もしも八幡とあーしさんが運命の赤い糸で結ばれていたら 作:しゃけ式
走れば見つかる気がした。三浦の家に行くという発想は思い付いた側から捨て去っており、そこに明確な理由は付けられない。ただなんとなくというよりほかはなく、それは今の走っている理由とも同じである。
かつては人のこころでさえも計算し尽くせと言われた俺だったが、皮肉なことに成長した俺は計算とは完全に無縁のところで動いていた。このことを平塚先生に言ったら笑われるだろうか。恐らくは笑うだろうが、それが良い意味の笑いであることは想像に難くない。
もうどれくらい走っただろうか。モールを出てから着直したコートは再度脱ぐことになり、冬に近づいているのに暑いと感じるのはどこか新鮮だった。
今はもう閑散としている商店街を突っ切り、駅の辺りは一周し、住宅街の方も一通り走った。この近辺で残された場所はもう河川敷しか残っていなかった。そこは過去に三浦が俺を探して最後に訪れた場所であり、合コンの日の最後、クリスマスを共に過ごした日の最後、そして今回は三浦を探す場所の最後となったのは妙な因果を感じずにはいられない。あらかた周り尽くした後にやっとここを思いついたのは、単なる偶然であるが同時に予想された必然でもあった。
日が傾き夕方になってやっと河川敷にたどり着き、一旦足を止める。ここには落葉樹が何本か立っており、ここのやつは公園のとは異なり殆ど葉を散らした後だった。残りも数枚程度であり、時たま吹く風がその葉を揺らす。葉は散らず、こんな季節には似合わない汗が気化して体温を奪う。奇しくも合コンの日と状況が重なり、三浦の場合は夜だったことを考えるとよほど寒かっただろうなと感じる。
辺りを見渡す。激しい息切れや吐き気が体を襲うが、構わず探す。河川敷の坂になっているところに1人の影を見つけ、それが三浦かも確認せず近くへ走った。
「はあっ、はあっ……。……やっと、見つけたっ、はあっ……」
息も絶え絶えに言葉を紡ぐ。呼ばれて振り返ったのはやはり三浦であり、汗だくの俺を見て目を丸くした。
「え、ヒキオ? あんた結衣とデート中じゃ……、……そうだし。デートでしょ!なんでこんなとこ……!」
三浦は本気で怒っている様子だった。必要以上にも見える三浦の怒りは様々なことを考えさせられたが、1番はやはり由比ヶ浜のことを案じてか。
──もしも三浦が俺のことを好きなら、この態度の既視感にも理由がつくのだろう。その場の調和を考え、先の自分なんて後回しにする。ある種煙草に似た行為は、同じく喫煙者である三浦にも同じことが言えるんだろうな。
理解者と言うと大袈裟だが、普段は勧めない煙草をあの時勧めたのだって根底にはそんな気持ちがあったのかもしれない。いつかのカートン買いだって、今考えると予定調和だったのかもな。
「由比ヶ浜とは別れた」
重い口を開くと、その後の言葉は意外にもすらすらと出てきた。
「へ? ……まあ、別れるにはちょっと早い時間だと思うけど」
「じゃなくてだな」
「何?」
「俺と由比ヶ浜は恋人関係を解消した」
自分で考えていたよりもあっけなく、簡単にそう伝えることができた。理解が追い付かなかったのか、初め三浦が言葉を発することはなかった。やがてその意味を理解したのか、ゆっくりと口を開いた。空白の時間は、言葉を選んでいるからではなかった。
「……あんた、それ本気で言ってんのならマジでぶん殴るからね」
「……多分殴るじゃ済まされないだろうな。今から俺の言うことを聞いたら」
自嘲にも悔恨にも似つかわない俺の複雑な表情は恐らく醜いもので、三浦には見せまいと視線を外へやった。目をやった場所は川の方であり、四重ほどに積まれた石の塔は今にも崩れそうだった。
三浦は黙っており、無言の催促が俺に突き刺さる。背けた目線を三浦の方へ戻し、ともすれば泣いてしまいそうな感情の昂りに、呼応して鼓動がピッチを上げた。
やはり口から出ると早いもので、気付いたときには言い終えていた。
「お前のことが好きだ。三浦」
後戻りの出来ない選択。以前のような関係にはもう戻れなくなるかもしれない。口から心臓が出るような錯覚を覚え、意識して呼吸をゆっくりしたものに変える。
「……え?」
「何回も言わせんな。……俺はお前のことを……、まあ、好意を抱いている」
「……何それ、マジで意味わかんないし」
「いや、言い回しは変わったが最初のと同じ意味で……」
「そういうことじゃないし!!」
それまでとは違う、一際大きな怒声。何に対しての、どれに対しての怒りかまるで隠すように日は暮れ、赤みがかかった空は日の落ちたところを残して他は夜空へと姿を変えていた。
「そうじゃなくて、あんた結衣のこと……っ!」
突風が吹き、俺も三浦も目を細める。薄暮れ時の風はそれまでより一層冷たく、汗にまみれた俺の体は凍るように冷えた。
目を閉じたのも一瞬、目を開けて三浦の方を見る。
──泣いていた。両の目尻から一筋ずつ流れた雫に、思ってもいなかったのか三浦は拭うことさえしなかった。
「あれ、え、なんで?」
頬を彩る光は次第に数を増やす。拭いても拭いても涙は止まることを知らず、三浦の意思に反して感情を主張した。
