その時の光景をよく覚えている。
私はまだ未熟な子供で、何の力も無かった。
それ故、地上を捨て月へ移住する事になったあの日、私はシャトルの中で震えていた。
「お姉ちゃん……」
「大丈夫……大丈夫よ依姫」
そんな震える私の体を、姉は抱きしめてくれた。
けれど姉も同じくらい震えていた事に気が付きながらも、私は姉の体を抱き返した。
『地上は穢れた』、ただそれだけの理由で私達は月に移住する事になった。
しかしその為には、多くの危険が伴う羽目になった。
「おい! シャトルはまだ出せんのか!? そろそろバリケードが持たんぞ!」
「ダメなんだよ! もう妖怪どもがシャトルを取り囲んで……!」
平和だった都、決して妖怪という外敵を近づけさせなかった都は、今日初めて破られた。
数えられない程の妖怪が、まるでタイミングを見計らっていたかのように、一斉に都に攻めてきた。
あっという間に妖怪によって埋め尽くされた都に、かつての美しさは既に無かった。
そして今、私たちが乗ったシャトルは空へ飛べずにいた。
理由は明白、既に妖怪達によってシャトル周りは占領され飛び立つことが出来ないでいるからだ。
現に、シャトルの最期のバリケードはさっきから大きな音を立てて今にも崩れそうな様子だ。
外から妖怪達が試行錯誤して、バリケードを破ろうとしているのだろう。
何も私たちだけではないのだろう、もしかしたら既に妖怪達の手によって『死』を迎えた者も大勢いるかもしれない。
そして、その次の番が私たち……ただそれだけの事なのだ。
シャトルの中は既に混沌としている。
まだ希望を捨てまいとする者、私のように絶望を受け入れている者、どうしたら良いのか分からずに混乱する者。
見事にバラバラだ。
そして次の瞬間、バリケードは大きな音を立てて崩れた。
「まずい! バリケードがっ……!?」
まず最初の犠牲者は、懸命に皆を守ろうとしていた兵士だった。
壊されたバリケードの隙間から入ってきた妖怪に、一瞬でその身体を裂かれた。
「あぁ! やめ、やめろぉぉぉぉ……」
「う、うわぁぁぁぁ! たす、助け……!」
次々と妖怪がシャトルの中に入り込んでくる一方、人間は次々と数を減らされていた。
妖怪は手当たり次第に近くの人間を捕まえては、残酷に殺めていく。
命乞いと断末魔、それと妖怪どもの歓喜に似た雄叫びだけがシャトルの中に響く。
「—————!!」
そしてついに、私たちの番が来た。
獣の叫びをあげながら、妖怪は血塗れの身体でゆっくりとこちらに近づいてくる。
勿論、血塗れなのは返り血によるものだ。
そして数秒後には、私たち姉妹もその血を吹き出すことになるだろう。
「依姫!」
怯えて声も出せない私を、姉は自身の身体を盾にするかのように私に覆いかぶさった。
しかしそんな事をしても無駄なのは明白だった。
たかが人間の脆い身体が、妖怪の鋭い爪を防げるわけがない。
きっと姉ごと私は貫かれて死ぬのだろう。
怖くは無かったと言えば嘘になる。
しかし怖いという恐怖よりも、悔しいという後悔の方が強かった。
もっと私に力があれば、姉一人守る事は愚か、逆に守られている私にこの逆境を乗り越えられる力があれば。
しかし幾ら願おうが、そう都合良くいくものではない。
姉は背中を向けているため見えないだろうが、私からはしっかりと見えている。
妖怪の鋭い爪が既に振り下ろされているのを……
……血が辺りを赤で塗りつぶす。
まるで噴水のように身体から吹き出たそれは、ある意味綺麗だった。
そして残酷な事に、あれだけ血を出せば確実に死ぬだろう。
とても痛くて苦しい筈だ。
「あ……れ」
けれど不思議な事に、痛みは無かった。
それどころか、明らかにおかしい。
だって、血を吹き出しながら床に倒れたのは私でも姉でもなく、『妖怪』だったのだから……
「全く……何をしてるんだろうな私は……」
……美しかった、真っ赤なその瞳が、綺麗な紫色の長髪が。
ソレはいつのまにかそこにいて、いつのまにか妖怪の息の根を止めていた。
鮮やかで、美しい存在が、何やらブツブツと文句を言いながら溜息を吐いた。
