翌日の朝、青年は此処で生きるしかないと覚悟を決めていた。何故、こんな事に?理不尽だ!青年の胸の内にはそんな思いもある。だが、今、それを言った所で現状は変わりはしない。
逃げる事は考えなかった。此処は自分にとってはとびきりに危険な異国なのだ。今、逃げたとしても、土地勘はない、言語は通じない、金もない、紛争地帯。
これだけ自分に不利な要素が積み重なっている中で逃げ切れる運があるなら、そもそもここまで追い詰められていない。
逃げるにしても、もっと周りの状況を把握してから動くべきだ。そしてそのチャンスが来るまで、此処で耐えるしかない。
青年は昨夜の内に今後の方針を決めていた。幸いと言って良いのかわからないが、見知らぬ異国に放り込まれる経験は初めてではない。もっともあの世界の時と比べても、今の自分の状況は悪過ぎるとは思うが……
あの世界の時は、華琳という力を持った保護者が居たから何とかなったが、今回は頼れるのは自分自身だけ。
……絶望的な状況。それでも自分はまだ死ぬ訳にはいかない。再び彼女達に会うまでは生き抜いてやる!
青年はそう自分を奮い立たせ、自分と同じ様に集められた百人程の若者の列に混じり、二人の教官の指示を待つ。
少しの時が経ち、青年達の前に姿を現した二人の教官は今日、行う訓練の内容を英語とボディランゲージで説明し始める。
「今、此処に集まっている者達は殆ど全ての者が今日から訓練を始める者達ばかりだ。よって基本的な事からやっていく。俺達からお前達に指示する事は一言で済む。走れ!走れない奴は良い兵士になれない!だから走れ!」
青年は教官に指示にホッとする。走る事は確かにキツいが決して無理な事ではない。実際、魏の調練でも兵をひたすら走らせる事を始めにしている。自分も警備隊と共に良く走った物だった。
身体をほぐして走る準備を始めようとする青年は、ニヤリと笑った教官のその後の言葉に表情を凍り付かせる。
「但し、走るのは、あそこに見える四千mの山脈地帯で装備はなし、走る期間は夜以外十日間ぶっ通しだ!」
青年は一瞬、自分が訓練内容を聞き間違えたかと思った。いや、脳が理解するのを拒んでいた。
夏とはいえ、四千m級の山なら気温は良くて一桁、悪ければ氷点下。それだけじゃない。空気は薄いし、滑落事故の危険もある。それを装備なしで走るなんて自殺と大して変わらなかった。
魏の調練でも厳しいと言われる春蘭や霞の調練でもここまでではない。
……完全に殺しにかかってやがる!
青年は自分は温厚な性格だと思っているがそれでも余りの仕打ちに心の中で二人の教官に毒づいてしまう。周りを見ると殆どの者が教官が言った事を理解していない。ボディランゲージで走るという事だけわかっている様子だった。
只、一人、青年の隣に立っていた男だけが青年と同じ険しい顔をしている。その男は英語がある程度わかるのだろう。
だが、青年に選択肢はない。走らなければ恐らく殺される。走れば生き残る可能性はある。ならばその可能性に賭けるしかなかった。
青年を合わせた百人程の若者が一斉に走り始める。それを見張る様に教官が車で追いかけて来ていた。車で行ける所までは車で来るのだろう。チラリと見えた車の中にはテント、寝袋、防寒具などが積まれている。
……そりゃ、あんたらは万全の装備で来るよな。
青年は思わず苦々しい表情を浮かべてしまいそうになるが、何とか無表情を装おう。ここで教官に睨まれるのは何の得もないからだ。
皆の走るペースを考えると初日は山の中腹、二日目で頂上、そこから六日は連なる山脈地帯を走り、残り二日で下山、青年は十日間の行程をそう予測していた。その予測は恐らく大きくは間違っていないだろう。
重要なのは、どれだけ体力を温存しながら走れるか、それに尽きる。例え走る事が出来ても、疲れが溜まれば、その疲れを取る為に熟睡してしまう。そうなれば寒さで二度と目覚める事はない。
今、先頭集団を走っている者達は十日間は間違いなくもたない。最後尾付近を走りながら青年はそう考えていた。
体力を付けると同時に状況判断力を養う。考えれば考える程、良く出来た訓練だった。訓練をしている人間の命を考慮しなければという一文は付くが。
そんな事を冷静に考えられる青年もあの世界に染まっているのかも知れない。命が安いあの世界の考えに……
夕暮れ、教官の合図と共に、初日の訓練が終わる。青年は渡されたレーションを口に詰め込みながら、身体を休めていた。
……六人。今日の訓練で死んだ人間の数。滑落事故だった。改めて思うのは、自分達が替えのきく駒でしかないという現実。
生き残れば優秀な兵士が出来て、死ねばまた補充すれば良い。反政府軍の上層部はそんな風にしか考えていないのだろう。
そんな者達が現政府を打倒したとしたとしても、何かが変わるとは思えない。頭がすげ替わるだと青年は思っていた。華琳の様な誇り高い人間が居るなら、こんなやり方はしない。
まぁ、この国の事はこの国の人間が考える事だ。自分は巻き込まれただけの異邦人。全く関係ない国の事を思う余裕なんて今の自分にはなかった。
そんな事を考えていた青年に英語で話し掛けて来る者がいた。
「お前は何処の国の人間だ?」
朝、隣に立っていた男。
「日本だよ」
「何で日本人がこんな所にいるんだ?」
「中国で旅行している時に拉致されて此処に売られたんだ」
「それは運が悪かったとしか言えないな。あの国も最近人身売買の組織が増えているから、お前はそれに引っかかったんだろう」
ラキという名前のその男はこの国の事や自分の事を説明してくれた。この国の言語はアラビア語で政府軍との戦争は膠着状態。反政府軍自体も組織がいくつかあるらしいが連携がとれてなく、それぞれの主義主張で戦っているのが現状の様だ。
ラキ自身は反政府軍の占領下にある近くの町の出身で徴兵で此処に連れて来られたらしい。歳は青年より八つ上で、英語が話せるのは、アメリカに留学したくて独学で勉強した様だった。
青年も自分の事や日本の事をラキに話していた。特に盛り上がったのは、日本のアニメの話で此方でも何作か放送されている。
「俺もいつか、日本に行ってみたい」
「その時は俺が観光案内してあげるよ、ラキ」
「本当か!」
「あぁ、俺に任せて。美味い物が食える店に連れて行ってやるよ」
「それは楽しみだ!こんな所では絶対に死ねなくなっちまった。……そうだ、カズに頼みがあるんだ」
「頼みって何だ?」
「俺に日本語を教えてくれないか?」
「それは構わないけど……そうだ!なら、代わりに俺にアラビア語を教えてほしい。今の状況で周りと言葉が通じないのは、命取りになりかねない」
「確かにな、カズの今の状況は正直に言ってかなり危険だ。わかった、俺が一から教えてやる」
「取引成立だな」
お互いにニヤリと笑い、顔を見合せる。
「それじゃあ、俺はそろそろ休むわ。……カズ、明日からも大変だと思うが絶対に生き残ろうな」
「あぁ、俺も見知らぬ異国で死にたくはないよ」
その言葉を最後にお互い、それぞれに割り当てられた場所に戻る。
そして青年は寒さに震えながら、夜を過ごすのだった。
プロローグは後、二話程で終わりです。