江南の地は孫堅が死んでから、混乱の極みにあった。
孫堅の後を引き継いだ孫策には江南を治める力はなく、袁術に比護を求めたが、その袁術はお世辞にも名君とは言い難い。
荒れていく江南、その時代の激流の中で右往左往する自分の一族を朱桓は冷めた目で見ていた。
いい気味だった。さんざん偉そうにしていても、世が荒れればこのざま、大物ぶって調子に乗っているからこの様な状態に陥るのだ。
そもそも、朱一族が江南で大きな顔を出来るのも、そこまで家を盛り立てた祖先の功であって、今の朱一族の功ではない。
それを忘れ、そこに生まれついただけの人間が大きな顔をする事自体が間違っている。
最後に物を言うのは、自分の力だと朱桓は思っていた。
そして今は乱世、個人の能力で上に行ける時代。現につい先頃起こった黄巾の乱で活躍した諸侯が次々と州牧や太守に任命されている。
本音を言えば、自分もこの乱世に乗り出したい。そうは思っても、今の自分はまだ十を過ぎたばかりの年齢、どの諸侯もそんな子供を仕官させてはくれないだろう。
成長が待ち遠しかった。今の自分に出来るのはこの乱世が少しでも長く続く事願う事だけ。
……だが、その願いは叶う事はなかった。
この大陸に現れた三人の英傑によって、乱世が終わってしまったのだ。
孫堅の後を継いだ呉の孫策、中山靖王の末裔を称する蜀の劉備、そしてその二人を打ち倒し大陸平定を成し遂げた魏の覇王曹操。
三人の英傑により結ばれた三国同盟。それによって自分が名を上げる機会は失われた。
朱桓は落胆していた。自分はこのまま、何も成せないまま、誰にも認めてもらう事もなく、朽ちていくのか。
この一連の動乱で最後まで袁術に付いていた自分の一族は孫策により粛清されたが、そんな事は何の慰めにもならない。
自分が生きているのも、一族でありながら一族の扱いをされていなかったと言う黄蓋の証言による物だった。
感謝はしなかった。自分は生きているだけだ。そう、何の意味もなく、ただ、生きているだけ。そんな人生に価値などない。
自分が街を歩けば、憐れみと蔑みの視線。
……お前達に何がわかる!!
確かに朱一族は負けて罪人として処刑されたが、私は負けてない!!
負けて死ぬなら納得出来る。しかし私は負ける所か、勝負の舞台に立つ事すら許されなかったのだ!!
機会すら与えられなかった自分を負けて死んだ一族と同じ様に見られるのは我慢ならなかった。
……いや、その言い訳すら負け犬の遠吠えか。
確かに幼い自分が乱世の表舞台に立つには常識で考えれば時が足りなかった。だが、この乱世には常識で通用しない人間も居たのだ。
蜀の張飛将軍、魏の曹操直属の二人の親衛隊長など自分と変わらない年齢の人間が天下に名を轟かせていた。
そんな者達が居る時点で……年齢と常識を言い訳にした時点で自分は負けていたのかも知れない。
それからは流れる様に旅に出た。呉に自分の居場所はなく、かと言って罪人の一族を蜀や魏が仕官させてくれるはずもなかった。
自分にあるのは、多少の学と鍛えた剣の腕だけでそれもまだ子供である自分には生かし切れはしない。
すぐに旅の路銀は尽き、盗みに手を出す事になるが、自分には合わなかった。
盗んだ金で生きていると、自分はこんな事をする為に生まれてきたのかと深い憂鬱に陥る。
行き着いた街で働く事も考えて実行したが、やはりここでも子供だという事が自分の足を引っ張る。
賃金を誤魔化されるのだ。自分の身なりは旅をしてきただけあって汚ならしい物で、雇う方もその様な身なりの自分の足元を見て来るのが常になっていた。
働いても渡されるのは、生きる為に必要な最低限の金で朱家に引き取られる以前と変わらない生活。
