剣を握ったままでは おまえを抱き締められない
自由行動日の夜、リィンは何かを振り切るように勉強へと勤しんでいた。
取り組む内容は既に士官学院生としての範囲を超えたもの。基より溢れんばかりの向上心を抱いていた男が帝都での一件で、その向上心をフルに発揮できる能力と時間を手に入れた事で、その成長、否進化は爆発的に加速した。
まるで未来を予知するか如き直感は感覚的に正答を理解させ、一を聞いて十を知るを体現するが如き統合的共感覚はその正答への道筋を理論立てて構築させる。無論良いことばかりではない、秀でた能力というのは往々にして何がしかの欠落を生むのが世の常というもの、この突如目覚めたある種の異能も同様であった。知ることとは決して幸福な事ばかりではない故、目覚めた二つの異能はリィンに対して知りたくもないような事実も否応無しに突きつけてくる。
もしも目覚めたのが子供の頃であればおそらくリィンはこの力へと振り回されて、自分を見失っていたかもしれない。されどレクターとクレアといった幼少期より自分を導いてくれた義兄と義姉、そしてヴァンールの教えというしっかりとした基礎の元、トールズ士官学院での日々という経験が上乗せされたリィンにとっては目覚めた二つの異能は有用な武器足り得た。目覚めた二つの異能は成長の効率を飛躍的に向上させ、頑強になった肉体は研鑽を積むための時間を作る無茶にも耐え、鋼鉄の如き精神はそれらを十全に使いこなす。
そんな条件が重なったことでリィンはもはや芸術以外の科目のカリキュラムの範囲の内容は総て終えて、何時卒業しても何ら問題ない状態にあった。無論、サボりとか怠けるという言葉などリィンの辞書には存在しないため、教官の了承を得てより高度な内容へと踏み込んで勉強しているのだが。
そんな風にいつもどおりに、否、何時にもまして鬼気迫る様子で勉学に励んでいたリィンだったのだが、コンコンと控え目なノックが聞こえてきて
「リィン君、こんな夜遅くにごめんね。どうしても話したい事があるんだけど、少しだけ時間良いかな?」
おずおずとした様子で告げられた、昼間自分が泣かせてしまった少女のその言葉にリィンは面食らいながらも少しだけ歩みを止めて、彼女を己が部屋に招き入れるのであった……
訪ねてきたトワはもう夜中だというのにやけにめかしこんでいるように思えた。派手派手しさはないが、うっすらと化粧もしているようだ。昼間の一件もあってどこか気まずさもあり、あまりまじまじと見るのも失礼かと思い、リィンがどうしたものかと思っているとトワは意を決したように真剣なされど不安さを抱いたような様子で
「リィン君あのね、今日こうして訪れたのはリィン君に伝えたい事があったからなの」
「伝えたいこと?」
やはり昼間の一件だろうか。彼女が自分の身を案じてくれているのはよく解っている、だがそれでも自分はもう止まるつもりはない。平和だけを受け継げる時代は終わろうとしている。訪れようとしている“激動の時代”それを前にして、祖国が焼かれる等という事態はなんとしても避けねばならない。例えそれが他国に負債を押し付けるという形であっても、自らの愛する祖国が、正義が、倫理が灼熱に溶け落ちる地獄の如き光景などリィンは看過できない。無論自分独りの力ではたかがしれているだろう、それでもだからといってこれ程に情勢が逼迫していながらモラトリアムを延長する気にはなれなかった。
だからこそリィンは常とは違い、大切な少女を前にしても鋼鉄の意志を纏って相対する。ーーーそうしなければ、彼女の言葉に自分はついつい流されてしまうとどこかトワ・ハーシェル相手だと弱い自分を自覚しているが故に。
「うん。私はね、リィン君の事が好き」
「ーーーーーーーーーーーーーーーー」
ついに言ってしまった。トワ・ハーシェルは自分の胸が馬鹿みたいにドキドキと高鳴っている事を実感していた。今ならばまだ戻れるだろう、慌てた様子で「と、友達として!って意味だよ」等と言って誤魔化せば良いのだ。それで、昼間の一件を謝って、物分りの良い友人を演じる、それできっと元通りだ。
