わけが分からなかった。
信彦は急いで駅から逃げ出した。
初めて降りた駅だ。駅前も特に盛り場ではなく、閑静な住宅街らしい。人影もまばらだ。
「何なんださっきのやつは。白昼夢? 妙に生々しい……」
公園のベンチに腰掛け、両手で顔を覆う。さっきの男を消し飛ばした感触が、まだ右手に残っている。人の気配も鋭敏に感じ取れる。
「クスリなんてやってねーのに……とにかく今日はもう帰ったほうが良いな」
友人にメッセージを打つ。
「すまん、今日はやっぱやめとくわ」
返事はすぐにあった。
「マジか。いや、ほんとに頼むよ。金なら俺が出すから」
「何でそんな必死なんだよ」
「実は合コンなんだよ。人数足りなくて」
信彦は眉をひそめた。
「だったらなおさらいかねーよ。実は気分がひどくて。出かけられる状態じゃない」
次の返信には少し間があった。
「……だったらしょうがないな。いちおう場所だけ教えとく。気が向いたら来てくれ」
メッセージに記された住所は、ここからもそう遠くない。
信彦はそれだけ確認し、ふたたび両手を顔で覆ってうつむいた。
ふと。
異質な気配がした。
ただの人間ではない。さっきの化け物とも少し違う。
それが、ゆっくりとこちらに近づいてくる。まるで様子を伺うように。
女だ。若い。
そして自分に向けられているこの不快な感覚が「殺気」というものだと、瞬時に理解した。
「何の用だ?」
信彦はうつむいたまま問いかけた。
そこの物陰に潜んでいるようだが、そう距離はない。今の声で充分聞こえたはずだ。
息を呑む気配。
しかし返答はない。信彦は顔をあげ、もう一度問いかけた。
「ストーカーはお断りだ。用があるなら姿を見せろ。出てこねーならこっちから行くぞ?」
応じて、殺気の主が姿を現した。
やはり女。いや、少女か。セーラー服を来ていた。たしか隣町の高校の制服。
艶やかな黒髪をポニーテールにまとめた、なかなかの美少女だった。
ただし、手には白木の木刀を握っている。
「おいおい。女子高生につけねらわれる覚えはねーぞ」
少女は答えず、何か「さっ」と手を払った。
すると、手元が明るく輝き、その光の玉が、すぅ、と頭上に上がり、それまで真っ暗闇だった辺りを、煌々と照らし出した。
「どんな手品だ? それとも実は人間じゃねーのか」
信彦は肩をすくめた。もう驚くのも馬鹿馬鹿しい。
「私は人間よ。でもあなたは違うようね。ただの人間が、そんな禍々しい気を撒き散らしているわけがない」
少女は木刀を構えた。注意深くこちらを伺ったまま、じりじりと近寄って来る。何か特殊な歩法だ。ふつうの人間なら、動いていることにも気づかないような。
(じゃあ何でおれには分かる?)
信彦は舌打ちした。
「確かに、ただの人間じゃないのは認めてやる。でも初対面の女子高生に木刀で殴られてやる義理はねーぞ。自己紹介くらいはしたらどうだ?」
答えはない。少女はそのまま、信彦を間合いに捉え、その瞬間に襲いかかってきた。
(ちっ、クソ速いのによく見える)
信彦は難なく避けて後ろに回り込み、「どん」と背中を押した。よろけた少女が、驚愕の表情で振り返る。
少女は慌てて飛びのき、大きく深呼吸した。
「いまのおかしな感じ……特別な魔術? 私に何を――いえ、この街で何をしようとしているの」
「意味が分からん。何の濡れ衣を着せようとしてんだ?」
「あくまでとぼけるつもり?」
「いい加減笑えねーぞ、ああ?」
さすがに苛立ってひと睨みすると、少女は「びくっ」と震えたようだ。一瞬だったが、恐怖に脚がすくんだ……そう見えた。
「威圧――よほど高位の悪魔《アクマ》みたいね。いいでしょう、私も本気を出してあげる」
少女は構えを解き、何かお札のようなものを取り出した。それを「ふっ」と宙に投げると、途端に光の弾となって、こちらに真っ直ぐ飛来した。
(嘘だろ!)
信彦は慌てて飛び退き、すんでのところで避ける。すると、今度は同じものがいくつも飛んできた。
(おいおい……これ、当たるとどうなるんだ?)
試してやる気にはならない。見れば、避けた光弾はそのまま消失している。かなりの速さで次々と飛来するのに、紙一重ですべてを避け、振り返る余裕すらある。感覚だけでなく、身体能力も向上しているらしい。
(つっても、このままじゃな)
攻撃が止む気配はない。そればかりか、少女は注意深くこちらを伺っている。少しでもスキを見せたら一挙に殴りかかってくるだろう。
(だいたい、何でおれがこんな目に合ってる?)
