……いつからであろうか?
自分の振るう剣が時折、音を置き去りにする様になったのは……
まだ、日も出ない夜深に、一刀は一人で刀を振る。それは中東から日本に戻って以来、欠かす事のない一刀にとっての日課。
それは、再び戦いの日々を送る事になっても変わる事はない。この時間から行う鍛練は既に一刀のルーティンになっている。
一刀の鍛練を知った凪達は、睡眠の短さを心配していたが、一刀からすれば寝ている間に死ぬ事を気にしなくていいだけで贅沢だと思っていた。
かつての自分は敵地で一人、いつ来るかわからない敵を気にしながら、銃を抱き眠っていたのだ。
いや、まだ眠れるだけマシで、状況によっては何日も眠れない日なんてざらにあった。
そのおかげと言っていいのか、一刀の身体は一週間は寝なくてもパフォーマンスは落ちなくなっている。
……いくら、この世界が出鱈目な事が多い世界だという事を考慮しても、自分が人外の領域に入っている事を一刀は自覚していた。
今、している剣の鍛練にしてもそうだ。風切り音が刀を振った後に聞こえてくる。完全に物理法則を無視していた。気の力の底上げがあるとは言え、元の世界で剣豪と呼ばれた者達も恐らく、今の自分には敵わないだろう。
此処までの力を手に入れてから、言うのもあれだが、一刀自身は強さに拘りがある訳ではない。
強くなる必要があるから強くなった。強くならなければ死んでいた。只、それだけなのだ。
それでも、ありとあらゆる死線を潜り抜けて身に付けた今の力は一刀にとって重厚なバックボーンになっていた。
頭に浮かぶそんな雑念を打ち消し一刀は無心で刀を振る。気が付けば、いつの間にか日が昇っていた。一刀はとめどなく流れる汗を持って来ていた布で拭い、交趾城の自分の居室に向かって歩き始める。
今日は旗揚げの日だった。だからと言って、一刀の心には何の変化もない。普通ならば緊張感や高揚感があるのかも知れないが、一刀の心は平静なままだ。
有り体に言ってしまえば、どうでも良いと思っていた。自分が交州を制覇してさらにその先に進む事になろうが、それすら出来なくて初戦で討ち死にしようが一刀にとっては些細な事。
皆に望まれたから立った。立った以上はそれなりの事をしようとは考えているが、一刀自身には何の望みもない。
交州を支配すれば、ある程度の権力という力は手に入るが、一刀は元より、そんな力は望んでないし、あてにもしていない。
権力という力がどれ程あやふやな物かなんて、権力者を打ち倒した自分が一番良く知っている。権力を持っていても人間には変わりない。銃で撃てば死ぬし、ナイフを突き刺しても死ぬ。
そうなった時には権力なんて物は何の役にも立たない。多くの権力者の人生の幕を引いて来た自分だからこそ断言出来る事であった。
「隊長、おはようございます」
居室に戻る途中、凪が一刀に朝の挨拶を述べる。一刀を待っていた様だ。
「あぁ、おはよう。凪」
「……隊長、昨夜はお眠りになれましたか?」
「いきなりどうした?」
「いや、その…今日は隊長の旗揚げの日でございますから……」
どうやら、凪は一刀を心配して様子を見に来てくれたらしい。
一刀はそんな凪の気持ちに感謝しつつ、言葉を返す。
「……凪、俺は大丈夫だ。五年前の俺を知っている凪からすれば心配なのかも知れないが、この程度の事で慌てふためく様な甘い道を歩んで来てはいない」
「……それはわかってはいますが、それでも自分は隊長の事が心配なのです」
そう言う凪の表情には一切の偽りはない。凪が相手でも表情や所作を見て、真意を読み取ろうとする、もはや習性と言っても良い自分の癖に反吐が出そうになりながらも、一刀は凪を抱き寄せる。
「凪、お前は変わらないな。今の俺は天の御遣いでもなければ、警備隊隊長でもない。それどころか北郷一刀ですらないのに、お前は昔も今も変わらず一途に俺を慕い隊長と呼び続けてくれる。そんなお前に俺はどれ程救われたかわからない」
「自分にとっては隊長はいつまで経っても隊長です。隊長が如何に変わられようとも、それは変わりません」
「あぁ、それで良い。これから俺は様付けなどで呼ばれる事が増えるだろう。それでもお前は俺を隊長と呼び続けろ」
