「目標、正面の
午後の課業が始まり、尚樹たち三人は体育館に移動して伏撃ちの姿勢を取っていた。
これは10mで300m先の人型標的、通称
自衛隊ではこれを「射撃予習」と言い、弾を撃たずに射撃姿勢の矯正や射撃手順の確認などが出来ることから教育隊はもちろんのこと、部隊においても時々行われる。
「右かた用意、左かた用意」
「右かたよし、左かたよし」
「その場に、伏せ!」
尚樹は教範通りの伏撃ちであり銃に対し左45度の角度に寝そべり、両足を肩幅に開く。
ひかり達ウィッチはというと、銃に対してあまり角度を取らずに両足もほぼ開かず、“二脚を使う射撃姿勢”に近い。
自衛官の感覚では肩付けした銃床の分左腕が伸び切り、脚を使わない場合においては銃身先端のブレ止めが難しく感じるので饗庭士長はついつい声を掛けてしまう。
「雁淵さん、その姿勢きつくないですか?」
「大丈夫です!慣れてますから」
「管野さん、大丈夫ですか?」
「ウィッチは飛びながら撃ってんだ、こっちの方が慣れてる」
銃床後端の床尾板を肩と胸筋の間の窪みにしっかりと引き付け、脇をしめて銃床に頬をあてがう。
「弾込め安全点検!」
号令を復唱しつつ、尚樹たちは塩ビパイプを切ったものを詰めたカラ弾倉を小銃に差し込む。
「単発、撃て」
丸い
これは正しい
射撃は射撃姿勢の正確さが全てであり、正しい見出しと引き付けが出来た段階で命中率はおおむね決まるのだ。
息を止め、引き金を絞るように引く。
バチンというばね音とともにスライドが前進して、止まる。
実弾だとガス圧で後退して次弾が装填されるのだが、射撃予習においてはカラ撃ちであるから二発目は補助者による手動装填だ。
「二発!」
補助者がいないため、自分でスライドを引き次弾を装填する。
「三発!」
こうして点検射として三発撃つのを模擬するのである。
「撃ち終わりっ!」
最終弾を撃ち切ると、撃ち終わりと言って銃を肩から外して待つのだ。
その様子を見た射場指揮官が指示を下すわけであるが、ここでは北村三曹がその役を演じる。
「撃ち方やめ、弾抜け安全点検」
「弾抜け安全点検!」
小銃のスライドを引いて解放させ、安全係が薬室に人指し指を突っ込んで弾が抜けていることを確かめる。
なお、64式小銃の頃は薬室を見せるだけだったのだが、89式小銃はスライドと廃莢口が小さいためか指を突っ込むのだ。
安全係をしている饗庭士長が指を突っ込み肩を叩くと、点検完了で銃を置く。
「異常なし」
「了解、その場で立て」
「その場で立て!」
号令を復唱すると立ち上がり、銃を取れの指示とともに銃を取る。
ここから右向け右の号令が掛かり、射座から退出するのだが射撃予習ではそこで終了である。
新隊員においてはこうした射撃予習を繰り返した後、ようやく実弾射撃に赴くのであるがひかり達は実状況を経験したのちに射撃予習というなんとも不思議な感じだ。
その後、魔法力を使わない歩兵の伏撃ちやら膝撃ち、立射などを行った。
重量が九九式13㎜二号機銃に比べてかなり軽い89Rではいずれも簡単なものであり、小柄な直枝やひかりであっても難なくできる物であった。
海軍陸戦隊式の構えにかわって自衛隊式の射撃姿勢をしてみた感想としては次のようなものがある。
「狙いやすい」
「カールスラント軍みたいだ」
予備学校時代、ひかりは練戦ユニットを履いての射撃は苦手であったが、歩兵銃で行われる射撃基礎では平均より上であったのだ。
ほかの女生徒に比べ体力があったことから有坂銃の反動を分散させ、抑え込むことができたのである。
だが、両足を閉じて胸部と両肘だけで左右方向の力に抗する扶桑海軍の伏撃ちはバランスがとりづらく、自衛隊の伏撃ちのように足を開いて全身で接地する方式はとても狙いやすく感じた。
