清廉な日差しも天頂を過ぎ、早くも空は夜の気配を漂わせている。
冬の冷たい空気に白い息を弾ませながらセキは小さな町の南を目指して走っていた。寝巻に上着を羽織っただけのちぐはぐな格好で駆けて行くセキの姿に、通り過ぎる町の人は笑みを浮かべて振り返る。
セキと、彼が向かう先にある建物を知っているからこそ、町の人は皆走り去る背中を囃したてる。
「また遅刻か?」
「ははは、寝坊したんだろ」
「あれで大丈夫なのかね」
セキはマサラタウンではちょっと有名な少年だ。なにしろ彼は昨日までの半年間、オ―キド研究所の裏庭で行方不明となっていた。
滅多に事件もない長閑な田舎町で起きた一大事に町の大人達はこぞって捜索に名乗りを上げた。警察も加わり、張り紙が貼られ、回覧板も町の話題も小さなマサラタウンはセキの消息で持ちきりだったのである。もともと人口の少ないこの町で事件なんぞ起こそうものなら一躍時の人。半年前にトレーナーとして旅立ったオ―キド博士の孫のシゲルをも上回る知名度を、本人も知らぬ間にセキは獲得してしまっていた。
そんな経緯があるものだから、元気に走るセキの姿に町人たちが安堵を抱くのも、親しい素振りで声をかけるのも至極当然のことだった。
「……恥ずかしい」
もっとも、話題の本人にとっては町人全員に黒歴史が知れ渡っていることと同義である。すれ違う人々の温かい微笑みに居た堪れなさを感じながら、決して目が合うことのないように、オ―キド研究所目指してひたすら全力疾走していた。
広大な敷地を有するオ―キド研究所はマサラタウンの南、町外れの位置に建っている。
小さいとはいえマサラタウンも一つの町。普段ならば家から歩いて三十分はかかる距離を、全速力で駆け抜けたセキは十二分前後という最短時間で辿り着いてみせた。勿論、膝に手を着き切れ切れの呼吸を整えるのに丸々一分費やす程の疲労と引き換えに。
冬場の冷たい空気を吸い込み痛む喉を抑えつつ、ようやく脈拍が整い始めた体を持ち上げて呼び鈴を鳴らす。研究に没頭しているとたまに気付いてもらえないこともあるのだが、タイミングが良かったのかすぐにオ―キド博士が顔を出した。
「午前中に来ると聞いとったが、随分と遅い到着だの」
「…………寝坊しました」
決まり悪げにセキが目を伏せるとオ―キド博士は呆れた顔をして溜め息を吐く。
「知っておる。さっき連絡があった、『うちの馬鹿息子がこれからそちらに向かいます』とな。久しぶりに家に帰って気が抜けるのも解るが、遅刻は感心せんぞ?
まあ、半年行方不明に比べれば大したことでもないような気もするがのう」
「それは言わないでください」
「その様子だと大分絞られたみたいじゃな」
「町の大人総出の大騒ぎだったと聞かされました。オ―キド博士にも凄い迷惑をかけて、すみませんでした」
「うむ。ともあれ無事で何よりじゃ。この裏庭で一年間一人で生活していられたのだと考えれば、これからの旅も不安はなかろう。さあ、早く入りなさい」
オ―キド博士に促され室内へ進む。昨夜の時点でセキの母親が連絡を入れていた。
案内されたのは昨日まで寝食を過ごした裏庭ではなくセキがまだ入ったことのない一室だった。室内に一歩足を踏み入れれば壁一面設置された機材と複数の大型モニターがまず目を奪い、次いで部屋の中央の台座に気付く。台座には一個のモンスターボールが置かれている。
この部屋はトレーナーにとって特別な部屋だ。シゲルもリョクも、そしてサトシも、半年前に旅立ったセキの幼馴染達も皆この部屋で初めてのポケモンを貰い、トレーナーの第一歩を踏み出した。
(……三人はパートナーに何を選んだのかな)
裏庭での生活でリョクはヒトカゲを、シゲルはゼニガメを希望していた。そして特にこだわりのないセキがフシギダネを。
三体の枠が埋まることによって、サトシがアニメ通りピカチュウを手に入れるのだと思っていたのだが、気付けばセキは半年間の出遅れ。サトシがどれほど寝坊しようともセキよりも遅れて行くことは出来なかっただろう。
果たしてサトシはちゃんとピカチュウを貰うことが出来たのかどうか。こればかりはオ―キド博士の判断力に委ねるしかない、下手をすればセキにピカチュウが回ってきている可能性もある。
「そこにあるのがセキの分じゃ」
セキの顔が映り込むほど磨かれたモンスターボール。この中に、セキの初めてのポケモンが居る。