「なんっ、なんでっ!なんであーしっ……泣いてんの!……っ、バッカじゃないの……!」
尻すぼみに言葉は消えていき、なおも三浦は涙を流していた。止まるまで俺は一言も発さず、ただ黙って待っていた。それは1分のようにも15分のようにも感じ、気付けばすでに空は一面が紺色を成していた。
「……ごめん、取り乱した」
今はもう涙を流していない。自らの体を抱くように両手を反対の二の腕に沿わせており、その姿はどこか儚げにも映った。
「ああ」
俺の鼓動もようやく平静を取り戻した。冷えた体のままいるのは辛く感じるものもあるが、不思議と震えはなかった。
「それで、あーしのこと、その……、好きだって」
「言ったな」
「……こんなの、マジで有り得ないと思うんだけどさ」
そこで三浦の言葉は一旦途切れた。口を開くかと思えば閉じることを繰り返し、言葉を選んでいる様子がはっきりと伺えた。恐らくは俺に対しての配慮ではなく、ここにはいない別の相手への思いやり。残酷に言うならそいつを踏みにじるような選択をしていることは明白だが、それでも考えずにはいられなかった。
「あーしも、ヒキオのことが好き、だと思う。でも……」
「すぐにとは言わない。ただ、俺がお前のことを好きなのは変わらない。……口にすんのも恥ずかしいけどな」
「……ありがと」
体は寒いはずなのに顔だけは熱を帯びる。見ると、薄暗くて見え辛いが三浦も頬を紅潮させていた。決まりが悪くなって再度川の積まれた石を見ると、いつの間にか4層に重ねられた石は崩れていた。さっきの突風のせいだろうか。
静寂が場を支配する。長い間俺と三浦は何も言わず、三浦相手には感じたことのなかった気まずさに、場違いにも新鮮味を感じた。
「今何か新鮮だなー、とか感じたっしょ」
音のない空間を変えたはやはり三浦だった。見透かされているような物言いに、しかし反論することは叶わない。理由なんて、言葉通り見透かされていたからに違いない。
「よくわかるな」
「あーしも感じたからね。同衾した日だってこんなことなかったし」
「同衾てお前また変な言葉を……」
「ほら」
肩に掛けていた鞄から何かを取り出したかと思うと、そのまま手を前に突き出した。俺は促されるまま手を差し出すと、三浦は握っていたそれを俺の手のひらの上に落とした。
「……おお、ライターか。くれんのか?」
「確かヒキオって8月が誕生日だったっしょ?けど渡す機会なくてさ。……本当は海のときにでも渡すつもりだったんだけど」
大きさは普通のものと殆ど同じだが銀色のそれはずっしりとしていて、不躾だが明らかに値の張るものだとわかる。オイルライターは今つけているやつと変わりないが、普通のものと違う点は横すりというところだろう。
……三浦は凄いな。初めに思い付いた俺の素直な感想は、そんな稚拙なものだった。
「もう、返すつもりはなかったんだけどな」
「何が?」
「これの話だ」
胸につけているライターを取り出す。かつて平塚先生から渡されたこれには、ある条件のもと渡されていた。
“お前が本当に好きな人を見つけたとき、これを返しに来い”
誕生日プレゼントで渡されたとき、俺はその値段に驚いて思わず突き返してしまった。それも当たり前の話で、6桁もするものをプレゼントとして受けとるなんて、少なくとも学生には無理な話だろう。平塚先生はお下がりだからといって譲らなかったが俺は一向に受け取ろうとせず、ならばと言ってそんな条件をつけたのだった。
そのことを説明すると、三浦はお手本のような苦笑いを浮かべていた。
「それ、ヒキオ狙われてたんじゃない?見ようによったら首輪にも見えるし」
「かもなあ……」
今さらになって怖くなってきた。これ返す時とか俺殺されんじゃねえの?無差別攻撃のウラミハラサデオクベキカー、的な。
「じゃああーしがヒキオに返事したら、それ返しに行こっか」
「なあ、それって」
「今はダメ。わかるでしょ?」
先ほど聞いた好きではなく、付き合うか否かの返事。多分三浦は俺とはまた違った由比ヶ浜への思うところがあるのだろう。それをしっかり清算してから改めて返事をする。そんなところか。
「じゃああーし帰るし。送るのとかはいらないからね」
「ああ」
「あと早く風呂入りなよ?汗だくで寒空の下にいるって結構寒いっしょ?」
「……身に沁みて感じるよ」
「あ、そのライターオイルいれるタイプのやつだから……」
「いつまで話すんだよ」
ここに来て初めて笑みを漏らす。三浦はそれもそうだしと同じく笑いながら同意し、またねと行って歩きだした。俺の家はそっちとは反対方面なので、背を向けて俺も歩を進めた。
ふと思い立ち振り返ってみると、三浦はゆっくりと歩いていた。その頭上には低い位置での月が見え、辺りを煌々と照らしていた。
満月には満たない中途半端な月ではある。もう何日かもすれば綺麗な満月になるだろう。しかし今日見た月は、あの日よりも、どんな日のものよりも美しく見えた。
いつか、これよりも綺麗な月を見れるといいな。去来した独り言は、雪のように自分へ染み込んでいった。
とりあえずは残り1話です。次回はエピローグです。