けれど朱桓はその生活を受け入れた。仕事を辞めた所で先の展望はない。少なくとも自分が大人になるまでは我慢して剣の腕をさらに磨く事に専念した。
そんな生活が三年が過ぎた頃、朱桓は雇われていた商家を飛び出した。
雇い主が朱桓を手込めにしようと襲って来たからだ。朱桓は雇い主を打ちのめし再び旅に出る。
殺してしまっても良かった。しかし、それをすると自分はお尋ね者になってしまう。いや、打ちのめした時点でお尋ね者にはなっているだろうが、それでも捕まった時に罪は軽くなる。そう考えての事だった。
これからどうするか?宛てのない旅を続けていた朱桓の視線の先に数人の賊に襲われている行商人。
その光景を見た時、朱桓の頭の中である事を思い付く。
それは行商人の護衛業だ。三国同盟が成立して三年の時が経っているが、この大陸にはまだまだ賊が多い。
行商人は賊に襲われる危険を常に抱えながら商売を行っている。腕の立つ護衛は喉から手が出る程欲しいはず。
そこまで考えた朱桓は賊を斬り捨て、行商人を救う。命を救われた行商人は朱桓に礼を差し出そうとしたが、それは受け取らなかった。
礼を受けとってしまえば、今は良いが先が続かない。だから朱桓は礼を受け取らずに自分の事を他の行商人に護衛として薦めてもらう事にしたのだ。
朱桓の目論見は思いの外上手くいった。その行商人から朱桓の事を聞いた他の行商人から護衛の依頼が殺到する事になる。
順調だった。飢えるという事がなくなった。それでも朱桓は満足はしていない。
心の中で、いつも何かが燻り続けている。その燻りを誤魔化す様に朱桓は護衛の仕事に励む。
そんな朱桓に転機が訪れたのは二年後、許昌から交州への護衛の仕事の時。
護衛は上手くいっていた。荊州を抜け交州に入った頃、朱桓は次の仕事の事を考えていた。
それは油断。慢心と言っていいだろう。一番に賊の数が多い荊州を抜けた事で朱桓の心に弛みが生じていた。
気が付けば囲まれていた。賊の数はおよそ八十人。今までで最大規模の数。それに対し護衛の数は自分を入れて五人。
不味いと思った時には既に遅かった。こちらに向かってくる賊の集団。朱桓は必死に応戦するが、数が違い過ぎる。
一人また一人と他の護衛が殺されていく。気が付けば自分を雇った行商人も殺されて、残ったのは、自分と行商人の妻と娘だけになっていた。
「ずいぶんと手こずらせてくれたな!」
自分に向けて放たれる賊の頭目と思われる男の声。奴を殺せばと朱桓は思うが、身体が疲労で言う事を聞かない。
「まぁ、いい。手こずらせてくれた礼はお前の身体でしてもらう」
頭目のその言葉に周りの賊達は下卑た笑いを顔に張り付けていた。
……ここで終わりか。
結局、自分は一族と同じ負け犬だったのだ。
これから訪れる自分の末路を思い、苦笑を浮かべる。そして持っていた剣を首筋に走らせようとした瞬間……
「あー面倒だ。普段なら見捨てるんだが、自分の領地の賊くらいは始末しないとな」
どこか気の抜けた様な男の声。その場に居た全ての人間の視線が声がした方向へと注がれる。
……その視線の先に鬼が居た。
いや、鬼の仮面を被った男。仮面で詳しくわからないがまだ若い。恐らく自分より少し年上くらいだろう。
しかし、そんな事はどうでもいい。男を見た時から朱桓の全身から震えが止まらない。
鬼の男が纏う威風、一つ一つの所作、冷たくこちらを見る鋭い眼光。
その全てが朱桓の心を恐怖で締め付ける。
朱桓は自分の力に自信があった。故にわかる鬼の男と自分の圧倒的な格の違い。
「なんだテメエは?ぶっ殺されたいのか!?」
この賊は馬鹿か!!その鬼の男がどれだけ危険なのかわからないのか!?
