この戦はもう終わっていた。……完敗だった。
それはわかっている。それでも星の心には釈然としない物があった。
この戦、自分は何もしていない。いや、何もさせてはもらえなかった。
侮る気持ちがなかったとは言えない。星は自分の武に自信があった。それは今も変わっていない。
ただ、誤算だったのは、巨大な黒馬の上で悠然と自分を見下ろす鬼の仮面を被ったこの男……高長恭の力量を見誤った事だ。
為政者として有能な事はわかっていた。蜀の地に来る商人は誰もがこの男の政を誉めていた。この男の政は星の頭では思い付く事すら、いや、星だけではなく、蜀の政を主導している諸葛亮や鳳統でも理解出来ない事が多々あるもので、さらに肝心な所は巧妙に隠されていて真似しようにも出来ない物だった。
為政者としては自分の主君、劉備より上である事は認めざるを得ない。自分達が数年で築いた物を数ヶ月で抜きさったのだ。
けれど、為政者としての才と軍人としての才は比例しない。この大陸には覇王曹操という例外はいるが、彼女の様に文武両方に優れた人物などめったに居る物ではなかった。
何より星は高長恭という名を最近まで聞いた事がない。もし、優れた軍人であるなら、先の戦乱で名を上げているはずとも思っていた。
そう思って侮った結果が今の現状。自分が率いる二万の軍勢は僅か二千の軍に蹴散らされ、副将である蒲公英は捕らえられて、自分はこの男に槍を突き付ける事すら出来ないまま、味方の敗走を眺めるしか出来なかった。
戦は、軍人としての自分は敗北を認めるしかない。それでもこの男に屈する気持ちになれないのは、武人としての自分はこの男に負けてはいない。その気持ちは星の最後の心の拠り所でもあった。
「この戦、俺の勝ちという事でいいな?」
黒馬の上から高長恭が星に問い掛ける。
「……あぁ、そうだな。この戦、お主の勝ちだ」
「そう言う割には納得してない表情だな」
「当たり前であろう!あんな兵を捨て石にする様なやり方など!……それもあれほどの者達を」
星は自分と戦い散った四人に敬意を持っていた。武の腕だけではない。あの四人は死ぬ覚悟、いや、死ぬと決めて自分と戦っていた。並の人間に出来る事ではない。
「四人」
「なに?」
「周りを見てみろ。あの四人以外にどこにも俺の兵の亡骸がないだろう」
高長恭にそう言われて、星は改めて周りを眺める。おびただしい数の人の亡骸。だが、黒の軍装の兵は自分が討った四人以外どこにも見当たらない。
「二千で二万を相手にして戦死は四人。軍人としては最高の勝利だと思うがな。二万で二千を相手にして数千を死なせた誰かとは違ってな」
「ぐっ!」
それを言われたら、星は何も反論出来ない。無様を晒したのは自分自身なのだ。
「それにあの四人の死は無駄ではない。あの者達がお前を抑えなかったら、もっと大勢の死者が出ただろう」
「しかし、それではあの四人は!」
「趙子龍、お前があの者達の何がわかる!?あの者達は元々流民だった。それもお前達、蜀の地から流れてきたな!」
「なっ!」
「あの者達の親は蜀の兵で先の戦乱の最後の戦いで戦死したそうだ。その頃のあの者達はまだ幼くまともに働ける年ではなかった」
「……」
「そんなあの者達に対して蜀という国は救いの手を差し出す事を拒んだ。……おかしな話だよな、あの者達の親は劉備の理想に殉じて死んだのに、肝心の劉備は自分の理想に反してあの者達を見捨てた」
「あの頃の蜀は復興の最中で全ての民を救う余裕がなかったのだ!」
その時の現状を知っている星は声を大にして高長恭に反論する。だが……
「言い訳だな。それは自分達の無能を晒しているだけだとわからんのか」
目の前の男は自分の反論をバッサリと切り捨てた。
「人の上に立つ以上、自分に着いてくる者達を食わせていく義務がある。例え自分が腐肉を食らい、泥水を啜る事になってもだ。お前は余裕がなかったと言うが、そこまでやって余裕がなかったと言っているんだろうな?」
「……それは」
「違うよな。飢えに苦しむ者が居る中で、自分達は良い物を食い、良い酒を飲んでいたはずだ。お前は腐肉の味、いや、それすら食えなくて、木の根を噛んで飢えを誤魔化す苦しみを知っているか?俺は知っているぞ。あれがどれだけ苦しく惨めな物なのかもな、そして俺は自分に従う者達を食わせていく為なら、今でもそれを受け入れる覚悟がある」
……嘘ではない。星には高長恭の言葉が真実だと何故かわかった。……わかってしまった。
「俺から言わせれば、お前の主君にはその覚悟がない。元は
「……」
「まぁ、いい。話を戻すぞ。……親が死んだあの者達に残されたのは、幼いあの者達よりさらに幼い兄弟達だけだった。どれほど苦労した事かお前にはわかるまい。あの者達が流れ流れて交州にたどり着いた時には本人は痩せ細り、兄弟の何人かは飢えで死んでいた。……俺は驚いたよ。何せ、もはや服の体をなしていない
