星の見た江陵はまるで別世界だった。
成都はおろか、洛陽より栄えている様に見えた。活気に満ち溢れ、店の前では呼び込みの声が絶え間なく響く。騒がしいが治安が悪い訳ではない。多くの警備の兵が巡回しているからだ。
星が何気なしに何軒かの店に目を向けると、見た事もない様な物が売られている。
「高長恭殿、あの店は?」
「あれは越南(ベトナム)の店だ。斜め向かいの店は身毒(インド)の店、その隣は五胡の羌族の店だな」
「五胡!!何故、五胡の店がこの地に!?」
「何故って交易をしてるからに決まっている。……あぁ、そう言えば蜀は羌族と争っているのだったな」
その言葉に星は頷く。星からすれば五湖、それも領地が接している羌族は不倶戴天の敵。そんな者達が漢の地で商売をしている事が信じられなかった。
「そういう所も俺が劉備を嫌いな理由だ。お前の主は平和を望んでいる様だが、そこに五胡は入らないのか?入らないなら何故入らない?漢の民ではないからか?漢の地に住まない者は皆、蛮族とでも言うつもりか?俺から言わせてもらえばお前は何様のつもりだ?と言いたくなる。漢の地に生まれただけでそんなに偉いのか?」
「……奴らは過去に何度も漢の地を侵しているではないか!」
「そうだな、それについては間違ってはいない。だが、逆に聞くが漢の人間は五胡の地を侵した事ないのか?」
「……それは」
「例えば、漢の高祖の時代、匈奴の冒頓単于によって、漢の地は略奪の限りを尽くされたが、武帝時代には衛青、霍去病の力で多くの匈奴の地を奪っている。俺はその事についてどちらも悪いとは思わないし、戦を否定するつもりもない。……俺が言いたいのは自分達がやった事を棚に上げて、一方だけを悪く言うなと言う事だ」
「……」
「お前らは五胡、五胡と言うが一体どれだけ五胡の事を知っているんだ?お前らは五胡を一くくりにするが、部族によって様々だ。どういう生活をしているのか?どういう教えで育っているのか?部族を仕切る人物がどういう人物なのか?その者の名前は?知っている事があるなら答えてみろ」
「……」
「知らないだろうな、最初から蛮族と見下して調べもしていないだろう」
星は黙り込む。高長恭の言葉の通りだからだ。
「五胡と言っても、人の集まり。同じ部族でもそれぞれ考える事は違う。漢の地に対して略奪を目論む者も居れば、戦いを望まない者も居る。お前は蜀の者達をその辺の野盗と一緒くたにされたらどう思う?」
「それは腹が立ちますな」
「お前らはそれを五胡の人間にやっているんだよ。俺も羌族の全てと交易している訳じゃない。あくまで戦いを望まない一部の部族とだけ何度も書状を送り、話し合いをして交易している。それでその部族と戦う可能性は低くなり、自分の民の犠牲が減り、交易によって得た利益で民が少しでも良い生活が出来るようになる」
「……」
「お前の主はその努力をしたのか?」
「……してはおりませぬ」
「だろうな、しているなら蜀の民はもっと良い生活しているはずだ。俺が劉備に対して一番嫌悪する点はそこだ。何故、最善を尽くさない!?何故、努力する事を放棄する!?一国の王、多くの民の命を背負う王ではないのか!?口では甘い理想を語るのに全然行動に移せていない!いっその事、劉備が自分の身内以外どうでもいいというエゴイスト、利己主義者なら俺も劉備を認めた。…………まぁ、そんな劉備に着いて行く者などいないだろうがな」
そこまで言い切ると高長恭は大きく息を吐いた。
「……理想を語って民を惹き付けるなら、その言動に対して責任を持て。言葉だけではなく行動で示せ。その為の不断の努力をしろ。……そういう事だ」
「……」
反論は出来なかった。星自身、思いあたる事があったからだ。
確かに劉備……桃香は民から慕われている。けれどそれは大人からすれば娘を、子供からすれば姉を見る様な慕われ方だ。
だが、この高長恭は違う。町を歩いていてわかるのは、民の全てが尊敬の視線で高長恭を見ている。自分達の王は高長恭以外に居ない。そんな事すら感じられる強烈な視線。
