全面改稿。
それから、私は寝る前に早霜先生の昔話を聞かされた。それも毎晩。
聞かされた、と言っても嫌な感じは全然しなくて……けれど一方で少しだけ妬ましくもあった。
私は大学には行かなかったから、彼女の話の中の大学生活が……隣の芝生のように余計青く見えてしまったんだろう。それは気取らせないように、私はうっすらとした眠気の中で、夢を見るように彼女の話を聞いていた。
●
最初の話は、ハンモックの中で始まった。豆電球で薄暗い中。
「大学の前に……まず、浪人したの」
一浪とは聞いていたから、それには今更驚かなかった。
けれど、そんなことより驚いたのは、
「医学部志望だった」
彼女が次の言葉を話す前に、
「看護学科……とか?」
「いいえ。医学科よ。……医者になるつもりだったから」
なんだか少し痛みを感じる声だったけれど、最初から彼女自身分かっていたことだったと思う。
彼女は続けて、
「親が医者で、その跡継ぎになろうと思っていたの。……でもダメだった」
医者志望がこんなところで何を、とも思ったけれど、それはこれから分かることだと思って口を閉ざした。
彼女が続ける。
「それで浪人することになったのだけれど……ヤケになって」
一つため息。
「中古屋でエロゲーを買ったの」
は?
「え、エロゲー……って」
「アダルトゲームとも言うわね」
「その……へ、」
変態なの?
……と言い掛けて口を結んでこらえた。けれど、”へ”を言ってしまったから、
「へ、変なヤケ……」
「そうよね。元々オタク気質だったというのもあったけれど……自分から遠いものに手を伸ばそうとしたのかしら。もう昔のことだから、自分が何を考えてそうしたのか、あまり覚えていないわ」
私としては、興味はなかったし、踏み込みたくもなかったけれど……彼女が話を広げやすいように、と思って─────断じて興味があったわけじゃない─────質問をした。
「その……どんなゲームを買ったの?」
「そうね……一言で言うと電波だったわ」
「で、電波?」
「……ああ、今時使わない言葉よね。説明はちょっと難しいけれど……」
「いや、分かるけど……」
「あら?そうなら話は早いわね。ともかく、奇っ怪なゲームだったの。エロゲーには文字通りエロ要素が含まれているけれど、そのエロ要素がまた電波を助長していると言うか……具体的に話す方が却って難しいくらい」
「……本当に説明になってない」
「そうね……でも、題材になった物事ならピックアップできる。例えば……”ノストラダムスの大予言”とか」
「……何それ?」
「あ……そうか。あなたは……95年か96年産まれよね?だったら、知らなくても不思議じゃないか」
「……ん?」
いや、記憶の中にある一つの”ページ”が引っ掛かった。
その左上のフキダシには─────
今年は あの有名な
ノストラダムスの恐怖の大予言の
年とかで 日本や世界の
マスコミは大さわぎだが
たいていの人々は 晴れ晴れとした
気分では ないにしても
いつも生活しているように
春をむかえた
そう、確か……29巻の7ページ。4部の記念すべき1ページ目だ。
開くと左側にあって、右は目次だったから……それで間違いない。
コミックスの扉絵は3ページ目で、4・5はあらすじ紹介、6が目次……うん、合っているはずだ。
それはともかく……ここに書いてあることがその”ノストラダムスの大予言”?
