…………長い、夢を見ていた。
なんてことない、ただ普通の家族が、ただ普通に団欒しているだけの夢。
ただそれだけなのに、僕の手からこぼれ落ちていった
ここ最近は、あまり見ていなかったのだけど。
ああ、だからだろうか。
どうにも夢の見方を忘れたらしい。
いつもは夢の終着点が目覚めの時で、ちゃんと瞼は上がるのに。
今日の夢は、袋小路だ。
終わりへと行き着いたって、何度も何度も繰り返す。
もう十分だ。十分だ。やめてくれ。
助けて。誰か、誰か———!
2月1日
私——禅城凛は、苛立ちを隠せずにいた。
私は廃ビルでの決死の救出劇のあと、被害者である少年を保護させるべく、教会へと赴いていた。
そう。結局、
救っておきながら殺す、という自己矛盾に耐えられなかったのです。
そういうことにしておきましょう。
当然、アーチャーからはお小言の嵐だ。
やれ自分の立場を自覚しているのかだの、やれ君の攻め手は繊細さを欠くだの。
…………もちろん、自覚しているのよ?
でもだって、あの銀髪の女——スリットの深いスカートからは太もも剥き出し、ノースリーブの上衣からは胸の駄肉がハミ出しかかった露出狂女は、他ならぬ冬木の人間を利用して、マナ結晶など製造しようとしていたのだ。
普段の私なら、「ちょうどいい」と獲物を明け渡してくれてやるのもやぶさかではなかったろうが…………いや、よそう。
ただでさえイラついているところに、自ら火の点いたマッチを放り込んでやる必要もない。
「……、ねえ、監督役さん」
月明かりの下、読書に耽るローブ姿の小柄な女性に声をかけた。
少年を運び込んでからかれこれ5時間ほど経った。
時計の針は既に頂点を回り、比較的温暖とされる冬木市においても中々の寒さを誇り、思春期の男女諸氏におかれましてはこの上なく浮き足立つであろう二月の訪れを示している。
私がぼんやり思考を巡らす程度の間をおいて、問いかけた先の彼女は頁をめくる手をおいた。
「どうかしたかな、アーチャーのマスター」
なんでもどうぞ、とでも言うような開け放った気配を伴い、返事が寄越してくる。
こういうヤツほど、腹に一物抱えているというのが経験談なのだが、どうか。
「前にここを根城にしていた神父、どこに行ったのかしら」
傍らで眠る少年が目を覚ますまでの無聊を慰めるつもりで、単純な疑問を投げかける。
アイツ、あんなでも実力は確かだし、当時から顔も広かったはずだ。
だから、監督役としては適任だと思っていたのだが。
どういうわけかこのチミっこい女が、この教会に居着いていたのだ。
「神父……ああ、ああ。コトミネ神父のことかな」
「そう、そのコトミネよ。アレは私の見立てじゃ、聖杯戦争の仲介役として最も適任だったのだけど」
新たな監督役——チミっこいのは、ふむ、と唸った。
先の気配はどこへか消えて、何やら含むところがある様子を見せる。
「いや、僕はあくまで魔術協会側の人間でね。
教会のあれやこれやにはいささか疎い。
そちらについては……おぉい、アザレア、アザレア」
きまり悪そうに笑って誤魔化し、ふいと首を回して、軽やかな鈴の音を投げかける。
“はい、只今”、と。
月影の闇の中から、豊かな響きを持った女性の声が返った。
かつん、かつん、と。
ヒールが床を蹴る音が近づいてくる。
歩調はゆったりと、緩慢としているのだが、一歩一歩と近づく度に、まち針で縫いつけられるような妙な感覚があった。
意識を自身の内側に。
外界との干渉を遮断。
モノを視る目は冷徹に。
ただ観測し、観察する。
そこまで意識を研ぎ澄ませて、ようやく縛りは解けた。
影のうちから出でた女は、サーヴァントではない。
ならば人間か。
否、人間と定義するには極めて異質。
黒曜石みたいに黒くて艶やかで、顔の半分を覆っても野暮ったさなんて微塵もない長髪でさえ、美しいのを通り越していっそブラックホールのように思われる。
紅玉でも嵌め込んだような真紅の瞳は、見つめるだけで悪魔に魅入られるみたいに居心地が悪い。こんなのに戦神の加護なんてあるもんか。
……無論、こういうバケモノみたいな人間を知らない、私の見地の狭さだという線も捨て置けないが。
むしろそっちの方が、精神衛生上クるものがあるか。
とにかくあの修道服を着た女、ナニモノなのか判別不能だ。
「紹介しよう、こちらはアザレア嬢。
聖堂教会から派遣された、代行者だ」
———代行者。異質の女を隣に侍らせ、彼女を指してそう呼んだ。
代行者とは、悪魔祓い……いや、悪魔殺しのことだ。
聞いた話じゃ、教義に反する異端の存在を、人の身でありながら屠り去る、彼ら自身異端と化した修羅の巣窟——らしい。
もっともこれは我が兄弟子の受け売りなので、どこまで真に受けていいやらなのだが。
……仮に、代行者というのが文字通りの修羅だとしたら?