朱桓は今まで自分と戦っていた相手なのに何故かそんな事を考えてしまう。それだけ鬼の男は強烈な存在感を放っていた。
だが、鬼の男は賊の言葉に反応を示す事はなく、朱桓に声を掛けた。
「そこの女、巻き込まれたくなかったらその場から一歩も動くな。……心配はしなくていいぞ。すぐに終わるからな」
言葉を言い終えると同時に鬼の男の姿が消える。そして
……鮮血が舞う。
朱桓には何が起こったのかわからない。ただ、残っていた五十人程の賊の半数以上の全身から血が噴き出していた。
生き残った賊も何が起こったのかわかっていないのだろう。呆然と立ち尽くしている。
「そんなに呆けていていいのか?次はお前らだぞ」
口元だけで笑いながら賊にそう告げる鬼の男。それは逃れ得ない死の宣告。
辺りを見回し、ようやく自分達の現状に気付いた賊達は阿鼻叫喚に陥る。
「あ、あ、あぁぁぁ!!」
「た、助けてくれぇぇ!!」
「逃げろぉぉぉ!!」
賊達が一斉に逃げ出す。鬼の男は笑声を上げ、
「ほら、逃げろ、逃げろ。……まぁ、どこに逃げても必ず追い詰めて殺すけどな」
逃げ惑う賊達に迫る鬼の刃。鬼の男は淡々とそして無慈悲に命を刈りとっていく。その姿はまさに暴力の権化。
朱桓は鬼の男に恐怖を抱くと共に魅せられていた。
……あの力が私にあれば。
後少しで負け犬として死ぬはずだった朱桓には鬼の男が羨ましかった。
あの男は例え、誰が敵であろうと今、殺している賊達と同じように相手を殺していくのだろう。
彼は間違いなく勝者の道を歩く事を約束された男。
自分はまだまだ成長する自信はある。だが、どれだけ成長してもあの様にはなれない。
それは理屈ではない、本能でどうしようもないくらいにその事がわかってしまった。
朱桓が己の限界を悟った頃、賊達を殺し終えた鬼の男が朱桓の元へやってくる。
「それほど深い傷はない様だな」
「はい、お助け頂きありがとうございます」
「あぁ、礼はいらん。俺の領地の賊だしな」
「俺の領地?」
「自己紹介をしておこうか、俺は此処、交州を治める高長恭という者だ」
その言葉に朱桓は慌てて膝を付く。
「州牧様でございましたか!ご無礼申し訳ありません!」
「そんなに
「ですが……」
「あーそんな事より状況の説明をしてもらえるか?」
「……わかりました」
朱桓は許昌で護衛の依頼を受けて、交州までやって来て賊に襲撃された事を高長恭に説明する。
「私は高長恭様のおかげでこの通り無事ですが……」
朱桓はそこまで言って、視線を依頼主の行商人の亡骸に走らせる。
その亡骸にすがりついて、行商人の妻と娘が泣いていた。
「……そうか、彼女達の事は俺が引き受けるから心配しなくていい。幸い財産は賊に奪われていないから、生活の出来る環境は用意してやれる」
「ありがとうございます!」
朱桓は頭を深々と下げて礼を言う。行商人を守り切れなかったのは自分の失態だった。
「構わん、片手間で出来る事だ。じゃあ、俺はそろそろ城に戻る。護衛業を続けるなら精々気を付ける事だ」
そう言って高長恭は
「お待ち下さい!」
朱桓のその声に振り向く高長恭。
「私を、私を貴方様の配下にして下さい!」
……気が付けば言っていた。言わなければ後悔する。そんな気分に朱桓は襲われていた。
朱桓の言葉に高長恭は僅かに驚いた様子を見せた。が、
「お前はどうして俺に仕えたいんだ?」
直ぐ様、朱桓にそう問い質す。高長恭の問いに朱桓は今までの自分の人生を振り返り、暫し、黙り込む。そして出た答えは、
「……私は勝ちたいのです」
その一言だった。
そう、勝ちたいのだ。今までの自分は自分の能力とは関係のない所で憐れられ、見下されてきた。
出世を願ったのも、そうした目で自分を見てきた人間達に自分自身の価値を知らしめる為。