「いや、その言葉は見たことある。”ノストラダムスの恐怖の大予言”って言葉を……内容は知らないけど」
「あら、知っているの?……まぁ、インターネットを使っていれば一度は見るのかしら」
「それで……どういう予言?」
「ええ、中身は……1999年に人類が滅亡する、なんて予言だったの」
なるほど。私は当時幼稚園児だ。先生は……10歳かそこら。
小学校で話題にでもなってたんだろうか……そういうトンデモな話は小学生が好きそうだし。それに、
「……今、2016年だけど」
「そう。”人類が滅亡するのはやっぱり2012年だった”なんて話もあったけど……それにしても、もう通り過ぎた」
実際人類は滅亡していないし、やっぱりそういうトンデモな説は嘘っぱち、いや当てずっぽうだったわけだ。
でも1999年と2012年、どちらもハズレだったけれど……2013年に出現した深海棲艦。
やつらは十分以上に世界を……人類を危機に陥らせたと思う。
もしかして、これが”そう”だったとか?……なんて、あり得ない。
すぐさま艦娘が登場して、世界を団結に導いた。それに今や戦争が日常になっていて……慣れすぎたのか、楽観ムードすら漂っている気がする。かくいう私も、世界が完璧にどうにかなることはない、と思ってしまっていた。今は……自分が直接関わることだから、そういう気分でもないけれど。
「他にも……西洋哲学ね」
「哲学?」
少し、胡散臭い題材だ。……先生はそういうのが好きなんだろうか。
小難しいことを考える主人公より、目の前の絶望や葛藤を勇気とともに切り開く、そういう物語が好きだ。
とは言え、”眠れる奴隷”には考えさせられた。
……実際の所、この話の意味が少しわかったような気がしたとき、自分自身の人生を顧みた。
本当にこんな人生で、こんな人間で良いのかと自問自答。
どうしようもないことを大真面目に悩むあたり、多分私は特殊なんだろう。
多分、そういう人生を歩まされたから。
ただ、それでも哲学というものには……少し鼻につくものを感じる。
そう、あまりに地に足のついていない感じが。
苦い不快感で、ブランケットの中の体を少しよじる。
でも、オウム返しにしろ問いかけたからには、その話題を受け入れなくてはならない。それが礼儀だ。
「そうね……例えば、”明日が来る”……ということを疑ったことはある?」
「……質問の意味がわからないけど」
「そうね、言い換えるわ。さっきのノストラダムスの話と絡めるけど……今日で世界が終わるかもしれない、なんて考えるということ。つまり、明日が来ないのではないか……」
「……それに近いかどうかは分からないけど」
「ええ」
「戦争が始まって、隣の国には攻撃されて、海は滅茶苦茶で……東京、自分がその時いた場所も壊されて、私も死んで……そういう意味で、全てが終わるんじゃあないかって……そんな不安はあった」
「そうね……私もそう言い換えたほうがよかったかもしれない。じゃあ、そういう時……どうやって安心しようとした?」
「……現実逃避」
「どういう方法の?」
「漫画を読んだり、ゲームしたり、どこかへ走りに行ったり……。無駄に時間を過ごして……いや、なんだろう。その時勉強していればよかったんだけれど、”死ぬかもしれない。それをやって意味はあるのか”なんて考えて、目先の楽しみに釣られていたというか……逃げたというか」
そこまで言葉にして、違和感が生まれた。
おかしいな、と思って、
「いや……逆だったかもしれない。今思うと。”もうすぐ死ぬかもしれない”から、それを悔やみたくないからこそ遊び続けた……それなら現実逃避とも、なんだか違う……?」
自分で話しながら、思考がひっくり返りかけている。
自分自身、そこまで捨て鉢になっていたのかと驚きや疑問があるけれど……納得出来ないこともない。
隕石が落ちてきて地球が破壊されるとなったら、社会は滅茶苦茶になるという話……その現実の例だ。
逆にその日を粛々と過ごすということは、”明日が来ない”という現実に即した行動じゃあない。それは”また明日”と繰り返すためのもの。だから、それこそが現実逃避になるはず……。
「どっちだったんだろう……」
とっくに過ぎ去った問題で、今更解く必要はない。
言うなれば……二度と受けられない試験の問題。歴史は過去問なんかじゃあない。