早速ボールに手を伸ばそうとするセキにオ―キド博士が待ったをかけた。
「セキ、ポケモンに会う前にちょいと話しておきたいことがある」
和やかさの欠片もない厳かな口調にセキは目を瞬かせて博士を見る。
「このボールを受け取って旅に出るということは、セキとポケモンがパートナーになるということだ。
パートナーとはお互いの命を預け合う間柄のことを指す。人によってポケモンとの関係は良き友人であり、頼れる相棒であり、大切な仲間となるじゃろう。
しかし、新人トレーナーにとって最初のポケモンは皆等しくパートナーと言うべき関係にある。何故か分かるか?」
「………」
博士の問いに、セキは思案気味に眉を寄せる。オ―キド博士はセキに一歩近づき、大きな掌をセキの右肩に乗せて言う。
「初めての旅の、初めてのポケモンだからじゃよ。
セキ、お前さんは年の割に聡いところがある。お前なら知っておるじゃろう、新人トレーナーとポケモンの死傷率の高さも。その割合が何を意味するかも」
問いの発する事に思い至り、セキは博士の目を見返した。台座の上にたった一つ残されたモンスターボールと博士の顔を交互に見つめて、震える胸を抑えて息を呑む。
「決して忘れてはいかん。お前がこのモンスターボールを受け取るのならば、肝に銘じておいてくれ」
オ―キド博士の真摯な眼差しがセキの胸を貫く。背中に戦慄が走る。
この世界において十歳になればポケモンを得るというのは誰もが経験する『当り前』であり『常識』である。つまり、本人も周囲も、当日どれだけ興奮しようとも心の奥では普通のことだと認識しているのだ。
セキも今日この瞬間まで自分がポケモンを貰って旅に出ることは当然であり自分は極々普通だと思っていた。これがどれほど恐ろしいことか考えもせずに。
新人トレーナーとポケモンの死亡率。セキの脳裏を数年前に目にしたグラフが過ぎる。
義務教育課程の通信授業において、トレーナー育成制度項目に三行程度で記載されていた内容。トレーナー本人よりも、実はポケモンの方が死亡率が高いことを示した数値。授業で詳しく触れることはなかったが、前世の記憶と一年間のサバイバルを経験したセキには簡単に想像がつく。
幾ら強靭だと言ってもポケモンは生物だ。バトルで負った傷に適切な治療を施すことが出来なければ簡単に悪化して身体を蝕み、想像通りにいかないからといって心を傷つけてしまえばストレスは病や自傷となって表れる。
初めてポケモンを手にして、初めて旅に出る。そんな十歳の子供が自分以外の命をどこまで抱えていられるだろうか。
自分のことで精一杯で、途中でポケモンを捨てて逃げてしまうかもれない。或いは面倒に耐え切れず、情を失くし虐待するかもしれない。実際にそうしてトレーナーを諦め帰ってくる子供達の数は多い。
TVで華々しく活躍するトレーナーなど一握り。陰では心無い扱いを受けたポケモン達が毎年何十匹、何百匹と犠牲になっている。
セキがそんな非情なトレーナーにならない保証がどこにあるだろうか。
リョクのようにポケモンがいなければ叶えられない夢を目指しているわけでもない、シゲルのようにポケモンの生態に興味があるわけでもない、ましてやサトシのように、ポケモンが大好きだというわけでもない。セキは自分のポケモンというものに何ら感慨を抱いてはいなかった。
目標は就職、トレーナーは二の次なセキにとってポケモンはその他動物と変わりない。知能が高く人とのコミュニケーションが通じるところは確かに有難いが、同時に機嫌を損ねれば強靭な力が脅威となって降り懸かる。サーカスの猛獣使いに憧れる人間でもなければ愛着よりも先に恐怖が勝つだろう。
サバイバルでセキは野生のポケモン達と数多く暮らし、恐怖の大部分を克服することができた。
しかし恐怖を乗り越えても、覚悟は違う。一匹の生物を、一つの生命を所有する覚悟。
既に何度も体感した<下手をすれば殺される>恐怖ではない。これからセキが背負うのは、<下手をすれば殺してしまう>恐怖だ。
目の前のモンスターボールを手に取った瞬間から、セキは恐怖を常に背負って生きていかなければならない。その事実を明確に意識した時、セキは初めて自分のポケモンのことを考えた。
「……僕は、」
トレーナーになっていいのか?
セキがトレーナーになって、このポケモンは一体どうなる?
