終焉のアタラクシア ―キミを救うために来たんだよ―    作:灰都とおり

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キミを救うために来たんだよ ②

 白を基調にした、見慣れない制服。

 華奢(きゃしゃ)な身体から、細く伸びた手足。

 どこか常人離れしたスタイルにどきっとする。キャットウォークを歩くモデルというより、グランドを走り回る少年のような手足。美術の教科書で天国の梯子(はしご)を降る天使の絵を見たが、あの無垢で本能的な力だ。性別を超越した透明な存在感。

 屋上を吹く風が、後ろで髪を結い上げた彼女の赤いリボンを細く棚引(たなび)かせた。

 

――飛べるよ。

 

 そう聞こえたのは幻聴だったのか。不安になって、俺はその子の唇を見つめる。

 

「見つけた」

 

 そこから透き通った声がこぼれて、俺の頭をとんと打った。

 その唇が端を少しとがらせ、微かな笑みをつくる。やや吊り上がった大きな瞳が俺を見下ろしている。

 誰だ? いつからいたんだ? 痺れた頭の中で声にならない疑問が反響する。

 

「……だっ……誰?」

 

 口の中がカラカラだ。

 手の平にざりっとしたコンクリートの固さが伝わって、俺は自分が腰を抜かして床に手を突いていることに気付いた。

 

「ようやく会えた。久凪(くなぎ)勒郎(ろくろう)くん」

「ああ俺……え知ってんの?」

「だから来たんだよ」

 

 ふっと少女の目が眠そうに細められ、それが微笑みだと分かった。

 何が起きてるんだ。少女は俺の名を言った。学校の子か。でも会ったこともない――

 

 

 

 

 

――転校生!

 

 思い出した。

 ひと月ほど前、夏休みの登校日。

 俺の数少ない友人、あやのと同じく5歳から付き合いのある深石彼方(かなた)に引っ張られるように出ていったあの日。

 

 休みで浮わついた生徒達がざわつく教室で、俺は窓越しにぼんやり廊下を眺めていた。

 その視界に、廊下を歩く女子生徒が映った。

 見慣れない制服。凛とした空気。少し前を歩く教員が、お嬢様をお連れする執事に見えた。

 

「転校生が来るんやってな。2学期から」

 

 帰り道で彼方が言った。

 あいつはいつものようにすらりと背筋を伸ばし、やけに涼しげに笑っていた。

 俺を裏返したように、社交性があり、規律は守り、先生からもクラスメートからも一目置かれる彼方。背が高く、顔も頭もいいが、落ち着き過ぎた雰囲気が近寄りがたくさせるからか、他人とは距離があった。

 

「……女子らしいけど、なんか可愛いとか噂になってんで」

 

 そのあいつが、そんなことをわざわざ話題にするのは少し妙だったが、2年生になってサボり癖がひどくなった俺を焚き付けようとでもしたんだろう。

 そのとき俺は、その子を見たかも知れない、とは言わなかった。

 女子生徒を見たあのとき、クラス担任が冗談めかした説教をぶっていて、廊下を見ていた生徒は少なかったはずだ。俺だけが彼女を見たのかも知れない。その邂逅(かいこう)を言葉にするのがなぜか惜しかった。

 

 

 

 

 

「えと……もしか、うちに転校した……」

 

 思い出しながら、俺はもごもご言葉を吐き出していた。普段女子とまともに関わらないから話し方が分からないのが痛い……いや、いまはそんなことどうだっていい。

 その子は、そうだよと言うように微笑み続ける。

 そう言えば廊下で見たときは髪を下ろしていたから印象が違う気がする。

 

「ボクは、明弥鳥(あけみとり)空子(くうこ)

「あけ……あけみ……?」

「ミトリでいいよ」

 

 彼女はそう言って、這いつくばるような格好で固まった俺へ近付いてくる。

 

「ミトリさん……。ここで……何してんの?」

 

