喫茶ーmid nightー 作:江月
─喫茶 mid night─
少し前の臨時休業を終えて、今日も薄暗い店内には微かに聞こえるレコードの音と安楽椅子の軋む音。そしてコーヒーの芳醇な薫りが充満していた。
「……………………」
そんな店内。いつも通り本を読みながらコーヒーを嗜む昼也は何故だか視線に晒されていた。
ジーッ、とそれこそ視線で穴が開いて見通しがよくなりそうな程に見られている。
「……………………何すか、水原さん」
「別に」
カウンター席の一つに靴を脱いで三角座りしているショートカットの女性。イタリア料理店“リストランテ エフ”オーナーシェフを務める水原冬美である。
この店の常連は料理人が多いのだが、こうも遠月学園関係者が立て続けに来ると妙な勘繰りをしてしまいそうになるのは、何故だろうか。
薙切薊から始りえりな、アリスと黒木場、堂島、そして今回の水原。これで代金と一緒に封筒が置かれれば、連名の増え続ける編入届けが四通目となる。さすがにそんなに要らない。
それに、彼自身もここ最近心境の変化が微粒子程にはおき始めているため可能性はゼロじゃない。
四宮や堂島に促されはしたもののやはりこの店を離れたくない、という根本はそう簡単に変わらないのだ。
「ねえ、昼也」
「……………………何です?」
「四宮の店に行くって本当?」
「…………正確には行ってきた、ですね。この前の臨時休業でちょっとフランスの方に」
「そっちに行くの?」
「?まさか俺が四宮さんの店で働くとか思ってます?」
「違うの?」
「違いますよ。自分の店があって何でそれを捨てなきゃならないんすか」
ちょっと用事があったから行っただけなのだが勘違いされるのは甚だ遺憾であった。
それにフランスで大成するならばコーヒーよりも紅茶だろう。この男、コーヒーは好きなくせに紅茶は微妙なのだ。
いや、淹れられない事もなく、むしろ結構美味しいと薊のお墨付きを貰える程度にはその腕を持っている。というのも昔、一時期だが鴛鴦茶に凝っていたときがあった。
旨いものと旨いものを足し合わせれば必ず更に旨いものが出来る、というわけではないのは理解できる事だろう。
鴛鴦茶とは中国香港においてポピュラーな飲み物である。これは紅茶とコーヒーを混ぜ合わせ、そこに大量の砂糖と無糖練乳を入れて更に混ぜて提供する飲料だ。割合は基本的に7:3。そして紅茶を多くする方が一般的。
さて、この鴛鴦茶。やりようによっては素人でも結構簡単に飲めるものを作れたりする。
問題はそれを極めようとする場合だ。旨いコーヒーと旨い紅茶。この二つを合わせれば必ずしも旨い鴛鴦茶にはならない。ようはバランス。
その過程で紅茶を淹れるスキルは自動的に上がっていった。本人の内心はともかくとして、末恐ろしいセンスの結果だ。
さて、話は戻るが昼也の返答は水原の心情を落ち着かせるには十分だった。彼女も例に漏れず彼が自分の店で腕を振るってくれる事を望んでいるのだ。
特にイタリアではコーヒーはフランスなどと比べて圧倒的に需要が多い。朝の一杯から始り、平均凡そ六杯のコーヒーを一日の内に飲む。
そのお国柄からかイタリア国内には多数の日本にあるコンビニの約5倍の数のBARと呼ばれる喫茶店が存在している。
因みに一般的なのはエスプレッソ。流通しているアメリカンコーヒーはあまり見かけることはない。
何が言いたいか、というと。
「ねぇ、昼夜。やっぱりうちで…………」
「それは前にも断った筈っすよ。俺はこの店以外で金とってコーヒーは淹れない」
「…………強情」
「いや、経営者に店捨てろって言うのはどうなんすかね?」
いつも通りの返答に水原はションボリと擬音が付きそうな雰囲気を醸し出して落ち込んでしまう。彼女は来店する度にこの様に勧誘しているのだ。その度にすげなく断られていたが。そしてその度に膝を抱えた体勢のまま、カウンター席に小一時間程落ち込む。
