『俺は華琳を斬る』
そう言い放ったお兄さん。その言葉が本気な事は、お兄さんの表情と身体から発せられる威圧感が証明していた。
……このお兄さんの存在感と言うか、凄みは何なのであろうか……?
風は武将ではないから、今のお兄さんがどれほど強いのかはわからない。けれど、一瞬で数十人の賊を殲滅した事から魏の武の筆頭である春蘭ちゃんを越えている様に思う。
……知りたかった。あの優しいお兄さんが、一体何があれば、数年で此処まで強くなり、そして、
……此処まで暗い目を出来る様になるのだろうか?
「……お兄さん、一体、この五年でお兄さんに何があったんですか?」
聞いてはいけない事なのかも知れない。それでも我慢が出来なかった。……お兄さんは風が初めて好きになった人。その人の事を知って置きたかった。
「風、悪いがその事については語るつもりはない」
お兄さんの返答は明確な拒絶。只、何処か遠くを見てる様な目が印象的だった。
「別に風を邪険にしてる訳じゃない。風以外の誰であろうと語るつもりはない。俺が唯一、語ったのは凪だけだ。……その理由は風ならわかるんじゃないか?」
「お兄さんを信じ続けたからですね」
「正確には地位や国、仲間を捨ててでも俺がこの世界に帰って来る事を信じてくれたからさ。信じる事なら霞だってそうだろ」
「……」
「あの日、華琳の結婚のお披露目と北郷警備隊の解散の時、俺は洛陽に居た。あの光景を見て、俺がどれほど絶望したかは風、お前にはわからないだろう」
お兄さんの胸の奥から吐き出す様な言葉に風は口を挟む事が出来ない。……恐らく何を言ってもお兄さんの心には届かない。
「さっきも言った様に、華琳の結婚自体は俺も理解はしている。けれど何故、その時機で北郷警備隊の隊長まで変える必要があるんだ?……まだ新しい隊長が凪か真桜か沙和なら俺も納得出来る。だが、結果は違った。俺には魏と言う国が北郷一刀と言う存在をなかった事にしてる様にしか思えなかった」
お兄さんの言葉から感じるやるせなさと憎悪。間違いなくお兄さんは
……魏国を憎んでいる。
お兄さん自身は気付いていないのだろう。それでも風にはわかる。この数年で変わったと言えど自分の想い人の事なのだから……
「何の為に俺は自分の存在を懸けて魏に天下を取らせたのか、何の為に足掻きに足掻いてこの世界に戻ってきたのか、俺にはわからなくなった。……凪と再会したのはそんな時だった」
「……」
「凪から魏であった事を聞いて、凪が俺の為に全てを捨てて来た事を聞いた時、……嬉しかった。これ以上にない程に嬉しかった。……俺はこの世界に戻って来て良かったと心から思えた」
お兄さんの表情が先ほどまで異なり、穏やかな表情になる。……やっぱり風が魏を出て行く時に言った言葉は間違えてなかった。
……これは凪ちゃんの大勝利ですねー
風もお兄さんが戻って来る事は信じていた。……信じていたが、凪ちゃんの様に全てを捨てる覚悟は出来なかった。
その違いはお兄さんの心で明確な差となって現れる。
「その時に俺は決めた。俺も何があっても凪を信じ続けると……」
「……風としては悔しいですが、お兄さんの立場からすれば、そう思うのも致し方ないですねー」
「風、俺はな、お前の事も大事に思ってない訳じゃない。……お前も俺がこの世界に戻って来る事を信じてはいただろ?」
「っ!……どうしてそう思ったのか、風に聞かせて欲しいのですよー」
「……凪に対する態度だよ。あいつが魏から出ると決まった時、皆が腫れ物を扱う様な態度だったと聞いた。……真桜と沙和と霞、そして風、お前を除いてな。真桜と沙和は元々、凪の親友だからわかる。霞も華琳の結婚の話の時、俺の為に随分と怒っていたと聞いたからそれもわかる。だが、そのどちらでもない風が俺が戻って来るのを信じていないなら、華琳の命令に逆らった凪に普通に接する理由なんてないだろ?」
そう言って自分を見るお兄さんの目は優しい。風は自分の心に暖かい物が広がってくるのを感じていた。
……お兄さんは風の事をちゃんと見ていてくれた。変わってしまったお兄さんを見て、不安に感じていた事が一気に無くなっていく。変わりはしたが、それでもお兄さんはお兄さんだった。
「あれだけ鈍かったお兄さんがこんなにも鋭くなるなんて風は何とも淋しい気持ちでいっぱいなのですよー」
