星が綺麗な夜だった。こんな夜には部下達とのんびり酒でも飲みたくなる。
そう思いながら、少女が眼下に視線を下ろすと無数の篝火が煌々と光を放っていた。
空の星と合わせ、とても綺麗な光景だと思う。その篝火の元がこの城を取り囲む敵兵でなければの話だが……
此処は淮南寿春。呉の領地の中で唯一長江より北にある領地。
少女はこの地の総司令官として迫り来る晋の大軍と相対していた。
若干、十六でこの重要拠点の総司令官。少女の胃はその重圧で悲鳴を上げていた。
「この状態になって言うのも何ですけど、何で私が総司令官なんでしょう!?」
寿春城の城壁の上で少女は盛大に愚痴を溢す。基本的に保守的な孫呉の人事では通常考えられない大抜擢。
立身出世を望むなら狂喜乱舞するほどの大出世。だが、少女は今すぐにでもこの場から逃げ出したかった。
「私にこんな大役を任せるなんて、呉の首脳陣は全員、頭おかしいです!」
少女は王の孫権を始め、重臣達に聞かれたら不敬罪待ったなしの言葉を堂々と口にする。
少女がそんな事を言えるのは、今、この場には誰も居ない事もあるが、少女が頭おかしいと言った重臣の一人が少女と深い関わりがあるからだった。
「何が『
少女の愚痴は止まる事を知らず、その矛先はそれほど年の離れていない義母へと向かう。……一部、身体的特徴の僻みがあるのは否定出来ない。
少女は義母の事を嫌いではない。むしろ四年前に病で立て続けに死んだ両親に代わり、遠縁の自分を育ててくれた事は感謝していた。
もっとも、義母のとある習性と豊満な身体に対しては思う所はあるが……
と言うより、孫呉の首脳陣は胸が大きい女性が多すぎる。一番小さい明命さえ並程度にはある。
少女は一旦、愚痴を止め、自分の身体に視線を下げた後、ため息を吐く。
「……胸なんて飾りです。偉い人にはそれがわからないんです」
少女自身も大概偉い人なのだが、それは脇に置いておく。少女自身、自分が偉いと言う自覚あまりないからだ。
少女は自分の見目が良い事はわかっていた。目鼻立ちはくっきりしており、中々の長身で膝裏まで届きそうな長い髪を三つ編みにしている。
充分に美少女と言っていい容姿をしているのだが、ただ唯一、胸がなかった。壊滅的なまでになかった。
胸のない少女のある行動は今も兵達の中で笑い話として語り草となっている。
それは少女が義母に連れられて初めて主君孫権に会った時の事。
初めての謁見は和やかに進み、その場に居た孫権を始めとする重臣達とお互いに真名を預ける事になった。
少女が自分の真名の名乗った時、孫権の隣に居た孫尚香がぽろっと
「胸はないのに歩叶?」
と呟いたのだ。
その言葉を聞いた瞬間、少女は無言で孫尚香に歩み寄り、その頭を叩き倒した。
少女は直ぐ様、甘寧に捕らえられ牢に入れられたが、私は悪くない。胸の小さい女性を馬鹿にするのが悪いと言い張った。
幸い、孫尚香が真名を悪気はなかったとは言え、からかった事が原因だったので少女は一日で牢から出された。
後に謝罪に来た孫尚香……小蓮とは年も近い事もあり、今では友の様に付き合っている。
理由があったとは言え、初対面の王妹の頭を叩き倒した剛胆な者として少女の名は呉の国内で広まり、寿春防衛の総司令官としての今があった。
少女は現状に満足していない。此処まで出世したのは先の一件とコツコツと功績を積み重ねた少女の才覚もあるが、義母の名が大きかった。
別に出世をしたい訳ではない。が、義母の名に頼るのも悔しい気持ちはある。
義母には感謝している。しかし、少女が目標としているのは義母ではなく、周瑜である。
最近は先王孫策と隠居の形を取っていて、あまり表には出て来ないが、少女は何度か周瑜に教えを受けて、その学識の深さに尊敬の念を持っていた。
本来であれば断っていた寿春総司令官の任を受けたのも義母の強烈な後押しと共に周瑜の推薦があったからだ。
やはり、自分が尊敬する人間に認められるのは嬉しい。少女から見て周瑜の欠点は胸が大きい事ぐらいしかない。
そんな人間に推薦されて意気揚々と寿春に赴いた少女だったが、迫り来る晋の大軍を見て、自分の決断を後悔した。
