魔法科高校の編輯人   作:霖霧露

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第八十話 メリークリスマス?

2096年12月24日

 

「十六夜さん。今夜、どうしても付き合ってほしい用事があるの」

 

 風紀委員の活動を終え、開口一番に雫から告げられたのは、そんな言葉だった。

 彼女は俺の袖を強く掴み、真剣な面持ちを向けている。かなり重要な用事である事は、疑うまでもない。

 

「分かった。付き合おう」

 

 俺は雫の用事に付き合う事を即決した。

 四葉家次期当主継承という原作の一大イベントを前にして、原作にないイベント発生は見逃せない。今後に大きな影響を残すようであれば、是が非でも排除しておきたかったのだ。

 なんだか幹比古含めその他風紀委員は俄かに喚き立っているが、彼らも事の重大さを感じ取っているのかもしれない。森崎だけ酷く苦々しい表情をしていたが、所以が分からないので放っておく。

 そうして離さぬ雫の手に引かれ、ほのかまで付いてきて、第一高校の門まで至った。

 

「四葉君、よく来てくれた。正直、君を呼べた事、心強く思うよ」

 

 そこで、北山潮に出迎えられたのだ。リムジンをすぐ傍に停めてまで彼が出迎えた事に、事の重大さが裏付けられる。

 何故だか、ほのかが落ち着かないような、罪悪感を秘めているように目を泳がせていたが。

 とにかく、潮も雫も真剣そのもの。四葉直系に助力を請うほどの窮地となれば、俺も気を引き締める他ない。

 

「乗ってくれ。ほのかちゃんも、ささ、早く」

 

「はい、失礼します」

 

「し、失礼します……」

 

 潮に誘われるまま、俺もほのかもリムジンに乗り込んだ。

 リムジンの奥まで押し込まれ、普通逆だと思うのだが、俺が入り口から遠い上座、雫と潮が入り口すぐ傍の下座に鎮座する。ほのかはその丁度中間あたりに腰を下ろしている。

 

「さぁ、出してくれ!急がなければならない!」

 

 潮は運転手に声を掛け、発進を急かした。

 それ程急を要する事態のようだ。

 

「我が社のクリスマス・パーティーに遅れてしまう!」

 

「……はい?」

 

 俺が嵌められた事に気付いたのは、リムジンが時速60㎞を出し始めた時だった。

 如何に超人と言えど、この速度から飛び降りればただで済まない。

 つまり、もう俺は逃げられない。

 

 

 

「潮さん、何もまたこんな騙すみたいな事をする必要はなかったでしょう……」

 

「あっはっはっはっ!なぁに、ちょっとしたサプライズだよ、サプライズ」

 

 いつだかの再現のように、俺は北山の方で用意されたスーツを着せられ、パーティーに出席させられていた。

 俺がパーティー会場でその事を言及すれば、潮はおどけて受け流す。ここまで以前の再現だ。

 そんなやり取りに、俺は呆れて溜息を吐く。何が呆れるって、同じような手で二度も騙された己と、多分騙されてなければ絶対出席しなかっただろう己についてである。

 騙す必要などなかったと宣うこの口であるが、確実に出席させる策を講じた潮には、称賛するように苦笑を形作るしかない。いや、学ばぬ己を笑うべきか。どちらにせよ、口が形作るのは苦笑だが。

 

「人混みは苦手なんだったかい?だったら、雫と一緒に退出してしまって構わないよ。主賓にはほのかちゃんも居る事だしね」

 

「……」

 

 さらに称賛すべきは、この大勢の目がある場で雫と共に退出させようとしている事である。

 以前は身内に四葉直系と愛娘の仲睦まじい姿を見せ付けて、今度は己が経営する社の者、という訳だ。徐々に外堀が埋められている気がしてならない。

 

「……なら、お言葉に甘えさせていただきます」

 

 俺は、潮の策に嵌まる事にした。

 相手の策にまんまと嵌まるというのは多少癪だが、正直言えば俺にとっても利益があるのだ。

 まず、この人混みから離れられる点。そして、雫との仲を周りにアピールできる点。

 俺は潮と同じく、雫との婚姻に前向きだ。なら、その周りへのアピールというのは重要になる。俺と雫が婚姻を結ぶ事に対する違和感を周りから取り除く、重要な前準備になるのだ。