「……」
「俺はあの者達に食う物と住む場所を用意してやった。決して豪華な食物ではなかった。普通に生きていたら普通に食べられる物、そんな物をあの者達とその兄弟は俺に何度も頭を下げ、涙を流しながら食べていた」
「……」
星は何も言えなかった。飢えに苦しむ者は何人も見てきた。しかし、自分達が原因でそうなった者達の話を聞くのは衝撃的だった。
「兵となったあの者達は死に物狂いで調練に励んだ。武の経験もない、才能もそれほどあった訳でもない。そんな人間があそこまでの力を身に付けるに至るまでどれだけ自分を虐め抜いたか、才能に恵まれたお前にも多少はわかるだろう?」
高長恭の言葉に星は考え込む。自分が武の才に恵まれている事はわかっている。それでもあの四人ほどの腕前に達する為にかなりの修練を積んでいた。
「そしてあの者達は俺直属の精鋭部隊、黒鬼隊にまで昇りつめた。……別に普通の兵として生きるだけならあれほどまでに鍛え上げる必要はない。だが、あの者達は妥協はしなかった。何故だかわかるか?」
「……」
「一つは給金だ。黒鬼隊の者は一般の兵の五倍の給金が受け取れる。その代わりに黒鬼隊は戦場で最も危険な場所に配置される。今回の様に二千で二万の相手をする様にな。……もう一つは戦死手当てだ」
戦死手当て、聞いた事ない言葉に星は僅かに首を傾げる。
「戦死手当ての事を話す前に、俺の兵達への待遇について教えてやる。俺の軍に所属する兵が戦死した場合、残された家族がこれから先も生きていける様に一時金の支給と仕事の斡旋している。……一人残らずな」
「なっ!」
星は高長恭の言葉に驚愕する。自分は仮にも一国の将軍。眼前の男が言ってる事がどれだけの物なのかはわかる。蜀で同じ事をすれば間違いなく国庫が破綻するだろう。
星の驚愕を知ってか知らずか高長恭の話は続く。
「黒鬼隊に与えられる戦死手当てとは先程の待遇に付随する物だ。その内容は戦死した黒鬼隊の家族にはその家族が齢十八になるまで毎月、楽に暮らしていけるだけの金銭が支給される。そして学校、お前達の言う私塾だな。私塾で学問を無料で学ぶ権利が与えられる」
「なんだとっ!」
「お前の様に武で身を立てられるなら、こんな権利は必要ないだろう。しかし、そんな事が出来るのは、この大陸で一握りに過ぎない。だが学問は違う。才のない者でも努力すれば一定の知は身に付けられる。一定の知がある者とそれがない者、その両者の将来には大きな違いがある事はお前にもわかるはずだ」
星は高長恭の言葉に頷かざるを得なかった。学問を学んでいなくとも、字が書けるか書けないかだけでもこの大陸では大きな差があるのだ。
「だが、そんな法は敷けば国が破綻するのではないか!?」
星は自分が思った疑問をそのまま高長恭にぶつける。しかし、その疑問の対する答えは冷笑と容赦のない言葉だった。
「お前は馬鹿か?それを何とかするのが上に立つ者の義務だ。何度も同じ事を言わせるな。俺にはそれに対する腹案など腐るほどある。だからこの法は俺の勢力が存在する限り続く。……あの四人が何故に過酷なまでに己を鍛え、そして躊躇わずに死にに行けたか、それは自分達の家族の今と未来、それを保証する俺への忠誠心故にだ。それはあの四人だけではない。此処に居る俺の直属の部隊は皆が多くの物を背負っている」
「……」
「これでわかったろう。争いのない世界だとか皆の笑顔の為になど何の明確性もないあやふやで実現不可能な夢想にすがるお前達と自分の大事な物の為に死に物狂いで生きて死んでいくこの者達とでは信念が違う!誇りが違う!覚悟が違う!そして」
『魂が違う!!』
星は圧倒されていた。凄まじい覇気を放ちながら弁舌を振るう高長恭とその高長恭の後ろで燃える様な灼熱の瞳で前だけを見据える黒鬼隊に……
その時、高長恭が黒馬から飛び降りる。そして、
「構えろ、趙子龍」
星にそう言い放つ。
星は一瞬、自分が何を言われているかがわからなかったが答えはすぐにわかった。
「お前は戦の負けは認めた。だが、俺に屈した目をしていない。大方、俺と直接、刃を交えた訳ではないから心中では敗北を認めてはいないのだろう」
高長恭の言葉は図星だった。戦で負けた事は理解しているが、どこかで敗北したとは思ってなかった。
「だからお前に機会をやる。お前の得意な一騎打ちでお前が勝てば、戦での敗北をなかった事にしてやろう」
高長恭の言葉を聞いて、星はハッと高長恭の顔を見つめた。そんなに星の視線を受けて高長恭は笑みを浮かべ、
「まぁ、無理だろうがな。お前の思い上がり、俺が粉々に打ち砕いてやる」
そう言って剣を鞘から抜く。その瞬間、高長恭が放つ覇気がさらに増した。
星の額に冷や汗が浮かぶ。
……強い。
それだけははっきりとわかる。
今、自分の前に居るのは、誇り高き黒鬼達の王に相違なかった。