人理を照らす、開闢の星・序章〜awakening,precious,star〜 作:札切 龍哦
モーグ→ミケラ→最終敵
の順で終わらせます!なので仕事である30から2までマテリアルの力を借り、そっからは駆け抜けてまいります!
というわけで、これからもよろしくお願いします!それではどうぞ!
新鬼武者では黒い鬼だった人
・真名:結城秀康
・クラス:
・立ち位置(案):味方
・性別:男
・イメージCV:小野友樹
・出典:史実
・地域:日本
・属性:中立・中庸・人
「結城秀康、ここに推参!徳川家康の次男、豊臣秀吉の養子、あるいは結城晴朝の養子…どれで呼んでくれても構わないぜ。ま、マスターの好きなように扱ってくれ」
・ステータス
筋力:B、耐久:B、敏捷:B、魔力:D+、幸運:D、宝具:A
好きなもの:名刀
嫌いなもの:梅毒
・スキル
対魔力 C
魔術への耐性を得る能力。一定ランクまでの魔術は無効化し、それ以上のランクのものは効果を削減する。サーヴァント自身の意思で弱め、有益な魔術を受けることも可能。
Cランクでは、魔術詠唱が二節以下のものを無効化する。大魔術・儀礼呪法など、大掛かりな魔術は防げない。
本来はDランク程度の対魔力であったが、童子切安綱の保有によってランクが上がっている。
騎乗 B
乗り物を乗りこなすための能力。騎乗の才能。「乗り物」という概念に対して発揮されるスキルであるため、生物・非生物を問わない。
Bランクでは大抵の乗り物なら人並み以上に乗りこなせるが、幻想種あるいは魔獣・聖獣ランクの獣は乗りこなすことが出来ない。
武芸百般 B
多岐にわたり培われた戦闘技術により、あらゆる戦闘状態に対応することが可能。空中戦や水中戦と言った尋常ならざる戦闘や、未知・未経験の状況にさえ、培われた技術と経験を駆使することで即座に対応してみせる。
秀康は武勇抜群、剛毅で体躯もよく、一流のいくさ人であったと伝わる。
軍略 C
多人数を動員した戦場における戦術的直感能力。自らの対軍宝具行使や、逆に相手の対軍宝具への対処に有利な補正がつく。
カリスマ D
軍団を指揮する天性の才能。
秀康の武将としての器量は広く認められており、その体躯や武勇と併せて、一軍の将としての秀康の力量はかなりのものであったという。
刀剣理解 B
刀剣に対する理解度や造詣の深さ等を示すスキル。これはどちらかというと、作り手よりも使い手や収集家の方のスキルであり、「芸術審美」と似ているようで異なる。
秀康は、数々の名刀を手にする機会に恵まれたことから保有した。
秀康の場合、手にした刀の使い方を、それが特殊な性質をもつものであったとしても理解してある程度使いこなすことができる。もちろん、本来の使い手にはそのままでは及ばないが…。
神秘殺し D+
「平安時代最強の神秘殺し」源頼光の保有していた童子切安綱に由来するスキル。上記の「刀剣理解」によって引き出された。
秀康本人には神秘殺しの逸話がないので、本家本元の頼光には遠く及ばないが、神秘を持つ相手に対しての攻撃力が少し向上する。
・武器
童子切安綱:「天下五剣」に数えられる名刀。詳しくは宝具欄にて。
石田正宗:石田三成から贈られた名刀。詳しくは宝具欄にて。
稲葉郷:越中国の名工「
御手杵:養父・結城晴朝が造らせ、秀康に伝わった、日本三名槍の1つ。全長3.8mもあったという。後に火災に遭い、日本三名槍の中で唯一焼失してしまっている。
・宝具
『
ランク:A 種別:対人宝具 レンジ:1~5 最大捕捉:50人
「稲葉郷!石田正宗!そして、童子切安綱!──その眼に焼き付けよ!これらこそまさに伝家の宝刀、『
稲葉郷、石田正宗、そして童子切安綱。秀康が手に入れ、そしてその後、末裔である津山松平家に伝わった三振りの名刀。そして、それらを続けざまに抜き放ち振るって敵を斬り伏せる秀康の絶技。武勇に優れた秀康は、それらの名刀をしっかりと使いこなす。
