終焉のアタラクシア ―キミを救うために来たんだよ―    作:灰都とおり

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君の望んだ世界だね ②

 陳褘(チェン・フイ)がまだ少年のあどけなさを残した顔を上げると、そこに広大無辺の大海が広がっていた。

 天の日輪は黄昏の光を静かに放ち、渺茫(びょうぼう)たる光景を薄闇が優しく彩っている。

 

 ここはどこだ?

 皇帝が楊州へ引き込もってから都の不穏な気配はいや増すばかりで、このような静けさが訪れる余地など城市の外縁にこびりつく陋巷(ろうこう)にすらあり得ない。

 いや、そもそも大海を臨む土地が都であるはずがない。俺は何かを勘違いしている……。

 

 茫然と寄る辺ない海を眺めていると、遠く霧のけぶる彼方に忽然(こつぜん)とそれが浮かんだ。

 この世のものとも思えない霊妙(れいみょう)なる山の形貌。

 

 あの山を……俺は知っている。

 世界を囲繞(いにょう)する九山八海(くせんはっかい)――その海面から八万四千由旬(ゆじゅん)もの高みに(そび)え、諸天の住まう世界へと触れる須弥山(メール)

 あまりにも遠い――しかし確かに在る、理想郷。

 

 永劫のように()いだ足下(そっか)へ目をやると、薄紅(うすべに)色の(つぼみ)水面(みなも)に顔を覗かせ、ぽんと音を立てて美しい(はす)の花を開かせた。

 知らずその蓮華に足を乗せる。

 海面を先導するように蓮は次々と現れ、ぽん、ぽんと澄んだ音を響かせる。

 暮れゆく世界を、その(はかな)げな色が灯火(ともしび)となって照らしていた。

 蓮華から蓮華へ足を運びながら、身体の重さを感じることなく、陳褘(チェン・フイ)はやがて翔ぶように海面を駆ける。

 

 天には銀色の月があった。

 その(かそけ)き光が、(いただき)見果てぬ世界山の偉容を照らす。

 海から、登ることなど思いもつかぬ高みをただ見上げる。

 その陳褘(チェン・フイ)の身体を風が支え、優しく抱えるように山頂へと運ぶ。

 そこに、それがあった。

 人の身で辿り着くことの叶わぬ静謐(せいひつ)の境地……。

 

 目覚めたとき、帰郷を果たさぬままに皇帝が弑逆(しいぎゃく)されたとの噂が都を駆け巡っていた。

 政変が起こる。

 いや、それはすでに起こっていたが、いま史書に記される歴史として(あらわ)れた。

 やがて群雄を滅ぼし、新しい帝国が生まれる。東西に(またが)る大陸の東半分を三百年に渡って支配する世界帝国が。

 しかし陳褘(チェン・フイ)はその時代の変転を(かえり)みない。

 彼の視線は遥かな西域、天山山脈の向こう側を捉えていたからだ。その先にある、人の世の苦しみから超越した境地を。

 天竺――だがそこへ至る長い旅路を踏み出すにはさらに11年の時を待たねばならない。幼い頃に洛陽で玄奘の戒名を与えられた彼は、そのとき17歳だった。

 

 

 

 

 

 それは誰の物語だ?

 

 ほんの刹那(せつな)に折り重なる無数の物語が脳裡をよぎる。

 両腕の無い法師に仕えて神の像を彫る少女がいた。

 流浪の皇子を(まも)傀儡子(くぐつ)の姉妹がいた。

 それは向こう側を目指した者達の物語――。

 そのどこかに俺自身の声が響いていた。

 

――助けて……。ここから……。

 

 世界に殺されそうな貧弱な魂の上げる声――。

 

弥鳥(みとり)さん……」

 

 自分の言葉で我に返った。

 暗く静かな空間が果てしなく広がっていた。

 星々の銀色の光が世界を照らし、透き通った大地がその光を映して優しく輝いていた。

 ここはどこだ?

 いや、この言い様のない懐かしさ。俺はここを知っている。

 光も音も幽かな世界……なのに満たされている。視覚や聴覚を超えて世界が知覚できる。

 

「弥鳥……さん……?」

 

 現実感を(つか)もうと、もう一度声を出してみた。声は無限の平面世界へ広がっていった。

 その声を上げるまでどれほど(たたず)んでいたのか。時間の感覚がない。

 

 誰かいないのか?