いい歳した大人が、と思われそうだがそんなことを言えば某ちっこい常連に“調教”という名の折檻を食らうことは目に見えているため昼夜は無言で安楽椅子を軋ませて立ちあがり、キッチンへと引っ込んでいった。
暫くたって戻ってきた昼也。彼の手には小さめの黒い長方形のお盆があり、その上にはマグカップとデミタスの二つが乗っている。
無言でお盆ごと項垂れる水原の前にそれを置き、傍らに一本のティースプーンを添え、自分は再び安楽椅子へと座り直して本を読み始めた。
出されたのはデザート。それもイタリア料理店を経営する水原には馴染みある一品。
「これって…………アフォガート?」
冷たいアイスやジェラートに飲料をかけて食べるイタリアのデザートの一形態だ。一般的にエスプレッソをかけるが、他にもコーヒーや紅茶、大人向けとしてリキュールをかける場合がある。
因みに“アフォガード”と最後が濁る発音は間違いであり、アフォガート、が正しい発音とされる。
この一品。もちろんこの物臭店主の気まぐれ手作りの一つだ。と言ってもそこまで面倒は踏んでいない。アイス自体も一時間やそこらで出来るものであり、エスプレッソもまた、長年染み付いた動作で淹れるだけ。
たったそれだけで美食の一族を魅了するのだから正しく持つ者と言えるだろう。
「…………!」
冷たいアイスにエスプレッソを回しかけ、スプーンで一口。口に入れた瞬間、冷たいアイスと温かいエスプレッソによるダブルパンチと更に甘味と苦味のコラボレーションによって、水原が纏っていたどんよりとした空気は空の彼方へと消し飛んでいた。
静かな店内にはカチャカチャとティースプーンとカップがぶつかる音が鳴り、やがてそれも止まった。
そこにいたのは満足げに頬を緩ませて、笑みを浮かべる水原の姿。ここまでがいつものやり取りなのだ。
「そういえば、昼也はイタリアには行かないの?」
「今、勉強中」
「教えようか?」
「No grazie」
「…………流暢ね」
この間、一度だって昼也は顔をあげていない。
慣れているとはいえその様子はやはり気に入らない者が普通だろう。
水原もその頬をプックリと膨らませて不満ですよ、のアピール。歳考えろ。とか言ってはいけない。美人は何をやっても許されるのだ。
しかし、向ける相手が悪かった。
この店主興味の有無で対応が天地の差を見せる。
読書、コーヒー、睡眠。この三つ以外には大したリアクションが望めないのだ。
少なくともハニートラップなんぞを仕掛けた暁には仕掛けた側が心に消えないレベルの傷を負いかねない。具体的には冷めた視線と無表情で、ジッと見つめ続けられる。相手は出荷される家畜の気持ちを味わう事だろう。
「昼也って、ホモ?」
「出禁にしますよ?」
「ごめん」
ハニトラすることもなく冷たい視線を向けられることとなった。眉間にシワが寄っているため余計に怖い。
暫く気不味い沈黙が流れ、水原は出されていたコーヒーを飲み干すと、代金と恒例の封筒をカウンターに置いて店を出ていった。
暫く沈黙、そしてカップとお盆を回収しキッチンの流しへと浸けた昼也は封筒へと目を向ける。中身は予想できるが一応の確認を行う。
編入届け、と“エフ”への招待状の二つだった。ある意味初の状況。
今までにも招待状を貰うことは何度かあった。その中には美食の帝王直々のものも幾つか。
昼也はその全てを黙殺してきた男だ。どっかの忠犬はその対応に噛みついてきたが、その主共々アップルパイとコーヒーで黙らせた。
だが、ここ最近彼は心境の変化が微粒子レベルで起きている。
自分以外が作った料理。自分以外が淹れたコーヒー。
沸々とうっすら興味が胸の奥底に湧き始めてくる。
だが、この店主の根底にあるのは物臭のめんどくさがりの部分であることは周知の事実。
つまり
「……………………」
目を瞑って暫く思案して、結局招待状は編入届けと一緒に棚の中へと封印されることとなった。
この男、見て見ぬふりという現代日本にありふれた悪しき選択肢を採ったのだ。
薄暗い店内に椅子の軋む音と、古いレコードの音楽だけが響いていた。