――この男は危険過ぎる。
一目見た瞬間に長年頼ってきた直感が最大級の警鐘を鳴らしていた。
雪蓮は自分の眼前の玉座に座る男に視線を飛ばす。顔は鬼の仮面を被っているので良くはわからないが、まだ若い。恐らく自分より年下ではないだろうか?
されどその男が放つ覇気は此方を押し潰してきそうな程に重厚な物だった。
その覇気に負けぬ様に雪蓮は堂々たる名乗りを挙げたがその男にさしたる変化は見えない。それどころか全てを見透かす様な視線を自分に向けていた。
暗く深い視線。雪蓮はその視線の闇に自分が飲み込まれる様な錯覚に襲われた。
思わず妹から貸し出された腰の孫呉の王たる証、南海覇王に手が伸びそうになる。
雪蓮はその衝動を何とか抑えながら眼前の男、高長恭を見据えた。
「孫呉の先代王がわざわざ足を運ぶとは一体、俺に何用かな?」
雪蓮の名乗りを受けて話し始めた高長恭。その声には何処か愉快げな物が感じられた。
「別に用なんてないわ。交州と荊南を制し、蜀の趙雲を叩きのめした今、話題の漆黒の鬼面龍とやらがどんな人間なのか見に来ただけよ」
雪蓮はあえて意味ありげな笑みを浮かべてそう言い放つ。目的はあるが、それを全面に出して高長恭に主導権を握られる訳にはいかないからだ。
外交の場の駆け引き。それは自分にとって決して得意な事ではない。それでも雪蓮は自らこの場に訪れた事を正解だと思っていた。もし、この場に居るのが自分以外なら間違いなくこの男の覇気に飲まれていた。
もっとも、自分の友である周瑜、冥琳ならこの男の覇気に飲まれる事もなく、自分よりも上手く交渉する事が出来ただろう。
けれど彼女は病を患っていた。命に関わる程の病ではないが、それは安静にしているならという前提条件が付く。そんな彼女を引っ張りだす訳にはいかなかった。
そもそも雪蓮自体、自らが動くつもりはなかった。今の孫呉の王は妹の蓮華であって自分ではない。先王である自分が動く事で国内の豪族が再び自分を王に戻す動きをしないとも限らないからだ。
孫呉というのは豪族の国だ。王とは言っているが、孫家は端的に言ってしまえば豪族の纏め役に過ぎない。
そして今、孫家には二つの旗頭が存在する。現王の蓮華と先代王である自分。雪蓮にはそんな気はさらさらないのに国内の豪族は蓮華派と雪蓮派に別れて権力争いをしている。
これが平和な時であれば問題なかった。蓮華にはそれを上手く舵取りするくらいの能力はある。後は自分さえ表に出なければそれで済んだ話だからだ。
だが、この一年で大陸を取り巻く環境は大きく変わってしまった。
魏王曹操の伴侶、司馬懿の反乱の後の建国。そして今、自分の眼前に居る高長恭の飛躍。
それにより魏、呉、蜀で結ばれた三国同盟のあり方が大きく揺らいでしまっていた。
はっきり言ってしまえば、この大陸は戦乱の世に逆戻りしている。
そして孫呉は現在、滅亡に危機に瀕していた。司馬懿の晋による南征、寿春は既に陥落し、孫呉の地では国家総動員で晋を迎え打つ準備が進められている。
そう、誰もが余裕のない状況なのだ。そんな中で自分だけが裏に引っ込んでいる訳にはいかない。
雪蓮が荊州にやって来た理由は高長恭との同盟、最悪でも不戦の盟約を結ぶ事。
今の孫呉は晋の相手をするだけで手一杯、そんな状況で高長恭に交州から東進されてしまえば間違いなく孫呉は滅亡してしまう。
何としても盟約を結ばなければならない状況で強気に出た雪蓮に返ってきたのは冷たい言葉だった。
「そうか、じゃあもう用は済んだな。早く帰るといい」
高長恭は心底つまらなさそうにそう言い放った。まるで自分に何の価値も見出だしていない様な言葉に雪蓮の思考は停止する。
こんな扱いをされたのは初めてだった。袁術の下でこき使われている時も袁術自身は馬鹿なので除外するが、腹心の張勲には警戒されていたし、独立した後は小覇王という勇名で誰もが自分に一目置いていた。
雪蓮は一瞬、血が頭に上りそうになるが、それを抑えて言葉を返す。
「ぶー。せっかくこんな美女がわざわざ訪ねて来てるのにちょっと冷たくなーい?」
雪蓮はあえて砕けた態度を取り、高長恭の反応を伺う。必要ならば女の武器を使う覚悟も決めていた。
「生憎だが、美女の相手には慣れている。俺の懐に入りたいならその獣の目を隠す事を覚えるべきだな」
口元に笑みを浮かべ、雪蓮の言葉をかわす高長恭。どこまでも余裕のその態度に生半可な事ではこの男は揺れない事を雪蓮は悟る。
「……はぁー、わかったわ。じゃあ単刀直入に言うけど、私達孫呉と同盟を結んでほしいの」
「断る」
雪蓮の同盟の提案を即座に断る高長恭、簡単にはいかないとは思っていたが、取り付く島がない。
「何故?」
「利がないからだ」
「利ならあると思うわ。私達と同盟を結ぶ事で貴方は背後を気にする事なく荊北や蜀攻めが出来る」
