その日は、雲一つない快晴の日だった。
一刀は自分の瞳の中に映る、空の蒼を見上げて、こうして空をじっくり見るのは、いつ以来だろうか?
そんな事が頭を過る。自分は一度、この世界から弾き出されてから、今日まで、只、ひたすらに走り続けてきた。空を見る精神的な余裕など何処にもなかったのだ。
今までの自分の歩んできた道に後悔はない。ほとんどが決められた道ではあったが、そんな中でも自分は常に全力で走る事を辞めなかった。その事は一刀にとって大きな自信にも自負にもなっている。
もちろん、自分が助けたかった人の全てを救えた訳ではない。むしろ、救えなかった人の方が遥かに多いだろう。
眠れない夜に、酒を片手にかつての戦友と語り合う事なんて頻繁にあった。一刀から見える戦友の顔は肩の荷が降りたかの様な安らかな顔をしている。
一刀には戦友がどうして安らかな顔をしているのかはわからない。皆が苦痛と恐怖と無念の中で死んだのだ。
それでも、戦友達の心が安らいでいるなら、一刀はそれで良かった。まだ、生きている自分にはわからない事もあるのだと思う。自分が眠れない夜に酒の相手をしてくれるだけでも一刀は嬉しかった。
……例え、それが自分にしか見えない幻であったとしても……
一刀は今の自分に満足していた。静かに凪達と共に生き、一人の夜は死者と語り合う。……それでいい。自分にはこれ以上にない生だと本気で思っていた。
自分が歩んできた道は間違いではない。後悔などしようがなかった。
このまま、ずっとこんな風に生きていければ良い。一刀は空の蒼を見つめ、そう思う。
……だから、下を向いては駄目だ。後戻り出来なくなる。
一刀は自分の眼下を見る事を拒否していた。其処を見てしまえば、たった今、願っていたささやかな願いさえ叶わなくなる事がわかっていた。
故に一刀は空の蒼を見続けるのだ。自分が望まぬ道へ行かない為に。
「……空が綺麗だなぁ」
「……お兄さんはいつまで、現実逃避を続けるんでしょうかねー?」
……言うな風!俺は逃げる!逃げ切ってみせる!
「隊長、自分としては隊長に立ち上がって頂きたいと思っています!今の隊長なら華琳様にも劣らない、いえ、華琳様を凌ぐと自分は信じています!」
……凪、止めてくれぇ。お前に言われるとやらなきゃいけない様に感じてくるんだ。と言うか、何で比べる相手が華琳なんだよ!ハードルが高過ぎるだろ!
「私は一刀様が行く道を共に行くだけだ。一刀様が立ち上がるなら、我が武を持って、一刀様の道を切り開いて見せよう!」
……やだ、晶ったら男前。だけどそこは、俺の意を汲んで立ち上がらない選択肢を選んで欲しかった。
「兄さん、当然、この民達を見捨てるなんて事はしないですよね?」
……陸、ワクワクした顔すんな!目が自分の人を見る目は間違ってなかったと露骨に言っているぞ。
「一刀様、申し訳ありません。私の責でございます……」
……確かに半分くらいは叡理、お前の責任かも知れないな。お前が悪い訳ではないが。残り半分は逃げ損ねた俺の責任だ。
一刀が今居るのは、交趾の城壁の上。
そろそろ首が痛くなってきた一刀は諦めて、自分の眼下を見下ろす。
そこには、数え切れない程の大勢の民。
「高長恭様!!」
「高長恭様!何卒、この交州を治めて下さい!!」
「高長恭様!万歳!」
一刀は民達の自分を求める声を聞いて改めて思う。
……なにこれ?………………えっ、なにこれ?