 次にそう思う。

 不安はない。きっとここでは誰も傷付かないと直観している。

 

 こん。こおん。

 

 歩くと金属楽器を叩いたような耳当たりの良い音が小さく響く。

 どれほど歩いていたのか。5分……あるいは5年か。

 やがて、ユークリッド幾何学的な単調な世界と思えたそこに、疎密を感じる。

 ここには中心があり、外縁がある。

 中心へ向かうほど世界の密度が濃くなる。

 さっきまでただの平面に思えたのに、そこに無数の構造体を見つける。

 まるで巨大な宮殿……いや都市というべきだ。

 無人のまま静かに星を照り返すその都市の中心に、巨大な塔があった。地の底から伸びて天を貫く圧倒的な存在。

 その頂上を見上げようとして目眩(めまい)に襲われる。

 果てがないのか?

 

「大海より(そび)えること八万四千由旬(ゆじゅん)の高みにその山の(いただき)ありき。頂より昇ること十二万由旬(ゆじゅん)の涯てに七宝(しっぽう)宮殿(くでん)ありき、無量の諸天ここに住す」

 

 透き通るような声だ。

 細胞の隅々に、波紋のように心地よい振動が広がる。

 誰だろう? 懐かしい声のようにも聞こえる。

 

「あなたの見るそれこそが世界軸(アクシス・ムンディ)。拡散する世界をつなぎとめる象徴……」

「誰……ですか? どこに……」

「あたしの声が聞こえるのなら、あたしの姿も見えるはず」

 

 そのとおりだった。

 いつの間にその都市へ……人の身にはあまりにも巨大な建築群の中へ入り込んだんだろう。

 無数の立体が複雑に積み上げられている。永遠のような時間、いくつの回廊を越え、部屋と呼ぶには広大過ぎる空間を抜けたのか。

 辿り着いたその広間は、一辺が見通せないほどの距離を持ち、天蓋は闇夜に消えるほどの高みにあった。

 そこに、微睡(まどろ)みながら中空に浮かぶ、その姿があった。

 透明かと思えるほど薄い衣を幾重にも(まと)い、目を閉じたその顔には微笑があった。

 

「あの……お邪魔します」

「ようこそ世界山(メール)へ……可愛いお友達」

 

 その姿を見上げながら、俺はほっとした。慈愛に満ちた声だ。

 

「ここが……世界山(メール)なんですか」

「そう……あなたがかつていた、そしていずれ還り(きた)る静謐の場所」

「静謐の……」

 

 そうだ、ここは静かで……こんなにも心が落ち着くことなんて絶えてなかった。

 

「ええ……。東の哲学が涅槃寂静(ニルヴァーナ)と呼び……西の哲学が平静なる感覚(アタラクシア)と呼んで追い求めた境地に最も近い場所」

「……あなたは?」

「いま、あなたの知覚体系に合わせて顕現し理解されるあたしの姿、あたしの言葉は、友愛……慈しみ……寄り添う心(マイトリー)。人の創った無数の価値観……国、信仰、芸術、そして家族……そのあらゆる束縛を超え、ただひとりあなたに寄り添うものとして、東西文明の狭間であたしは生まれたの。あたしの名は、弥勒(マイトレーヤ)

 

 その言葉と共に膨大なイメージが流れ込んできた。

 無数の声、無数の思考が、途方もない時間の重なりの中で木霊(こだま)していた。

 しかしそのすべては、この宮殿の中では瞬きの間にも満たず、羽虫が床に降り立つ音よりも静かだった。

 

――ボクはね、とても静かなところにいたんだ。あんまり静かだから、感情が揺れることもなく、時間すら流れなかった。

 

 弥鳥さん、君だったのか。

 

「そう……あたしはここで、外の声に耳を澄ましている。そして何度もここから出ていくの……その人に知覚される姿形を持って」

「どのくらい……そうしてるんですか」

 

 その時空の広がりに意識がついていかない。弥鳥さん、これが君のいた世界なんだね。

 

「あたしの微睡みは一瞬かも知れないし、世界が生まれて消えるまでより長いかも知れないわ。それを数えるのは無意味なの……あなた達の知覚する時間は幻なのだから。それでも……例えばあたしの来訪を待ちわびる人々は、その時を表現しているわ。つまり……56億7千万年と」

 

 数え切れない世界の折り重なる時間が見通せる。

 弥鳥さんがここにいながら俺の前に現れたように、俺がここにいるいまも、別の俺はあの世界で暮らしているんだ。時間はひとつじゃない。

 そのとき、僅かな不協音に気付いた。ここが世界の中心に近いとすると、それは遥かな外縁から聞こえた。

 

