私には字も真名もなかった。両親が私にそれを授ける前に死んだからだ。
幼い頃に両親が死んだ私に残されたのは、華雄と言う名と貧困の日々。
生きる為なら盗み、傷害、そして殺人と何でもやった。唯一、やらなかったのは、身体を売る事だけ。
身体を売らなかった理由に特別な物はない。只、単に嫌だった。それと一度売ってしまえば、私は死ぬまでその状態を抜け出せなくなるかも知れないという思いもあった。
私自身、自分の見目が良いのは理解していた。孤児の仲間は皆、身体を売っている。頑なに身体を売らない私を皆が不思議そうな目で見ていた。
だが、私はそんな視線を気にもしない。こんな汚れた路地裏で人生を終えるつもりはないと決めていたからだ。
そして十代も半ばを過ぎた時、私は兵士になった。
戦場に出れば死ぬ可能性もある。そんな事は子供でもわかる事。それでも私が兵士になったのは、自分には何もない事がわかっていたから。
生まれは卑しく、金もなければ、学もない。只、一つ持っているのは、この命だけ。
なら、その命を使う事しか私には選択肢はなかった。分の悪い賭けとは思わない。駄目なら、生まれも育って来た環境も卑しい女が一人死ぬだけだった。
幸い、私には武の才があった様で、自分と同じ時期に兵士になった者達が次々と死んでいく中、私の位はどんどん上がっていく。
……嬉しかった。自分にも誇りを持てる才があった事はこれ以上になく嬉しかった。そして、その誇りを傷付けられる事を嫌う様になった。
軍の中での私の評判は決して良い物ではない。下の人間には自分が苦労してきた事もあり、寛容に接したからか、悪い様には思われていなかったが同僚や自分より上の者達には蛇蝎の様に嫌われていた。
……卑しき成り上がり。
それが私に対する陰での呼び名。誰も私を認めようとはしない。その事がますます私を武へ傾注させた。
ある時、自分が自信と誇りを持つ武の事でも屈辱を味わう出来事があった。完膚なきまでに叩きのめされたのだ。その相手は
―――孫文台。
江東の虎の異名を持つ英傑。自分にとって初めての敗北だった。
この敗北は私の周りの環境を大きく変える事になる。今まで自分を嫌いながらも付きあっていた者達が一斉にそっぽを向いたのだ。
腹立たしい気持ちはある。それでも何処か納得もしていた。武で出世した私が武で負けた。それは周りの人間が離れる理由としては充分な物なのだろう。
一人になっても私は只、ひたすらに己の武を磨き続ける日々を送った。自分より強い者が居る事は身を持って知った。けれど、自分には他に何もないのだ。誇りを持てる物は、すがれる物はこの武だけなのだ。
自分で自分の身体を痛め付ける日々、そんな時だった。あの方、董卓様に出会ったのは……
会った瞬間に自分とは住む世界が違うと感じた。董卓様が纏う高貴な何かがそう思わせるのだろう。
その後の自分の行動は今でも思い出せない。覚えているのは自分が膝を付きながら頭を下げたという事だけ。
董卓様はそんな私に駆け寄り、優しい瞳で私を見つめ、優しい声で私に話し掛けてくれたのだ。
その姿に自分に対する見下しは一切ない。自分と同じ立ち位置で話し、自分という人間を認めてくれた。
他の者が聞いたら、それだけの事でと思うかも知れない。それでも私にとって……今まで見下されて生きて来た私にとっては何よりも嬉しい事だったのだ。
次の日には、私は転属願いを出していた。董卓様こそ、自分が仕える主と思い定めたからだ。
そして、その転属願いは聞き入れられた。董卓様自身が田舎者と揶揄されて中央では評判が良くない。中央の者にすれば、田舎者に成り上がりを押し付ける感覚だったのだろう。
私は一瞬、頭に血が昇り掛けたが、すぐにそれを抑え込む。どういう理由にしろ、自分の希望は受け入れられた。後は自分の力で董卓様の風評を良くすればいい。
それに董卓様自身が気にしていないだろう。僅かな時間しか接していない自分にもそうだという事がわかる。