「それはお前達と結ぶ事をしなくても同じ事だ。今のお前達に荊州に兵を出す余裕はない」
その通りだった。今の孫呉は晋を迎え打つだけで全ての国力を割かねばならない。荊州に兵を出す余裕なんてあるはずがなかった。
「逆に俺達はその気になれば十万の軍を呉に差し向ける事が出来る。今ならば呉の領地を削りたい放題だ。それに蜀攻めで背後を気にしなくてもいいと言うが、蜀の同盟国のお前達の言う事など信用出来る訳がない」
「……」
「わかったか、俺達にはお前達と結ぶ利などない事が、わかったなら早く呉に帰る事だな」
何も言えない。この男の言っている事が正しい事がわかっているから。だからと言ってこのまま帰る訳にはいかなかった。
「……そうね、貴方が言ってる事は正しいわ。でも私もこのまま引き下がれないわよ。条件があるなら出来るだけ飲むわ。もう一度考えてくれない?」
雪蓮の言葉に高長恭が考え込む。暫しの沈黙の後に高長恭から出た答えは……
「……いいだろう。お前達と結んでやってもいい。幾つかある条件を飲むならばだ」
「その条件を言ってみて頂戴」
「先ず一つ、これから結ぶのは同盟ではなく、不戦の盟約とさせてもらう」
「……大丈夫よ」
二面作戦を取らなくとも良くなるだけでも孫呉にとってありがたい話だった。
「この盟約の期限はお前達が晋を撃退するか、俺達が蜀を取るまでの間だけとする」
「……それは」
「これはお前達にとっても良い話だと思うが?お前達が晋を早く撃退すれば蜀と戦っている俺達の背後を突けるのだから。もしそういう状況になっても俺は一切文句は言わん」
「……わかったわ」
「最後にお前達孫呉には魏や蜀との同盟を破棄してもらう」
「なっ!」
「嫌なら構わん。この話をこれでなかった事にするだけだ」
……飲むしかなかった。現在三国同盟は正常に機能していない。魏は司馬懿の策略により物資は送られてくるが直接的な手出しは出来ない。蜀に至ってはこの男がいるから一切此方に介入する事が出来ないのだ。
「……仕方ないわね。いいわ、その条件飲む事にする」
「では、その事を書面に残してもらおう。……おい、紙と筆を持って来てくれ」
高長恭に呼ばれた文官が紙と筆を持って、再び玉座の間に戻って来て筆を雪蓮に手渡す。
雪蓮はそれを受け取り、紙の上に高長恭との不戦の盟約と魏蜀との同盟を破棄する旨を書き記す。
「これでいい?」
雪蓮は書き記した書面を広げ、高長恭に見せる。
「最後に己の真名に誓ってこの盟約を履行する事を書いてもらおう」
「……随分と信用がないのね」
「当たり前だ。自分がやった事を考えろ。どんな理由があったにしろ、自分を庇護してくれた袁術を裏切り独立したお前に信用などあると思うか?」
「それは!」
「言い訳はいい。お前達の都合に興味はない。ただ客観的に見たらお前のやった事はそういう風にしか見えないと言っているだけだ」
「……」
雪蓮はそれ以上何も言わず筆を走らせ、書き終わった書面を高長恭に見せる。
「はい、これで問題ないわね」
「あぁ、これで問題ない。それでは俺も書くとしよう」
雪蓮が使った筆を文官から手渡された高長恭が盟約を履行する旨を書き記していく。
「ほら、これでいいだろう?」
高長恭が書いた書面を確認した雪蓮は一度頷いた。
「捕らえていたあの二人を連れてきてくれ」
高長恭が隣に居た覆面を被った武官らしき女性にそう命令する。その命令を受けた女性の立ち振舞いを見た時、雪蓮は何処か懐かしい気分を感じた。
暫くして玉座の間に先ほどの女性と縄をうたれた二人の男が現れる。その二人に向かって高長恭は声を掛けた。
「お前達、この女を知っているな?」
そう言って高長恭が指差したのは雪蓮。二人の男が大きく頷く。
「この女が此処にいるのは俺と不戦の盟約を結ぶ為だ。そしてその盟約は結ばれた。……魏や蜀との同盟の破棄と共にな」
高長恭がそう言って雪蓮が書き記した書面を二人の男に見せる。二人の男には驚愕の表情が浮かんでいた。
「ちょっと待って!この二人は!?」
「俺が捕らえていた魏と蜀の間諜だ」
「なっ!」
雪蓮の驚きを無視する形で高長恭は話を進める。
「お前達をこれから解放する。呉がお前達の国との同盟を破棄した事をお前達の主君に伝えるといい。……連れて行け」
兵により連れていかれる二人の男。高長恭はその背を見送りながら雪蓮に話し掛けた。
「悪いが、退路を絶たせてもらった」
そう言って高長恭はゆっくり雪蓮に近付き、肩に手を置いて耳元で囁く。
「これで盟約を履行するしかなくなったな。暫くの間は一蓮托生だ」
そう言って笑う高長恭。その時になってようやく気付く。この男は始めからこうするつもりだったのだ。三国同盟を潰す為の策略。
高長恭の笑い声の中で雪蓮には敗北感しかなかった。