心とは裏腹に口をついて出るのは天の邪鬼な言葉。それを聞いてもお兄さんは優しい笑みを浮かべている。
「風は相変わらずだな。身体もほとんど成長してないし」
「おうおう、兄ちゃん、それは思っていても言わないのが華ってもんじゃねえのかい」
「これ、宝慧、確かにお兄さんは失礼ですけど、言い過ぎは駄目ですよー」
「ははっ、悪いな。でも、風の変わらない姿を見たら、昔に戻った気がして何か嬉しかった」
その言葉とは真逆なお兄さんの寂しそうな表情が風の胸を締め付ける。そして此処に来ると言う自分の判断が正しかったと確信した。
……お兄さんにこんな顔はもうさせたくないですねー
「ところで、風は何故、こんな所に居るんだ?此処は魏の領土から大分、離れていると思うが……」
「ぐぅ~」
「寝るな!」
「おぉ!……いや、鋭くなったと思っていたのに、お兄さんはやっぱりお兄さんだという事がしょっくで思わず寝てしまいましたー」
「おい、兄ちゃん、女心ってモンをわかって無さすぎなんじゃねえのか?」
「……もしかして、俺に会いに来たのか?」
「それ以外に何があると言うんですかねー」
「いや、待て。そもそも何で俺がこの世界に戻って来た事を知ってる?その事を気付かれる様な行動を俺は取ってないぞ。普段はこの仮面を被っているし……」
そう言ってお兄さんは黒い鬼の面を手の上で遊ばせる。……恐らくお兄さんが今、交州で名声を高めている漆黒の鬼面龍なのでしょう。あの武を見れば納得出来ますねー
「洛陽郊外で凪ちゃんと抱き合っていたのは、気付かれる行動ではないのですかー?」
「……あれを見られていたのか……」
「はい、お兄さんの顔を知ってる魏の兵が見てましたよー」
「という事は……」
「お兄さんが戻って来ている事は魏の中枢部は皆さん、知っていますねー」
「……そうか」
「お兄さんが戻って来ている事を知った皆さんの反応を知りたいですか?」
「いや、いい。俺が戻って来ている事を知っていようが、知らなかろうが、どのみち、俺は二度と魏に戻るつもりはない」
「……そうですか、あぁ、それと追っ手の心配はしなくて結構ですよーお兄さんが此処に居るのは風しか知りません。……それに風も魏に戻るつもりはありませんから」
「……?どういう事だ?」
風はその言葉に居住まいを正す。華琳様という日輪を支える日々は今、終わりを告げる。
「風は魏の臣を辞して此処にやって来ました。……程仲徳、これより、お兄さん、北郷一刀様の軍師としてお仕えしたいと思います。……受け入れては頂けないでしょうかー?」
風の言葉にお兄さんは驚きの表情を浮かべていました。そして少し考えた後、
「風、お前に言っておく事が二つある」
「なんですかねー?」
「一つは俺はもう北郷一刀じゃない。そして二度と天の御遣いを名乗るつもりもない」
「……」
「俺の今の名は姓は高、名は長恭、字は鬼龍、真名は一刀と名乗っている」
「高長恭、今、交州でぶーむとなっている漆黒の鬼面龍さんですねー」
「ブームって……いや、まぁ、いい。俺としては不本意だが、そういう事になってるな」
「お兄さんの名前が何に変わろうと、風には関係ないですねー風はお兄さんはお兄さんとしか呼びませんし」
「また、身も蓋もない事を……あぁ、それともう一つの事だが……」
「……」
「必要ない」
「えっ?」
「俺に軍師は必要ない」
お兄さんのその言葉に風は自分の心にひびが入るのを感じた。
「……お…兄…さん」
声が震える。顔は地面に向き、お兄さんの目を見れない。自分はお兄さんとって必要ない人間なのか……風はこれからどうすれば……
「俺は軍師を持つ様な立場じゃないからな。……只、一人の女として俺の傍らに居ると言うなら好きにしろ。今の俺なら風一人ぐらい楽に護ってやれる」
お兄さんのその言葉にハッと顔を上げる。その時のお兄さんの顔は何処か照れた様子でそっぽを向いていた。
そんなお兄さんが可愛くて、思わず笑みが溢れる。
「……何だよ、その顔は?」
「んふふー。何でもないですよー。それでは風は一人の女として今宵、お兄さんの寝所に行かせて頂きますねー」
「……好きにしろ」
素っ気ない言葉。だが、その言葉に暖かさがある事を風は感じていた。