人理を照らす、開闢の星・序章〜awakening,precious,star〜 作:札切 龍哦
名前 前田利家
クラス ランサー
身長 181cm
ステータス
筋力 A 耐久 B 敏捷 C 魔力 E 幸運 B 宝具 ─
クラススキル
対魔力 C
魔術に対する抵抗力。一定ランクまでの魔術は無効化し、それ以上のランクのものは効果を削減する。サーヴァント自身の意思で弱め、有益な魔術を受けることも可能。
Cランクでは、魔術詠唱が二節以下のものを無効化する。大魔術・儀礼呪法など、大掛かりな魔術は防げない。
騎乗 C
乗り物を乗りこなす能力。騎乗の才能。乗り物という概念に対して発揮されるスキルであるため、生物・非生物を問わない。
保有スキル
反骨の相 E
一つの場所に留まらず、また一つの主君を抱かぬ気性。自らは王の器ではなく、自らの王を見つける事ができない流浪の星。
同ランクまでのカリスマを無効化する。
前田利家は主君・織田信長が寵愛していた同朋衆の拾阿弥と諍いを起こし斬ってしまったり、この事が原因で出仕停止処分を受けながらも戦に無断出撃したり、織田信長亡き後に柴田勝家に味方するも秀吉側に組する等たまに主君の意図から外れた行動を取る事がある。
勇猛 B
威圧、混乱、幻惑といった精神干渉を無効化する。また、格闘ダメージを向上させる。
宗和の心得 B
同じ相手に同じ技を何度使用しても命中精度が下がらない特殊な技能。攻撃を見切られなくなる。
武芸百般 A
多岐に渡り培われた戦闘技術により、あらゆる戦闘状態に対応することが可能。
空中戦や水中戦と言った尋常ならざる戦闘や、未知・未経験の状況にさえ、培われた技術と経験を駆使することで即座に対応してみせる。
槍の又左衞門あるいは槍の又左の異名を持つ前田利家であるが、備州長船住長義(びしゅうおさふねじゅうちょうぎ)「名物」と評され、「大坂長義」(おおさかちょうぎ)の異名を持つ短刀や天下五剣の一振、大典太光世等も所持しており、その武芸は槍だけに留まらない。
心眼(偽) A
直感・第六感による危険回避。虫の知らせとも言われる、天性の才能による危険予知。視覚妨害による補正への耐性も併せ持つ。
不撓不屈 EX
超人的なタフネス及び精神性。発動時には、パラメーター内の耐久のランクを一時的にA++ランクにまで上昇させる。
前田利家の場合、重複可能なガッツを2回付与し、ガッツ発動時、弱体解除、スキルチャージ短縮を付与する状態を付与する。
殿の矜持 B
防衛戦、撤退戦など不利な状況であればあるほどに力を発揮する。
黄金律 B
身体の黄金比ではなく、人生においてどれほどお金が付いて回るかという宿命を指す。
小姓から加賀百万石の祖たる大大名に出世を果たし、また守銭奴として有名であった事からこのスキルを有する。
宝具
日本無双の槍
ランク:─ 種別:対軍魔槍
由来:大坂本願寺攻めにおいて、春日井堤を退却する味方の中で1人踏み留まって敵を倒し、無事味方を退却させたことから「日本無双の槍」と称された逸話。
1570年の石山合戦のおり、三好方が野田福島の砦から、淀川を挟んで対岸にあたる堤防を、足軽を動員して切断し、海の水を織田軍側に流した。
現在の大阪福島区はすっかり陸地なのだが、この頃はまだ、付近一帯は淀川の流れを巻き込みつつ、その中洲が少し陸地となっているような湿地帯で、そこを野田福島の砦は、わずかに残る陸地を堤防で以って固めて砦を構築し、南北東に広がる沼のような湿地の中、唯一西側に広がる海が、そのまま瀬戸内へとつながる物資の補給路でもあるという天然の要害であった。
この時、にわかに西風が吹いて海から高塩水が吹きあがり、淀川の水が逆に流れるほどに勢いを増した事から、切られた堤防から、水は一気に織田側の陣営の方へ来たため、信長軍の陣屋がことごとく水に浸かってしまった。
この水は、翌日になっても退かず、この周辺の信長軍の将兵は皆、物見やぐらに登ってこれを凌ぐのが精いっぱいという有り様だった。
当然、敵がこの状況を見逃す筈がなく、天満ヶ森に出陣した石山本願寺と織田軍は交戦を開始、一番手に佐々成政が出撃するも負傷のため、退かざるを得なくなり、撤退する佐々成政が率いていた軍勢の中を二番手である前田利家は堤の上、中央に留まり敵を倒し、駆け付けた援軍と共に撤退させる事に成功した。
