成都を出てから半月の時が過ぎようとしていた。
朱里は数百の護衛と共に荊州江陵へと向かう道中だった。
既に益州を抜け、夷陵に差し掛かっていた朱里は目の前の光景に暫し、呆然する。
「凄いな、これは……」
恐らく朱里と同じ気持ちであったのであろう、護衛の兵達を纏める翠がぽつりと呟く。
朱里の眼前に広がる光景はまさに朱里が理想とする国その物だった。
綺麗に舗装された道、そこを行き交う大勢の商人や旅人達、少し目を横に向ければ、農作業や治水工事に活気良く勤しむ民衆。
その者の瞳は未来に何の不安もなく、希望に満ち溢れていた。
「ほら、見てみろよ朱里、この道、無茶苦茶歩きやすいぞ!」
「そうですね……」
翠の言葉に相槌を打つ朱里だったが、頭の中では色々な思いが駆け巡っていた。
何故、こんな道が作れる?こんな道を作るならそれこそ莫大な金が掛かる。この辺りから舗装されているという事は江陵に辿り着くまでずっとこんな道が続くのだろう。道だけではなく、遠目で見る治水工事や開墾事業も見事な物だ。少なくとも今の自分達には到底無理な事業だった。
「でも、道がこんなに綺麗だと敵に攻められやすそうだな」
それは軍人である翠らしい感想。朱里としてもその事を考えなかった訳ではない。だが、逆に言えばこちらが攻められる時もこの道が使われるという事。
こんな壮大な事業が出来るほどの力を持った勢力が自分達を攻めて来る。その事実に朱里の肌に粟が立つ。
しかもその事はあくまで付属物に過ぎないのだろう。本命は恐らく経済の活性化。
ただでさえ、経済の重要地とも言える荊州がさらに発展する。多くの商人達がこの地を拠点に商売に励む。関税を取らないという政策がさらに商人に商売をしやすくさせていた。そしてその事実によって大陸全土の財が荊州に集まるのだ。
実に見事な政策だと思う。
朱里も関税を取らないで商人を呼び込む事を考えた事はあるが、現実的には無理な事だった。
問題点は大きく二つあり、一つは単純に財源の問題。
関税というのは国にとって重要な財源、国庫の事を考えればそう簡単になくす事は出来ない。
もう一つは防諜の問題。関税がなくなるという事は多くの人間が領地に出入りしやすくなる。間者を送り込まれ可能性が格段に上がるのだ。
朱里もその事に目を付けて幾人もの間者を送り込んだが、帰って来たのは一人だけ、その一人も自力で帰って来たのではなく、この荊州の地を治める高長恭によって送り返された者。
孫呉が高長恭と不戦の盟約を結び、三国同盟から離脱したという頭を抱えたくなる事実を持って……
その事を聞いた朱里はすぐさま成都を出立した。表向きは先の戦で捕らえられた星と蒲公英の解放の為の使者として、真実は今の荊州がどの様な状態なのか、そして統治する高長恭という人物がどんな人間なのかを見極める為に。
今思えば先の戦は軽挙だったと言わざるを得ない。はっきり言ってしまえば、高長恭という人物を低く見ていた。
先の乱世で名を聞いた事もなければ、交州を取ったと言えど、交州は辺境の流刑地。
何より天下に名を轟かせるほどの力量を持った星がそんな流刑地を取っただけの人間に敗れるとは思わなかったのだ。
……焦ってはいた。
荊州の地は元々、蜀と呉が領有権を主張していた土地ではあるが、呉よりも蜀の方が荊州の地の重要度は高い。言うなれば他の地に出る為の玄関となる場所で荊州を抑えなければ、後は北の険しい道を越えて涼州に出るしか他の地に行く方法がなくなる。
そんな重要な土地が自分達や呉でもなく第三者に奪われた。その事に対して嫌悪感を感じると同時に好機とも考えた。
呉とは同盟関係故に軍事行動を起こせなかったが、高長恭はそうではない。力で奪ってしまえば、その後の呉との外交でも実質的に支配している事を盾に領有権を主張出来る。
軍を使う事を渋る主である桃香を荊州の重要性を説いて軍を出させた。
……その結果が先の大敗だった。
大将と副将である星と蒲公英は捕らえられ、二万の兵は僅か二千の兵に蹂躙され、生き残った数名の兵は未だに恐怖でまとも話す事すら出来ず常に何かに怯えている状態だ。
そんな大敗の報を聞いた蜀の首脳陣は衝撃に揺れた。二人は、特に星はそんな簡単に敵に捕らえられる様な将ではない。