前世の自分は親の脛を齧ってごろごろしているだけの駄目人間だった。あんな大人になりたくない一心でセキはトレーナーになることを決めたけれど、大事なのは自分の就職だけ。
どんな職業に就きたいという夢があるならまだしも、とにかく無職は嫌だなんて理由でパートナーにされたポケモンは一体何を目指せばいいのか。
命を預かっておきながら手段としてしか考えていない、そんな人間が前世よりマシか。そんな馬鹿な話があるものか。そんな人間は、
「最低だ」
唇を噛むように呟く。
言葉をかけた後じっとセキの動向を見定めていたオ―キド博士は、顔を上げたセキの様子が一変していることに驚いた。いつも無感動でどこか眠たげだった瞳が、確固たる意志を湛えてモンスターボールを映している。
「オ―キド博士、やっぱり僕、ポケモンは受け取れません」
「何?」
突然の拒否にオ―キド博士が訝しむ。セキは真っ直ぐに視線を合わせた。
「僕の旅の目標は就職。ポケモンと一緒に生きたいと考えているわけじゃないし、パートナーなんて背負えない。だからポケモンは要らない」
セキはハッキリと言いきってみせた。博士の顔に厳しさが宿る。
「ポケモンを持たずに旅に出ると言うのか。殊更厳しい旅になるぞ。どこまで行けるかも分からん、無事でいられるか見当もつかん。それでもいいのか?」
低い声で「後悔はしないか」と尋ねられてもセキが前言を覆すことはしない。かなり無謀なことを放言している自覚はあるが、負えないものを背負って下種に成り下がるよりは良い。
「僕の為の僕の旅だ」
それだけで充分だと言うセキにオ―キド博士は微笑んだ。
「逞しくなったのう、セキ。同じ逃げ腰でも、周囲に流されるままだった一年前とは比べ物にならん」
そう言って博士はモンスターボールを手に取り、セキに差し出した。眉を顰めるセキに老人は快活な笑いを上げる。
「そんなに怖い顔をせんでも大丈夫じゃ。ほれ」
笑いながら博士が開けて見せたモンスターボールの中身は、空っぽだった。ポケモンどころか何も入っていない。
呆気に取られて口を開けるセキを見て、オ―キド博士は悪戯が成功した子供のように笑って説明した。
「実は、お前さんの分のポケモンは別地域の新人トレーナー分に回されてな、残っとらんのじゃよ。裏庭で野生ポケモンを捕まえさせようかとも思ったが、ポケモンが要らんと言うなら問題ないな」
手間が省けたと喜ぶ博士を、セキは呆然と眺める。
柄にもなく真剣に苦悩したというのに、セキの葛藤は何だったのか。先程までの真剣な空気はどこにいった。晴れやかな笑顔を浮かべるオ―キド博士とは対照的にセキの心中にふつふつと怒りが湧き上がってくる。まさかとは思うがこの老人、セキの方からポケモンを放棄させる為に話題を振ったのではなかろうか。
頬を引き攣らせるセキにはお構いなしでオ―キド博士はポケモン図鑑とトレーナーカードを手渡した。
「言われんでも知っておるとは思うが、これはポケモン図鑑。ポケモンの生態や技を詳しく見られる便利なアイテムであると同時に、トレーナーの身分証明にも使用出来る。
こっちはトレーナーカード。トレーナーの個人情報が記載された、云わば身元保証書じゃな。保険や税金などの面で提示を求められるのは主にこのカードになる。
どちらもトレーナーの必須アイテムであり、非常に大切な物だ。再発行には大変複雑かつ面倒な手続きが必要となるので絶対に失くさないように。それと、これも持っていけ」
念押しと共に渡されたポケモン図鑑とトレーナーカードをポケットに仕舞うと、有無を言わさず手に乗せられた一品にセキは驚愕した。
「それはゴージャスボール。捕まえたポケモンが懐きやすくなる特殊なボールじゃ。研究用に取り寄せた物でのう、本来新人トレーナーの手の届く品ではないが、手ぶらで送り出す代わりにワシからの餞別と思ってくれ」
今日一日で何度驚けばいいのか。餞別にするにはゴージャスボールは高価過ぎる品である。ゲームでもお高い代物だったが、この世界では数が少ないため更に高い。一部セレブ御用達、逆に言えばセレブにしか手が出せない超高級ボールとして作られているので一般市場には出回っていない。誤魔化されたようで不本意だが礼はしっかり言っておく。
「ありがとうございます、オ―キド博士」