それを後生大事に持っていることに何の価値があるっていうのか。
”あの時どう生きるべきだったのか”ということを今更振り返るのは無意味だ。
それに、現に世界は終わらなかった。私も生きている。
最終的には、現実逃避ということになる。
「現実逃避か否かという問い……私も考えましょう。あなた一人でも十分に導けるはずだから、要らぬ言葉かもしれないけれど」
「……別に考える必要なんてないよ。答えは出てる。今が答え……」
「いいえ。そうは思わない。だって……まず、この問そのものに問題があると感じるわ」
「問そのものに問題?……それは、ループするということ?」
「そういう意味ではなくて、所謂……前提がおかしかったりする、というもの。先にその説明をしましょう」
「このあなたの問いとは一見似ていないけれど……”青い林檎は赤いか?”という問いを立てるとして……この問いには意味がないわね?」
「……うん。言ってる意味がわからないし」
「そう、その文章は成立していない。文法上問題はないけれど、論理的に明らかに偽。ここまではわかる?」
「偽……真偽、だっけ。数Ⅰでやったやつ?」
「それね。……じゃあ、あなたの今回立てた問いに、なぜ問題があるのか。それは、”現実とはなにか?”ということ」
「現実っていうのは……今、世界は終わってないし、これが現実」
「そう。でも今は結果論の話をしているわけじゃないの。あなたにとって……いいえ、深海棲艦の出現、隣国からの攻撃……その当時の人々にとって、現実とは……あなたの言う現実というのは、この場合、未来のことね。それはどういうものだったのかしら」
「……分からない。これで人生とか、世界とかが終わるかもしれないとは、みんな考えたと思う。そういう不安があった」
「私もそうだった。……けれど、果たして”こうなる”ことを知っていた人はいたのかしら?」
「……それは、いなかっただろうけれど。ほぼ確実、とまで予想出来る人は、いたんじゃないの?」
「それでも、未来を知ることが出来る人はいない。つまり、あなたの言った現実逃避というものには、対象がない」
「ない?」
「過去があって、現在がある。けれど未来があるというのは迷信に近いもの。戦争がなくたって、この世界が滅ぶ可能性はある」
「……例えば、どういう可能性で?」
「それは知らないわ。ただ、言葉に出来るというだけのこと。それに特に理由もなく……例えばこの世界が、実は誰かの書いた物語で、作者が飽きたか何かで筆が止まってしまったとしたら。つまりこの世界の内側には何の理由もなかったのに終わってしまう、そんなことだってあり得る」
「それは……流石に絵空事が過ぎる」
「でも、言葉で表現することは、想像することは出来るでしょう?それが、私が今回使っている”あり得る”の範囲」
「想像できることは全て現実に起こり得る、みたいな言葉は聞いた覚えがあるけど。それにしたって……」
「言いたいことは分かる。私は今、あなたを煙に巻こうとしている」
「……自分で言ってて嫌にならないの?」
「いいえ。けれど、煙を払うのはもう少しだけ待って。……さて、あなたが逃げようとした現実、未来。それは誰も知ることが出来なかった。これには同意できるかしら」
「それは、……理解できる、けど」
「じゃあまとめましょう。“未来から逃げたのか?”という問に置き換えましょう。これも後で書き換えることになるけれど……今の時点で、私は問いと答えを2組用意できるわ」
「2つ?」
「とりあえず、このまま読んでみて……未来から逃げることなんて出来ると思う?」
「……いや、出来ない。時間は進んでいくし……明日はそのうち、”いま”になる」
「つまり、この問いに意味はない。逃げることの出来ないものから逃げるという文は、ナンセンスよね。答えがない、という答えになる」
「確かにそうだけど……でも逃げる方法なら、一つ思いついた」
「それは?」
「……死ぬ。─────自殺、とか」
そこで、少し息を呑む音が聞こえた。
確かに重く、ネガティブな単語。けれど、そこまでショッキングなことを言ったつもりはなかった。
だから……何か間違ったのかもしれないと不安に駆られそうになる。
そして、一つの溜息が聞こえて、
「……そうね。それで主観として未来は閉ざされる。けれど、それなら別の答えになる。あなたは生きている。あなたは現実を十分に受け入れている」