直枝は地上で見るカールスラント陸軍兵のように感じた。
扶桑軍の一般歩兵がボルトアクション式の有坂銃を運用しているのに対し、カールスラント軍は連発できる歩兵火器を携行していたのだ。
近接した際に弾幕を張り、制圧射撃などにも用いられる自動小銃と従来までの単発の歩兵銃が同じ射撃姿勢というのには無理があり、カールスラントはその先駆けだったのである。
どちらにせよ、航空歩兵たるウィッチにとって主戦場は空の上であって陸戦における射撃姿勢についてとやかく言われる機会はほぼなかったのだ。
「ホントはいろいろ段階踏まないとダメなんやけど、実戦経験済みやし次行こうか」
北村三曹はひかり達の構えを見て、教育計画の一部簡略化を行う。
翌日以降は演習場で技術本部の人員と合同でのユニット着用実験があるため、小火器射撃に延々と時間を掛けていられないのだ。
教育を行ったという事実は必要であるからさらりと流す程度に指導をする。
しかし射距離のダイヤルを変更せずに照準を付ける“戦闘照準法”や銃を使った近接戦闘法に至っては自衛官より直枝、ひかりの方が上手いことが明らかとなった。
高速で飛翔する彼我の距離を認識し、偏差射撃が出来なければ航空ウィッチなどやれないのだ。
「次は格闘や。化け物相手にどれくらい効くのかわからないけど……やろう」
腰をひねり、全身で回転力を付け体重を乗せた銃床で下からかち上げる銃床打撃の形稽古に始まり、小銃を振り上げて左肩の上に構えて銃床部を前に突き出すように殴る
銃剣道と違って銃剣戦闘は突き以外に銃床や床尾板での打撃や小銃に付けた弾倉で殴りつける正面打撃なども含まれるのだ。
床尾板打撃、銃床打撃、銃剣戦闘に関しては扶桑海軍航空歩兵の教範にもあり、ことブレイブウィッチーズの前衛であるひかり、直枝にとっては馴染みの技術でもあるのだ。
型稽古が終わり、銃を端に並べると用具入れからクッションマットと握りの付いたクッション棒を引っ張り出す。
そう、1mの棒の両端にクッションの付いた格闘訓練用の銃剣で実際に組み手を行うのだ。
尚樹と直枝は腰を落とし、互いの動向を伺う。
先に飛び込んだのは直枝だった。尚樹は訓練銃剣で受け止めるように突き出す。
「おらぁ!」
「うおっ」
魔法力によるブーストなしでも直枝の格闘能力は高く、直枝の鋭い銃床打撃は尚樹の訓練銃剣を跳ね上げる。
尚樹はとっさにバックステップ、崩れた態勢を立て直そうとするもすでに訓練銃剣が迫っていた。
「そこまで!」
実銃であれば床尾板に当たる位置であり、銃の重量と振り下ろす力で強打されている。
尚樹も正面打撃で攻撃を受け流して床尾板打撃を行おうとしたのだが、結局、防御を崩せる威力の銃床打撃からの床尾板打撃のコンボに負けたのである。
「直ちゃん強そうだとは思ってたけど、めちゃくちゃ強いな」
「俺を誰だと思ってんだ……次、ひかり行け」
「はい!」
ひかりは饗庭士長と対戦する。
「まけちゃいました~」
先手を取ったひかりの刺突は饗庭士長にかわされ、銃床打撃を脇腹に入れられてしまったのである。
無論、寸止めであるがこれが実戦であれば速度の乗った銃床に強打され呼吸困難に陥っていただろう。
直枝はケンカ騒ぎなどで徒手格闘も多くどうすればいいかパッと戦術を組み立てていけるのであるがひかりにはそういった経験がなく、とりあえず銃剣戦闘で習ったように突きで先手をとろうとしたのだ。
直線的な攻撃なぞ相手側からすれば懐に飛び込める格好の機会であり、見事に決められてしまった。
続いて、尚樹と北村三曹が対戦する。