そして気がついた、いつのまにかシャトルの中は静寂に包まれている事に。
辺りを見渡せば、妖怪に殺された人達の他に、さっきまで人間を襲っていた妖怪達も全て床に倒れ伏していた。
直ぐに私は理解した、目の前のこの美しい存在がやったのだと。
「寄り道なんかしてる場合じゃないんだけど……まぁ『小娘』も生きてるみたいだしまだ間に合うか」
ソレは独り言を続けた。
「そこの、この鉄塊は飛べそうか? 一応外にいた奴らは一通り大人しくさせたけど」
「え、あ、あぁ……激しくは損傷してないし、大丈夫だと思う」
私たちのように生き残った者の一人にソレはそう訊ねた。
「じゃあとっとと月に行くなり何なりして去れ。お前達がこの星を棄てるというのなら止めはしない……まぁそうなったのもある意味私のせいかもしれんがな」
まるで自傷するかのようにソレはそう言って、その場を去っていった。
「……私も」
その背中を見ながら私は強く想った。
『私もあんな風に強くなりたい』
ただそれだけを胸に刻み、その理想を私は一生追い続ける事を決意した。
刀を振るうのは楽しい。
まるで芸術品のような、それでいて猛々しい美しさを誇っている。
刀のその重みが、刃が反射する光が、振った時のその感覚が、何もかもが私は好きでたまらない。
「……相変わらず朝から元気ね、依姫」
「お姉様、珍しいですね。あなたが道場に来るなんて」
「たまにはね……妹の頑張ってる姿を見ておこうかなって」
気が付けば姉がいた。
どうやら、余程素振りに夢中になっていたようだ。
「ふむ、では折角なのでお姉様もご一緒にいかがですか?」
「いやよ、汗だくになるじゃない」
「……最近また太ったのでは?」
「気のせいよ」
なんとも付き合いの悪い姉だ。
それに比べ、レイセンなら此方が頼めば幾らでも付き合ってくれたというのに……
「では話を変えましょう。八意様の手紙、あれに書かれてあった『見えざる敵』はそろそろ見えるようになりましたか?」
「いえ、もしかしたら鳥が一匹沸いて出たかもしれないけど、今のところそれらしい動きはないわ」
「そうですか、ではお姉様は今暇な筈ですよね? 地上からの侵略者が来るまで暇なんですよね? でしたらどうです、これから兎たちと一緒に稽古を……」
「依姫、それ話全く変わってないわよ」
「そうですか?」
「そうよ」
そうなのか。
もしかしたら、無意識的に姉を稽古に付き合わせようとしているのかもしれない私は。
「……では今度こそ話を変えます。お姉様、一つ聞いても?」
「なぁに?」
それはもう既に何度も何度も姉に聞いた事のある質問だ。
「私、強くなれてますか? 今度こそお姉様を、みんなを守れるくらい強くなってますか?」
「…………えぇ、とってもとっても頼もしい私の妹よ」
「……そうですか」
良かった、とはまだ口には出さない。
確かにあの時に比べれば私は遥かに強くなっているだろう。
しかしそれを口にするのは、まだ早い。
だって私はまだ届いてない。
あの美しい存在には、まだ届かない。
「緊張しているのですか、レイセン」
「え、えぇまぁ……少し」
一生懸命に私の後を付いてくる小さい玉兎、それを『レイセン』と呼ぶのはまだ慣れない。
どういう意図で姉がその名前を別の玉兎に付けたのかは分からないが、単に嫌がらせで名付けたわけではないのだろう。
「そこまで身を固くする必要はありません、皆優しい……というより玉兎特有の性格を例外なく持っているので
「そ、そうですか……」
未だに緊張がほぐれていないレイセン……二号を連れ、稽古場へと足を運ぶ。
目的はこの新しいペットを、月の使者で飼っている玉兎達に顔合わせをしに行くためだ。
本来なら昨日のうちにそれを済ませたかったが、レイセン本人が疲れきっていたため明日……つまり今日に延期したのだ。
「あの、依姫様……少しお聞きしても?」
「構いませんよ、何でしょう?」
無言に耐えられなかったのか、レイセンがそう切り出してきた。
「えっと……『レイセンさん』についてもう少し知りたいなぁ……なんて」
少し驚いた。
まさか昨日の昔話で興味が湧いたのだろうか?