星の力量を良く知っている武官達の動揺は朱里の目から見てもはっきりとわかるほどで、愛紗はすぐに後発の軍を出すべきと気勢を挙げていたし、今、ここに居る翠は従妹の蒲公英が捕らえられた事で焦燥していた。今回の朱里の護衛に付けられたのも桃香の配慮と言っていい。
軍を出した事は今でも間違いではないと朱里は思っている。荊州が無ければ、蜀という僻地は良くて現状維持、悪ければ徐々に衰退していくしかない地なのだ。ただ、もう少し慎重に事を運ぶべきだった。
それから数日間、朱里は高長恭という人物を知るべく、江陵への道すがら、いくつもの村を訪ねて見聞していく。
その結果、高長恭を悪く言う者は一人して居なかった。自分達の暮らしを格段に良くしてくれた高長恭に対して親しみと敬愛の念しかない。
敬うのはともかく、主である高長恭に何故、そこまで親しみを抱けるのか村の人間に聞くと、高長恭は軍の調練のついでに良く手土産を持って村を訪ねてくるらしい。そして村の人間と語り合い、場合によっては泊まっていく。
「俺なんかの名前もあのお方は覚えていてくれるんだ」
朱里が話を聞いた村人の男は心底嬉しそうにそう語る。
名君だ。道中で見た様々の事業。そして村人達が語る高長恭。名君だと朱里も認めざる得ない。場所によっては朱里が蜀の人間と知って露骨に嫌な顔をする村もあった。それだけ高長恭という人物は民に慕われている。
そして江陵に入った朱里は街の様子を見て衝撃を受けた。これまで見てきた以上に活気がある民衆、きちんと整理された区画、徹底的と言っていい治安維持。
朱里のやりたかった事の全てが江陵に詰め込まれていた。
「朱里、あれは五湖の人間だ」
少し警戒した様子の翠が朱里に話し掛ける。朱里も翠が言った方に視線を向けると、確かに五湖の服装をした商人が笑顔で商売に励んでいる。周りの人間も恐らくその商人が五湖の人間とわかっているにも関わらず、気にした風もないで値切り交渉を持ち掛けていた。
あぁ、本当にこの国は桃香の……そして自分の理想の国だ。
皆が笑顔で居る国。憧憬と同時に朱里の心に湧き上がるのは強烈な嫉妬。
何故、これを成し遂げたのが自分ではないのだ。軍略という面では自分と同期で親友の雛里に一歩劣るという自覚はあったが、内政では蜀だけではなく、魏や呉の人間に劣らない自信があった。
それが今、粉々に打ち砕かれた。自分が何年やっても成し得ない事を高長恭は僅か二年で成し遂げた。
自分が今まで学んでしてきた事は何だったのだ?
朱里は虚無感に襲われていていた。とてもすぐに外交の使者が出来る状態ではない。
朱里と翠は宿を取る。連れて来た兵達は城門の外に置かれていた。正式な外交の使者という事で数名の高長恭の兵が護衛に配されている。翠いわく全員がかなりの強者らしい。
朱里は自分が害される心配はしていなかった。こんな国を作るほどの人物が理由もなく使者殺しをするはずがない。それこそ己の名誉を傷つける様な物だ。
三日後、朱里と翠は宮城へと向かう。待たされる事も考えていたがすぐに謁見が許された。
これからこれほどの国を作りあげた人物と会う。朱里は久方ぶりに緊張していた。
通された玉座の間、そこに居たのは玉座に座る仮面を被った男とその隣には女である朱里ですらハッとするほどの美形の女性。
その他には誰もいない。王である人間に対して護衛がいないのは何故かと思ったが、隣の翠が双方を見て緊張と警戒感を出しているのを見て察する。この二人は護衛なんか必要のない手練なのだろう。帰ってきた蜀の兵も恐怖に苛まれながら言っていた。
高長恭は一騎打ちで星を圧倒したと……
朱里は居住まいを正して名乗りを挙げる。
「はわわっ、私は蜀より使者として参りました諸葛孔明でしゅ!」
……やってしまった。外交の場で失敗した事はないのだが、仮面の男、高長恭の放つ覇気が朱里の身体を堅くしていた。
「馬孟起だ」
朱里に続いて翠が名乗りを挙げる。一応外交の場なのだから敬語を使って欲しいと朱里は切に思う。無礼で斬られてもおかしくないのだ。
「良く来たな、俺は高長恭。名高い臥竜諸葛孔明と錦馬超と会えるとは実に光栄だ。隣の者は俺の護衛だ。いらないと言ったのだがしつこくてな」
