稟は部屋にて紅を差す。
自分がこういう女性としての身だしなみをを気にする様になったのは、何時からだろう?
自分に問いかけるが、答えはわかっていた。
……彼が天の世界に帰ってからだ。
それまではその様な事を気にした事はなかった。身だしなみは清潔感さえあれば良いと思っていた。
彼……一刀には女性らしい自分をほとんど見せた事がない。いつも、自分が鼻血を噴き出して、一刀に迷惑をかけた事しか思い出せないのだ。
思えば、一刀とは自分の妄想癖を治す為に、風に巻き込まれた形とは言え、随分と恥ずかしい事をした物だった。
結局、稟の妄想癖は治る事はなかったが、今となってはそれら全てが懐かしく思える。
紅を差す手が止まる、稟は一刀と小川で過ごした時の事を思い出してしまっていた。
鼻血を噴き出す事はないが、稟の顔が僅かに朱に染まる。
「一刀殿の事は何とも思っていなかったのですが……」
一刀が居なくなってから、気付いた想い、稟の初恋は始まると同時に終わってしまっていた。
年月が経った今となっては、その想いは色褪せて来ている。それでも自分が紅を差すのは、稟の心の何処かに色褪せない何かが残っているからかも知れない。
そこまで考えて稟は、過去の思い出を振り返る事を辞めた。自分にはやるべき事が数多くある。
戦乱の気配が漂っていた。それは、魏の上層部だけではなく、洛陽に住まう民も感じているだろう。
その証拠に、最近、街では小さな揉め事が多発している。皆が苛立ちを感じ始めていた。
魏を裏切った八雲の晋の建国は民に大きな衝撃を与えていた。
本来なら華琳が先頭に立って、魏の者達が一丸となり、晋を討つ。単純にそれだけの事をやれば良いのだが、華琳と晋王八雲の夫婦という関係がそれを複雑にしている。
華琳の夫である八雲の裏切り、それは蜀と呉の二国から見れば、華琳の失態にしか見えない。
それどころか、華琳が八雲に命じて自作自演で反乱を起こさせ、そのゴタゴタを機に蜀と呉を攻め取るという、とんでもない噂さえ流れている。
もう、魏の国内だけで済む問題ではなくなっていた。そして、トドメとなったのが、八雲に嵌められ結ばされた不戦協定。
あれで華琳の動きが封じられたのだ。不戦協定によって華琳は晋を攻める事が出来なくなってしまった。
……蜀と呉の二国が滅びるまでは。
あの会談の内容はいずれ、蜀と呉に伝わる。そうなれば、二国は間違いなく、魏に不信感を持つ。それも八雲の狙いである事は稟にはわかっていた。
……華琳は動けない。ならば自分が動くしかない。あの不戦協定はあくまで華琳と八雲、二人の協定であり、稟には直接は関係ない。稟が独断で動く事を縛る協定ではなかった。
主君が動けない時にいかに行動するか、それは軍師としての腕の見せ所でもある。
稟は秘密裏に蜀と呉に使者を送った。協定を結んだ時の状況を二国に知らせる為に。
初めはこの使者を送るべきか迷ったが、後々、二国が自力で情報を得た時の事を考えると、こちらから言っておいた方が向こうの感情を荒立てないだろうと考えての事だった。
それと、同時に呉には、晋の呉への侵攻の事も知らせた。その時は協定故に援軍は出せないが、物資の援助はするとの書状を添えて。
一先ず、自分が出来る事はしたと思った稟だが、本当にこれで良かったのかとも思う。
外交は自分の分野ではないのだ。一通りの事は学んではいるが、決して得手ではない。
だが、自分しか居なかった。桂花に任せる訳にはいかない。あの刺々しい態度が外交に向いているはずがないからだ。
こんな時に風が居れば……
稟は魏を去った親友に想いを馳せる。こういう事は風が三軍師の中で一番得手としていた。
桂花が政略、自分が軍略、風が外交に謀略とそれぞれに得意分野が違っていた。それで魏は上手く回っていたのだ。
稟にとって、いや、魏にとって、それだけ風の抜けた穴は大きかった。
風が他国に仕えるとは、稟は思っていないが、風の足跡は追っていた。風が居る所に、天の世界から帰ってきた一刀が居る。
一刀が帰ってきた事に関しては稟からすれば、嬉しさと戸惑いがある。だが、華琳の結婚によって、一刀が魏に戻る事はないと思っていた。
けれど、状況が変わった。
八雲の裏切りで、一刀が魏に戻ってこれる余地が出来たのだ。
……この機しかない。
稟は何としても一刀に魏に戻って欲しかった。それは自分の為ではない。華琳の為に……
稟から見た華琳は、為政者としては優秀だが、明らかに昔の覇気を失っていた。
間違いなく、名君とは言える。しかし、今の華琳は稟が惹かれた覇王ではなくなっていた。
一刀さえ、戻って来れば、華琳は昔の覇気を取り戻す。稟はそう確信している。そして、一刀が戻るならば、風と凪も魏に戻り、霞も合肥から洛陽へ戻って来る。
そうなれば、今の状況なんてひっくり返せる、稟はそこまで考えて風を捜していた。だが、風は完璧に自分の足跡を消して行動していた。
恐らく、稟がする事を風に見抜かれている。自分が風の立場なら、同じ事をするだろう。一刀の捜索に関しては人手を増やすしかなかった。
八雲への対応、一刀の捜索に力を入れている稟だが、他にも気になる事があった。
……交州の事だ。
交州はこの大陸の最南端に位置する州で、三国の何処にも属していなく、独立を保っていた。
その交州の支配者が変わったのだ。
……高長恭。
それが、交州の新たな支配者の名、魏では遠く離れている交州の事を気にする者など居なかったが、稟は何か引っ掛かる物を感じていた。
稟は交州に間者を送る。八雲の件がある今、不確定要素は出来るだけ排除しておきたい。だから情報が欲しかった。
しかし、稟は求めた情報を手に入れる事は出来なかった。……送り込んだ間者が誰一人帰って来ないのだ。
その事実に、稟の肌に粟が立つ。間者が全員捕殺されるなんて、昔、蜀と呉と争っていた時にもなかった。何人かは捕殺されても、必ず報告に来る者は居たのだ。
……落ち着かない、それ以上に不気味だった。
稟は再び、間者を送る事を決める。このままにしておく訳にはいかない。今度は間者の数を増やし、間者には生き残る事を優先させるつもりだった。
得る情報は少なくなるかも知れないが、生き残らなければどんなに情報を得ても自分には伝わらない。それでは何の意味もなかった。
稟が再び間者を送ったその日、八雲が動いた。
晋が呉に侵攻したのだ。稟は直ぐ様、物資を呉へ送り始めた。これは稟の独断。本来なら厳罰に処されてもおかしくはない。
けれど華琳は、
「貴女には苦労かけるわね」
と一声掛けただけで稟を罰する事はない。そして晋と呉の戦況は一進一退、長期戦になる様相だった。
紅を差し終えた稟は政務に取り掛かる。風が居なくなってから自分に届けられる書簡の量が明らかに増えた。
それに対して稟は何一つ愚痴を言う事はなく、黙々と自分のやるべき事をこなす。言っても仕方のない事だからだ。
政務に励んでいた稟に交州に送っていた間者から知らせが届く。正確には交州の手前、荊州から届いた知らせであったが……
その知らせを聞いた稟は頭を抱え込みたくなった。その内容とは、
……交州の高長恭、荊州に侵攻す。
その一文であった。