・童子切安綱
「天下五剣」に数えられる名刀。かつては源頼光が酒吞童子を斬った刀であり、その後は足利将軍家、豊臣(羽柴)秀吉、徳川家康等の手に渡り、家康から羽柴家に養子に出される秀康に、餞別として贈られた。異伝としては、徳川秀忠の娘・勝姫が、秀康の嫡子である越前藩主・松平忠直に嫁ぐ際に、守り刀として秀忠から授けられたという説もある。
三本の刀の中では明確に武勲を持つ剣であるためか、あるいはその切れ味が江戸の時代においても実証されたためか、三本の中で切れ味は最も鋭く、秀康の「奥の手」でもある。宝具発動時のみ、源頼光の伝説を再現して稲妻を纏う。
・石田正宗
石田三成から贈られた名刀。豊臣家武断派による石田三成襲撃事件を家康が仲裁した後、蟄居先である三成居城の佐和山城まで三成を護衛した際、石田家臣が迎えに来た後も命令を守って自分も城まで付き添ったことから、三成から感謝の印として贈られた。
・稲葉郷
越中国の名工・郷義弘作の名刀。家康が秀康に、上杉軍の抑えとして宇都宮城に残るよう説得した際に、秘蔵の采配と共に贈った。
・概要
結城秀康。天下人・徳川家康の次男。天正2年2月8日(1574年3月1日)生まれ、慶長12年閏4月8日(1607年6月2日)没。
母は永見吉英の娘・於古茶(長勝院)。
家康の正室・築山殿が、正妻としての権限をもって、奥女中であった長勝院が家康の子を妊娠することについて承認しなかったため、長勝院は浜松城内から追放され、その先の地の領主・中村正吉の屋敷で秀康が誕生した。これはつまり、生まれてきた子を家康の子として認めないことを示していた。
幼名の「於義伊(於義丸 / 義伊丸 / 義伊松)」は、顔がナマズに似ていたことから名付けられたとされ、このことや、後述の家康との対面がなかなか許されなかったエピソード等から、秀康が家康に愛されなかったのではないかとする論調もある。
その後、出産を差配した本多重次や中村正吉に育てられた秀康は、築山殿が承認しない息子であったため家康からも認知されず、それを哀れんだ兄・松平信康の配慮によって、秀康が3歳の時に家康との対面が叶う。
とはいえ、秀康が家康の子として認知されたのは、彼を承認しなかった築山殿が亡くなってからだった。
その2年後に信康は、織田信長の命を受けた家康によって処刑されてしまい、次男であった秀康は、徳川家の後継者になるはずであった。
しかし、小牧・長久手の戦いにおける羽柴軍と徳川軍の和睦の際、その条件として秀康は羽柴秀吉のもとに養子として送られることとなり、また、秀康の異母弟である徳川秀忠の母の方が秀康の母よりも身分が高かったことから、秀康は徳川家後継者とはなれなかった。
この時、養子に行く秀康に、家康が餞別として采配と共に与えた刀こそが、「童子切安綱」であった。
また、元服した際には秀吉と家康から一字ずつ取って「羽柴秀康」と名乗った。
14歳の時の九州征伐で初陣を果たした秀康は、その際の豊前岩石城攻めや日向国平定戦などで武功を挙げたことで豊臣姓を下賜された。また、左近衛権少将・三河守に任官し、「三河少将」と呼ばれたこともある。
なお、秀吉の人質時代に、秀康は、養子である彼を軽んじた秀吉の寵臣に馬術を競わんと共駆けをけしかけられそうになったが、「許しもなく共駆けとは無礼千万」としてその家臣を斬り捨ててしまったことがある。だがその際には秀吉は、「自分の養子をないがしろにするのは、自分に無礼を働いたことと同じ。秀康の処置は天晴れである」としてむしろ秀康を褒め称えたという。
だが、天正17年(1589年)に秀吉の実子・鶴松が誕生すると、秀吉は鶴松を後継者とし、他の養子達を遠ざけるように他家に出してしまう。秀康もその例に漏れなかった。
