。困った。実に困ったぞ?
「なにこれ? この数字ってどう見れば良いの? STRとかAGIとかLUKって何? 大きい方が良いの? 小さい方が良いの? ……AGIが1000に近いじゃない! 凄い! 良く分からないけど、凄いよルシファー! CHRが凄く低いけど気にしないで! 気にしちゃダメ! 良く分からないけど、人間の魅力は数字では測り切れないから! 未来は自分の手で切り開こう!」
私の必死のフォローが効いたのか、ルシファーの顔に徐々に生気が戻ってくる。そして、虚ろな目を必死に動かし、板の上で指先を滑らせる。おお、書かれている内容が変わったぞ。都会の技術は凄いね! それにしても、流行ってるのかしら、これ?
都会の流行を聞いてみようとルシファーに目を向けると、何やら機嫌はすっかり直ったようで、「へー」やら「ほー」やら生返事を言いながら村の方へと歩いて行ってしまった。途端に、その場に置いてきぼりにされてしまったわけだけど、まったく、なんだいなんだい!
◆
村に戻った私たちは、すれ違ったノーラ婆やベイク爺に挨拶をしながら、村長の家に向かおうとしたのだけど、ルシファーが何やら予定があるのか「ごめん、ちょっと部屋で考え事がしたいんだ」と言って、そそくさと私のギルドに帰ってしまった。仕方がないので一人で村長の家を訪れ、森で起きたスライム討伐事件を村長に伝えると、急に村長が目を輝かせながら「やはり……あれが噂の、勇者ってやつなんじゃないかな?」と、一人頷きながら、何やら納得した様子になってしまった。まあ、私にはよくわかんないけど、とりあえず良い事なのだろう。
村長が帰り際の私に「Lucifer君がいる限り、村が暴漢に襲われても安心だぞ!」と声を掛けてきたが、そもそもこんな村に暴漢は来た事はないので、生返事して私も家に帰って行った。
てゆーか、村長のルシファーの言い方、なんか格好良くない?
登場人物
アリー:スライムは許さぬ!
蒼穹のルシファー:モンスター弱くね?!
村長:I was waiting for the brave