「はい!」
自分は天の御遣いを捨て、魏国を捨て、名前すら捨てた。……それでも捨てられない想いはある。
それで良いと一刀は思っていた。
過去を全て捨てるなんて出来るはずがないのだから……
「……風、覗き見はそれ位にしたらどうだ?趣味が悪いぞ」
一刀は凪から身を離し、二つ先の柱に向かって声を掛ける。
「えっ?風様?」
「お兄さんが何の事を言っているのか風には分かりかねますねー。風はたった今、この場を通りかかっただけですし」
そう言って風が柱の陰から出て来る。
「それにしては、俺と凪の会話を全て聞いていた様だが?」
「ぐぅ~」
「おぉ、可憐な少女がこんな所で寝ているなんて無用心な。このままだと、暴漢にどんな酷い目に合わせられるか…いや、いっその事、俺が部屋に監禁してその身体を思う存分味わうのもいいな」
一刀は風を抱き抱えて、芝居がかった口調で言い放つ。
「おぉ!お兄さんの余りに変態ちっくな発言で目が覚めてしまいましたー。……でもお兄さんが風の身体を味わいたいと言うなら、風としてもやぶさかではありませんよー」
「……馬鹿」
一刀は風を下ろし、軽く頭を小突く。
「風も心配して、様子を見に来てくれたんだろう?ありがとな」
自然な笑みを浮かべて礼を言う一刀に風は呟く。
「……お兄さんはズルいのですよー」
一刀はその言葉を聞こえない振りをしてやり過ごした。自分のズルさなんて物はわかっている。昔の自分は無自覚でやっていたが、今の一刀は自覚して人身掌握の手段としてそれを行っている。
恐らく、風はそれを見抜いているかも知れない。それでも見ない振りをしてくれるのだろう。
聞こえない振りに見ない振り。……狐と狸の化かし合いと変わりはしなかった。
そんな内心を打ち消すかの如く一刀は風に尋ねる。
「ところで晶達は?」
「皆さん、既に玉座の間でお兄さんを待っていますよー」
「それは悪い事をしたな。俺は着替えてから向かうから、お前は先に行っててくれ」
「了解しました」
「わかりましたー」
一刀は二人と別れて、自分の居室へ急ぐ。
居室に戻ると、侍女が既に自分の軍服を用意していた。一刀は汗を吸って重くなった修練着を脱ぎ捨て、軍服に袖を通す。侍女には修練着を持って下がる様に伝える。
これから装備の確認をするからだ。手札は誰にも見られたくなかった。
自分の戦い方は初見殺しが結構多い。故に装備の確認は常に一人で行う。何処から漏れるかわからない。警戒はしておくべきだろう。
装備の確認を終えた一刀は少し速足で玉座の間に向かう。そして玉座の間に到着した一刀は頭の中で過去の記憶がフラッシュバックする。
玉座を挟んで並び立つ凪達。かつての自分もその列の中に居た。……けれど今は違う。
一刀は迷う事なく、中央にある玉座に向かい歩を進める。王たる者の居場所。昔、華琳の戯れで一度だけ座った事がある場所。
一刀はその時の事を思い出して、微かに笑みを浮かべ、ゆっくりと玉座に腰掛けた。
「皆、ご苦労。……風、現状の説明を」
「我が軍は歩兵二万三千に騎馬が二千の総数が二万五千の兵ですねー」
一刀が思ったより遥かに多かった。二万五千という兵力は後ろ楯のない人間からすれば破格の兵力だ。一刀の予想では一万もいかない可能性も考えていた。
「……多くないか?」
「それはお兄さんの演説のおかげですよー。義勇兵五千に士徽さんの持っていた二万がそのままお兄さんに降りましたから」
「義勇兵はともかく、士徽の兵は信用出来るのか?」
「お兄さん、兵もまた民なのです。それにこの地には兵達の家族も住んでいますから、今の士一族の圧政は兵達にとっても好ましい事ではないのですよー」
「……そうか、俺としては戦の最中での寝返りがないなら何だっていいさ。不確定要素があるのが、一番困るからな」
「その心配は恐らくないかと」
「兵糧や武具はどうだ?予想を超える人数が居るなら不足するんじゃないのか?」
「そちらの方はギリギリですねー。今回の戦いは大丈夫かと思いますが、何かあった時の余裕はないかと」
「兵糧や物資に関しては俺に考えがある。だから今回の戦の分が確保出来ているなら問題ない」