初戦、第二試合と勝負が一瞬で決まり三戦目はどうなるのかという期待が場を盛り上げる。
「こうして徒手格闘とか久々だな」
「先に来いよ」
現役の隊員と、退職してから自動車屋をしていた者という事もあって先手は尚樹が取ることになった。
ブランクがあり危険であるため、お互いに自衛隊新格闘の神髄でもある投げ技や足払いからの絞め技といった複合技は封印である。
尚樹はすり足で距離を詰めると銃床打撃を行う。
訓練銃剣は弧を描き北村三曹の脇腹に飛び込もうとした。
「甘い!」
しっかりと前に踏み出し、荷重移動をしながらの正面打撃が訓練銃剣を弾き返し尚樹にたたらを踏ませる。
しかし、ここで決められては直枝との試合の焼き直しだ。
尚樹はすぐに踏ん張ると構えを取り直す。
左足を前にして構え、銃床打撃や刺突がいつでも放てる基本姿勢だ。
そこに北村三曹は大きく三歩踏み出しわざとらしく大振りの銃床打撃を放つ。
防御かそれとも反撃か。
かつての格闘検定の錬成で習ったことを思い出す。
近すぎると打撃は効力を減じ、そこから肘や膝蹴りを入れたり投げに移行するというふうに次に繋がる。
「ええかぁ、怖いと思った時こそ一歩前へ飛び込め」
格闘指導官き章を胸に付けたやたら髭の濃いオッサンの顔が浮かんだ。
尚樹は入り身、腰を落として左前方に滑り込み、右肘で脇下を持ち上げて攻撃の回転力と軸を傾けることによる体の追従性をもって相手自身が転倒するようにしたのだ。
背から着地した北村三曹は左手でマットを強く叩く後方受け身を取る。
そこに尚樹の訓練銃剣の銃床側が突き付けられた。
実戦であれば床尾板で上から殴りつけられる位置であり、横方向に転がって逃げるか足払いで姿勢を崩しての寝技に持ち込むかという選択肢がある。
しかしこれは初回の訓練であり足払いからの複合技は安全上禁じ手になっているため試合終了だ。
「やめ!」
饗庭士長のコールがかかる。
「尚やん、最後の崩しとか覚えてるもんやなあ」
「
「アイツかよ!」
「大貫二曹って誰ですか?」
尚樹と北村三曹の共通の知り合いに饗庭士長が尋ねる。
「俺らの格闘錬成やってた指導官で、鬼強いオッサンよ」
「口癖は『技を体に染みこませぇ』っていうやつで、人を空中に飛ばせるのが生きがいみたいな……いや、それだけやな」
北村三曹は数年たった今でさえ投げ技で空を舞う班長達の姿が浮かぶ。
大貫二曹はというと格闘指導官の資格を得て体育学校より舞い戻り、格闘訓練隊という徒手格闘の猛者ばかりが集まるチームに所属しており、来たる方面対抗徒手格闘競技会のために陸曹、陸士の指導に当たっていたのだ。
ただ、平成中期までの自衛隊の悪習でもある“戦技以外のことはさっぱり訓練隊陸曹”であり、北村三曹が陸教に行くちょっと前に退官したのであるが、実務の方では知識やら経験に乏しかったのである。
格闘の他に銃剣道、スキー、持続走などにおいても訓練隊は存在し、こうした隊員は“部隊の威信をかけている”ということから優遇され、
「あんなオッサンでも何かは残ったんやなぁ」
北村三曹は訓練バカ陸曹が記憶に残ることでようやく役に立ったんだなあなどと感慨深そうに言った。
だが尚樹は自分の生活を考えてツッコむ。
「でもシャバで徒手格闘の機会なんてほぼないぞ」
「それを言ったら銃剣道とか持続走も使えなくね?」
自衛隊の三戦技こと持続走、徒手格闘、銃剣道であるが民間において使える場所は限られている。
とくに徒手格闘やら銃剣道は一歩間違えたら死傷するおそれがあり、軽々しく喧嘩沙汰などで使えば逮捕、退職から何年経っていても元自衛官と言われ殺人未遂などで起訴されるのだ。
尚樹は日常の一部ともなっている持続走についてはやっててよかったんじゃないかと思った。