だが秀康はただ養子に出されたのではなく、関東平定の功労者である家康の関東移封に伴う更なる加増として、秀康を、北関東の大名である結城氏のもとに婿養子に出したのである。こうして秀康は、黒田官兵衛孝高のとりなしで、結城晴朝の姪である、江戸重通の娘・鶴姫と結婚し、結城家の家督と所領10万1000石を継いだ。
その後、新たな養父・晴朝の名から一字もらって「結城秀朝」と名乗ったとされるが、後に「結城秀康」に戻している。
また、晴朝から、後に日本三名槍に数えられる「御手杵」を譲られている。
結城家を継いだ後は、奥州における大崎葛西一揆鎮圧や小田原平定、文禄・慶長の役にも出陣し、武功を立てたという。
だが、秀吉死後は実父・家康に味方し、家康が、豊臣政権武断派による石田三成襲撃事件の仲裁をした折には、秀康は堀尾吉晴と共に三成を佐和山城へと護衛。その際に三成から礼として、「石田正宗」を贈られている。
1600年には会津征伐に参加。その途上で石田三成が挙兵した関ヶ原の戦いが起こると、秀康は、上杉景勝を牽制するために宇都宮城での留守居を命じられる。
この時、家康が秀康を説得する際に秘蔵の采配と共に渡したのが「稲葉郷」である。
家康から伊達政宗への手紙には「秀康と相談して上杉に備えるように」と記されており、秀康も武将として家康から信を置かれていたことが見て取れる。
戦後、秀康は越前国北荘68万石余に加増移封され、柴田勝家の城の跡地に新たに北ノ庄城を築いた。
その後は、家康及び秀忠からは、幕府の制度にとらわれない「制外の家」の当主として扱われて重んじられていたという。
その後の慶長10年(1605年)に権中納言へ昇進し、翌年9月21日には伏見城の留守居を命じられたものの、病気によって職務を全うできなくなったため、さらにその翌年の3月1日に越前へ帰国し、そのまま閏4月8日に死去した。享年34。
死因は梅毒、もしくは梅毒による衰弱症だったとされるが、他の難病にも蝕まれていたとする説もある。
・外見
甲冑を纏い、腰に石田正宗と稲葉郷を佩いている。おおよそ、福井県庁(福井城跡)敷地内にある秀康の石像に近い形の姿で現界する。
御手杵と童子切安綱は戦闘中に取り出して使用し、特に童子切安綱は切り札として用いられる。
・人物
剛毅な性格で、武将としての器量を十分に備えた青年。
しかし、プライドの高さや気性の荒さも備えており、前述の、許可なく馬を並走させた秀吉家臣を無礼討ちにした話や、鉄砲持参のまま碓氷関所を通ろうとして役人に制止された際にその役人を成敗しようとした話も残っている(なお、その報告を受けた秀忠は「兄上に成敗されなくて幸いであった」と言い、秀康も役人も咎めなかった)。
とはいえ、家臣が迎えに来ても三成を城まできちんと自分で送り届けたことから、真面目な性分でもある。
加えて、礼節を弁え謙譲の心を持った人物でもある。それを示すように、秀忠の将軍就任の祝いの席で、自身に上座を譲ろうとした同じ権中納言の上杉景勝に対して、景勝の方が先に権中納言になったのだからと、景勝に上座を譲ろうとして結局譲り合いになってしまったというエピソードもある(その場においては、秀忠の命で秀康が上座についた)。
要するに、プライドの高さや気性の荒さはあるが、剛毅で真面目、礼節と謙譲の心を備えた人物であり、マスターと良好な関係を築けていれば、充分に信頼に値する将であろう。
マスターに対しては敬語を使わず話すが、それでいながら自身の領分を弁え、主としてマスターを立てる行動を取る。
それらに加えて、この秀康は「戦国乱世」というものにややドライな考え方を持っており、権謀術策や暗殺、切腹命令などの後ろ暗い数々の事象についても、「そんなもんだ」と割り切っている。これは、自分の出生にまつわる諸々から始まり、兄・信康の処刑や自身の度重なる養子縁組、さらには父・家康の「正体」を知ったことなどに由来する。