 当人らの立場的に政略結婚、四葉だと良血を迎え入れる作業と勘繰られる可能性がある。しかし、仲睦まじい姿を見せ付ければ、そこに純粋な恋愛感情があった事を証明できる。政略結婚や作業が、その恋愛を成就させるための地固めであったと認識をすり替えられるのだ。

 だから、俺はなんの憂いもなく、むしろ喜んで潮の策に嵌まる。

 

「君ならば、そう言ってくれると思っていたよ。さぁ、雫の下に行ってきたまえ。雫は人だかりの中だが、そこから掻っ攫っていくのも、男の甲斐性というモノだよ?」

 

 婚姻に前向きな俺の姿勢と、思惑を読み取る俺の洞察力。それらに満足して、潮は俺を雫の下へと送り出した。

 しかし、結構な難題を出してくるものだ。社交に努める令嬢を引っ張り出すのは、社会性的に不躾な行為だろう。

 俺はどうしたものかと、令嬢を囲む輪の前で足を止めてしまう。

 

「十六夜さん」

 

 あまつさえ、雫から歩み寄られてしまう始末。これでは甲斐性なしもよいところだ。

 ならばと、俺は見えを切る。

 

「フロイライン、お手を拝借させていただけますか?」

 

 俺は気取った手付きで、雫へと手を差し出した。

 雫を囲っていた者たち、社内の若い衆と連れられてきた重役の少年少女たちは、にわかに色めき立つ。

 

「……ええ。ちゃんと、エスコートしてね」

 

 雫は頬に朱を指しながら、俺の手へ自身の手を上品に重ねた。

 俺は彼女の手を包み、雫も確かに俺の手を掴んで、2人でパーティー会場を出る。

 若者たちの喧騒を置き去りにして。

 

 それで、「エスコートしてね」と言われた訳だが、何処にエスコートしたものか分からなかった。社交界じみたパーティーなんてほぼ経験がないのだ。令嬢を連れ出した際の作法など知っているはずもない。

 令嬢を連れ出している時点で、不作法の部類に入る気もするし。

 なので、格好がつかないのだが、結局雫にパーティー催される建物内の個室へと先導される事となった。

 ただ、その個室は事前に貸し切っていた物らしい。つまり、こうなるのは予定通りだったのだ。

 

「体調、大丈夫?」

 

「ああ。早めに脱出できたからね、疲労もさほどないよ」

 

「それは良かった」

 

 個室のソファに腰を落ち着け、楽に構える俺。そんな俺に、雫は俺の隣に腰かけて微笑んでいた。罠に嵌められた事へ反感を抱いていないと見て安堵したのだろう。後は、二人きりになれた事に喜んでもいるか。

 

「ちょっと待ってて」

 

 雫は安堵と喜びを数秒噛みしめると、すぐに立ち上がり、俺の返事も待たずに部屋の奥へと消えていく。確か、その部屋はこの個室に備えられている更衣スペースだったか。

 

「じゃん。どう?」

 

 数分すれば、雫はそのスペースから衣装を変えて姿を現した。

 その姿とは、サマーニットノースリーブにチノパンという姿である。クリスマスだから現在は冬。その夏の装いでも空調のおかげで肌寒くはないだろうが、季節感とミスマッチである事は拭えない。

 ならば、何故雫がそんな衣装を着替えたのか。その答えは、そう難しくない。

 

「夏にした約束、覚えててくれたのか」

 

 そう。8月頃だったか、デートした時に、雫は次のデートにその服を着てくれると約束してくれていたのだ。まぁ、約束というより言質を取られたという表現の方が正しかった気がするが、深く掘り起こさずにおこう。

 

「うん。結局、お互い色々忙しくてデートはできなかったから」

 

 片や北山家令嬢、片や四葉家直系。大事という程はないが、細々とした用事には事欠かない御家事情があり、おまけに10月は論文コンペで忙しかった。無理矢理デートの日を作る事もできたのだろうが、俺に負担をかけまいとしたのか、雫からのお誘いはなかった。