「持続走は朝ランニングに使えるんじゃないか」
「そうですよ!ランニングは健康に良いってテレビでやってました!」
「体力錬成嫌いな尚やんが走るかぁ?」
現職自衛官時代を知る北村三曹は疑いの眼で尚樹を見た。
そこに直枝が口を挟んだ。
「こいつら毎朝走ってるぜ、ひかりはともかく、尚樹なんて出勤前だってのに」
「マジでか」
「ひかりちゃんが来てからな、まあ一人じゃやらねえな」
「くっそ、可愛い子がいたらやるのかよ。リア充爆発しろォ」
「まあ、訓練陸曹に『やれ』って言われるよりはかわいい子に誘われるほうがやる気出るのはわかります!」
在隊中には女っ気のなかった尚樹の近況に思わず吼える。
そして饗庭士長はその気持ちわかるわかると同意するが、柵の中で誘ってくれる美少女などいない。
「なあ、先生に会わせたらどうなるんだろうなコイツ」
「ロスマン先生なら男の人でもきつそうだなあ」
二人の脳裏に指示棒を持ったロスマンが登場し、ひかりへの試練を告げた目で教場のボードを指す。
「“陸曹の心構え”を一週間のうちに覚えなさい、出来なかったら外禁です」
座学の次は体力錬成とばかりに屋外で訓練メニューを告げる。
「今からあの山の上まで駆け足、ペース配分と地形に注意して」
「この程度で終わり?その大きな体は何のためにあるのかしら」
そしてひいひい言いながら跳んだり走ったりする自衛官たちの姿が浮かぶ。
少なくともここに居る三曹と班付の士長よりは教官らしい。
遠く離れてしまったロスマン曹長に思いを馳せつつ組み手は続く。
最後に格闘検定2級の内容である“訓練銃剣を用いた格闘”を実施する。
格闘検定は技を繰り出す仕手とそれを受ける受手に分かれる。
検定は受手は一定の間隔で輪を作り
どの方向から、何をもって襲ってくるかわからないため対処能力が要求される。
例えば、真後ろから模擬の棍棒を持って突進され、それをいなして銃床打撃をした直後に斜め前方から模擬銃剣を振りかぶった者が突進してくるのである。
部隊着隊後に取得する2級程度だと昔ながらの時代劇のような殺陣を演じれば取得できるが、1級や特級になると雰囲気が変わるのである。
素手に対し武装した受け手が突っ込み、仕手に投げや足技などで転がされた揚げ句に奪われた模擬銃剣で頸動脈を切り刻まれたりとこれぞ殺し合いといった雰囲気が漂うのだ。
16時の休憩が終わると訓練支援に到着した大隊本部付の陸曹たちによって検定が始まった。
格闘指導官の資格を有する訓練陸曹の認定によって検定の合否が決まるのだ。
直枝、ひかりは新隊員後期教育と同様の3級から始まり、受け手である陸曹たちや順番待ちのふたり相手に大立ち回りを演じた。
実力があると分かり、続いて2級相当の力があると判断されたため2級の検定が実施された。
「うぉりゃあ!」
「負けませんよぉ!」
尚樹は2級止まりであったが、初体験の直枝は模擬銃剣で飛びかかって来た陸曹たちを殴り飛ばし、ひかりも積極的に攻めていく姿勢が見られ気勢が充実していることから格闘検定2級を取得したのである。
こうして自衛隊格闘の訓練は終了し、時刻は16時半を過ぎていた。
「いち、いち、いちにっ」
「そーれ!」
「小隊、止まれ!」
用具を片付けて体育館から10戦車の隊舎裏を抜け、3戦車の勤務隊舎に戻るとき突然停止した。
ひかり達だけでなく営庭の新隊員たちや、縦隊を組んで歩いていた隊員たちが急に止まり休めの姿勢を取る。
直枝とひかりはわけがわからずどうしたのか?という表情だ。
「国旗降下の時間が来たんだ、そろそろラッパが鳴るわ」
引率の北村三曹はそういうなり、腕時計を見た。
