家に帰らなかったのは不安があったからだ。
なにせ桜子がいる。妹が衝動の対象外となる保証はない。
(だいぶ落ち着いてきたけど……)
繁華街が近くなるにつれ、人の姿も多くなってきた。
当然、女もいる。
しかし、衝動は電車の中よりだいぶ落ち着いていて、特に気張らなくても我慢できた。
さっきの女子高生を見る限り、命を喰らうというのはやはり妄想だろう。
なぜかは知らないが、無性に女にキスしたくなる衝動だと、信彦は理解していた。
まさか血の繋がった実の妹にキス――いや、たしかにずっと幼い頃にやったことがあるが、いまやったらシャレにならない。
ゆえに、少なくとも今晩は帰宅しないつもりだった。
繁華街を進むに連れ、女性の姿も多くなる。どうやら距離が近いと衝動が増すようだ。
接触などしようものなら衝動が暴発する危険もあったが、信彦は楽観視していた。
万が一こらえきれなくても、せいぜい警察を呼ばれるくらいだろう。今の信彦には逃げ切る自信もあった。
なぜなら、この場所までたった5分で走ってこれたのだから。
「お、来た来た。武藤、こっちだ!」
たどり着いたのは友人に指定された飲み屋である。
合コンの会場だ。
「よう高橋。遅れて悪かったな」
「いやいや、いま始まったばかりだからさ。来てくれて嬉しいよ」
4対4らしい。
男の方は高橋のほかに見知った顔はなかった。
女の方も、全員見ない顔か。いや――。
「あ! さっきの人!」
ぱあっ、と笑顔で声を上げたのは、どうみても中学生ごろにしか見えない少女だ。服装も子供っぽいが、なにより背丈が小さい。
ただし、それなりに目を引く美少女だ。
「ああ。ども?」
信彦は軽く会釈して席についた。さっき電車で痴漢されていた少女だ。知らないフリをしたほうがいいだろう。
と思っていたら、彼女は第一印象を裏切るほど積極的だった。
「もお、信彦くんひどいよ~。知らんフリするなんて~」
いつのまにやら信彦の隣に座り、ほんのりと顔を赤くして絡む。すっかり酔っ払っている。
名前は
年齢は信彦の一つ上で、じつはお姉さんだった。
「つーかユミさん飲み過ぎじゃないの?」
「ユミさんとかかたーい。ユミ、って呼んで」
面倒くさい。寄りかかってくる優美を適当にあしらいつつ、信彦は衝動と戦っていた。
さすがに密着すると堪えるのも一苦労だった。
何よりそれなりの美少女――いや、美女か。とにかくいい女だった。
ちんまりと小さな身体は、近くで見ると見事に女性らしい艶やかさがあるし、服の上からだとわかりにくい、立派な膨らみもある。
むにむにと腕に押し付けられる柔らかな感触。
すっぽり包めてしまいそうな体格差。
妙な衝動などなくとも、健全な男子なら襲いかかりたくなる。
「ごめん。ちとトイレ」
「あ、私も一緒に行く~」
「ダメだって。ここで大人しくしてなさい」
「はーい」
さすがに我慢も限界だった。
信彦は頭を冷やすため店外に出て、路地裏に入った。
「はー。なんでああも懐かれたかねえ……」
座り込んで頭を抱えていると、近づく人の気配がした。
「こんなところにいた」
優美だった。何の遠慮もなく信彦の隣にやってきて「んしょ」と腰を下ろす。
と思ったら、すぐさま信彦に身を寄せ腕を絡めてきた。
「おい……」
「んふー。ひんやりして気持ちいい」
「おれは暑苦しいんだけど」
「なら二人あわせてちょうどいいね~」
はあ、と溜め息。信彦は我慢するのをやめた。
(てかこれ完全にOKサインだろ。いただきます、と)
くい、と優美の顎をあげ、キスする。
優美は一瞬、「ぴく」と震えたが、特に抵抗なく信彦に身を預けた。
――この女ではない。
また頭の中で声。
(知るか)
構わず、信彦は優美の口唇を味わった。
舌を差し入れても、抵抗なくすぐに絡めてきた。
(おお。ノリノリじゃん)
応戦したまま抱き寄せ、肩から背中、腰と手を回して撫ぜる。
優美の身体は面白いほど敏感に反応し、信彦は調子にのって胸元に手を伸ばした。
「やっ!」
優美は慌ててその手を抑え、身体を離す。
すっかり蕩けて上気した顔が、言い訳がましくしかめっ面を作っている。
「ダメだよ信彦くん、こんなところで。誰かに見られたら――」
「んじゃ、場所変える?」
耳をくすぐりながら尋ねると、優美は顔を真っ赤にし、「こくり」と頷いた。
信彦は思わず笑った。
◇
「あっ、あっ、あ――っ!」
ホテルの一室に、優美の嬌声が響いている。
かなり長いこと途切れていない。声はもうかすれていて、それでもなおイヤらしく耳朶を打つ。