さっきと変わらない声の調子。
それに安心して、私も溜息を吐きながら、
「……そう、なのかな」
「安っぽく答えが出てしまったわね。答えがないことにしたかったのに」
「本当に煙に巻くんだ……」
「問題は解決するものではないわ。消し去るものなのだから」
「解決と消し去る……それのどこが違うの?」
「例えば……解決というのは、お金が足りないときに十分なお金が手に入ること。消滅は、お金が足りないことを問題にしている……そのこと自体が誤りであったと気づくこと。乱暴だし、適当すぎるから例えとして間違っている気もするけれど、そういうことにしておいて」
「……言いたいことは、なんとなく分かった。確かに、”それが問題ではなかった”というのは消滅……なのかもしれない」
「それじゃあ、もう一つ。あなたは”未来はこうである”という……”こう”というのは具体的な部分ね。それに則って行動した」
「まぁ……そう言えなくもないけれど」
「”こう”ではなかったから、結果論として逃避ということになった。繰り返しになるけれど、未来を知ることは出来ない。それは現在からすれば願望であって事実じゃないもの。真偽が定まらない問い、答えのない問いに意味はない」
「……またそれ?」
「そうよ。そのつもりで話を進めたもの。そして今、結果として現れているけれど……あなたが遊び呆けたことが責められる理由ってあるのかしら?」
「そりゃあ、遊んでばかりじゃあ駄目でしょ」
「結果論の話はしないわ。その時点でのあなたの選択について話をしているの。世界は滅ぶかもしれなかった。滅ばないかもしれなかった。その中で選択した。答えのないものに則った選択とは、とどのつまり、賭けになる」
「……賭け、ギャンブル?」
「その賭けね。だから、あなたはそれに負けただけ。分の悪い方に賭けたから、という咎められ方はするかもしれないけれど、それだってあり得る目だった。あなたはサイコロを振った人を本気で責める?」
「いや……無理がある。無意味だって気付く……」
「そして、私達に賭けをしないことは不可能。”これに賭けたということ”が間違いだったのではなく、”賭けをしたということ”が間違いだったというなら……やっぱり、死んで勝負を降りるしかない」
少しだけ切羽詰まった、呼吸の浅い声。早口で先生は言い切った。
そして息を整えると、穏やかないつもの口調で、
「ともかく、あなたの選択を完璧に咎められる人はいない。あなた自身にも出来ない。だから、考える意味がない」
「無意味、無駄……か」
無駄だったんだ。
無駄、無駄。
考えることに意味がないということを、考えることで導き出すというのは……つまり、”考えるのをやめるために考える”というのは、なんだか奇妙だ。
けれども─────果たして、考えるということに終わりはあるのだろうか?
無限に回るような気がする。……今の私が考えられる形だと、考えるということに、終わりはないように感じる。そしてそのまま、終わりがないままに終わる。終着ではなく、減速による停止として。動かなくなる。回転は、いずれ止まる。無限の回転なんて、ない。
それに、その回転─────そのように見える思考の動き─────の向こう側というものがあるのならば……きっと、また別の問題がよく見えるようになるだけで。
きっと行き着く先にはなにもない。
哲学ってものは随分虚しいみたいだ。
”何もない”へ向かっていくだけ?世界を寂しくさせていくだけの学問なのか?
一体何故、人はそういうことを考えるんだろう。考えてきたんだろう。
……暇な人間だって、もう少し楽しいことを考えようとしてもいいはずなのに。
「どうして人はそういうことを考えるんだろう……」
「……悩むからじゃないかしら」
「悩む……そりゃあ、悩める人は助けが欲しいんだろうけど」
「いいえ。助けなんて必要ないと、ただ自分で自分を救いたいと思うから。そういう哲学者は沢山いた」
「……そういう人は、どうして神様に頼らないの?」
「それも誤解だと思うわ。哲学者は別に全てが無神論者じゃない。聖書と哲学を矛盾なく統合しようとした哲学者もいるし」
「……失敗しそうな気もするけど。知らないなりに」
「そうね。それでも、近代哲学の下準備は整えられた。それだけでもお釣りが来るほどの偉業だし、そしてそれだけではなかったの」