時刻は1655であり、スピーカーの電源が入ってブーッというノイズが流れる。
「国旗に正対する、半ば右向け、右!」
『本日のラッパ吹奏は本部管理中隊大野士長』
ラッパ手の紹介が入り、スピーカーからラッパの音色が響き渡る。
「気を付け!」
国旗が建物の陰で見えないため、姿勢を正す敬礼を行う直枝たち。
3戦勤務隊舎屋上の旗竿にひらめく日章旗が見える者達は挙手の敬礼や、銃を持つものは捧げ銃を行う。
“気を付け”、その後に君が代ラッパが吹奏され国旗は二名の旗衛隊員によって降下していく。
その間おおむね1分間、レーダーサイトなどの監視要員や飛行中、営外にて操縦中の者を除いては国旗の方角を見つめ、陸海空全自衛隊がまるで時を止めたかのように静止するのである。
たとえ熱風荒ぶ海外宿営地であっても、あるいは吹雪の舞う日であってもこの儀式は課業があるうちは朝の国旗掲揚と夕の国旗降下で必ず行われるのだ。
君が代ラッパの何処か哀愁を帯びたような音色にある者は無心になり、ある者は課業終了後について考え、またある者は降下していく日の丸に自分が何者であるかを考える。
直枝は扶桑海軍のものとは違うラッパに異国の“軍”にいることを強く感じた。
扶桑皇国の天皇陛下のために忠を尽くす軍人たる直枝は扶桑に似て非なる国日本と国民のための護憲の軍隊について考える。
予備自衛官になるにあたって信太山駐屯地で受けた精神教育において日本の歴史と自衛隊創隊の流れについて学んでいたのだ。
多くの惨禍を生んだ世界大戦に敗れて国土は焦土と化し、戦力の不保持をうたう平和憲法の下で生まれた自衛隊は軍隊であることを否定されてきた。
直枝は日本のことをあまり知らない。購入した文学作品や漫画といったサブカルチャーを通して近現代の日本を学んできた。
そして、ネウロイが出現した時に見た彼らはある作家の言うところの“魂の死んだ巨大な武器庫”とは全く違う印象を受けた。
服務の宣誓においても、“ことに臨めば、危険を顧みず身をもって国民の負託に応える”とある。
尽くす相手が国民であろうとも直接的、間接的侵略、災害といった国難に立ち向かい、未知の敵であるネウロイとの戦いでも眦を決して挑んでいった彼らはまさしく“軍人”であった。
軍人の本分は国体の護持ではなく、無辜の国民を守り抜くことであるのだ。
ひかりは左前にいる尚樹を横目で見る。
日本に来てはや数か月、こちらの豊かな生活に慣れて感覚もだいぶ日本人に近づいてきたように感じる。
姉とともに船出して息すら凍る厳冬の北欧戦線に着任、そして雲を抜けた先にあったのは故国に似た、されど生活水準の高い異世界だった。
尚樹と共に暮らすうちに、自分は扶桑皇国の国民であるというアイデンティティが薄れいつの間にかこちらで暮らしていこうという発想になっていたことに気づいたのだ。
異空間通路の先には両親がいて、姉がいて、仲間たちがいる。
会いたくて仕方がない時もある。しかし、尚樹との生活を捨ててまで戻ろうと考えると途端に胸が苦しくなるのだ。
なんだかんだと世話を焼いてくれ、何かが出来るようになれば褒めてくれる彼のことが好きなのではないかと実感したのは直枝がやって来てからで、直枝と話す尚樹を見るとどうしてか構ってほしくなるのだ。
とはいっても漫画のヒロインのようにやきもちを焼き引っ叩こうとは考えられず、気づけば何かしてあげたいと考えて、目で追っている。
自分はいつの間に尚樹がこんなにも好きになったのだろうかとふと考えた。
夕刻の君が代ラッパはそんな想いを包み込むかのように吹奏される。
国旗が降りきって君が代ラッパが終わると、一拍置いて“休め”のラッパ、そして課業終了ラッパが響き渡るのだ。
