一刀にとって政治というのは面倒な物だった。
なにせ、終わりという物がないのだ。一つ解決すれば、その数倍は新たな問題が噴出してくる。
こんな事をする位なら、一人で戦場を駆けている方が遥かに楽だった。戦争は敵を全て殺せば、戦いは終わる。
戦場にあるのは、剥き出しの人間の本能。生きるか死ぬかの二択の場所、今の一刀にはそこは何より落ち着く場所になっていた。
戦場に染まった自分がこうして書簡と向かい合っていると、一体、俺は何をしているのだ、とそんな気がして来る。
必要最低限の荷しか背負いたくなかったから、交州に来たのに、気が付けば、数百万の民の命と生活を背負っている。つくづく神とやらは自分が嫌いらしい。
そんな事を考えながらでも、筆を動かす一刀の手が止まる事はない。
やると決めてもう始めてしまったのだ。思う所はあるが、途中で投げ出すつもりはなかった。
魏に居た時と違い、嫌々、政務にこなしている一刀だが、その手際は魏に居た時とは比べ物にならない位に良い。
一度、元の世界に帰った時にまた、この世界に戻った時の事を考えてあらゆる知識を自分の頭に叩き込んでいたからだ。
華琳の為に、そう思い、ひたむきに知識を吸収していた日々が今は遠い昔の様に感じる。
……残骸だった。
今の自分の知識は華琳に対する想いの残骸。いや、高長恭という人物自体が華琳を愛した北郷一刀の残骸なのだろう。
その証に華琳に対する想いは今はもう朧気な物になっている。
一刀は一つ大きくため息を吐いて、筆を置き、侍女が持って来た茶を啜る。
やるべき事は数多くあった。そんな中で一刀がもっとも力を入れているの交易だ。
交州は商業地としては向いているが、農地としては今一つとしか言い様がない。荒れ地が多いのだ。
蜀と呉からは国を通さずに商人から食糧を仕入れてはいるが、もし、二国と争う事になった時に荷止めをされる可能性がある。
そうなった時の為に、一刀は交州を取ってすぐに越南(ベトナム)に使者を送り、士燮も行っていた南海貿易をもっと大々的に行う事した。
食糧に関しては一刀には元の世界から持って来た切り札があるが、そう簡単に出せる物でもない。出すにしてもタイミングが重要で、そして、そのタイミングはもう、すぐそこまで来ていた。
食糧に関しては手は打っている。金に関しても、食糧と同じく一刀には切り札がある。後、足りないのが馬だった。
……南船北馬
その言葉はこの大陸での常識。南では長江がある故に船の技術が発達し、北は平地や山が多く、騎馬民族の匈奴の影響もあってか、良馬の産地となっている。
一刀が居る交州は大陸の最南端、それが理由で良馬が手に入りにくかった。
馬の質に拘らなければ数だけなら何とかなる。他の部隊ならそれでもいい。だが、黒鬼隊は基本、良馬で編成している。そこに駄馬を入れる事は出来ない。一頭でも力が落ちる馬を入れてしまったら、隊全体がその馬に合わせた動きになってしまう。それでは最精鋭にまで鍛え上げた黒鬼隊の意味がなくなるのだ。
「……馬か」
一刀が呟きながら、茶を啜った。
求める物が全て手に入る訳ではない。そんな事はわかっている。けれど、自分が精魂込めて鍛え上げて、それに着いて来た黒鬼隊、思うがままに戦場を駆けさせてやりたかった。
どこか、心に満足出来ない物を抱えたまま、一刀は僅かな休憩を終え、再び、筆を執る。
そして政務の続きに取り掛かろうとした時だった。
「高長恭様」
自分を呼ぶ侍女の声。一刀はそれに応える。
「どうした?」
「高長恭様にお会いしたいという者が参っているのです」
その侍女の言葉に一刀は違和感を感じる。自分に会いたいと言う者は交州の主になってからいくらでも居た。
そういう人間は、しかるべき手続きの後に会う事になっている。それはこの城に居る者なら皆、わかっている事だ。
「俺との面会は手続きの後となっているはずだが?」
「それが、その方は商人で、自分は高長恭様の一番求める物を売りに来た。と言っておりますので、文官の方が一応、話だけは通しておくべきだと……」
「よし、会おう」
一刀は筆を置き、城門へ向かう。その商人が自分に何を売ろうとしているのか興味があった。
城門に到着した一刀を待っていたのは身なりは良いがこれと言って変わった所はない中年の男。
只、その目は油断ならない光を放っていた。恐らくやり手の商人なのだろう。
「俺に会いたいと言う商人はお前か?話を聞く所によると、俺が求める物を売りに来たとの事だが……」
「これは、高長恭様、お初にお目にかかります。私は張世平と言うしがない商人で御座います」
……張世平。その名前を聞いたと同時にこの男が何を売りに来たか、一刀にはわかった。