「彼らの声が聞こえるのね。それはあなたの(きた)る道。思い出せるなら、そこへ行けるでしょう……」

 

 その声には、世界の涯てへ手を伸ばす鮮烈な感情があった。

 見果てぬ先へと歩み続ける、無数の探求者達がいた。

 その声に意識を傾けたとき、凄まじい勢いで吹き飛ばされていた。

 

「あなたの前に道があるわ。故郷へと帰還するその道は、常にあなたの前方にあるの……」

 

 その透き通った声が脳裡に残響する中で、身体は世界の“外縁”へ飛んでいた。

 

 

 

 

 

 星々の輝きが透き通った平面に優しく反射する世界山(メール)の世界――そこは弥鳥さんの言ったとおり、静かな、苦しみのない場所だ。

 そこに孤独はなかった。

 彼らの声がさざ波のように木霊していたから。

 

 外縁へ向かうほどに、その声はクリアになった。

 声に耳を澄ますと、物語が現れた。

 どれほどその静謐の空間に俺はいただろう……まさしく世界が起こり、滅びるほどの年月だったかも知れない。

 

 その中で数え切れない物語の断片に身を浸した。

 理想郷へと至る道標(みちしるべ)を求めて、仏僧と3人の弟子が怪異溢れる大陸の交易路を旅していた。

 絢爛たる文化の結晶と教典を求めて、4隻から編成された使節船団が海を渡り、大陸を目指していた。

 もうひとつの世界を希求する物語……。

 あるときその万華鏡の中に、俺自身の姿があった。

 

 

 

 

 

久凪(くなぎ)くん……ステラマリスが動いてるよ」

 

 サンルーフから身を乗り出して星空を眺めていた弥鳥さんが、シートへ身体を落とした。

 

「分かってる。ついに来たんやね」

 

 星の光を反射して広がる茫漠とした世界に車を走らせながら、俺は助手席の弥鳥さんを眺める。 

 何だろう、懐かしさがこみ上げる。

 いや、いまはそれどころじゃない。それ(・・)がとうとう姿を見せるんだ。

 静かに広がる世界山(メール)の外縁を放浪した俺と弥鳥さんの旅が、ひとつの到達点を迎える。

 

 やがて暗い視界の彼方に赤い火が見える。

 俺達は車を置き、闇の中で妖しく映える炎へと歩いていく。

 ひとつの都市を焼き、世界山(メール)の構造体を分解する災厄がそこに生まれている。

 だけどそれも、これからここに顕現するものに比べればそよ風だ。

 

「やあやあ……世界の終わりへようこそ」

 

 外縁が世界震と重なる境界を前に、姉妹が立っていた。

 闇を照らす炎を背景に、白衣(しらぎぬ)緋袴(ひばかま)という巫女装束の少女が目を閉じて微笑んでいる。その隣に、立烏帽子(たてえぼし)を冠り刀を差した男装の少女がきっとこちらを睨んでいる。

 

氷鏡(ひかがみ)。キミの視る未来もそうなの?」

 

 周囲で崩れゆく構造体に目をやりながら、弥鳥さんが尋ねる。

 氷鏡は白衣を(ひるがえ)して右手をひと振りすると、(まぶた)を開き、青く光る盲目の瞳を向ける。

 

「さあてねえ……だけど我々と人類史の未来との間に立ち塞がる4000万年の暗黒、その先を見透せるものなら見てみたいものだね」

「じゃあ、試してみよう」

 

 俺のその言葉が引き金を引く。

 境界の向こう、空の一画に闇夜より濃い暗黒が凝り固まり、それ(・・)がこちら側へ滲み出る。

 磨き上げられた水晶のような世界山(メール)が、それまで反射していた星々の光を失っていく。

 

「あれが……暗霊斎団(あんりょうさいだん)の先触れ……」

 

 燃え上がる都市を前に、上空から侵入するそれ(・・)を待ち構える者達がそこにいた。

 (みお)朱鳥(あけみとり)耿介(こうすけ)、そして氷鏡と(かささぎ)……。

 

勒郎(ろくろう)、下だ!」

 

 (みお)の叫びで跳び退いた足元が、流砂に呑まれるように沈んでいく。

 辺りの構造体が見えない手で握り潰されるようにひしゃげ、引きずり込まれていく。瞬く間にそれは都市の一画に穿(うが)たれた巨大なクレーターと化し、その底から得たいの知れない何かが這い出そうとしていた。