 転校生が入ったのは別のクラスだった。その子が登校拒否がちな男子を探すために早朝から廃ビルの屋上へ来る理由なんてないはずだ。

 

「久凪くん。ボクはキミを救うために来たんだよ」

 

 当然のことのようにそう言って、彼女が手を差し伸べる。

 呆然とその手を(つか)みながら、女子の手を握るのは小学生のフォークダンス以来かなとぼんやり考えていた。

 その柔らかな感触にびっくりした俺は反射的に手を離し、またしても体勢を崩してしまう。くそ、物語がこんな風に始まると知ってたら少しは心構えだってできたのに。

 

「うわ」

 

 倒れかけた身体にとん、という衝撃があって頭が真っ白になる。

 目の前に彼女がいて、互いの胸がぶつかった。背中を彼女の両腕が優しく支えている。左耳を彼女の髪がふわりと撫で、背筋を電流が走り抜けた。

 

「あはは、危ない」

 

 耳元で彼女の声が響く。

 俺は痺れた頭で、女子に抱き締められるのは掛け値なしに人生初体験だと考えていた。こんな場面(シーン)、いくら心構えしたって中学生男子にうまくこなせるもんか。

 

「それじゃこのまま移ってみよう!」

 

 そう言うと彼女は俺から身を(ひるがえ)し、屋上の端の一段高くなった塀に飛び乗った。

 

「ちょっ……何してんの!?」

 

 落ちることを怖がることもなく屋上の端に立ち、彼女が俺を見下ろしている。出たばかりの朝日が後光のように少女の姿を照らし、下からの風を受けた彼女の髪と赤いリボンがふわりと舞った。

 触れれば突き落としてしまいそうな(はかな)さ。

 俺はおろおろその姿を見つめながら、頭の中で何かが引き剥がされるのを感じていた。危ない……いや違う。いま起きているのは何か……そういう世界の常識に爪を立てる出来事だ。

 

「久凪くん!」

 

 凛とした声が屋上に響く。

 

「キミはこう思ってる。なぜこの世界は息苦しいのか。いつまで耐えれば解放されるのか」

 

 彼女は変わらず微笑を浮かべていた。

 

「……どうすれば“向こう側”へ行けるのかってね。でもこうも考える。そんなことは誰もが思う悩みだ。皆折り合いをつけて生きている。現実に向き合えない、弱く、怠惰で、甘えた人間だけが立ち止まる。立ち止まれるだけの余裕があるという恵まれた環境にいることからも目を逸らして。自分から行動を起こそうともしないで。ただ生ぬるい悩みをつつきながら、閉じた場所に引き込もって……」

 

 彼女が右手の人差し指で俺の胸を指した。

 

「その考え……キミは心の底からその通りだと思う? その考えの通りに生きた人生を終えるとき、心から納得できる? そう思えるならそれでいい。そうでないなら」

 

 右手が優しく開かれる。救いの手のように。

 

「……キミを“向こう側”へ連れてってあげる。キミがあるがままでいられる世界へ。苦しみのない静謐(せいひつ)の世界へ。それはあるんだよ。もしその意思があるなら……」

 

 俺が見つめる中、彼女の身体の重心が少しずつ後ろに傾いていく。

 

「……ただこの手を取ればいいんだよ」

 

 彼女が優しく笑う。

 その笑み、その言葉のほとんどは理解できなかったが、自分が試されていることだけは分かった。

 ……いや、そうじゃない。俺はすべて分かっていたんだ。

 ここから彼女に手が届くまで約2歩。ほんの一瞬だ。もし彼女がそのまま立っているなら。張り詰めた空気に、心臓はどっと鼓動を強める。6年前の神社の儀式が脳裏をかすめる。

 

「さあ、一緒に行こう」

 

 彼女の身体がとんと後ろへ跳ぶ。何もない虚空で一瞬、その重さを失ったように見えた。

 俺はただ身体だけが動いていた。

 2歩の距離を詰め、塀から身を乗り出して右手を伸ばし……その瞬間理解する。その先へ飛び出さなければ手は届かない。

 