「俺は言葉だけじゃない事を見せてやる。だからお前も俺だけを見ていろ」
自分の目を見据え、堂々と言い放つ高長恭に星の胸は熱くなる。それは星にとって初めての感覚だった。
星がその感覚に戸惑いを感じていると、覆面を被った二人、大きくため息をついている。
「高長恭殿、その者達はどなたかな?」
「あぁ、この二人の事は気にしなくていい。お前が俺に仕える事を決めた時に紹介してやる」
「……」
「お前はこの一月で俺を見極める事だけに集中してろ」
「一つ、聞いても宜しいか?」
「なんだ?」
「蒲公英は如何なさるおつもりで?」
「別に殺す気はないぞ。恐らく蜀から使者が来るだろうから、条件次第で蜀へ帰しても良い」
「その条件とは?」
「それもお前が俺に仕えてからの話だ。後、面会はさせられないぞ。他の者達に示しがつかないからな」
「……さようか」
その日はそれ以上、二人が言葉を交わす事はなかった。
次の日から星の江陵での生活が始まった。
星が最も興味があったのは、黒鬼隊の調練。あれほどの部隊がどの様に作られるのか武人として知りたかった。
正直に言えば、星自身、黒鬼隊の調練に参加したいとすら思って、実際に高長恭に言ったが断られた。
「お前では死ぬ」
その一言で……
星は内心、憤慨していた。確かに黒鬼隊は素晴らしい猛者だが、それでも自分の方が強い。そこまで言われるのは心外だと思っていた。
だが、そんな怒りは黒鬼隊の調練を見た瞬間に吹っ飛んだ。
あまりに厳しく苛酷で命懸けの調練。自分では死ぬと言った高長恭の言葉の意味も良くわかった。
基本的に黒鬼隊は武の才がない者が多い。だからその非才を覆す為に苛酷な調練を行う。
星は黒鬼隊の調練ほど自分を追い込んだ事がない。その様な事しなくとも強くなれたからだ。
黒鬼隊にあって星にない物もわかった。
……それは執念。
現在の黒鬼隊はほとんど流民であった人間。一度、どん底を味わった為か、這い上がろうとする執念が半端ではない。その為なら一瞬、一瞬の刹那に平然と命を懸ける。
星は彼らの様な苦労をした事がない。それなりの家に生まれ、才に恵まれ、将軍として天下に名を馳せた。
自分とは対極の人生を歩む黒鬼隊の事を星は理解出来ない。理解出来ない事を理解した時点で自分では黒鬼隊の調練に耐えられない事を悟った。
戦えば自分が勝つ。しかしそれは自分が才に恵まれているからだ。けれど基礎体力や身体能力を比べれば、自分は二千の兵の誰にも勝てないだろう。その部分は才ではなく、日々の積み重ねが物を言う。
自分の鍛練より遥か厳しい調練をこなす黒鬼隊に勝てる道理がないし、その黒鬼隊が命懸けで取り組む調練に耐えられるはずもなかった。
高長恭に今の黒鬼隊になるまでの事も聞いた。元々は流民だけではなく、普通の民も居た様だが、調練に耐えられたのが流民であった者達だけ。
その過程で大勢の兵を死なせたと聞いた時は流石に星も憤りを覚えた。だが、そうした調練を行った理由を聞けば納得せざるを得なかった。
結果的に死者が少なくなっている。黒鬼隊の戦死者は今までで自分が討った四人だけ、普通の調練をこなしただけの兵ならその数百倍は死んでいてもおかしくない。
何より、鬼気迫る調練をこなす黒鬼隊の倍の調練をこなす高長恭を見れば、自然と口がつぐむ。
高長恭は誰よりも自分自身に厳しく、常に苛酷な場所に身を置いている。
それは調練だけではない。政務の時も誰よりも仕事をこなし、普段の生活も兵と変わらない物を食べ、行軍中も兵と同じ場所で休む。
兵や民に対して言葉で語る事はそれほど多くはない。言葉よりも常に自身の行動で道を示す。星が知っている人物の中で誰に似ているかと言えば、曹操だと思う。曹操より苛烈で甘えが微塵もないが……
星が江陵に来てから二十日が過ぎた頃、自分が観察するべき男は土にまみれていた。
星が今、居る場所は治水の為の建設現場、高長恭は民に混じって土嚢を運んでいた。
……この御仁は本当に人か!?