……元の世界から持って来た切り札を切る機会が来たな。てっきり死蔵するかと思っていたが……
「では、お兄さんの案に期待させて頂きますねー。それで敵軍の情報ですが……」
「交州は広い。陥すべき敵の拠点はわかっているのか?」
「そうですねー。幾つかありますが、風としては九真郡と南海郡を攻める事をおすすめするのですよー」
「その理由は?」
「九真郡の太守、士燮さんの弟の士壱さん、南海郡の太守、お兄さんが討ち取った士徽さんの弟の士幹さん、この二人が交州で一番に力を持っている様なので……」
「頭を潰す訳だな」
「はい、この二人さえ討ち取ってしまえば、後は烏合の衆かと」
「で、どちらからだ?」
「九真郡の兵力は四万、南海郡の兵力は二万三千、確実を期する為に南……」
「九真郡だ」
一刀が風の言葉を絶ち切る。
「……お兄さん、何故でしょうかー?」
「風、お前の意見は軍師として正しい。だが、正しいだけだ。それだけでは人は着いて来ない。俺達は何故兵を挙げた?」
「それは、民の皆さんに望まれて……」
風は言いかけた言葉を途中で止めて、一刀の言いたい事がわかったのか、不敵な笑みを浮かべる。
「お兄さんは名も実も取りに行くつもりなんですねー」
「そうだ、俺達は交州の民の期待を背負っている。だが、人の心は移ろいやすい。だからこそ、最初に力を見せ付けて風評を得なければならないんだ」
「それなら確かに交州で一番に兵を持つ士壱さんを倒すのが手っ取り早いかと。……ですがお兄さん勝てると思っているのですか?士壱さんは戦場となる地を恐らく見通しの良い原野を選んで来ますよー」
風の言っている事はわかる。敵軍からすれば、数の利を生かす為に正面からの戦いに持っていきたいだろう。それがわかって、なお、一刀は超然と言い放つ。
「それが、どうかしたのか?」
「……お兄さん、状況はわかっていますよね?」
「あぁ、二万五千と四万が正面からぶつかると言う話だろう」
「でしたら……」
「それでも俺のやる事は変わりはしない。敵が誰であろうと、何人居ようと、俺の前に立ち塞がるならば全て踏み潰す。自分の世界に居た数年、俺はそうやって生きて来た」
一刀の言葉には一切の迷いや怖れはない。常に逆境の中で生きて来た一刀からすれば、この程度の事では、その心に僅かな揺らぎも生じない。
そんな一刀の様子に風も諦めた様にため息を吐く。
「お兄さんがそこまで言うなら、風としてもこれ以上は言えないですねー。……では先陣は晶さんに……」
「先陣は俺だ」
「お兄さん、流石にそれは軍師としては却下させて頂きたいのですよー」
「風、却下は却下だ。俺は民に先頭に立って戦うと宣言した。ならば最低でも初陣はその姿勢を見せなければならない」
「……考え直すおつもりは?」
「ない」
「……」
玉座の間を静寂が包み込む。一刀は自分が先陣に立つ事を凪も反対してくるかと思っていたが、何か言いたそうな目をしながらも沈黙を守っていた。
その辺りは流石に五年前の乱世を戦い抜いた軍人だった。自分の分を心得ている。作戦の立案は自分が口を挟む事ではないと考えているのだろう。
静寂が漂う玉座の間。それを破ったのは、風の先程より大きなため息だった。
「……お兄さんは軍師泣かせですねー」
「すまないな、風」
「主君の望みを叶えるのも軍師の務めと言えるでしょうから、今回はお兄さんのやりたい様にして下さい」
何処か投げやりな風の言葉。しかし、その瞳に期待の光が灯っている事を一刀は気付いていた。そんな風の様子に心で苦笑いを浮かべつつ、一刀は玉座から立ち上がり仲間達に命を下す。
「作戦は決まった!これより八刻(二時間)後に出陣する!皆、宜しく頼む!」
「「「御意!!」」」
仲間達それぞれが、自分の持ち場に向かう中、一刀は一人、玉座で考えを巡らせる。間違いなく、交州を取ってめでたしめでたしでは終わらないだろう。
むしろ、そこからが始まり。蜀と呉の二国とどの様に接するか。そして魏とは……
一刀の頭に浮かんだ華琳の顔。それをかき消す様に頭を何度か振り、呟く。
「……なる様にしかならないか」
その言葉は誰にも聞かれる事なく、虚空へと消えた。