「……良いですよ、稽古場に着くまでの数分間で良ければ話ましょう。そうですね……先ずは何を聞きたいですか?」
「じゃあ……何で『レイセン』って呼ばれてるんですか?」
最初の質問は名前の由来ときたようだ。
確かに普通玉兎は固有の名前を持たず、個人個人で勝手に名乗ったり字名で呼び合う。
きっとこのレイセンも、レイセンという名を与えられるまでは名無しだったのだろう。
それ故に、レイセンという名前に疑問を持ったのかもしれない。
「レイセンという名前自体は私が名付けました。まぁ名前というより呼び名ですね、由来もそんなに大した理由ではありません」
ただ単に『冷戦』という言葉が、あの日レイセンを連れ帰った時に頭に浮かんだだけだ。
「……依姫様って、そのレイセンさんの事好きなんですか?」
「っ……!?」
不意打ちだった。
思わず変な声を出して転びそうになった。
「な、何を突然言いだすんですか……?」
「あ、いえ……ただレイセンさんの事を話している時の依姫様って何だか嬉しそうというか……女の顔してますね」
「女の顔!?」
なんだそれは、一体どんな顔だ。
大体何故女の顔なんてものを知っているのだ。
「……そ、それは私がレイセン……初代レイセンの事を好意的な目で見ているということでしょうか。それなら否定は……」
否定はしない。
レイセンは私にとっては特別な存在という事は自覚している。
「いえ、私が聞きたいのは性的な意味で好きなのかと言う事です」
「性的!?」
さっきから何なのだ。
この玉兎大人しそうな顔をしているのに、意外とグイグイ来るというか、アグレッシブというか。
……いや、よく考えて見たら、月の羽衣を盗んでまで地上に逃げようとしたのだ。
行動力という点では、他の玉兎より高いのかもしれない。
「ば、馬鹿なことを……大体、私は女です。そして初代レイセンも女……そんな性的な目で見る筈がありません」
「そうなんですか?」
「……質問は以上ですか? なら話は終わりです」
多分、今の私の顔は耳まで真っ赤なのかもしれない。
不思議なことだが、自分で思っている以上に、私はレイセンに対して何らかの感情を抱いているようだ。
尤も、その感情を表に出そうとする事はないだろう。
「あ、じゃああと一つだけ……何で今ここにそのレイセンさんはその……居ないのですか?」
「…………」
……まぁあれだけ話題に出ていれば、当然の疑問だろう。
「……その、聞いちゃダメでしたか?」
急に黙り込む私を見て、怒らせたのではないかと感じたのだろう。
少し焦ったような声で言ってきた。
「……いえ、別に構いません。初代レイセンがここに居ない理由ですね? ……彼女が『地上に行きたい』と言っていたから、地上に行かせただけです」
「え? 地上に……ですか?」
「えぇ、彼女にとって此処は居心地が悪かったのでしょう。不思議なことに、私自身も何というか……彼女の本当の居場所は月なんかではなく、地上なんだといつも感じていました。だから地上に行かせた、ただそれだけです」
そう、たったそれだけの理由だ。
本音を言うと、レイセンにはずっと此処にいて欲しかったのだが……
「さぁ、この先が稽古場です。今日からは他の兎たちと共に、これからの戦いに備えて力を付けてもらいます」
気が付けば兎たちの掛け声が聞こえ始めてきた。
しかし、さっきまでは声なんて全く聞こえていなかったはずだ。
となると、私が近づいてくる音を察知して、慌てて訓練を始めたのだろう。