 俺からカフェ巡りの誘いもできたのだろうが、論文コンペ前は『英雄』関連で落ち着ける余裕がなく、論文コンペ後は周公瑾・周妃関連で余裕がなかった。

 おかげで、大分デートはお流れとなっていたのだ。

 

「どう?」

 

「うん。似合ってるよ?雫らしくて、可愛いし綺麗だ」

 

 雫の純粋な問いに、俺は純粋な感想を述べた。

 やはり、『魔法科高校の劣等生』におけるメインキャラクターだけあって、とても素材が良い。何を着せたって似合う。そこに合ったコーデをさせたのだ。綺麗でないはずがない。

 

「ありがとう」

 

 雫は見せ付ける事に満足したのか、微笑みを浮かべた後に対面へと腰かける。

 

「というか、良いのかい?ドレス着直すの、面倒じゃないか?」

 

「大丈夫、パーティー会場にはもう戻らないから」

 

「ああ、なるほど。そういう……」

 

 着替えてもらった事、ドレスを着直す手間を増やさせてしまった事に多少悪気を感じていたが、雫の様子でその悪気は拭われる。

 もう一つ、というかここまで一連の罠だったのだ。

 本来の主役と招待客がパーティー会場を退出したっきり帰ってこない。そんな状態を、他の参加者は邪推する事だろう。彼女らは逢い引きしたのだと。

 パーティー会場にもう戻らない事は、俺と雫の仲をこれでもかと示す布石なのだ。

 

「雫と二人きりなのは、俺も嬉しいよ」

 

 ただ、これもやっぱり乗っかっておく。邪険にする必要はない。むしろ、さすがは大企業の社長とその令嬢が仕掛けた罠だと、手放しで称賛したいくらいだ。

 

「私も。此処なら、ほのかもお父さんの邪魔も入らない」

 

 雫は、微笑んでいた。単純な歓喜を表している、だけではないような、少し深い笑み。

 何か重要な、二人きりでしかできない話があるのかと、俺は内心気を引き締める。

 

「十六夜さん、突然だけど。なんで私を好きになってくれたの?」

 

 そうして切り出されたのは、突拍子もない、だけど恋愛に不安を持つ少女のような質問だった。

 

「なんでって……。まぁ、そうだな。うん。まぁ、正直に答えようか」

 

 多少はぐらかそうかと思ったが、俺は思い留まる。雫の表情はとても真剣で、心配を押し込めたようなそれだったのだ。これから婚約するって相手に心配を抱えさせては、順風満帆な婚約生活・結婚生活とはいかないだろう。

 だから、できる限り取り繕わず、正直に答える。

 

「まず、君の外見が好きだった」

 

「……そう?」

 

 初手がそんな答えとは予想していなかったのか。雫は頬を赤らめつつも、小首を傾げた。疑問があるようなので、俺は臆面もなく、嘘偽りなく、彼女の外見を評する事にする。

 

「そうだとも。雫、君は自分のプロポーションに多少自信がないようだが、俺からするとかなり点数が高い。全体が実にすらりとしていて統一性があり、ギャップがなくてバランスが良い。肌も綺麗だ。白みを帯びて綺麗な肌は、しかして白すぎるという事はない。実に人間的で健康的な白さだ。つまり、芸術的な美しさと人間的な美しさが同居し、絶妙な均衡を保っている。そして、少し外見から外れるが、君の美しさを語る上で、君の人格を欠かす事はできない。君の物静かでありながら、強い意志が芯にある人格。物静かさは何処か精巧な創造物の要素を演出しつつ、その強い芯は世界に根差す一個の生命、人間らしさを演出している。これもまた、芸術的な美しさと人間的な美しさが同居している。そう。君の外見と人格は双方とも芸術的な美しさと人間的な美しさを体現し、ともすれば相乗効果を発揮しているんだ」

 

「ありがとう、十六夜さん。とりあえずはそこまでで良い」

 

 語りの途中ではあったが、顔を伏せる雫に止められてしまった。饒舌に語り過ぎて、気味悪がられたか。

 

「あ、ああ。まぁ、外見と人格についてはここまでにしよう」

 

「それ以外もあるの?」

 