この事により、堤の上の槍または日本無双の槍と呼ばれる事となった。
前田利家は三間半柄(約6m30cm)の赤く塗った長く派手な造りの槍を振り回す。
ただし、実際には槍は手足の様に自在振るわれており、攻撃あるいは防御から防御あるいは攻撃、もしくは連撃へと瞬時にかつ流れる様に切り替る。
攻撃、防御等の全ての動きが次の動きへの予備動作になる様に動き、動きを全て繋げる事で隙を作る事なく、軍勢相手でも戦い続ける事を可能とする。
本来ならその絶技は対人魔槍の種別だが、最終的に敵軍に打ち勝った逸話が複合された為、対軍魔槍の種別となっている。
自身に弱体解除、弱体無効、ダメージカット、ターゲット集中、反撃状態、防御力、クリティカル威力大幅上昇、1ターンの間反撃を含めた全ての攻撃を全体攻撃にする状態を付与する。
また、追加効果として、飽和した分を含めたスターを消費する事で反撃にクリティカルを適応する事ができる。
解説
加賀百万石の祖たる大大名であり槍の又左、日本無双の槍の異名を持つ武将、前田利家。
元服前の小姓・前田犬千代として初陣した萱津の戦いでは、合戦の際に目立つ様、自ら朱色に塗った三間半柄の槍を持って首級ひとつを挙げる功を立て、信長は「肝に毛が生えておるわ」と犬千代を賞賛した。
元服した後は孫四郎利家と名乗った。
元服直後に参戦した稲生の戦いでは、合戦中に敵方の宮井勘兵衛により右目の下に矢を受け、味方が引くことを促すも、「まだ一つも首級を挙げてない」と顔に矢が刺さったまま敵陣に飛び込み、弓を射た宮井本人を討ち取る功を立て、織田信長が大いに喜び、「犬千代はまだかような小倅ながらもこのような功を立てたぞ」と、合戦中に味方を鼓舞したとの逸話がある。
この時、利家は矢を抜くことなく戦後の首実検にも参加したという。
後に通称を又左衛門と改めた。
これにより初陣以降、緒戦で槍先による功を挙げた武辺者であったため、槍の又左の異名で称えられる事となった。
また、若い頃の利家は、短気で喧嘩早く、派手な格好をしたかぶき者でもあった。
浮野の戦いの後、新設された赤と黒の母衣衆の赤母衣衆の筆頭に抜擢され、多くの与力を添えられた上に、100貫の加増を受ける。
同年、従妹であるまつ(芳春院)を室に迎えて、すぐに長女・幸を儲ける。
利家は織田信長の寵愛を受けた同朋衆の拾阿弥と諍いを起こし、拾阿弥を斬殺したまま出奔した。
この事件は俗に、「笄(こうがい)斬り」と呼ばれている。当初、この罪での成敗は避けられなかったが、柴田勝家や森可成らの信長への取り成しにより、出仕停止処分に減罰され、浪人暮らしをする。
ちなみに、この刃傷沙汰は拾阿弥が利家の大切な笄(こうがい・髷を結う道具)を盗むなどをしてた事が原因。
そのたび織田信長は利家を諭しておさめていたのだが、この厚遇に拾阿弥は次第に増長。ついには利家の前で悪態をつきはじめ、とうとう利家の堪忍袋の緒を切ってしまうに至った。
利家は怒りに任せて真正面から拾阿弥に向かって刀を振りかぶって斬り掛かり、一太刀で彼を文字通り真っ二つにしてしまったと言われている。
この拾阿弥の盗んだ笄は利家の正室・まつの父(篠原一計)の形見の品であり、日頃から大事に扱っていた代物であったという。
利家は出仕停止を受けていたのにも関わらず、織田信長に無断で桶狭間の戦いに参加して朝の合戦で首1つ、本戦で2つの計3つの首を挙げる功を立てるも、帰参は許されなかった。
利家は森部の戦いでも無断参戦する。
ここで斎藤家重臣・日比野清実の家来で、「頸取足立」の異名を持つ足立六兵衛なる怪力の豪傑を討ち取る功績を挙げた。
この時、足立以外にも首級1つを挙げている。2つの首級を持参して信長の面前に出ると、今回は戦功が認められ、信長から300貫が加増されて450貫文となり、ようやく帰参を許された。
以後の利家は、信長が推進する統一事業に従い、緒戦に参加する。
槍はもちろん、時には鉄砲奉行として戦に参戦する事もあった。
本能寺の変で信長が家臣の明智光秀により討たれた時、利家は柴田勝家に従い、上杉景勝軍の籠る越中魚津城を攻略中であり、山崎の戦いに加わることができなかった。