「当たり前です。何処の国の王が護衛もなしに他国の使者と会うのですか」
高長恭は朱里や翠の失態を気にした様子もなく、傍らの女性に苦言され苦笑を浮かべながら自らも名乗りを挙げた。
「それでお前達は何用で荊州に来たのかな?」
「捕虜の返還の事でございます。そちらに捕らえられた趙雲と馬岱を我が国に返していただけないでしょうか?」
「随分と一方的な話だな。攻め込んで来たのはお前達の方ではないか」
「……それについてはお詫び申し上げます。ですが、趙雲も馬岱も我が国にとって必要な者達なのでございます」
「詫びなどいらん。俺もお前達の立場なら同じ事をするだろうからな」
「でしたら!」
「だが、お前達は負けた」
「っ!」
「俺は別に戦争が悪いとは思っていない。悪いのは負ける戦争をする奴だ。そして負けた以上代償を支払わなければいけない」
……やはりそういう事になるか。朱里も勿論、ただで二人を返して貰えるとは思っていない。問題は代償の中身だ。
領地を削られるのは避けたい。国庫に余裕にあるとは言えないが、朱里は金銭を払う事で話をつけたいと考えていた。
「あぁ、それと返還交渉をするのは馬岱のみだ。趙雲……星は降ったからな」
「んなっ!星が裏切る訳がない!!」
翠が声を張り上げるが……
「降ったさ、俺が星の真名を呼んでるのがその証拠だ」
「……それは例の賭けでですよね?」
朱里は帰ってきた蜀の兵から星と高長恭がした賭けの話を聞いていた。
「違うな、確かに星とは賭けをしたが、アイツが俺に降ったのはアイツの意思による物だ。俺は何一つねじ曲げちゃいない」
「……星さんに会わせて頂けませんか?」
朱里は高長恭の言う事を全て信じてはいない。だが、星が高長恭に降ったのなら、何故、降ったのか理由を知りたかった。
「別に会う事は構わないが、アイツは今出かけている。恐らく数日ほどで戻って来るとは思うが、それまで待つか?」
「はい、待たせていただきます」
「そうか、ならば星が帰って来たならお前に声を掛けよう。話すのは俺の居る所でしてもらうが……それはそれとして馬岱の返還の件についてだが」
「その事については充分とは言えませんが、金銭を支払う事で……」
「いらん」
「えっ!」
「金銭などいらんと言っている。自分で言うのも何だが、俺はこの漢の地で一番金を持ってる。蜀から来て道中を見てきたならわかるだろう?」
「……はい」
朱里の見てきた道路舗装、治水工事、開墾事業は確かに莫大な金がないと出来ない。それが出来る時点で目の前の男は金に困っていないのだろう。
「あぁ、それと領地もいらんぞ。欲しけりゃ奪うだけの話だからな。先に攻め込んで来たのはお前達だ文句はないな」
「……」
朱里は何も言えなかった。確かに大義名分は向こうにあるのだ。
幸いまだ時間はある。とりあえず今はこの交渉を纏める事だ。
「ならば、高長恭様は何をお求めでしょうか?」
「少なくともお前達の国に欲しい物はないな……物はな」
「……物はという事は人ですか?」
「流石は諸葛亮、聡いな。俺はお前達の国に居るある人物がどうしても欲しい」
「ですが、それなら捕虜が入れ替わるだけで意味がないのでは?」
「あぁ、断ってくれてもいいぞ。その場合は馬岱の首を刎ねるだけだ」
「なっ!テメェ!」
まさかの言葉に翠が高長恭に掴み掛かろうとするが……
「それ以上動けば先に貴女の首を刎ねますよ」
高長恭の傍にいた女性がいつの間にか翠の首筋に剣を添えていた。
「許してやれ那由多。従妹の事だ、冷静で居られないのは仕方ない」
「はっ」
護衛の女性が剣を納める。翠は自分があっさり首筋に剣を添えられた事に呆然としていた。高長恭はそんな翠を一瞥して話を続ける。
「で、話の続きだ。もしお前達がその人物を俺に渡してくれるなら俺はその人物を真名に掛けて国賓として遇する事を誓おう」
「……」
朱里は悩む。真名に誓ったという事は高長恭は本当にその人物を国賓として扱うのだろう。そして話を断われば蒲公英は死ぬ。
「悩んでも無駄だ。馬岱を生かしたいなら話を受けるしかない。だから俺にその人物……」
『董仲穎を渡して貰おうか』