転属願いが聞き入れられたとわかった日、私はその日の内に董卓様の下へ向かう事にした。今、自分が居る軍に何の未練も感じなかった。
そして、董卓様は自分の下へ来た私を暖かい笑顔で迎え入れてくれた。その笑顔を見ただけで此処へ来て良かったと心から思う。
董卓軍では新たな出会いもあった。董卓様の幼なじみにして軍師の賈駆。私とは肌が合わないと感じたが嫌う事はしなかった。董卓様の事を一番に考えているのがわかったからだ。
それは向こうも同じな様で言い合いはするが、私を粗雑に扱う事はなかった。それに元々、私は賈駆と深く付き合うつもりはない。はっきり言って人種が違うのだ。
賈駆の他に陳宮と言う軍師が居たが自分とはほとんど話す事はない。そんな二人より、よっぽど私の目を引き付ける者が、この董卓軍には二人も居た。
一人は張遼。武人でありながら優れた軍人。その武は自分より恐らく上で、用兵に関しては間違いなく自分は負けているだろう。
その事実に私は悔しい思いもあるが、それ以上に負けん気が湧いて来る。自分より上と言ってもそこまで差がある訳でもないのだ。
立ち合えば、十本の内、三本は取れる。それぐらいの差。自分より強い者がそう居るはずがない、その時は根拠もなくそう思っていた。
だが、その自信はもう一人を見た時に木っ端微塵に粉砕される。
……呂布。それがもう一人の名だ。
初めて練兵場で立ち合った時、格の違いを思い知らされた。まるで底が見えない。
自分とは根本的な何かが違う。天賦の才とはこの事を言うのだろう。
いくら自分が努力してもこの領域には辿り着けない。そう思わされてしまった。
そして、うちひしがれる私を呂布は悲しげな瞳で見つめていた。……時が経った今になっても私にはその時の呂布の瞳の意味がわからない。恐らくわかるのは、今、この世で一人だけだと私は思う。
そんな事があった日から暫く経ち、大陸が戦乱に見舞われた。董卓軍も例外ではなく、戦乱に巻き込まれる。それからは戦いの連続だった。反乱の鎮圧、五湖、そして黄巾党。
そんな戦いの中で、着実に戦果を挙げ、あの日、呂布に砕かれた自分の中の自信が再び溢れ出てくるのを感じていた。いや、あれは自信などではない。もはや慢心と言って良いだろう。
……そして、そのツケは遠くない日に払う事になった。
反董卓連合。その一連の戦いで私は誰よりも敬愛する主を失った。
他ならぬ私の致命的な失態の性で……
私自身は重傷を負ったが、生き延びる事が出来た。だが、それがなんだと言うのだ。
散々、自分の武をひけらかした結果がこの有り様。最早、自分の武を心から誇る事は出来なくなっていた。
それから数年は私自身、自分が何をしたいのか、何をするべきなのかわからない。この国が大きく動く中で、自分がやった事と言えば、孫家に領土を追われた袁術に手を貸したり、賊の真似事をやっただけ。
かつての同僚の呂布や張遼は大陸中に名を轟かせているのに、自分は主を死なせ、挙げ句の果てに行き着いたのは賊の頭目。
一体、自分の人生とは何だったのか、思い悩み、只、朽ち果てる日を待つ私の前に、今、私の眼前に立つこの方、一刀様が現れた。
……強かった。そして底が見えなかった。自分が戦った中で此処まで差があると感じたのは、呂布と一刀様だけだった。ひょっとしたら一刀様ならあの日の呂布の瞳の意味がわかるのかも知れない……
一刀様と戦い、負けた私は死を覚悟した。だが、一刀様は私を殺さなかった。
一刀様は私を殺さない代わりに私の心をズタズタにした。そしてその後、ズタズタにした私の心を優しく包み込んでくれた。
……何故、こんな事をするのか訳が分からなかった。訳が分からないまま、私は一刀様にすがり付いていた。私には他にすがり付ける物が何もなくなっていたのだ。
自分を認め、許し、抱き締められた私は一刀様に身も心も捧げても良いと思った。冷静になった今、考えると一刀様は話術で私がそう思う様に仕向けたのだと理解出来る。
私がその事に気付いたのは、既に一刀様に全てを捧げた後、普通なら怒り狂っても良いのかも知れない。けれど、私はそんな気にはなれなかった。