サーヴァントではない身でありながら、人間ならざる気配を纏う。
悲しいかな、細かい不足を差し置けば、そこそこ道理が通ってしまう。
「…………なるほど。
じゃ、正式に言峰から役割を受け継いだのはアンタってわけ」
「ええ、そういうことになります。
何しろエノク様はこちらの事情に疎い方でして……」
「済まない、待った」
訝しむ様子を面に貼っつけてしまっているであろう私と、深く頭を下げてから朗らかに微笑む代行者。
その話の腰を折って、ちみっこいの改め、エノクと呼ばれた女が割って入る。
「割って入って済まないが、自己紹介がまだだった。
名の一つも明かさずに監督役を担うのは、いささか礼儀を欠くだろう。
では改めて、私の名はエノク。
不肖の身でありながら、かのアダムの孫の名を預かったしがない魔術師だ。
前任の神父と比較されるといささか辛いものがあるが、監督役としての責務は果たしてみせよう」
テンプレートみたいな自己紹介。
なるほど確かに、エノクと呼ばれたこの女も魔術師の典型に収まっているらしい。
言葉とは便利なもので、深入りされない限りはいくらでも自分のうわべを偽ることができる。
だから私はコイツらのことを信用しない。
「ご丁寧にどうも。
それにしても、協会の人間が力不足だからって、わざわざ教会からもうひとり遣わせるなんて。
随分とこの聖杯戦争は特別なようね?」
「無論だ。
第三次聖杯戦争の折、一悶着あって大聖杯が外部の者に奪取されたのはご存知の通り。
それからというもの、世界各地で亜種聖杯戦争が繰り返されてきた。
規模の大小は様々だったが、そのどれもが本来の聖杯戦争と比べれば、取るに足らない些事だった。
個と個の醜い殺し合いと呼ぶのがせいぜいさ」
「ですのに、魔術師たちの欲は冷めるところを知らず。
魔術協会も聖堂教会も把握し得ないような瑣末な戦いにさえ、何にも劣らぬ至上の使い魔を求めて、希少な触媒を買い求めようというのです。
おかげで多少の経済発展も見られたのですが……そこはそれ、悪戯に触媒を利用され、触媒の管理を担う教会は、ひどく頭を痛めておりますの」
エノクもアザレアも、揃って肩をすくめてみせる。
……なるほど、彼女らには彼女らなりの苦労があるらしい。
なんというか、邪険にして悪かった……と思う。
「けれど今回の聖杯戦争は違う。
七人の魔術師と七騎のサーヴァントが大聖杯を争う真っ当な聖杯戦争だ。
あまり君にばかり話してしまうと不平等でね、詳しくは言えないが、我らが積極的に手を貸す意義も生まれてくるのさ」
教会と協会の両者が介入する意義がある、ということは。
———根源への扉が開く可能性がある、と言い換えられるか。
言峰のヤツは根源になんて興味ないだろうし。
「そう、そういうこと。
で、言峰は?私の問い、まだ答えてもらってないわよ」
一応、自分で言い出したことだ。
わからないから何、というわけではないがはっきりさせておこう。
「彼もまた、代行者ですので。
私どもがこちらへ派遣されるに際し、別件を充てがわれたのですよ」
多分この時、私の口はあんぐり開いていたと思う。
驚いた。アレも代行者だったのか…………。
◆
——やっと瞼が上がった。
長い夢の、幾度と知れない終わりに行きあった。
視界には果てしなく高く思える天井が映る。
「あら、お目覚めかしら?」
頭がぼんやり霞がかって、天地や東西もわからないところに女の人の声が届けられた。
「落ち着きなさい、捕って食ったりしないから」
慌てて身を起こしたところに、ぽん、と。
柔らかな細指を備えた手が、肩に乗せられた。
背後からはまるで、振り向くな、とでも言いたげな重圧を感じ、声の正体と相対することは叶わなかった。
「……貴方のことは、貴方が決断なさい。
そこのシスターとちびっ子に流されるんじゃないわよ?
折角拾ってやった命なんだから、無碍に扱わないコト」
聞き覚えがあるような、無いような。
そんな声に諭され、事の是非を問わずに首肯してしまう。
「うん、聞き分けがよくて結構。
子供ってのはそうでなくちゃ。
……じゃ、私、行くから。
後悔だけは、しないようにね」
言いたいことだけ言い捨てて、声の主はこの場を立ち去った。
「決断、かぁ……」
女の人の声が、何度も何度も反響する。反芻される。
「目は、覚めたようだね」
今度は横から、先とは違う女の人……女の子の声がした。
今度は誰の制止もないので、身体ごと向き直って顔を合わせることとなった。
「さあ、一緒に考えようか。
君の歩み、そしてその先の可能性を」
月明かりに照らされ、儚げに揺れる白い髪を備えた女の子。
多分、背丈や顔立ちから察して、先の女の人の忠告にあったちびっ子……だろう。
そんな可愛らしい女の子は、どうにも僕の未来をどうこうする手立てを持っているらしく、細くて白くて、陶磁器みたいな手をこちらに差し伸べてくれた。
———僕を必要としているのか、それとも助けてくれるのだろうか。
どっちだっていい。
とにかく、僕は救われる———。