……一体、自分は何処で間違った。
一刀は自分の記憶を遡って考えてみる。
風と陸に出会ったあの後、駆け付けて来た凪に先走った事を怒られ、凪と風は再会を喜び合っていた。
新たに自分の仲間になった陸は凪と晶に自己紹介をして、晶との手合わせで叩きのめされた後に凪と晶、二人と真名の交換をしている。陸の一刀の呼び方が兄さんに決まったのもその時。どうやら昔から兄が欲しかった様らしい。
……兄弟。その単語を聞くと、一刀の頭に過るのは、二度と会えなくなってしまったラキの事。覚悟をしてこの世界に戻って来たとは言え、やはり寂しさは感じる。
その寂しさも理由として合ったのだと思う。一刀は陸が自分を兄と呼ぶ事を認めた。……始めは兄様と呼ぼうとしてたが、流琉と被るし、陸の容姿で兄様と呼ばれるのは、何か変な気持ちになるので止めさせた。正直、兄さんでも心にクる物がある。
因みに賊から受けた傷の具合を一刀は聞いたのだが、幸いかすり傷程度だった。
その日から、また一刀達の賊退治の日々が始まる。
陸という戦力が増えた事で賊退治はさらに捗る事になるのだが、困った事に陸も凪や晶と同じ様に賊退治の手柄を一刀に全て渡すのだ。
風は自分が役立てない事を拗ねていたが、賊退治ごときに軍師は必要なかった。
散々、賊を殺し尽くした一刀の交州での名声は天井まで上がった末に不動の物となっていた。
……そろそろ本格的に交州から出る準備をしなくていけない。
一刀がそんな事を考えていた時に急報が舞い込んで来る。
……叡理誘拐。
知らせを届けに来た使用人によると、前々から叡理は士燮の息子の士徽に言い寄られていたらしい。
叡理はそれを上手くかわしていた様だが、士燮が死んで抑えを失った士徽は強行手段に出た様だった。
使用人からその話を聞いた一刀は心の内で喜ぶ。実に良いタイミングだったからだ。
一刀にとって、交州は少々、居辛い土地になっていた。会う人間のほとんどが一刀を崇める様な態度を取る。
自分が高尚な人間ではないとわかっている一刀には、正直に言って民達のその態度は面倒な事この上なかった。
そんな時にやって来たこの事態。叡理に今までの借りを返せる。悪政を敷く士徽を殺せる。その後、支配者の一人を殺したと言う自分が交州を出て行く理由が出来る。
……まさに、一石三鳥だった。
一刀は嬉々として士燮が死んだ後、士徽の居城となっている交趾の城に乗り込む事を決める。
凪達は自分達も行くと言い張ったが、一刀は却下した。……暗殺という手段を取る以上、誰かが一緒に来るのは、一刀からすれば邪魔にしかならない。
一刀はその事をはっきりと言葉にする事はなかったが、皆には、わかったのだろう。一刀に着いていけない事に悲しげな顔や悔しそうな顔をしていた。
一刀は皆に心の中で詫びつつ、その夜、交趾城に潜入する。
潜入自体は楽な物だった。何せ、周りに敵対する勢力がないのだ。見張りもおざなりで緊張感の欠片もない。
これだったら、晶と出会った時の方がまだ神経を使った。
一刀は誰にも見付かる事なく、交趾城を突き進む。目指すは城の奥の主の寝所。目的の女を手に入れた男のやる事など相場は決まっている。
城の奥に差し掛かった時に、一刀の耳に悲鳴が聞こえて来た。
……間に合えよ。
その悲鳴と共に一刀の駆ける速度が上がる。最悪の状況は想定してるが、あまり気分の良い物ではない。出来る事ならそうなる前に助けたかった。
そして、辿り着いた悲鳴が発せられたと思わしき場所。人の気配もするし、魏に居た時に色々な城に滞在した経験から、十中八九、此処が当たりだろう。
一刀は中の人間に悟られぬ様に、そっと扉を開け様子を伺う。中には叡理を組伏せている一人の男。叡理の服は乱れてはいるが、何とか最悪の事態までには間に合った様だ。
「お止め下さい!!私にはお慕いするお方がいるのです!!故に貴方様のお誘いはお受け出来ません!!」
「お前の言う男とは、高長恭と言う流れ者か?」
「……」
「やはり、その様だな。あんな流れ者の何処が良い!?」
「……あの方の良さを貴方様に語るつもりは御座いません。私にとってはこの大陸であの方に勝る殿方など一人たりとも居らぬと思っております!」
……叡理、それは買いかぶり過ぎだと思うぞ。
一刀は状況を弁えずに思わず心中でツッコミを入れる。
「これ以上、私に何かしようとするなら、私は舌を噛み切り此処で果てましょう。この身を汚される位ならば、私は私自身で始末をつけます!」
……本気の目だった。士徽が何かしようとするなら間違いなく叡理は死ぬ。
士徽もその覚悟を感じ取ったのか、搦め手を使い始めた。
「ならば殺すぞ!」
「えっ、何を?」
「お前が此処で死ねば、俺は高長恭を殺す!」
「なっ!」
「聞こえなかったか?高長恭を殺すと言ったんだ。俺の持つ二万の兵を使いなぶり殺す!……そうされたくなければ……わかるな?」
「っ!…………私の身体を好きにしなさい。ですが、あの方には手出ししないと約束なさい!」
「あぁ、いいとも。俺は物分かりの良い女は好きだぞ」
士徽のその言葉に叡理は心底、嫌そうな顔をする。
勝手に交渉の条件にされた一刀は士徽の手際に感心していた。相手の弱い所を徹底的に突いて、自分の目的を果たす。お手本の様な交渉術だ。
少しでも良識のある人間からすれば、卑怯、卑劣と思うだろうが、一刀はそうは思わない。結果は全てに置いて優先される。弱い所を漬け込まれた奴が悪いのだ。只、
……俺を出汁にするとは、お前、何様つもりだ!!
