「おねーちゃん、おねーちゃん」
そんな声と共に襲う身体をゆすられている感覚ではやては目を覚ました。時刻は午前5時。外はまだ薄暗い。子供が一人で眠るには幾分も広いベットの上ではやてはゆっくりと身を起こす。いまだ年齢が一桁な少女が行動するにはいささか早い時間帯な気もするが、はやてがいまいち回り切っていない頭でまだ寝れるじゃないか、なんて考えていたのはすでに4ヶ月程前の話になる。まだ起こされる側とはいえ今となっては随分と慣れてしまったものだと自嘲したのは割と記憶に新しい。それというのも――。
「おねーちゃん。おはよーございます」
「うん、おはよう。ましろ」
雪の日に出会った雪のように真っ白なこの少女――ましろ――と生活を共にし始めたからだった。
ましろ。そう呼ばれた少女とはやては12月の寒い雪の日に出会った。あの邂逅の後、はやては無理やりに近かったが、と言うより無理やりましろを家の中に引っ張り込み、半ば保温状態になっていた湯船に放り投げて身体を温めさせた。これが火事場の馬鹿力というヤツなのだろうか。そんなことを考えたのもつかの間で、すぐさま自室へ行き、ましろが着られそうな衣服を適当にピックアップした。衣服を置いたのち、ゆっくりと身体を温めているだろうましろに扉越しに湯加減はどうかと声をかけたのだが、返事はもらえなかった。不思議に思ったはやてはその後も何度か声をかけてみたが全て先程と同様に返事はない。これはおかしい。そう思ったはやては返事がないとわかっていても、とりあえず扉を開ける旨を声にし恐る恐る扉を開いてみたら、やっぱりそこにましろはいた。ただ、どうしたら良いのかわからずに困り果てている様子だったのはしばらくの間忘れられそうにない。そこからややあって、はやてに気付いたましろがオロオロしだして、はやては苦笑を漏らしながら衣服を脱ぎだす。どうやらご一緒するしかないようだったから。
しかし、共に風呂からあがり、たどたどしく口を開いたましろが言う言葉に今度ははやてが困り果てた。驚くことにましろは自分の名前どころか、何もわからないと言ったのだ。それにはやてが言葉を発すると必ずタイムラグどころでは済まされない何かが生まれる。このときのましろはただの会話すら覚束ない状態だった。ここはアレか。警察にでも連絡して即刻保護してもらうべき場面か。はやてはこんな非常識な時でも案外冷静に働く勤勉な自分の頭に賛美を贈る。しかし、その日はやてが警察へ連絡することはなく、はやてはベットで、ましろはソファーでそれぞれ眠ることとなった。けして眠かったとか、面倒くさかったとか、そんな理由ではない。断じて。
そしてその翌日、ある理由からはやてはましろと生活を共にすることを決意し、名前を贈った。
真っ白い雪の中にいた真っ白な女の子。だから、ましろ。
安直すぎるかな、と違う名前も考えはしたが、呼ばれた本人は大層気にいってくれた様で、やはりたどたどしかったが自身の名前を嬉しそうに連呼していた。このときのはやては、はたしてこれで良かったのだろうかと一抹の不安を感じつつも、これから始まるであろう今までとは違う一人ではない新しい生活に期待を膨らませずにはいられなかった。
それから4ヶ月。過ぎてしまえば短かったが、はやてにとってましろの教育期間としては十分だった。自身の足のおかげか、はたまた所為か。それを理由に休学しているはやてはほとんどの時間をましろと過ごすことができた。言葉を教え、文字を教え、我が家のルールを教え、箸の持ち方から簡単な作法まで。自分が知りえる「常識」というものを親切丁寧に教えた。そうこうしているうちに出会った当初に抱かれていた僅かな警戒心も何時の間にか微塵も感じないようになっていたし、冗談混じりに行なった「お姉ちゃんと呼ばせてみよう作戦」はなんの障害もなく成功を収めた。これにはさすがにはやても驚いたが、正直なところ、満更でもない。いや、むしろ嬉しい。血縁関係はないし、まだまだ手がかかりそうでもある。でも、妹だ。姉妹だ。家族なのだ。もしかしたら、もう手にすることができないのかも知れないとも考え始めていた家族ができたのだ。喜ばずにいられる訳がなかった。
「ほーら、ましろ。また出とるよ」
はやては同じベットの上でじゃれあうように身体を寄せてくる早起きな妹に頬を緩めつつ、もはや見慣れたそれを指さす。はっ、とあたかも今気がついたとばかりにましろは慌てた様子でその幼い両の手を頭上に運んだ。クスクスと笑うはやての目はましろの頭頂部から生える二つの白いそれをとらえていた。
「ましろが早起きなんは、きっとウサギさんだからなんやね」
不思議そうに首を傾げるましろの頭には白いウサギの耳が二つ。音に反応してたまにピクピク動くのはなんだか見ていて面白い。そんなことを考えながらはやてはそれに手を伸ばす。刺激しないようにゆっくりと。程なくして触れたそれに優しく、大切なものを扱うように手を這わせる。暖かい。心地よい体温だ。この耳がけして作り物ではないという証拠に他ならない。
これが、はやてがましろとの同居を決めた理由だった。
本来ならそこにあり得ないものが少女にはあった。頭には耳。腰の辺りには尾。共に人間のものではなく、動物――ウサギ――のものだった。はやてがそれを初めて確認したのは少女と出会った翌日の朝。頭がまだ半覚醒状態だったにも関わらず、そう言えば昨日の子は、と確認しに行ったときだった。眠気覚ましの気付けとしてはあまりにも効果が大きく、久方振りに酷く狼狽したのは今思い出すと少し恥ずかしい。しかし、はやてがその現実を受け入れるのに時間はあまりかからなかった。
この子はきっとお月さまから来たんだ。
耳を障られくすぐったいのか、僅かに身をよじる妹を見ながらはやては思った。月にはウサギが住んでいて、何故かやたらとぺったんぺったんと餅をついているとは昔からよく聞く話だ。実際のところ、ウサギなんておらず、そう見えているのは隕石の衝突などからできるクレーターだったりするというのをぼんやりと知っているはやてだったが、そんな夢のないことは即刻捨て置いた。だってその方がステキじゃないか、と。良くベットから落ちるこの子は、こんな調子で月からも落ちてきたんじゃないだろうか。そこがたまたま私のところで。そう、きっと、世界は私が知るよりもちょっとだけファンタジーで、ちょっとだけ――。
「優しかったんやね」
はやては胸の中でいるのかいないのかわからない神様と目の前の少女に感謝の言葉を贈った。