 天を覆う巨大な暗黒が咆哮していた。可聴帯域より低いその絶叫が世界を震動させる――。

 

 

 

 

 

 思い出した。夢から醒めるように。

 

 

 

 

 

 あのとき……14歳の冒険の中で、俺は確かにあの暗黒を垣間見た。

 この物語を紡ぐ俺が、いま身を置いている重苦しい戦い――無数の人格が永遠に失われ続けるあの暗黒を。

 身動きのとれない暗がりの中で、身体が砕けるほどの恐怖に苛まれながら、俺は生き延びている。

 

 なぜ俺は、遥かな過去を物語ったんだろう。

 あのとき……14歳の俺は静謐の世界を望み、辿り着いた。そしてその先に、この暗黒がある。

 

 いや……違う。

 時間は幻だ。

 だからあれは遥かな過去の記憶だが、いま目の前で進む物語でもある。

 まだだ。

 俺はまだこの物語から目を逸らしちゃいけない。

 その瞬間……為すべきことができるように。

 

 

 

 

 

「ここが、君の望んだ世界だね」

 

 青と白の制服姿の少女が立っていた。左腕には生徒会執行局と記された腕章。

 (おおとり)殊子(ことこ)――彼女はそう呼ばれていた。

 そう、ジャガナートから辿り着いた世界山(メール)で、幾星霜に渡る物語の反響に身を浸していたあのとき、俺は彼女に出会った。

 

「鳳……さん?」

「うん。よろしく、久凪勒郎くん。あたしは君の物語を……無数の島世界を巻き込むジャガナートの物語の帰結を確かめるために来たの」

「え……? 無数の島世界を巻き込むって」

 

 好奇心に満ちた殊子の視線が外の世界を眺めるように星空を仰ぐと、長いストレートの黒髪が揺れた。

 

「冥界のゲートからやってくる暗黒を(にえ)にして、ジャガナートの力は凄い勢いで広がってるよ。どれだけの島世界を巻き込むんだか……恒真の守護者(アガスティア)は大変そうだね」

「それ……俺のせいなんですか」

「誰のせいでもないんじゃない? そこに興味はないの。あたしはただ、漂流学園ポータラカの意志……世界再魔術化計画のために物語粒子を回収しに来たの。それはたぶん君の物語だから」

 

 殊子が何を言ってるのかほとんど分からない。

 “向こう側”を求める心、それが物語の萌芽だと彼女が説明する。

 その心が世界に座標系を定める。物語の座標系に従って方向性(ベクトル)が生じる。ベクトルに沿って物語粒子が流れる。

 それが彼女の求めるもの。

 

「久凪勒郎くん……君の物語はジャガナートが断ち切った。それでもいいんだけどね……この静かな世界にとうとう君は辿り着けたんだもの。だけどもし願うなら、あの物語に立ち戻ることができる。あたしの虚海船……世界を魔術化する杖(メルクリウス)に乗ればね」

 

 薄闇の世界で、殊子の瞳がエメラルドグリーンに光っていた。

 何者なんだ。世界を渡り歩く奇術師だろうか。

 だけど目の前に選択肢があることだけは、俺は理解している。

 立ち戻る……あの世界へ?

 

「俺は……」

 

 殊子がじっと見つめている。

 その瞳を俺は知っていた。それは別世界につながる扉だ。

 俺は何を求めたんだろう。

 苦しみのない世界?

 

「いや……俺は向こうへ行きたかった」

 

――故郷へと帰還するその道は、常にあなたの前方にあるの……。

 

「そうや、戻るんとちゃう……この先へ進むために還るんや……」

 

 ()いだ世界に風が吹いた気がした。

 

「これが物語なんやったら、その先を見たいから。鳳さん……還りたい。あの世界へ」

 

 俺の言葉を聞いて、殊子がすっと右手を天へ伸ばす。

 舞台劇の幕開けを示すように。

 

「その願いを叶えるために、漂流学園は現れるの」

 

 幾何学的な模様が中空に浮き上がっていた。何か巨大な構造体がそこから姿を現そうとしていた。

 

「それじゃ連れて行くよ。物語の終焉へ」

 

 

 




静謐の世界をようやく描けました。この世界を描くためにこの話を書き始めたようなものです。次回が最終回です(毎回と同様2回に分けて投稿しますが)。
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