「話が逸れっぱなしになってしまったわね。本題は全然話せなかったけれど……今日はここまでにしましょう」
「うん……」
●
航海は恙無く進んでいる。
少しずつ風が冷たくなってきたのを感じながら、夜の海から上がって、食事と風呂を済ませた。
甲板後ろで煙草を蒸す時間も短く、1本か2本程度。部屋に戻ってハンモックに入る。
第2夜……といえば良いんだろうか。
昨日と同じく、豆電球の明かりの中で話が始まった。
●
「さて、昨日は哲学の話に逸れてしまったけれど……肝心の私の話に戻りましょう。エロゲーを買って、プレイして……それから。端的に言って、私は哲学にハマった。そのまま文転したわ」
「せっかく理系だったのに?」
私と逆だ。
……せっかく元々理系だったのに。それでやっていける頭をしていたのを投げ捨てるなんて。
嫌味に感じる、というのは事実だけれど……それ以上に、羨ましいと感じた。
例えるなら─────これはどうかと思うけれど─────天使が地上を歩くようなものだ。
空を舞うことが出来るのに、敢えて地上に降りてきた……足もあるから、という理由だけで。
そういう、物好きをわざわざ実践できるという意味。
確かに、理系頭を特権のように見ているのは事実だ。私に無理だったから。
でもきっと理系の人だって、文系の頭が欲しくなることはあるんだろう。
人間が鳥に憧れるように、鳥も人間を羨むことがあるかもしれない。
そのどちらにもなれるのは羽の生えた人。……私の思いつく例えでは、それは天使だった。
でも、
「それに……医者になる、というのはどうしたの?」
「……諦めてしまった。それに”無理に継ぐ必要はない”って。自由にすればいいと言われた」
「自由に……」
「”お前の探しものが、そこにあるのかもしれないのだろう?”って……父親が」
探しものを探しに行ける自由。
「……ボクには無かった」
「無かった?」
「いや、なんでもない……続けて」
また”ボク”か。……昔のことを思い出すと、”ボク”になる。
ボクに自由なんて無かった。
だから逃げ出した。”お前はこういう人になれ”という筋書き、”運命”から。
その”こういう人”の、まがい物のような人生、スクリプト。それをなぞるだけの日々。
はみ出ては戻れと促され、いつしかレールの上を意思無く走るだけになっていたから。
「自由がない……か」
「”運命の奴隷”。……自分で言ってて何だけれど、不本意だし気障だけど、そういう人生だった」
走るのは好きだ。いいものだ。
誰がなんと言おうと。そう思っている。
……けれどそれすらも、台本(スプリクト)や設定として決められていたようで。
人間として生きるのではなくて、”キャラクター”として存在させられているように思ってしまって。
だから多分、ボクは……“目を覚ましてしまった奴隷”だ。
いっそ眠ったままでいられたなら……ボクは両親の立てた筋書きの通りに、”見世物としての人生(トゥルーマン・ショー)”を疑うこと無く生きていったんだろう。あいつらの見たい夢の通りに……。
それが嫌で、ボクは陸上部から足を洗った。
走ることもやめてしまおうと思ったけれど……それだけが出来なかった。走ることを嫌いにはなれなかった。……幸い、時が経つにつれて複雑な気持ちも薄れていった。
そして、自分のために自分に命じて走るのだから……もうそれはボクのものなのだと思っていいと考えた。
こうして出来た足も、自分で作ったもの。ボク自身が手に入れた”自分”なんだと。
ただ、そうだと信じていたかった。
「運命の奴隷……不穏で、深遠な言葉ね」
口が滑った、と思ってブランケットで顔を覆った。けれど先生は耽けるような声色で続けて、
「私達は運命を変えられると教わって育ってきた。そういう意思と力を持った存在なのだと。けれど事実、それほど大した存在じゃないことにも、そのうち気付く……」
「うん……変えられないから運命。昔からそう思ってる」
「……随分冷めてるのね」
「“ジョジョ”はそういう物語だから、自然とそう考えるようになったんだと思う」
「哲学的ね、”ジョジョ”って。……私も読んでみようかしら」
「……結構な人が絵で敬遠するけどね」
「そうなの?……ああでも、ちょっとだけ見た覚えがあるかもしれない。……確か、独特の絵柄だった気がする」
「私にとっては、あの絵が当たり前だったから……別になんてことなかった」
