車中で耳にしたラジオレポーターの予報は少しばかし外れた。
あの暗雲覆う空から降り続いていた雨はやみ、夕焼けの曇り空。何光年も先にある太陽から放たれた赤が薄く広がった雲の合間を縫って漏れ出し、雲を真っ赤に染めていた。太陽はゆっくりとその姿を水平線に近づけていく。
掛け時計の短針が5を指す。と同時に聞こえてきたのは赤とんぼの定時チャイム。
早乙女は手にした書類を机に置くと執務室を見渡す。荒れに荒れていた執務室はその本来の姿を取り戻しつつあった。倒れた本棚の下でファイリングされていた書類が混ざり合い、どれがどれなのか見当もつかない紙の山は仕分けられるとファイルに戻され、キチンと割り当てられた番順に棚へと整頓されている。割られた窓ガラスは新しいものと取り替えられ、ありとあらゆる棚から飛び出た物は本来あった場所に戻されていた。
作業開始からおよそ一時間。執務室の復旧作業はおおむね終わりを迎えていた。それから程なくして早乙女の作業終了と解散の二言で15名の艦娘は解放された。艦娘達は再敬礼をして執務室を後にする。足早に廊下を進んで一階へと降りる也、皆溜めに溜め込んだ溜息を吐きだした。
ここまで一切緩めることなく張りつめていた緊張が解けると赤城は全身冷や汗でべとべとになっていることに気づく。それはなにも赤城だけではなかった。島風は緊張を解くと恐怖で腰を抜かした。早乙女がその場にいないことを頭では理解してはいるが体の震えが一向に収まらない。それほどまでに執務室での出来事は艦娘達に衝撃を与えるには十分な代物だった。
「な、な、な、なんなんですかあの人は!?本当に提督!?
「本職って赤城さん。久しぶりにその隠語聞きましたよ。でもおっしゃりたいことはごもっともです。青葉なんてあまりに怖すぎてチビッちゃいました」
「もしも仮によ、提督のことをクソ提督なんて言った日にはどうなると思う?」
「良くて半殺しかエンコ詰め、最悪臓器バイヤーに売り飛ばされるか、生きたままコンクリ詰めされて佐世保湾に沈められそうですね。間違ってもクソ提督なんて言っちゃ駄目ですよ、曙さん」
「が、頑張る」
誰かの腹の虫が鳴る。しかし笑う者はいない。皆同じようにお腹が空いていた。
たかが執務室の復旧作業されどあの執務室の復旧作業。確かに執務室一部屋を15名で片付けたことで一人頭の作業量は決して多くはない。しかし早乙女の逆鱗に触れないように顔色をうかがいながら失敗の許されない環境下で作業するのは、あまりにも多くのエネルギーを消費した。
「とりあえず食堂に行きましょう」
それからというもの皆一様に間宮の振る舞う手料理を食べ、大浴場で体の汚れと疲れを流し、それぞれの寝床に入るとまるで息を引き取るように寝に落ちていった。
日はまたいで次の日の早朝。今日は雲一つないすがすがしい晴れ模様。そんな佐世保海軍基地中から定刻を過ぎると起床ラッパの録音音声が騒音問題などお構いなしで至るところの拡声器を通して流れた。ラッパの音がやむと次に聞こえてきたのは館内放送、早乙女太一中将の声だった。
「おはよう、早乙女だ。各員朝食をとり次第作戦室に集合しろ。繰り返す各員朝食をとり次第作戦室に集合しろ。以上だ」
皆寝起きだというのに早乙女の声はハキハキとしていて寝起きを感じさせない。
艦娘の一人青葉は昨日のうちに散らかった自室を整えて姿見で身なりを正すと食堂へと向かった。食堂には朝早くから間宮が丹精込めて調理した料理の数々がバイキング形式でカウンターの上に並んでいた。そこに列をなして艦娘達が思い思いの料理を皿に載せていく。今日も今日とて美味しそうな料理の数々に次々と目移りしてしまう青葉。そんな青葉の姿がどこか可愛らしく赤城は微笑むと声をかけた。
「おはようございます青葉さん」
青葉が振り向くとそこには既に皿の上に山をつくっていた赤城がいた。青葉は山盛りの皿を目の当たりにしてさすがは空母だと感心しつつも表情には出さず、笑顔で赤城に「おはようございます」と言い返す。赤城は近くの席に山盛りの皿を置くと、新しい皿を手にして再び青葉の後ろに並んだ。赤城は青葉に早乙女の館内放送のことについて話を振った。
「朝食の後に作戦室に集合でしたよね」
「そうです。多分今後の運営方針についてだと思います」
「なるほど。私が思うに早乙女提督はそうとう頭の切れるお方。もしかしたら前の提督以上かもしれませんね」
「またブラックですか。もう嫌ですよ。それでも前任は人の皮を被った悪魔だったのに」
ここ第三鎮守府がブラック鎮守府と呼ばれるようになった所以である前提督は衣食住においては他と大差なく整えてくれていた。しかし反して資材の横領、艦娘に対しての性的虐待、無理難題な遠征、出撃、挙句の果ての囮艦や自爆特攻などなど数々の非道な行いを裏ではしていた。赤城が言うように前任以上だとすればもう青葉では想像もつかないしつかせたくもなかったのが彼女の本音だった。
青葉の一言に赤城は「前任が悪魔だとするなら早乙女提督はさしずめ魔王かしら」と笑いながら言った。赤城は昨日から何かが吹っ切れたようなそんなおかしなテンションになっていた。だからなのかもしれない赤城の後ろで他の艦娘が口々に揃えていた声が彼女には届いていなかった。「おはようございます司令官」の一言が。
「誰が魔王だって、赤城?」
赤城は固まった。目の前の青葉は手にした皿をカウンターに置くと赤城に向かって敬礼している。正確に言うならば赤城に肩を組んでいる人物に向かって敬礼をしている。赤城は左へ視線を動かした。見えるは軍服の袖と手袋。続いてゆっくりと右へ視線を動かした。
「お、お、お、お、おお、おはようございます。さ、早乙女提督」
「おはよう、赤城。それで誰が魔王だって?答えろ」
「あの、それはですね。言葉の綾と言いますか。何と言いますか」
「聞こえなかったか?俺は誰が魔王だって?と聞いたんだ」
早乙女は赤城を威圧する。観念した赤城は魔王の正体を口にした。
「なるほどなるほど。俺が魔王だと。それは面白いたとえだな。………なぁ、赤城」
「は、はい!」
「作戦室での呼び出しの後、俺からささやかながらの粋な計らいで横須賀から元部下にお前たちを叩きなおしてもらうため数人呼び寄せた。お前はやる気があるようだからメニューを倍にしてもらうように頼んでおこう。朝食はちゃんと食べておけよ」
「あ、ありがとうございます!提督の期待にこたえられるように頑張ります」
「あぁ、頑張ってくれたまえ」
そういって早乙女は赤城から肩を組むのをやめると最後尾の艦娘の後ろに並んだ。赤城はその場に項垂れ、そして彼女はいつもの倍近くヤケ食いしたという。
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