本当の所を言えば、出世なんてどうでも良い。自分の境遇に負けたくない。自分自身の価値を認めさせれるなら何でも良かった。出世を目指したのも一番目に見える形だからそうしたまでだ。
「勝ちたいか……」
高長恭が呟く。そして……笑った。
「そうかそうか、勝ちたいか!良いなお前。気に入った!名は何という?」
「性は朱、名は桓、字は休穆と申します」
朱桓の名を聞いた高長恭が僅かに口元を吊り上げて、ぽつりと一言溢した。
「呉の前将軍……」
「はっ?」
「いや、何でもない。それより本当にいいのか?俺に仕えるという事は間違いなく、お前が考えているより苦しい道になるぞ」
「構いません」
朱桓は何の躊躇もなくそう言い切った。
「そうか、ならば朱桓、俺に着いて来い。お前の勝利への渇望を俺が満たしてやる」
「那由多とお呼び下さい。それが私の真名です」
「わかった。では那由多、お前には俺の直属部隊の調練に混じってもらう。その調練の結果で俺を認めさせろ。俺の真名はそれまでお預けだ」
「御意!」
高長恭の言葉に那由多は拱手を持って応える。その日から那由多の新たな生が始まった。
配属されたのは後に黒鬼隊となる部隊。那由多はそこで言葉に出来ない程の苦難を味わう。
今までの自分の鍛練がお遊びに見える地獄の様な調練。共に参加していた人間が調練に付いて来れないだけで高長恭に打ち殺される。
参加していた皆が必死で調練に取り組んでいた。なんせ気を抜けば死ぬのだ。黒鬼隊の調練は戦場に居るのと変わらない。いや、戦場が楽に思える程だった。
鬼と呼ばれる男の調練。けれど那由多は高長恭を本当に鬼とは思ってない。むしろ優しい男だと思っている。
何故なら、高長恭が施す調練に無駄な物は一つもないのだ。きちんとやれば強くなると同時に生き残れる。その為の術を黒鬼隊になる者達に叩き込んでいた。
そしてその効果は自分の身体に現れる。那由多自身、自分の能力が高長恭に仕える以前とは比べ物にならないくらいに上がっているのに気付いていた。
その事によって那由多の高長恭に対する尊敬の念はますます強くなっていた。
四ヶ月後、それまでの黒鬼隊の調練を一番の成績で潜り抜けていた那由多は高長恭に呼び出された。
「高長恭様、お呼びでしょうか?」
「あぁ、お前に頼みたい事があってな」
「何なりとご命令下さい」
那由多の言葉に高長恭は仮面を外し、笑みを浮かべた。
「朱休穆、お前を屍鬼隊副隊長に任命する」
突然の言葉に那由多は思わず戸惑う。そもそも屍鬼隊なんて聞いた事がなかった。
「高長恭様、屍鬼隊とは?」
「俺直属の諜報部隊だ。黒鬼隊の調練で黒鬼隊には向いてないが、捨てるには惜しい者達でこの部隊は編成する。勿論、隊長は俺になるが、実働部隊の責任者はお前だ」
「諜報部隊ですか?」
「あぁ、諜報部隊では不満か?」
「そうではありません。ありませんが、私は間者の訓練を受けていません」
「心配するな。それはこれから二ヶ月で俺自らお前に叩き込んでやる」
「何故、私に?」
「才能があるからさ。お前は武の腕は立つし、機転も効く。正直に言ってこのまま黒鬼隊に配属しても良い。だが、黒鬼隊ではお前の才能を生かし切れない」
「私の才能とは?」
「人の視線に敏感な事だ。敏感なだけではなく、その視線がどういう視線なのかお前は読むのが上手い。それはお前にしかない才能だ。間違いなく屍鬼隊ではお前の才能が生きるだろう」
高長恭の言葉に那由多の心中でこみ上げるものがあった。
……この方は私を見ていて下さったのだ。
「わかりました。屍鬼隊副隊長の任、謹んでお受け致します」
「一刀」
「はい?」
「一刀、俺の真名だ。お前に預けよう」
「っ!ありがとうございます!!」
それは那由多の人生で初めて自分自身を、誰よりも認めてもらいたかった人に認めてもらった瞬間だった。