でも、
トワ・ハーシェルは常になく唖然としたリィンのその顔を見つめながら、精一杯思いを伝えていく。
「友達として……じゃないよ。一人の女の子として、トワ・ハーシェルは貴方の事が好きです」
何時好きになったのか、それは自分でもわからない。
気がつけば、何時しかその凛々しい顔を見ると心がキュンとなって、厳しいように見えて他人のために一生懸命で優しいところに惹かれて、一人で何もかも背負い込んでしまうところを見てそれを支えたいと思うようになっていた。
このままどこか彼が遠くに行ってしまうのではないかと想像しただけで不安で胸が張り裂ける思いを感じた。
だから、もう誤魔化すのはやめよう、自分は彼の事が好きなのだ。この思いを恋や愛と呼ばないのだとしたら、自分はもう生涯恋等出来る気がしない。ーーーだってこんなにも、誰かを愛おしく思った事など自分にとって初めての事だったのだから。
「リィン君にとっての私はどう?ただの友達でしかない?」
潤んだ瞳で告げられた言葉に、リィンは慮外の事態故に停止させていたその頭を再起動させる。
自分が彼女をどう思っているか、それを問われればその答えはきっとーーー
「俺も、君の事が好きだよ。君に、トワ・ハーシェルという少女に心を惹かれている」
シャーリィ・オルランドとの死闘との最中、致命打を負った自分を再び立ち上がらせたのは目の前の少女の笑顔だった。もしも、此処で自分が死ねば彼女の命が危ない、そして自分が死ねばきっと彼女は悲しむだろうと、そう思ったら此処で死んでたまるかと思って、それが立ち上がる力になった。
何時からかはわからない、だけどきっと自分は彼女に心惹かれているのだろうとそうリィンは己が思いを自覚する。
告げられた言葉にトワは不安さを抱えていたその表情を見る見る明るくさせて輝く笑顔を浮かべる。
それはそうだろう、片思いではなく両思いだったのだと明らかになったのだから。
そう、彼女が恋したのが
「だけど、俺は軍人になる。その思いに変わりはない。君を心配させてしまう事は申し訳なく思う、だけどそれでも俺はコレに関しては譲るつもりはない」
例え家族や友人、恋人からの言葉だろうと自分は止まるつもりはないとリィンは改めて告げる。
大切な少女を泣かせてまで見も知らぬエレボニアの民などという不特定多数に尽くす道で本当に良いのか?と親友は問いかけてきた。
あるいは軍人になどならずに、ただ少女と穏やかに暮らしていくという道もあるのかもしれない。イリーナ会長に誘われたように、何も軍人になる以外の道がないわけではないのだから。市井の民として穏やかに愛する女性と家庭を育み、生涯を終える。そんな未来も決して悪くはないだろうと思う。
だけど、自分はそれでは満足出来ないのだ。目の前の少女をこそ護りたいと確かに思う。しかし、同時に自分はエレボニアという国とそこに住まう民もまた護りたいものだ。
祖国を護るという事はすなわち、自分と同じような思いを抱く他国の者を殺すことだと理解していながらーーー
自分が特に護りたいと願う、大切な人々は自分に危険な目に遭ってほしくないと願っている事を知りながらーーー
理不尽な悲劇によって母を奪われた自分が今度は誰かにその理不尽を押し付ける側に回るのだとわかりながらーーー
それでも、なお自分の夢と理想は変わらないのだ。
だからこそ、リィンは目の前の大切な少女に思いを告げて来なかった。
間違いなく鈍い方ではあるがリィンとて、流石に周囲が思っている程に鈍感ではなかった。
目の前の少女に自分が心惹かれている事は自覚していた。
しかし、彼には自分が彼女を幸せに出来るか自信がなかった。
死ぬつもりは毛頭ない、さりとて軍人となればその命を祖国に捧げる覚悟を持たなければならない。
軍人とは、誰かが命を賭けてやらねばならぬ時にその命を惜しんではいけない存在なのだから。
「そして俺が軍人になれば戦うのはきっと共和国や魔獣だけじゃない。おそらく、貴族派ともやり合うことになるはずだ。なぜなら、俺はギリアス・オズボーンの息子なのだから。