(いい子拾ったな。圧倒的に過去最高)
優美の感度の良さと抱き心地に、信彦も止まれない。
相性の良さ、というのは都市伝説か何かだと思っていたが、実際にあるものらしい。
信彦もそれほど女性経験があるわけじゃないが、こんなに具合がいい女にそうそう出会えるとは思えない。
優美も、あれだけ積極的だった割に男性経験は少ないそうだ。今日初めてセックスで達したと言っていた。
それから何時間たったのか。
信彦はすでに4回、優美の身体のあちこちに放出しているが、彼女はその間に十回以上は達したはずだ。
(まだ全然イケそうだけど。これ以上やるとユミが心配かな)
「あっ、ああーっ!」
壊れたように身体を痙攣させる優美に、腰を止めて囁きかける。
「ごめんユミ。これで終わりにするから、もうちょっとだけ頑張って」
がくがくと首肯する優美。
少しだけ待って、信彦は猛然と腰を打ちつけた。
「あーーっ、ダメダメダメぇええっ!」
かすれ切った声で絶叫する優美をしっかり押さえつけ、最後の放出を終える。
「ふー。めっちゃ良かったよ、ユミ」
声をかけるが、優美はぴくぴくと身体を震わせるだけで返事がない。
やりすぎたかな、と心配になって頭を撫でてやっていると、不意に身体を起こしてキスしてきた。
「すっごく気持ち良かった。信彦くんありがとう」
「はは。こちらこそ」
まさかセックスで礼を言われるとは。少し微妙な気分ではあるが、男冥利に尽きると言えばそうかもしれない。
でも、優美の様子が少しおかしい。
なんというか、目がハートになっている、とでも言おうか……。
とろんとして、信彦をじっと見つめ、とても幸せそうに微笑んでいるのだ。
まるで、今日が人生最良の日だ、と言わんばかりに。
(まさか、これも?)
信彦は思わず眉をひそめる。鋭敏になった感覚や、人並みを大きく外れた身体能力などと同じく、優美を狂わせているのが自分なのだとしたら――。
「出よっか。家まで送るよ」
「えっ。泊まるんじゃないの? 電車もうなくなってるよ?」
「タクシー代くらい出すからさ」
「やだ!」
がし、と優美はしがみついてきた。
「ね、お願い。今日だけでいいから。一緒に寝よ?」
必死な表情だった。捨てられる子犬でも見ているかのような罪悪感が、信彦の胸を穿った。
それと、他人の意志を支配してしまったかも知れない、という罪悪感とがせめぎあう。
勝利したのは前者だった。
「分かったよ」
信彦が了承すると、優美はまた輝かんばかりに笑った。
◇
いつのまに寝ていたのか、起きるとすでに日も高かった。
慌てて優美を起こし、部屋の惨状に苦笑しあって、筋肉痛やら何やらで歩くのも辛いという彼女を、結局タクシーでアパートまで送った。
意外と近い場所に住んでいた。愛車のバイクを飛ばせば10分程度で行き来できるだろう。いまさらながらに連絡先の交換をし、帰宅すると、玄関の鍵が開いている。
(桜子がかけ忘れたのか?)
あの妹に限って――にわかに暗い予感がよぎり、屋内に駆け込む。
「桜子!」
呼びかけながら、妹の部屋に直行する。とんとん、と3、4回ノックし、呼びかける。
「桜子――開けるぞ」
ガチャ。
居ない。
桜子の部屋は、彼女の残り香に包まれている。しかし本人の姿はない。
背筋が凍った。
信彦はしばらくその場で棒立ちになる。
あいつに何かあったら――。
混乱の中、信彦は携帯を取り出し、110番を押しかけた。
そこでいったん冷静になる。まずは屋内を探してからだ。居なかったら携帯に連絡すればいい。
「ふう」
深々と息をついて、まずはリビングに向かう。そこで、尋ね人をあっさりと発見した。
「桜子……」
信彦は安堵のあまりその場に膝をついた。
妹はソファで穏やかに寝息を立てていた。日頃、腰元に落としている艶やかな黒髪は、髪留めで簡単に結い上げたままだ。
察するに、テレビを見たまま「うとうと」し、そのまま寝入ってしまったか。今日は休日だし、風邪を引くような時期でもない。しかし、妹にしては珍しい失態だ。
「おい桜子、起きろ」
あまり強くならないように肩を揺さぶる。
桜子はわずかに眉根を寄せ、可憐な額に、一瞬だけ、無粋にもならない皺を形作った後、「んう……」と声を漏らして寝返りを打った。
その際、夜着が大きくまくれて、妹の白い肌が――華奢な腰元と、たわわな胸の下部があらわになった。
どくん、と。
心臓が跳ねた。沸き起こってきたのは、身に覚えのありすぎるあの感覚だ。
しかも、昨日のものより数倍強力だった。
――くっそ、実の妹だぞっ!