一刀は自分が人を利用するのは良いが、自分が人に利用されるのは極端に嫌う。元の世界で売られ、使い捨ての兵にされた記憶が甦るからだ。
士徽はそんな自分の逆鱗に触れた。よって殺す!
「それでは、楽しませてもら「……死ね」」
士徽が言い終える前に、一刀のサバイバルナイフが士徽の心臓を貫く。本音を言えば、首を撥ね飛ばしてやりたかったが、士徽の身体の下に居る叡理を血に染める訳にはいかない。
「叡理、無事か?」
一刀は士徽の身体を蹴り飛ばし、叡理に尋ねる。
「……一刀様?」
「話は後だ。直ぐに此処から逃げるぞ!」
「はっ、はい」
一刀は叡理の手を引いて、城内を駆ける。侵入する時に脱出経路は確保している。
それでも、騒ぎを聞き付けて駆け付けた敵兵は一刀が始末した。そして交趾城を脱出した一刀達は叡理の屋敷に飛び込んだ。
「……帰ったぞ」
「隊長!!」
「一刀様、良くぞご無事で!」
戻った一刀達の姿を見つけて凪と晶が血相を変えてやって来る。少し遅れて風と陸。
「お兄さん、首尾はどうでしたかー?」
「士徽は始末した。一応、俺がやった証拠は残してないし、駆け付けた敵兵は全て殺したが、念の為、二、三日中に交州を出るぞ」
士徽を始末した。その一刀の言葉に風は不敵な笑みを浮かべ、陸は冷や汗を流していた。
「お兄さんは凄いですねー。一人で城に乗り込んで城主を討って帰ってくるなんて、春蘭ちゃんや霞ちゃんでも出来ませんよー。孫呉の甘寧さんや周泰さんでも無理でしょうねー」
「……ははっ、そんな事出来る人間なんて兄さんしか居ませんよ……」
……何か、風の笑みが気になる。後、陸はドン引きするな。自分でもおかしい事をやっているのはわかってる。
「なぁ、ふ「一刀様」」
風に笑みの理由を聞こうとした一刀の言葉を遮る声。
「叡理、どうした?」
叡理はその場で跪く。
「此度は私の為に一刀様のお手を煩わせた事、そしてこの様な事態になってしまった事。お礼とお詫びを申し上げます」
そう言って叡理が深々と頭を垂れる。
「気にしなくて良い。今まで、叡理には世話になったからな。これぐらい何でもない」
「ですが!」
「と言うか叡理、お前、俺の為に士徽に身を差し出そうとしただろう?」
「……そ、それは」
「二度とそんな真似はするな!俺は誰かに守られる程弱くない!叡理、お前は良かれと思ってやった事かも知れんが、その行動は俺に対する侮辱だ!」
「……はい」
叡理の顔が目に見えて落ち込む。
「只、俺の為にそこまでしてくれたお前の気持ちは嬉しく思う。……ありがとな叡理」
「はっ、はい!」
「流石、お兄……」
「おっと風、からかうのはなしだ。急いで交州を出る準備しないといけないからな」
「……お兄さんは風の生き甲斐を奪うのですねー」
「交州を出た後なら、好きなだけ付き合ってやるよ」
「しょうがないですねー。……でもお兄さんが交州を出る事はないと思いますが……」
風が最後に呟いた言葉。その言葉を一刀は聞き取る事が出来なかった。
「交州を出るのは、三日後、それまでに準備を整えておいてくれ」
一刀の言葉で各自が思い思いに動き始める。
……そして、三日後。
旅の支度を整えた一刀が叡理の屋敷を出ると、其処には凪の姿。
ピンと背筋を伸ばし、一刀を迎える凪には何処か緊張感が漂っていた。
「凪、おはよう。準備は出来ているのか?」
「隊長、自分に着いて来て頂いても宜しいですか?皆も先にその場で待っています」
「……あぁ、それは構わないが、何かあるのか?」
「隊長、今は何も聞かずに自分に着いて来て下さい。お願いします」
「……わかった」
歩き始めた凪の背中を追うように、一刀も歩を進める。凪の向かう先には交趾城。
そして、一刀の意識も現在へ戻る。