ーーーそんな俺と一緒に居たらきっと君を、巻き込んでしまう事になる」
それだけではない、リィンの脳裏に過るのはかつて大貴族によって理不尽に奪われた大切な母の存在。
幼いリィンにとって父ギリアスは自慢の存在だった。母さんにこそ頭が上がらない物の強くて優しい父は無敵の存在なのだと思っていた。
実際、幼い頃の自分では総てを理解していたわけではなかったが、父ギリアスは息子の贔屓目抜きに傑物と称されるに足る人物であった。
ヴァンダイク元帥の腹心との呼声も高く、実務能力、指揮能力、人望総てにおいて卓越しており、直接的な戦闘力に関しても達人の域にまで至っていた凡そ非の打ちどころのない存在だったのだ。
だが、そんな父でさえも母を護りきる事が出来なかったのだ。
自分が正式に軍人となれば、まず間違いなく貴族派から目をつけられることになるだろう。何故ならば自分はギリアス・オズボーン唯一の実子なのだから。
それらに対してリィンはひるむところは全く無い、むしろ望むところだ。自分を潰しにかかるというのならそれらを相手取り見事勝利して見せようと、そう思っている。
しかし、それに大切な人が巻き込まれるような事になれば、話は別だ。
目の前の優しい大切な少女と彼女の家族、自分が護りたいと願う平和に幸せに暮らすべき人達までもが革新派と貴族派の抗争に巻き込まれる等という未来はリィンにとっては到底看過出来るものではなかった。
だからこそ、リィン・オズボーンは少女に告げるのだ、君を幸せに出来るかどうか俺は自信がない。自分の身勝手な願いとその過程で発生する戦いに君を巻き込みたくないのだと。
だけど、そんな男の強がりに少女は切な気にされどそれを上回る慈愛に満ちた笑みを浮かべて
「うん、わかっていたよ、リィン君はきっとそう言うだろうなって。
でもね、私の思いは変わらないよ。私はリィン君の事が好き。ーーーそのせいで大貴族の人達に憎まれる事になったとしても、私は貴方の傍に居たい」
それでも自分は貴方の事が好きなのだとトワは己がワガママをリィンに伝える。
それは考えなしの若さゆえの暴走なのかもしれない。いずれ自分が如何に考えなしだったのかを呪って後悔する日が来る可能性とてあるのかもしれない。
だけど、それはきっとこの思いを伝えなかったところで同じだ。
だからこそ、トワは躊躇わない。親友の後押しを受けてその思いを愛しい少年へと伝えるのだ。
「トワ……」
そしてそんな愛しい少女の思いを伝えられてリィンは揺らぐ。
何だかんだと理由をつけて自分は逃げようとしているだけではないのか、と。
男ならば例え何が相手だろうと君を必ずや護り抜いて見せるとそう誓うべきなのではないかと。
「リィン君の事が好きだから、本当は危ない目になんて遭ってほしくない。
だけど、これは私のワガママでしか無いから、リィン君をこれだけじゃ止める事も出来ない事も解っているつもり。
ーーーだから、約束して」
「約束?」
「うん、絶対に死んだりなんてしない、自分は必ず生きて帰ってくるって。そう、約束して。
ーーーリィン君は嘘つきなんかじゃないから、そうすればきっと必ず約束を護ってくれるって私は信じているから」
涙ぐみながら、それでも必死に紡がれた愛しい少女の健気なお願い、そんなものを受けた時に男が取れる選択等決まっている。それはーーー
「ああ、約束する。俺は必ず生きて君の下へと帰って来る。どんな状況になっても絶対に生きる事を諦めない。
そして、例え何が相手だろうと君の事を守り抜いてみせる。絶対に、絶対にだ」
抱き寄せながら強く誓う。愛しい相手と己自身の双方へと。
そして愛しい男の温もりに包まれながら少女もまた呟く
「うん……遠くへ行っても良い。だけど、必ず生きて、帰ってきてね。約束、だからね。嘘ついたら、嫌だよ」
そしてそのまま二人は互いの温もりを確かめ合うのであった。
男は絶対に此処に帰ってくるのだと、女は自分が彼の帰る場所になるのだと、それぞれの胸の中に誓って……
不幸を知ることは
怖ろしくはない
怖ろしいのは
過ぎ去った幸福が
戻らぬと知ること