「私が売りに参りましたのは「馬か?」」
一刀が張世平に言葉に言葉を被せる。
「……左様で御座います」
一刀に機先を制される形となった張世平だが、顔色一つ変えていない。
「どうして、俺が馬を求めている事がわかった?誰にも言ってはいないのだがな」
「蛇の道は蛇と申します。私共商人は情報が命で御座いますから」
「……まぁ、いい。で、どれ程の馬を売ってくれるんだ?」
「北の良馬、千頭で御座います」
一刀が考えていたよりかなり多い。精々、二百頭位と考えていたのだ。
「それはありがたいな。馬は消耗品だ。いくらあっても困る事はない」
「では、お買い上げで?」
「あぁ、買わせて貰おう。だが、今は金の持ち合わせがないのだ。だから代わりの物で払おう。……おい、あれを持って来てくれ」
一刀は自分の護衛についている兵に命じる。……暫し、後に兵が持ってきた物を見た張世平はうなり声を上げた。
「……これは、何と見事な!」
一刀が兵に持って来させたのは、越南から仕入れた玉であった。
「これなら、馬千頭の価値はあるだろう?」
「この玉を洛陽で売れば千頭どころかその倍は買えまする!」
「そうか、なら余った分はお前がとっておけ」
「!!良いのですか!?」
「構わん。俺の欲しい物の情報を集めて、わざわざこんな辺境まで売りに来たお前に対する褒美だ」
他人が見れば、誰もが一刀の器の大きさに感心するであろうやり取り。だが、一刀はそんな事を考えて玉を出した訳ではない。
……只、単純に玉がいらなかったのだ。
大陸の見る目がある者ならうなり声を上げる玉も、一刀から見れば、少し変わった石ころにしか見えなかった。
越南でも玉はそれほど価値のある物じゃない。一刀が仕入れたのも元の世界の知識で漢でなら高く売れると思っただけだ。……まさか馬二千頭の価値があるとは思わなかったが。
……石が石以上の価値を持つ。それが人間の欲望なのだろう。
「張世平、もういいか?」
一刀は未だ玉に見入っている張世平に声を掛ける。
「えっ?あっ、はい!」
「商談は成立と言う事でいいな?」
「……」
「ん?どうした?……まさかその玉では不足か?」
「そうでは御座いません。この玉で充分過ぎる程です。只、商人である私が一方的な借りを作らされるのは、私の矜持が許さないのです」
「そう言われてもな……」
一刀からすれば、石ころ一つで良馬千頭は破格の取引なのだ。張世平には金がないと言いはしたが、馬千頭分の金ぐらいある。只、石ころで払えるならそれで済ましたかった。
「……高長恭様、少しお付き合い願えませんか?貴方様にお譲りしたい物が御座います。これについては代金は頂きません」
そう言う張世平の真剣な目に一刀は頷く。
案内されたのは、城門を出て、少し歩いた所に居た張世平の商隊。
「貴方様にお譲りしたいのは、あちらの物になります」
張世平に言われる前に、一刀の目は既にそれに釘付けになっていた。
……それは一頭の黒馬だった。
元々、日本の都会育ちの一刀に馬を見る目はない。仕入れる馬の良し悪しは馬の目利きを持った屍鬼隊の者に任せていた。
そんな一刀にもはっきりわかる程にその黒馬は他の馬とは
……モノが違った。
一刀が知っている中でも一番の名馬、華琳の絶影にすら勝っているのではないか?とも思える。
「……お気に召された様ですね。この馬は私が持つ中でも最高の馬で御座います。……只、この馬は誇り高く、乗り手を選ぶのです。もし、貴方様が乗りこなせるなら遠慮なくお持ち下さい」
張世平の言葉を尻目に一刀はゆっくりと黒馬に近付き、その目を見据える。
……目が合った瞬間、何かが通じ合った気がした。
「良い目をしているな。お前の目は自分は誰にも負けない、死すら怖れはしないと雄弁に語っている。……俺にはわかるんだ。俺もお前と同じだからな」
一刀は黒馬に語り掛けながら顔を撫でる。黒馬は嫌がる素振りは見せなかった。
「お前を理解出来るのは、俺だけだろう。俺と共に……いや、俺と一つになってこの大陸を思うがまま駆けないか?」
一刀はそう言って、黒馬にまたがる。黒馬は棹立ちになり、一刀を振り落とそうとするが、一刀は脚で黒馬の腹を締め付け、自分の意思を伝える。
「俺を試しているのか?いいさ、好きなだけ試せば良い」
黒馬が駆け始める。乗り手の事を考えない無茶苦茶な駆け方。それでも一刀が振り落とされる事はない。
一人と一頭が原野を駆ける。一刀は自分が風になった様に感じていた。黒馬も、もう、一刀を振り落とそうとはしていない。
どうやら、一刀を乗り手と認めた様だった。ひとしきり駆けた後、張世平の元へ戻る一刀。
けれど心の中は既に黒馬と戦場を駆ける事を待ち遠しい気持ちになっていた。