また、この秀康は、名刀を複数本手に入れていることから刀に造詣が深く、やや刀マニアの気がある。
・関連人物
徳川家康:実父。正妻・築山殿に認められなかった秀康は3歳になるまで彼との対面が叶わず、その後も羽柴秀吉のもとに養子に出されるなど、彼との親子関係は薄かったが、それでも独特な信頼関係は存在していた。
徳川の資料を読み漁った際に、家康の「正体」を偶然知ってしまったが、これといって気にしていない。
「父上…家康公のことか?んー…まあ、あれだ。父上には父上の、オレにはオレの役目があって、そいつをお互い果たした、ってだけかな。ああ、そんなもんさ。
…まあ、父上が『何者か』ってことについては相当腰を抜かしたもんだが……考えてみりゃ、権謀術策渦巻く戦国乱世だ。そんなこともあらぁな」
羽柴(豊臣)秀吉:1人目の養父。小牧・長久手の戦いの後に、彼のもとに養子に出された。元服した際には、彼と家康から一字ずつ取って「秀康」と名乗った。後継者にはなれなかったとはいえ彼のもとではなかなかに厚遇されていたらしく、秀康自身も秀吉や豊臣家には好感を持っていた。
「秀吉公には、結構よくしてもらってな。あそこでの養子暮らしは悪くなかったぜ。…ま、オレの死後とはいえ、その豊臣が徳川に滅ぼされたってのは……なんだかなぁ。盛者必衰ってやつなのかねぇ」
結城晴朝:2人目の養父。彼との目立ったエピソードはないが、徳川→豊臣→結城と、流れに流れた自分を子として遇してくれたことには恩義を感じている。それだけに、実父・家康の方針で嫡子・忠直が結城姓ではなく松平姓に戻されたこと等については、申し訳なく思っている。
「親父殿…結城晴朝殿にも随分世話になったよ。これと言って大きな何かがあったわけじゃないが…ああいや、親父殿や結城の一部家臣が転封に反対した件とか、忠直の姓の件とかで、迷惑はかけちまったな。色々と、申し訳ねえ」
松平忠直:嫡子。大坂の陣で優れた武功を挙げたものの、後に、罪人や領民や家臣を殺す、弟・直基を脅す、酒色に溺れるなどの狂気的な乱行を起こすに至った顛末を知り、コメントに困っている。
「仙千代…ああいや、忠直だったな。あいつはなぁ…。真田幸村の首を確保して大坂城に攻め入ったのは立派なんだが……どうしてああなっちまったかなぁ…。民も家臣もお構いなしに殺戮し、妻子を使って脅迫までやらかすとは…。
…多分教育失敗してんな、オレ…」
松平信康:兄。幼い自身と父・家康を引き合わせてくれた恩人。彼の死に際してはそれを悼みつつも、「そんなもんだ」と割り切る様子も見せており、誰のことも恨んでいない。
「兄上は多分、色々あったんだろうな。武田との内通、父上との不和、家臣の派閥争い、夫婦仲の悪化、本人の悪行乱行…。どれが真実でどれが原因かは知らねえし誰も教えてくれなかったが、きっとどれかはあったんだろ。火のない所に煙は立たぬって言うしな。…結局『戦国の世はそんなものだ』ってだけだろ、ホントのとこは。……ま、世渡りが下手だったのさ。兄上も、オレもな」
徳川秀忠:弟。母親の家格の違い等により、次男であった自身を差し置いて後継者に選ばれた三男。自身が天下一になれなかったことを惜しみはすれど、秀忠を恨むことはない。
「秀忠をどう思うか、だって?別に、恨んじゃいねえよ。オレもあいつも、それぞれそういう運命だったってだけさ。それに、実際秀忠はよくやったさ。オレがあいつの立場だったとして、あそこまでやれた自信はねえよ。
…うちのガキは馬鹿息子になっちまったしな…」
出雲阿国:歌舞伎の創始者として知られる女性。1600年当時に城代をしていた伏見城に招いた彼女の歌舞伎踊りを見て「天下一の女と呼ぶとすれば彼女のことだ」絶賛したという。