星は高長恭がまともに休む所を見た事がない。いつ見ても働いているのだ。しかもそれは今に始まった事ではなく、以前からこの様子らしい。
流石に休むべきではないかと言った時も
「俺の身体は特別でな。この程度ではまいってくれないんだよ」
その一言で流された。
今の労役も顔色一つ変えずにこなしている。
「やはり、あの御仁は人ではないな」
思わず呟いてしまうほどに高長恭の体力は人間離れしていた。
星は高長恭から視線を外し、民を眺める。苦役と言っていい労役なのに民は生き生きと働いている。そこに不満気な表情は一切ない。
働けば働くほど報奨が出る。それが民をやる気にさせているのだろう。それ以上に自分達が尊敬する王、雲上人とも言える高長恭が自分達と共に汗と土で汚れながら働いているのだ。不満など出るはずがなかった。
星はこの二十日、高長恭を見てきた。そして出た結論は
……文句の付け所がない。
その一言だった。
為政者としても軍人としても自分の主君、桃香どころか間違いなく曹操すらも超えている。
だからと言って、才に溺れる事はなく、誰よりも自分自身を律し、上から命令するだけではなく、自身も兵や民と同じ場所に立って苦労を分かち合う。
これに文句を付けるなら、古今東西全ての王や皇帝に文句を付けないといけなくなる。それほどの人物だと思っていた。
自分に主君が居ないなら迷わず仕えているだろう。それが出来ないのは桃香達に槍を向ける覚悟が出来ないからだ。
後、十日で約束の一月が来る。蜀に帰るという選択肢は既にない。
高長恭の器量に不足はないのに、蜀に帰れば、自分の真名に誓ったあの戦の意味がなくなるし、そもそも自分の誇りがそんな事を許さない。一月という時をくれた高長恭の想いも汚す事になる。
答えは出ていた。それでもその先に踏み込む勇気がない。
迷いを抱えたまま、星は再び高長恭の方に視線を向けると彼は十数人の民達と親しげに会話をしていた。その時、ある事に気付く。
星は会話を終えて、自分の所にやって来た高長恭にその事について尋ねてみた。
「高長恭殿はさっきの者達と親しいのですかな?」
「何故、そんな事を聞く?」
「いえ、全員の名前を覚えておいででしたので」
「あぁ、そういう事か。別に親しい訳ではない。俺は自分の配下の兵、十五万三千二百五十二人の名前は全て覚えているし、自分の領地の民の名前も六割ぐらいは覚えている」
「はっ!?」
星は一瞬、自分の耳がおかしくなったのかと思った。
「民の名前も全て覚えてやりたいんだが、何しろ毎日増えるからな。中々追い付かない」
高長恭は土で汚れた鼻先を掻きながら、少し悔しそうに口から溢す。
「こ、高長恭殿は兵と民合わせて数十万人の人の名前を覚えておいでか!?」
「そういう事になるな」
「何故、その様な事を!?」
高長恭は星の疑問に答えず、ゆっくりと働いている民を指さす。
「趙子龍、俺が指さす方向に何が見える?」
「働く民の姿が見えますな」
「それは間違ってはいないが正しくもない」
「……どういう事ですかな?」
「確かに大きなくくりでは民である事に違いはない。しかしな、俺達と同じ様にあそこに居る民の一人一人に名があり、これまで生きてきた人生がある。俺やお前は恐らく歴史に名を残す事になるだろう。だが、あの者達のほとんど全てが歴史に名を残す事なく、一介の民として死んでいく。そして時が経てば誰からも忘れられる。それは仕方のない事なのかも知れない。けどな、あの者達は今を、この時を全力で生きている。だからあの者達を民と数字で数えるのではなく、一人の個人として覚えておく」
『そんな馬鹿な王が一人くらい居てもいいとは思わないか?』
穏やかな声で高長恭は星に問う。
星が高長恭から感じたのは、これまでの圧倒的な威圧感ではなく、包み込む様な暖かさだった。
……この御仁の為なら兵や民は自分の命を惜しまんだろうな。
星はこの時、初めて高長恭を尊敬する兵や民の気持ちを心から理解した。
根本的に三国の王とは器量が違い過ぎる。自分の敬愛する主君の桃香がこの男と比べるとどうしようもないくらいに見劣りしてしまうのだ。
……これはもう覚悟を決めるしかないな。
星は高長恭を真っ直ぐに見つめ、その場に膝を付き、拱手をする。
「高長恭殿、これからは私の事を真名の星とお呼び下され。私も高長恭殿の事を主と呼ばせて頂きましょう」
それは星が覚悟……かつての仲間と戦う事を決めた瞬間だった。