実際に手に取ってみれば、細部の造りも手触りも市販のモンスターボールとは違うのが解る。光を反射して金に輝く黒いボールに、引き締めていたセキの口元が緩む。十歳児とはいえ、雲の上の高級品を贈られて嬉しくないと言えるほど無垢な人間ではない。
「一緒に生きていきたいと思える夢が見つかったら、そのボールで捕まえるといい。どんなポケモンがセキのパートナーになるのかワシも楽しみじゃ」
目尻に温かな皺を刻んだオ―キド博士にセキは再度感謝を伝えた。
もう研究所でやることはないので博士と道順や気候の話をしながら部屋を出る。どこを目指すにしてもマサラタウンからはまずトキワタウンに行くしかない。トキワタウンはそう遠くないので徒歩でも明日中に着くだろうとの博士の言葉に頷き、研究所の門から外へと踏み出したセキの背中にオ―キド博士の激励が聞こえた。
「頑張るのじゃぞ、セキ! 言い忘れとったがお前さんのトレーナーネームはお母さんの希望で【レッド】と登録しておいた。では、前途洋洋たることを祈る」
いってこい!と明るく締め括られ、振り返った時には門は閉じられていた。
物凄く問い詰めたい内容が混ざっていた気がするのだが、呼び鈴を鳴らしても最早完全無視。オ―キド博士はセキをこのまま旅立たせるつもりである。
「……このっ狸爺!」
セキの罵声が響く中、マサラタウンの夕闇は早くも一番星が光っていた。
悪態をつくのも諦めたセキは自宅に帰ることにした。寝起きに慌てて家を飛び出して来たセキの上着の下は寝巻のままだ。空を見れば夕闇は深くなり、すぐに夜が訪れる。ポケモンを持っている訳でもなし、今夜は家で寝てマサラタウンを旅立つのは明日にした方がいいかもしない。
急ぐ必要もないとセキが今夜の予定を決めて自宅に向かい呑気に歩いていると、マサラタウンでは見かけない大人達が山の方へ向かっていくのを見つけた。全員が黒い衣服と帽子を着ている所為か、結構な大所帯にも関わらず冬の夕闇に溶け込んでいて目立たない。
「あんなところで何やってるんだ、あの人達は?」
彼らが向かう先にあるのは雑草生い茂る空き地と、山の麓に広がる雑木林だけ。辺りは既に暗く今から余所者が山に入れば迷うか怪我をするかは確実である。とりあえず注意ぐらいはしてあげようとセキは彼らの後を追うことにした。
腰元まである草を踏み分け暫く進むと、黒装束の一団は足を止めて何やら不思議な機械を弄っている。ぐるぐると回転する小型のパラボラアンテナにノートPCを繋ぎ、幾人かはU字型の鉄棒や音声収集マイクを手に散らばって行く。用途不明の機械を手に徘徊する黒服に呆気にとられるのも束の間、彼らの胸にRのマークがあることに気付きセキは息を潜める。
(怪しいと思ったら、こいつらロケット団か!?)
前世の記憶ではポケモン世界の敵役として登場していたロケット団。平和なマサラタウンで暮らしているセキが実際にロケット団らしき人間を見るのはこれが初めてである。声をかける前に気付いてよかったと安堵する一方で、予期せぬ危険にセキは身を硬くする。
ゲームではポケモンマフィアを名乗っていた集団がこんな田舎町に何の用があると言うのか。そっと茂みに身を隠し、彼らの会話に聞き耳を立てる。
「本当にこんなところにいるのか」
「よく探せ。全てのポイントは捜索済みだ、いるとすれば此処しかない」
ノートPCを弄っていた男が顔を上げて睨みを利かせる。暗くて顔立ちはよく分からないが目つきの鋭い男だ。
「ボス直々の御命令、失敗は許されませんよ。現時点でミュウツーの量産は不可能と判断されました、新たな研究にはオリジナルが必要不可欠なのです」
男の言葉に周囲の黒服達が背筋を伸ばし表情を引き締める。
「S班から連絡。地点Fに目標の反応を確認。合流ポイントαに追い込みます」
「了解」
俄に辺りが騒がしくなり、アンテナがあっという間に回収され黒服達が一斉に移動を開始する。大勢の草擦れ音を聞きながらセキは後を追うか人を呼ぶかで迷っていた。
一人で後を追うのは危険過ぎる。人を呼ぶにしてもマサラタウンの交番は駐在員が一人居るだけ。
「さてどうするか。あの男、ミュウツーって言ってたよな……」
悩んだ末、見るだけなら只だとセキは彼らを追って現場へ向かうことにした。所詮は元オタク。ミュウツーのネームバリューが放つ引力には抗えなかった。
マサラタウン出身なのにポケモンを貰えない主人公。無理ゲーやでぇ。