「出雲阿国の歌舞伎踊り…ありゃあまさに天下一ってやつだな。ああ、『天下一の女』なんて称号を付けるとしたらあいつのことだろうと、あの時代を生きたオレはそう思う。相棒のデカい絡繰人形も実に趣味が良いしな。…え?封印の巫女?妖ハンター?…はー、そんな顔もあったとはねぇ…」
石田三成:豊臣政権の五奉行の一人。彼が豊臣政権武断派に襲撃を受けたのち、佐和山城に戻る彼を護衛した。その礼として、三成が秀吉から賜った名刀「石田正宗」を受け取っている。
「三成殿なぁ…なんつーかこう、生きにくい御仁だと思ったよ。いやまあ、有能なんだけどよ、人付き合いとか苦手そうだな、ってな。護衛の礼っつって刀くれたり、妙なところで律義ではあるんだが…」
茶々:豊臣秀吉の側室。家康の次男でありながら秀吉の養子となり、秀吉死後に関ヶ原で実父・家康の東軍に加わった自分が、徳川に怨嗟を向ける彼女にどう接すればいいのか分からず、とりあえず距離を取っている。
「げ、淀殿がいんのか…。あ、いや、苦手ってわけじゃなくてな。秀吉公の養子とは言え血筋は徳川だし、関ヶ原では東軍にいたし、もしかしたらオレも彼女に恨まれてんじゃねーかなと思ってよ。そこんとこどう思うよマスター?」
鶴松:豊臣秀吉と茶々の実子。彼が生まれたことをきっかけに、秀康は他の秀吉の養子共々、他家に養子に出されて遠ざけられたのだが、秀康はその件で鶴松を恨んだりしない。むしろ、夭折してしまったことを悼んでいる。
「鶴松
豊臣秀頼:豊臣秀吉と茶々の実子。彼の代にあっても秀康は豊臣家に好感を持っており、それだけに秀頼の代で、しかも自分の死後に豊臣家が徳川に攻め滅ぼされたことには、やるせない気持ちでいる。
「秀頼
徳川家臣たち:父の配下。主に「三河武士」と呼ばれる者達については、その力量と気質の両面を見た評価を下す。
「父上の家臣もここにいるのか?なら気を付けろよ。マスターもどっかで聞いたかもしれねえが、三河武士は頼りがいがある一方でめんどくせえのも多い。忠勝とか元忠とか康政とか…あの辺とかはまさにそういう三河武士だな。折り合いが悪い奴とかも結構いるだろうから、使いこなし方には用心しな。ま、マスターなら大丈夫か!」
源頼光:源氏の棟梁にして、童子切安綱の元々の持ち主。強い畏敬の念を抱いている。
「み、源頼光殿!?この童子切安綱のかつての持ち主で、鬼を斬った伝説の…!対面が叶い恐悦至極…!」
千子村正:室町時代中期に興った刀工流派の創始者。村正の刀は徳川に忌み嫌われる妖刀とされたが、秀康はそんなことは気にせず、優れた刀鍛冶として興味津々。
「千子村正…って、あの刀鍛冶の!?マジか…そんなサーヴァントもいるんだな…!一目会って、刀を見せてもらいたいもんだ。すまんマスター、案内してもらえるか?」
リッカ「いいよ!くれぐれも剣士として扱わないようにね!」
日本の剣士サーヴァント達:剣士としては自身は彼ら彼女らに遠く及ばないとしつつも、その刀には興味が湧いている。
「オレは剣豪なんかじゃないし、人斬り専門でもない…そういう分野では、いわゆる『剣豪』達には及ばねえよ。だが…あいつらの刀には、オレも興味があるな」
藤丸リッカ:頼光より童子切安綱を受け継いだマスター。秀康もそれを知り、自らも童子切安綱を手にした者としてより気を引き締める。
「まさか、マスターも童子切を持ってるとは…。しかも、その極めた剣の位は…。…こりゃあ、童子切を持って召喚されちまった以上、このマスターのもとで情けない戦はできねえな。マスターにも頼光殿にも失礼になっちまう。
しかし、その稲妻の剣技も相当な……ああいや、気安く学んでいいもんでもなさそうだ。忘れてくれ」
リッカ「実は、私も教える事が出来ないんだ。これは…母さんを助ける為の剣だから…」
アナザーガタックさん、ありがとうございました!
皆様、いつも本当にありがとうございます!
時間の余裕は自身の生活リズム調整に充てさせていただきますので、暫しお待ちくださいませ!