「いつ頃から読んでいたの?」
「さぁ……分からない。物心ついたときには、目の前に”少年ジャンプ”があった気がする」
「……ちょっとだけ変わった家庭ね」
その”ちょっとだけ”は……”だいぶ”と言いたいんだろう。
分かってる。慣れっこだから。
「……早霜の話なんだし、私の家の話なんか別に」
「……ええ、分かったわ」
拒絶をもっとやんわりと伝えるにはどうしたらいいんだろう、とか益体のないことも思ったけれど、それよりも話が聞きたかった。
「それから、次の、その次の受験で大学に合格して……2浪ね。それからは実家の下北沢を、本当にほんの少しだけ離れた、渋谷で一人暮らし」
「え、下北沢?」
「ええ……それが何か?」
「……私も下北沢あたり出身で」
「あら……同郷だったのね」
「でもなんで渋谷に?……そんな近くで一人暮らしなんて、意味あるの?」
「……一人で暮らしてみたかったの。ちょっと、家族と距離を取ってみたかった、そういう年頃だったから」
「その、家賃とかも高かったんじゃ」
「すごくオンボロのアパートに住んでたから、アルバイトでどうにかなったわ。……単位はどうにもならなかったけれど」
「どうなったの?」
「留年。学費の無駄ね……」
……そういうしくじりも含めて、いいな、と言いたかった。しくじりはつまり、自由のような気がしたから。
でも言いたくなかった。言えば、また自分の話をしてしまう。
聞いているだけでいたかった。
子守唄のような話を。
「渋谷とかその近くって住みにくそうだけど……」
「……そうね。街の賑やかさが、遠鳴りのようにずっと……本当は聞こえていないのに、聞こえてくるような。そんな落ち着かなさはあったかもしれない」
「ふぅん……」
渋谷。あまり記憶に残していない街。ゲーセンしか用がなくて、109は看板を見たかすら怪しい。
秋葉原には自転車でよく通っていたけれど……いや、それも別にアニメショップとか……丸々一棟如何わしいビルに用があったわけじゃない。単純にゲーセン通いが習慣だっただけのこと。お気に入りは特殊筐体かつ古いから、そもそも選択肢がなかったってのもある。
「でも、結局また引っ越したんだけれど」
「え、なんで?」
「3年生になると…私は4年目にだったけど、キャンパス移動があるのよ。それでまた引っ越し。一人暮らしに慣れてたから、引越し先でもなんとかやっていけたと思うわ」
「ああ……そういう」
東京の大学で、キャンパスが移動するって言うと……どこの大学なんだろう。私が行きたかったところはそういうのじゃなかった。
「とっても可愛い後輩もいたし、ちっとも寂しくなかった……」
「後輩?」
「そう。私が留年したから、彼女とは同じ講義を取っていて……それで出会った。とっても可愛い子」
「ふぅん……」
大学の友達は一生物なんて話、どこかで聞いた覚えがある。先生の場合、後輩だけれど先生がダブっているから……実質、同級生みたいなものだろう。
「楽しそうだね」
「そうね。でも、私のようになってはいけない。ダメ人間だもの」
「そう?」
私の目から見える先生は、昔はともかく今はシャンとしていて……とても大人だ。
「そんなことないんじゃないの?」
「いいえ。それがとんでもないダメ女で……大学の単位を落とした理由もお酒とセックスにのめり込みすぎたからだもの」
「……は?」
「……? お酒とセックス」
喉から音が出なくなった。
口だけが痙攣のようにパクパク開いて閉じる。
「……島風?大丈夫?」
「あ、あ、だ、だ、……だ、だ」
大丈夫、がつながった言葉にならない。
私の情けない変な声を聞いて、先生はしばらく黙ると、笑った。
「ふ、ふふふ……ふふ……ごめんなさい……ちょっと刺激が強かったかしら」
「あ、あのあ、あの、せ、せ、“セックス”って……」
「あの頃の私、脳みそアッパラパーでお酒を飲むとすぐに“スケベしようや……”って言っていたらしいの」
「は、は、へ、あ、あああ、あの、って……らしい?」
「ええ、私お酒弱いからすぐ記憶が飛ぶの。気がついたら男に跨ってたなんてこともよくあることね」
「……」
「そのまま迎え酒ならぬ迎えセックスとかも」
「……」
「あ、ちゃんと相手を起こしてゴムは付けさせてもらったわよ?」
色々とツッコみたかった。
なんて危ないひとなんだろう。