「ああ、もちろん。というか、次の方が大事だ」

 

 さっきの熱弁のおかげで、外見と人格のみで好きになったと雫は勘違いしていたようだ。実際のところ、外見と人格だけで評するなら、『魔法科高校の劣等生』のメインキャラクターはみんな高評価だ。達也狙いの深雪とほのかはともかくとして、レオと痴話喧嘩してるエリカも省くとして、幹比古とほぼカップルの美月も除くとして。達也一団の全女性が省略されて気がするが、他にフリーである明智英美、里見スバル、中条あずさ、市原鈴音だって確実に美少女である。

 そんな美少女だらけのこの世界において、外見と人格だけで評していたら、もう誰も選べない。だから、俺にとってその辺りは重要ではない。

 大事なのは、そう――

 

「雫が、俺を受け入れてくれたからだ」

 

――俺を受け入れてくれるかどうか、である。

 

「受け入れたから?」

 

「雫。俺は『アンタッチャブル』と恐れられる四葉だ。同時に、俺は人外に片足突っ込んでいる。こんな人間を、果たして本気で好きになってくれる人は何人いるのかな」

 

 表層だけでもそんな忌み嫌われるステータスが揃っている。これに加え、俺の人間性もとなると、恋人になろうなんて人は貴重とも言える。

 

「……十六夜さんの事、多分好きな人たくさんいるよ?」

 

「そう、かもしれない。でも、俺は疑ってしまう。外見だけに惑わされているんじゃないか、と」

 

 俺の外見は四葉の遺伝子もあって悪くない。忌み嫌われるステータスさえ取っ払えば、それこそ女性人気は高かっただろう。

 でも事実は、現状が示している。俺へ積極的に関わってくるのは、達也一団の面々くらいだ。彼ら以外、誰も俺に近寄ってこない。

 

「……例えばの話をして良い?」

 

「ああ、構わないけど。なんだい?」

 

 何か腑に落ちないのか、眉根を歪めたその表情で、雫は俺に例え話を始める。

 

「七草先輩が十六夜さんの事を受け入れたら、そっちになびく?」

 

 その例え話は、浮気の疑いにも聞こえた。

 

「冗談きついよ、雫。婚約、はまだだけどその約束をした相手がいるのに、俺は浮気なんてしないさ」

 

「じゃあ、仮に。私より先に七草先輩が告白してたら?」

 

「まだフリーだったら、か……。それは、まぁ。大変言いづらいけど、真由美さんになびいていたかもな」

 

 俺は、俺を受け入れてくれる人がそう何人も出てくるとは考えられない。だから多分、最初に受け入れてくれた人へ操を立てるだろう。

 現在操を立てている雫に、例え話とはいえ他の女性になびくなんて発言は控えるべきだが、これが俺の正直な意見だ。

 

「じゃあ、その後に私が告白したら?」

 

「『友達のままで』、だろうな」

 

 これまた言いづらいが、俺は素直に断るだろうと宣言した。

 

「友達関係は続けるの?」

 

「そりゃまぁ、雫にしろ、真由美さんにしろ、俺は友好関係を失いたくない。だから、惨めかもしれないが、関係を続ける努力をするよ」

 

 告白されておいて恋仲に発展しなかった異性の友達と、そのまま友達であり続ける事。それは、おそらく難しい事だろう。でも、俺はきっと手を尽くす。

 

「どうして?みんな傷付くかもしれないよ?」

 

「そう、だろうな。でも、俺は、嫌われたくないんだ」

 

 その理由は、俺の原点に行き着く。

 人に嫌われたくないという、自己愛。

 

「嫌われるの、怖い?」

 

「怖いよ、とても怖い。友達になら、なおさらだ」

 

「どうして?」

 

「どうしてって、友達を失いたくないのはみんな一緒だろう?なんでまたそんな質問を」

 

 今日はいやに質問されると俺は違和感を抱き始めていた。そんなところにこれまた随分と違和感のある質問が投げかけられたのだ。どうしてもその意図を図りかねてしまう。

 俺が行き過ぎているという自覚はあるが、友達に嫌われたくないのは万人共通のはずだ。なのに、雫は何故そんな事を質問するのか。

 