どうせペチャクチャと雑談したり、寝てたり本を読んでたり桃を食べたりしてさっきまでサボっていたのだろう。
「……ちゃんと、稽古はしてたかしら?」
稽古場に着くと、兎たちがペアを組んで一生懸命訓練してますよーという雰囲気を醸し出していた。
私の言葉に兎達は作り笑いで頷く。
「まぁいいけど、今は緊急事態です。そんな緊急事態で緊張している貴方達に新しい仲間を紹介します」
スッとレイセンを前へ差し出す。
「訳ありでうちに匿っているので、あまりこの娘のことは口外しないように……さぁ、あの兎に今日から稽古をつけてもらいなさい」
少し離れた所で、一匹で武器の素振りをしている兎……髪が短いから『みっちゃん』と呼ばれている玉兎を指差す。
そう、彼女の本来の訓練相手は今此処にはいない。
何故なら、訓練相手は彼女の友であるレイセンなのだ。
「え……でも」
明らかに困惑した様子を見せるみっちゃん。
「大丈夫、今日からレイセンの役はこの娘が務めることになりました」
私がそう言うと、他の玉兎達も困惑をし始めた。
「……貴方たちも、いつまでも過ぎ去った日のことばかり考えては駄目ですよ。近い未来に現れるかもしれない未知の敵に備えて稽古することが貴方たちの仕事です」
そう、いつまでも過去を引きずるのは良くない。
引きずっていいのは、己の『罪』だけなのだから。
『……師匠、何か言うことは?』
「……あれは、その……仕方の無い事だから、私が謝罪をする必要はないわ」
『成る程、師匠は他者の家に忍び込むのが仕方のない事だと言うのですね?』
「だ、だから、『紅魔館』の連中が月に乗り込む為のロケットを作ってるていうから、それを確かめないわけには……」
『えぇ、師匠の言いたい事も分かります。しかし私が言いたいのは、私にすら何も言わずに一人で紅魔館に忍び込むという犯罪を犯した事です』
「……だって、うどんげに言ったら絶対に『犯罪です師匠、ちゃんと玄関の呼び鈴を鳴らして事情を話しましょう』とか言うだろうから……」
わかってらっしゃるではないか。
分かっていて行ったという事は、自分にそう言われると面倒くさいだとかそんな事を思ったのだろう。
『嘆かわしいです師匠、私は師匠をそんな大人に育てた覚えはありませんよ』
「……貴女は逆に常識というか、下手したらそこら辺の人間より人間っぽいわよ」
そうですね、そこら辺は自分も何となく察してます。
しかし今更それを止めろと言われても止められないものなのです。
『……まぁ良いです。仏の顔も三度までとも言いますし、師匠も反省しているというのなら今回の事は水に流します。そろそろ『パーティー』の始まる時間が迫ってますから、遅れるわけには行かないですからね』
「パーティーね……あの吸血鬼達は何を血迷ったのかしら。よりにもよって、月人である私達の所にも『月侵略の為のロケット完成記念パーティー』の招待状を送るなんて」
『おや、姫様。どうやら準備はもう万全のようですね』
「えぇ、永琳が鈴仙にこってり絞られている間にね」
現れた姫様は、いつもより豪華な格好をしていた。
パーティーとなれば、多少は着飾るのは当然の摂理というものなのだろう。
そしてずっと正座をして足が痺れた師匠の手を取って、立つのを手伝っていると玄関の戸が壊れそうな勢いで叩かれた。
「おーい長耳! 一緒にコーマカンとやらに行かんかぁ!? というか寒いから早く!」
「ふふ、お酒が沢山飲めると聞いて私も興奮が抑えられません……」
……果たしてあの妖怪達をパーティーなんかに連れて行って大丈夫なのだろうか。
よっちゃんは可愛い(確信