信彦は顔を歪ませ、奥歯を噛みしめて衝動に抗った。とたんに鼻腔をくすぐる甘い香り。
若く清らな、極上の
きのせい、で済ませられるものではなかった。信彦はもう、桜子を喰らい尽くしたくて仕方がなくなっていた。
その手段、具体的なイメージが脳裏を埋め尽くす。口唇を奪い、肉体を犯し尽くし、心臓をえぐり取って喰らう。常であれば吐き気を及ぼすそれは、とても甘美なものに思えた。
――やめろ。ふざけるな!
今すぐこの場を離れるべきだ。自室に戻って扉を固く閉ざし、打ち付けて二度と開かないようにすべきだ。そうでなければ、すぐそこのキッチンで包丁を手に取り、自分の喉をかっ裂いてやる。
だが、出来ない。身体がぴくりとも動かない。いや、おそらくは拮抗しているのだ。桜子を喰らおうとする衝動と、守ろうとする意思とが。
『何をためらう? 我慢は身体に毒だぞ』
頭の中で声が響いた。
気のせいじゃない。今度は、はっきりと聞こえた。
「ふざけろ。おれの身体を好き勝手にしてるのはテメエか。桜子に手ぇ出してみろ、ぶっ殺してやる。生まれてきたことを後悔させてやる!」
『ふむ?
「上等じゃねえか。さっさと壊してみろよ、テメエも絶対に道連れにしてやる!」
『――これはこれは。さてはどこぞの世で竜の気に触れたな? フフ、これは失敗だ。いくら我とて、汝の如き者どもを従えることはできぬ。そのまま、魂が砕けるまであらがっておれ。うまくゆけばその娘の命だけは助かるぞ』
ふっ、と。
一瞬だけ意識が途切た。その間に少しだけ桜子に近づいている。匂いが一層強くなった。胸が苦しい。びきびきと妙な音が鼓膜を打ち、全身に激痛が走った。
死ぬのはいい。でも、桜子の無事を確信してからだ。
「……兄さん?」
その時、妹が目を覚ました。寝ぼけ眼をこすって身を起こし、滅多に見ることのない、とろん、とした可愛らしい表情で、不思議そうにこちらを眺めている。
――桜子、逃げろ!
声は出ない。だめだ。指一本動かせない。
「おはよう、兄さん。もう、朝帰りなんていいご身分……どうしたの、すごく怖い顔」
涼やかな声が脳に突き刺さる。
(怖いならさっさと逃げろ。おれから離れろ、頼むっ)
声にはならない。代わりに全身を襲う激痛がさらに激しくなった。頭が割れそうだ。四肢がいまにも引きちぎれ、心臓が爆発しそうな感じ。
そうなるなら早くしてくれ。今すぐ。手遅れになる前に、頼む。神さま。誰か。何でもいい、桜子を助けてくれ――!
「兄さん……?」
妹は不安げに、兄に手を伸ばした。象牙細工のように綺麗な細指が頬を撫ぜる。
ひんやりとした感触。それを中心に、抗い難い熱が広がっていって。
決壊した。
「きゃっ」
妹の、可愛らしい悲鳴を、信彦は暗転した意識の中で聞いた。わずかに残る五感の残滓が、温かで柔らかい感触と、心地よいしびれを伝えた。それは一瞬だった。
あとは耳障りな高笑いと、もはや理解できなくなった言葉が、脳内で響いていた。
『ふはは、これはすごい! 上物だぞ! こぞう、ひとまずぬしの魂は救ってやる。だが、この娘は必ず手に入れるぞ。必ずだ!』
残響と、強烈な光があって。
直後、信彦は完全に意識を失った。