「世間一般的の言葉じゃなくて、十六夜さんの言葉が聞きたいの」

 

「俺の言葉って。世間一般と変わらないよ」

 

「じゃあ、それを言葉にして」

 

 俺が一歩身を引こうとするも、雫は逃すまいとばかりに詰め寄ってきた。普段と様子が違うような、そんな気がしてならない。

 

「雫。何か、あったのか……?」

 

 俺をより探ろうとする動機が、雫の中にあるのかもしれない。それは、単純に婚約への不安か、それともまた別の何かか。

 

「……ごめんなさい、問い詰めるような事して」

 

 俺の方からも暗に探ってみようとしたが、それで雫は己の以上に気付いたのかもしれない。彼女は縮こまるように、さっきまでの勢いを失った。

 

「いや、それは構わないんだが。その、俺は何か、雫を不安にさせているのかい?」

 

「……十六夜さんは、誰にでも優しいから。それに、婚約についても、私がただ一人で突っ走っているだけみたいで」

 

 俺の八方美人な振る舞いが、俺からの好意に不安を生じさせてしまったようだ。ともすれば、俺が嫌われたくないから雫に合わせているのではないかという、そういう不安を。

 無理もないかもしれない。婚約を予定しておいて、俺から雫に歩み寄った事は一度もない。俺はいつだって受動的で、雫のアタックに反応を返しているだけだ。

 これは大変危険な状態だろう。このまま俺から一切歩み寄る事なく進んでしまえば、雫の不安はいつか爆発する恐れがある。婚約成立でその手の不安は解消できると思っていたが、この状態では早急に手を打った方が良い。

 だから俺はおもむろに立ち上がった。雫は警戒して一瞬肩を震わせたが、それを気にせず、俺は彼女の背後に回った。そうして、彼女を後ろから抱きしめるのだ。ソファーのせいで体を包みこむような抱擁はできないが、代わりに雫の首に腕を回すような、軽い抱擁をする。

 

「……十六夜さん?」

 

「すまなかった。そして、大丈夫だ。俺は雫の事が好きだよ」

 

 触れて分かる程度の震え、心に押し込めた不安。雫のそれを解すように、俺は彼女の耳元で囁いた。

 恋愛感情とは少し違うかもしれない、好意。キャラクターを推すような感情ではあるが、俺が北山雫という人物が好きなのは真実だ。

 その気持ちを込めての、一連の行動。これで独りよがりな恋ではないと、彼女も認識してくれるだろう。

 

「駄目」

 

「雫?」

 

 そんな予想とは裏腹に、雫は俺の抱擁から脱し、腰を上げて俺に真っ正面から相対する。

 判断を誤ったかと、わずかに俺は狼狽えた。だが、『駄目』というのは、俺の判断ミスに対するモノではなかったらしい。

 

「ちゃんと、抱きしめて」

 

 雫は、軽い抱擁では足りなかったのだ。白い肌を赤く染めながら、彼女は迎えるように両手を広げる。

 俺は安堵しつつ、その腕の中に迎え入れられた。俺は雫を抱きしめ、雫も俺を抱きしめてくる。スーツとサマーニットノースリーブでは何とも不釣り合いだろうが、そんな事を構う雫ではない。

 ただ彼女は、少女のようにか弱い腕で、それでも強く抱きしめ、幸福を噛みしめているようである。

 でも、これでもまだ足りなかったのだろう。

 

「十六夜さん。……ん」

 

 雫は至近距離で俺を見上げ、目を閉じ、唇を差し出した。彼女は、俺からのキスを待っている。

 

「雫、それはまだまだお預けだ。今はこれで、満足してくれ」

 

 俺は雫の唇ではなく、額にキスをした。正式に婚約もしていないのにマウストゥマウスは、日和っているのかもしれないが、早いと俺は思ったのだ。

 

「……意地悪」

 

「はは。男ってのは、好きな子に意地悪をするモノなんだよ」

 

 むくれた雫を見納めて、甘すぎる一時は終わりを迎えた。

 何処か、他人事のような感覚に陥りながら。




またしても何も知らない四葉十六夜:割と北山一家には騙されやすいのかもしれない。

 閲覧、感謝します。


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