信長の死亡後まもなく、織田家の後継人事等を決定する清洲会議において、羽柴秀吉と柴田勝家が対立すると、利家は柴田勝家の与力であったことからそのまま勝家に与することになるが、かねてから旧交があった秀吉との関係にも苦しんだ(秀吉とは足軽時代からの親友で、屋敷も垣根を跨いですぐ隣であった)
後に勝家の命を受け、金森長近・不破勝光とともに山城宝積寺城(現京都府大山崎町)にあった秀吉を相手に一時的な和議の交渉を行った。
前田利家は賤ヶ岳の戦いにおいて、5,000ほどを率いて柴田軍として布陣したが、戦わないうちに戦線を放棄するような動きがあり、これは秀吉の勧誘に利家が早くから応じていたからではないかと推測される。
ただしこれは、前田利家は柴田勝家と親交が深く、彼を「親父殿」と呼び慕っており、賤ヶ岳の戦いにおける説得についても、前田家存続と利家の身を案じた勝家自らが秀吉の元へ行くように説き伏せた結果だったりする。
前田利家は越前府中城に籠るが、敗北して北ノ庄城へ逃れる途中の柴田勝家が立ち寄ってこれまでの労をねぎらい、湯漬けを所望している。
府中城に使者として入った堀秀政の勧告に従って利家は降伏し、北ノ庄城攻めの先鋒となった。戦後本領を安堵されるとともに佐久間盛政の旧領・加賀国のうち二郡を秀吉から加増され、本拠地を能登の小丸山城から加賀の金沢城に移した。
これ以降は秀吉の臣下として仕える事となる。
文禄の役の時には留守の秀吉に代わって諸将を指揮し、政務を徳川家康と共に行ったりする活躍を見せた。
身体が衰えてきた頃、嫡子・利長に家督を譲り隠居、したのだが隠居は許されず、湯治より戻った前田利家は、五大老・五奉行の制度を定めた秀吉より大老の一人に命じられてしまう。
そして8月18日、秀吉は、利家らに嫡子である豊臣秀頼の将来を繰り返し頼み没する。
翌年、前田利家の病状が悪化し、徳川家康が病気見舞いのため利家邸を訪問した。この時、前田利家は抜き身の太刀を布団の下に忍ばせていたという。
うかつな事を家康が口にしていたら歴史は変わっていたかもしれない。
その後、前田利家は大坂の自邸で秀吉の後を追う様に病没した。
前田利家は守銭奴としても知られている。
前田家の決済はすべて利家自身で行ったため、愛用の算盤が家宝として残っている。
利家は笄斬りによる2年間の浪人生活で金の大切さを身をもって知り、後年には「金があれば他人も世の聞こえも恐ろしくはないが、貧窮すると世間は恐ろしいものだ」とつねづね口にしていた。
もちろん、現界した時にも生前から愛用している算盤を持ち込む、現界後、電卓やパソコンも使う様になるが、算盤は絶対に手放さない。
ただ、北条家滅亡後に家来を養えず困っている多くの大名に金を貸しており、遺言においては「こちらから借金の催促はしてやるな、返せない奴の借金はなかったことにしてやれ」と利長に命じていたりもする。
同時に死の際には、「御家騒動はいつも先代の不始末が原因だ、自分の死後、奉行らにあらぬ疑いをかけられては気の毒だ」と言って一度意識を失いながらもまた起き上がり、残っている財政関係の仕事を全て終わらせてまた死んだという逸話があったりする。
他にも危篤の際には自ら経帷子を縫い、利家に着せようとするまつ(芳春院)が「あなたは若い頃より度々の戦に出、多くの人を殺めてきました。後生が恐ろしいものです。どうぞこの経帷子をお召しになってください」と言うと利家は、「これまで幾多の戦に出て、敵を殺してきたが、理由なく人を殺したり、苦しめたことは無い。だから地獄に落ちるはずが無い。もし地獄へ参ったら先に行った者どもと、閻魔・牛頭馬頭どもを相手にひと戦してくれよう。その経帷子はお前が後から被って来い」と言って着るのを拒んだという。
前田利家の妻といえば22歳の頃に結婚したまつ(芳春院)、当時11歳が有名、その経緯から武蔵から仲間を見る様な目で見られたりしたが、幼かったからまつがよかったのではなく、まつであれば例え老婆でも愛していたと断言する。
そんな前田利家の望みは生前からの疑問を解決する事である。
何故かまつは前田利家にずっと側室を薦めていた。
時には自身の侍女を差し向けたりもした。
跡継ぎもいたし、側室は必要ないし、まつの事を愛しているのに、それが不思議でならなかった。
続きます!