国旗降下が終わって食堂前で分かれの号令が掛かった。
そのまま飯風呂ルートという事で尚樹たちは夕食を取る。
夕飯は麻婆豆腐、春雨サラダ、冷凍ミカン、白米に中華風卵スープという献立であった。
格闘訓練で疲れた体に麻婆豆腐の辛さが食欲を誘い、辛さが口に広がったところを中華スープや白米で中和し、マヨネーズ和えにされた春雨をするりと飲みこむ。
「尚樹さん、この春雨って食べ物ってどこで売ってるんですか?」
「スーパーで売ってるよ、ヘルシーだとか言って女性に大人気なんだって」
「スーパーにですか?」
「うん、スパゲッティとか素麺みたいに乾燥してるやつが鍋コーナーに」
「じゃあ今度買いに行きましょう!」
この晩御飯によってひかりは春雨という食べ物を知り、今後武内家の食卓に登場するようになるのだった。
一方で直枝は冷凍ミカンを首筋に当てて涼感を得ていた。
薄く氷が張り、パリパリとなった状態で提供される冷凍ミカンはビタミン類を補給する目的で夏の部隊食に組み込まれているのであるが、こうした冷却効果も考慮されている。
「冷たくて中々いいじゃねえか……」
ミカンが解凍されて柔らかくなるごとに火照った身体が冷えていくような気がする。
食堂内はまだ外気に比べて冷えているが外に出れば暑いため、一部の隊員はポケットに入れて居室まで持ち帰ることもある。
それを知らないひかりは尚樹のトレーの上の冷凍ミカンに気づき、尋ねる。
「尚樹さん、おみかん食べないんですか?」
「俺は冷却材代わりに持って帰ろうかなって思ってたけど、ひかりちゃんにあげるよ」
「ええっ、尚樹さんが食べてください!」
「おめーら、いちゃつくのはいいけどよ……」
冷凍ミカンの押し付け合いというカップルじみた様子に数方向から視線が刺さる。
しかも目を引く美少女が二人も居るのだからなおさらだ。
直枝は視線に気づくと首からミカンを離して、隣のふたりに声を掛けた。
「いちゃついてなんかいません!」
「そうだぞ」
無自覚でこれかと直枝はため息をつきたくなった。
同時に“リア充かよ”というモテない陸曹士たちのぼやきを聞いてしまい疲れるものを感じた。
普段営内にいる彼らは出会いが無い。時々モテないからと街コンに参加したり、知り合いの知り合い路線で出会いを探したりする者もいるが上手くいくものはごく少数である。
ときどき、自衛官お見合いパーティーが開かれるが参加できるのは余裕のある陸曹以上が中心で、陸士は営内生活が忙しくそれどころではない。
もっとも陸曹でも、収入のある幹部自衛官やおしゃれなイメージのある航空自衛官、海上自衛官に負ける印象があり、参加女性も相応の年齢であるため若い女の子は少ない。
そんな彼らは決まってこう言うのである「シャバでもっと声かけてたらよかった」と。
俺に出会いがないのは陸士であるのが悪いという自己正当化をしているのだ。
営内陸曹士の恋愛事情はさておき、とにもかくにも直枝とひかりは目立つのだ。
このままでは「おい、私物庫まで来いよ、久々にキレちまったよ」という事態が起こりかねない。
周囲の目に気づいた尚樹たちはそそくさと隊員食堂を後にした。
その後は時間を空けての入浴、そして洗濯、清掃を終えて点呼の後、就寝となる。
こうして、訓練招集初日は終わったのだった。
今回も自衛隊用語が多くイメージしづらいと思うので、YouTubeなどで動画を見てもらえばよく分かるかと。
https://www.youtube.com/watch?v=-EmcuKzrOOc
自衛隊格闘については駐屯地祭の展示UPはあるものの、格闘検定の様子とかがわかるものはないのでイメージでお願いします