むくむくと怒りがこみ上げてくる。
――その女は餌だ、喰らえ。
そんな馬鹿げた衝動は、さっきからずっと脳内に響いている。
我慢するのが馬鹿らしくなった。
「――っ!」
少女が声にならない悲鳴を上げた。
信彦が一瞬にして眼前に間合いを詰めたからだ。
まったく反応できず、少女はがっちりと顔面を抑えられた。
「悪く思うなよ」
ちゅっ。
信彦はためらいなく、少女にキスした。そして本能のおもむくまま吸いたてた。
ところが。
――この女は違う。
いきなり脳内で声が響いて、衝動が急速にしぼんでいった。
わけが分からぬまま少女を離すと、腰が抜けたようにその場に座り込んだ。
そして泣き出した。
「ひっく……ひどい……こんなのひどいよぉっ……」
「ちょ!?」
「はじめてだったのにぃっ、初めてだったのに――っ!」
「ほんとごめん、マジ悪かった、許して、頼むから泣き止んで!」
それからしばらく、信彦は号泣する少女をなだめ、謝罪し続けた。拷問のような時間だった。
ひとしきり泣き尽くし、ひとまず落ち着くと、少女は気まずそうにこう言った。
「私の名前は
(桜子より年下かよ。にしては大人っぽいな)
近くで見るとやはり美人だ。凛々しさと可憐さが見事に同居しているというか。それに、やたら脚が長くてスタイルがいい。ポニーテールの黒髪は、下せば腰ほどはありそうだ。
「あまりじろじろ見ないで欲しいんだけど」
「余計なこと気にしないで、早く自己紹介の続きをしろ。ただの女子高生じゃねーんだろ?」
「……まあいいわ。家が代々、お祓い屋のようなことをしているの。つまり、あなたみたいなのを退治する仕事」
「おれは正真正銘の人間だ」
お祓い屋……そんな家業が実在したとは。さっきまでのことといい、自分はどうやら、かなりファンタジーな世界で暮らしていたらしい。
「私のことは話したわ。次はあなたの番よ」
さて、どう答えたものだろうか。
「名前は武藤信彦。大学生だ。家は隣の駅だよ。実家は地方だけどな」
「それで?」
「それだけだ。ほかに話すことなんてねーな」
「あなたはさっきこう言ったのよ。ただの人間じゃないのは認めてやる、と」
信彦は舌打ちした。どうやら、誤魔化しきれる雰囲気ではない。
「こっちだって教えてほしいくらいだ。いきなりこんな身体になっちまってわけがわからん」
それから自分の略歴と、社での件を話した。妙な衝動にかられたり、化け物に襲われたが撃退したことも。
千鶴が難しい顔で聞いていた。顔色はやや青ざめている。
「その、人を喰らいたいというのは……今は平気なの?」
「女限定みたいだな。視界に入ってなきゃ問題ない」
「私は?」
「あんたは違うそうだ。さっき頭の中で声がした」
「……」
よりいっそう表情が険しくなり、千鶴はしばらく考え込んだ。
「……私の手にあまるわね。上に報告しても構わないかしら?」
「なんで俺に聞く?」
「当分、あなたの自由が保証できないからよ。実験動物みたいな扱いを受けるかもしれない。それでも、現状を何とかしたいのなら――」
「いや、それはちょっとなあ……」
「もう少し真剣に考えたら?」
やや苛立った口調だった。
「んなこと言われてもな。正直実感がわかねえ。寝て起きたら治ってるかもしれんし」
「……それだけは無いと断言するけど」
千鶴は溜め息を吐き、名刺を差し出した。女子高生が名刺とは生意気なことだ。
「何かあったら連絡をちょうだい。力になれるかもしれないから」
「
「私たちのような人間をそう呼ぶの。断っておくけど、勝手に自称しているわけじゃないわ。国家資格なのよ」
「へえ……」
信彦はわずかに眉根を寄せる。面倒なことになった。
つまり、国家権力から狙われる身となったかもしれないということだ。
「まあ、これはもらっておく」
信彦は名刺を受取り、しばし千鶴を見つめた。
彼女に対しては、もう衝動はない。しかし、ここで消しておくべきかもしれない。
死体を跡形も残さず殺す。
自分にはできる。どうすればよいのかもなぜだか分かる。
「な、なによ」
千鶴が喉を鳴らした。
信彦はかすかに笑って首を横に振った。
「何でもねえよ。じゃあな」
「ちょっと……!」
「あ? まだ用があんのか?」
「……いえ。その、気をつけて」
信彦は返事がわりにひらひらと手を振って、その場を後にした。