……何故なら、あの洞穴で一刀様が私に言った言葉に何一つ嘘がなかったからだ。
一緒に行動する様になってから、一刀様はいつも優しい瞳で私を見て、抱く時はいつも包み込む様な暖かさで私を抱いた。
私にとってはそれが気持ち良く、安心感に満たされて、気が付いた時には一刀様の話術など関係ない所で心が持って行かれてしまっていた……
私自身、今まで経験がないから良く分からないが、この気持ちが恋や愛と言う物なのだろう。少なくとも今の私は一刀様から離れる事なんて考えられなかった。
それに、一刀様と旅をする様になって、楽進と言う新たな友まで出来た。楽進は私と同じ様に、いや、私以上に一刀様を愛している女だ。
かと言って、自分一人で一刀様を占有する様な器の小さな女ではなかった。それは、一刀様に抱かれたいが、男と肌を合わせた経験のない私の背中を押してくれた事から明らかだ。
一度、一刀様が居ない所で腹を割って話をした所、楽進は一刀様と一緒に居られて一刀様が幸せならそれでいいらしい。
一刀様は元々、女を惹き付けられるお方で嫉妬していたらキリがないと苦笑いで言う楽進が私には印象的だった。
その話を聞いた私は得心した。自分が惚れたから言う訳ではないが確かに一刀様は多く女を惹き付ける魅力を持っている。だが、それと同時に危うさも秘めていた。
一緒に旅をしてわかった事だが、一刀様は優しい。けれどその優しさは董卓様の優しさとは違う。
董卓様の優しさは多くの人に向けられる優しさ。一刀様の優しさは限られた人間にだけ向ける優しさ。
それ故にその優しさは董卓様の優しさより遥かに深い。優しさを向ける対象の人間の為なら近くを散歩する様な感覚で自分の命を投げ出す、文字通り、命懸けの優しさ。
私も楽進も一刀様の優しさの範囲に入っているだろう。それを考えただけでも私の心は熱くなる。女としてこれ以上に光栄な事はない。それと同時に一刀様の事が心配だった。
もう主を亡くしたくはないと考えていた私に楽進が驚きの言葉を告げる。
それは、董卓様の生存。楽進の話によると蜀で穏やかな生活を送っているとの事。
その事を聞いた瞬間、反董卓連合の時からあった、自分の中の負の感情が一気に消え失せた。
只、董卓様には会おうとは思わない。あの方の事だから自分を心配してくれているだろう。それでも合わせる顔がない。私としては董卓様の幸せを願うだけだった。
そして、一刀様の旅の目的地の交州に着いて数ヵ月が経った。
私は今、部屋を借りている劉巴の屋敷の庭で金剛爆斧を持ち、一刀様と向かい合っている。
「華雄、だらだら戦う事に意味はない。一撃だ。お前の魂の一撃を俺にぶつけろ」
普段の日課となっている一刀様との手合わせ。只、今日は一刀様の様子がいつもと違っていた。
「はい!」
一刀様が何を考えているのかは私には分からない。それでも一刀様がそうしろと言うなら私はそうするだけだ。
私は金剛爆斧を構える。眼前の一刀様は無造作に細い剣を持って立っていた。
隙だらけの様に見えるが、実際は一分の隙もない事は私自身の身体で毎日思い知らされていた。
私はそこで思考を止める。考える事に意味がない程に一刀様との実力差は大きい。
……無心、己が繰り出せる最高の一撃、それだけを考えて私は一刀様に踏み込んだ。
……一閃
一瞬の閃きと共に私と一刀様の身体の位置が入れ代わる。……それと同時に私は地面に崩れ落ちた。
「……華雄、腕を上げたな」
気を失いそうな激痛の中で何とか顔を上げてみれば、一刀様の頬から流れる血。
「字は紅玉。真名は
「……紅玉……晶」
私は一刀様から与えられた名を呟く。
「紅玉と言う字はお前の目の色。俺はその名の通り、紅玉の様に綺麗だと思う。真名の晶と言う字は数多の星の輝きを表している。お前のこれから先が夜空の星達の様に輝ける事を俺は願うよ」
「……紅玉……晶」
私はもう一度、自分の新たな名を噛み締める様に呟く。そして……そのまま気を失った。