……これは勝てない。
少女はその事実を一目で悟る。兵の数の違いだけでそう思った訳ではない。一番の理由は寿春の立地の悪さだ。
寿春は呉で唯一、長江の北にある領地。要は長江を渡らねば建業から援軍に来れない。しかし、少数ならともかく大量の軍が通れる合肥は魏の張遼が固めている。
魏は同盟国だが信用出来ない。訳があったとは言っても、晋と不戦の盟約を結んだのだ。
簡単に言ってしまえば、寿春は敵中で孤立していた。
少女は現状を正しく認識し、勝つ事を諦めて遅滞戦術をとる事にする。
晋が本腰を入れて攻めて来ているなら、それすらもままならなかったが、どうやらそうではない。
少女の推察が正しい証拠に晋軍の中には晋王司馬懿の旗はなく、総指揮は司馬懿の腹心の部下の郭淮。
その様子から、寿春を陥落させられるなら陥落させるが、被害が大きくなりそうなら無理しないで此方の戦力の把握した上で本隊を待つといった所だろう。
そこまで考えた少女は三つの事を同時に遂行する事を決めた。
まず第一は城を落とされない事。第二は此方の戦力を把握させない事。そして最後は城に残ってる兵を少しでも多く建業に送り帰す事。
ギリギリの綱渡りだった。城を守る為に全力を出せば、此方の戦力を把握される。建業に帰す兵が多すぎれば、城が落とされる。
兵を帰すのも細心の注意を払った。兵が少なくなっている事が晋軍に露見すれば向こうは全力で攻めてくるに違いない。
此処で時間を稼ぎ、兵を少しでも送り帰せば、本国での決戦が楽になる。少女は先を見据えて指揮を執っていた。
その少女の隙のない指揮は晋軍の中でも侮れない物として受け取られ、いつしか少女には
『鉄壁』
と言う異名が付いていた。
だが、少女はその異名が好きではなかった。何故なら異名の事を古い付き合いの部下に話した時、その部下は少女の胸に目をやり、
「鉄壁の絶壁……」
なんて
『絶壁』
になっていた。
しかもその部下の無礼はそれだけではない。
この厳しい籠城戦に耐え抜いている事に対して、少女が労いの言葉を掛けた時、その部下は少女にこう言った。
「確かに厳しい状況ですが、将軍の胸ほど絶望的状況ではありません」
小蓮を叩き倒した自分が言う事ではないが、遥かに位の高い自分にそんな事を言えるその部下の肝の太さには素直に感心した。その肝の太さに免じて男の急所に蹴りを入れるだけで許しておいた。脂汗をかきながら
しかし、その部下にも良い所はあった。それは少女がその部下に建業に帰る事を勧めた時にその部下は、
「何、馬鹿な事を言ってるんですか?将軍をこんな死地に置いて俺が帰れる訳ないでしょう」
……その言葉に不覚にも感動してしまった。
少女はそれを悟られない為に、その部下を殴り飛ばす。
「なんでぇ!?」
と、叫んでいたが、恨むなら普段の自分の言動を恨みなさい。
そんな事をしている内に少女が寿春で戦い始めて、三ヶ月の時が経とうとしていた。
少女は愚痴を止め、改めて敵軍の無数の篝火を見つめる。
「どうやらここまでの様ですね。しかし、時間は稼げました」
晋の本隊が到着したのだ。晋王司馬懿は来て居ないが、翻る旗に記された文字は『羊』
「貴女が来たんですね。菊華ちゃん」
菊華……それは少女が洛陽に遊学してた時に親友となった羊コの真名。
彼女が来たなら間違いなく、寿春は落ちる。
「留賛!」
少女はあの部下の名を呼ぶ。
「将軍、お呼びですか?」
「えぇ、晋軍は恐らく明日にでも総攻撃を仕掛けて来ます。例の策の準備は出来ていますか?」
「はい、いつでもいけます」
「ならば策の実行は貴方に任せました。私は撤退の指揮を執らねばなりませんから」
「はっ!お任せ下さい!」
留賛は勢い良く返答し、持ち場へ足早に向かう。
少女はその背を見送った後、再び敵軍へと視線を向けた。
「菊華ちゃん、お望み通り寿春は差し上げましょう。ですが、代価は頂きます」
言い放った少女の顔に笑みが浮かぶ。
主君孫権から義母陸遜、そして呂蒙を超えると言わしめた孫呉の麒麟児。
少女……陸抗が逆境の地で輝きを放っていた。
……なんで俺はこんな話書いたんだろ?