――本気で思てたら行けるやろ。

 

 足は、屋上の縁を蹴っていた。

 足場を失い、重力に捕えられるのを感じて全身の毛が逆立つ。

 視界が(かす)れ……

 

 ……右手が何かに触れた。

 

「大丈夫だよ」

 

 その声を耳にしたとき、全身の感覚が戻った。

 俺の右手はしっかり彼女の右手を……いや、彼女がしっかり俺の右手を(つか)んでいた。空中で……。

 

「飛ぼう!」

 

 なんて生き生きした声だろうと聞き惚れる中、身体はふわりと浮かび、激しい上昇気流に吹き飛ばされるように舞い上がった。

 とてつもない解放感が背骨を貫く。全細胞を拘束していた(かせ)が一気に解かれたような。凄まじい勢いに視界が掻き乱される。

 

「……ぁぁあああ」

 

 絶叫が耳に入り、自分が上げていた声にようやく気付く。嵐は止んでいて、靴の下には固い地面があった。

 

「……久凪くん、目を開けて?」

 

 ゆっくり目蓋を上げる。

 足元のコンクリートが、そして周囲の眺望が視界に入る。街を見はるかす場所……向かいのマンションの屋上に違いない。

 

「わ……何やこれっ!?」

 

 しかしそこに広がる光景は見たことのないものだ。

 歪んだ蟻塚や蜂の巣のような異形の建物群。あるいは中央アジアの砂漠に残る古代遺跡のような。乱雑に建ち並ぶそれは内部から発光し、遠くにはバベルの塔よろしく天を突き刺す建物もいくつか見える。

 辺り一面、薄ぼんやりとした奇妙な蒼白いもやに包まれている。

 

「いまボク達は、現実のレイヤーを移動したんだ」

 

 隣に立つ彼女が、その光景を眺めながら言う。

 

(こんなことが起こり得るのか?)

 

 生まれて14年かけて築いた世界のルールが砕け、脳が新たな現実を処理するのにフル回転している。

 見上げると、天体写真のように色彩の強調された紫や青の光が(またた)いていた。しかしそれが夜空ではなく、依然として早朝の空だと俺には分かった。

 (ねじ)れ、発光し、渦を巻く雲が刻一刻と姿を変えて飛び去っていく。

 目眩(めまい)がした。だけど心地よい目眩だった。

 

「これ……これが……“向こう側”?」

 

 どれだけその光景を見つめていたろうか。俺はようやくそう口に出せた。

 彼女が振り向く。嬉しそうに光るその大きな瞳に吸い込まれそうだ。

 

「現実はね、いくつもの(レイヤー)が重なり合ったものなんだ。いまはその間を少し移動しただけ。ほら」

 

 彼女が足元を示す。そこは見慣れたコンクリートの床だ。

 

「別世界に来た訳じゃないんだよ。ここはいまもあのマンションの屋上だし、9月12日の朝なんだ。コツが分かれば、重なり合うレイヤーを同時に見れるし、こうやって移動することもできる」

 

 さっきまで圧倒されていた異様な景観が、長年暮らした街並みに見える。俺には理解できる。ここは異世界じゃない。いままで見なかっただけで、世界はずっとこんな姿も持っていたんだ。

 

「それじゃ、本題ね」

 

 声のトーンが低くなったのに驚いて見返すと、彼女は悪巧みする子供のような笑顔を浮かべていた。

 

「久凪くんにはあれ……見えるよね?」

 

 素直に彼女の指す方を眺めると、遥か遠く、背の高い建物が密集するその中空に、霞みがかった何かの気配があった。視線を向けると消えてしまう錯覚のような……だけど穏やかならぬ巨大な渦の気配が。

 

「……何やろ。台風でも生まれそうな……」

 

 いや、それよりずっと恐ろしい災厄の芽のようで……言葉じゃ表現できない、この世界の論理では理解不能な混沌が溢れ出すような……。

 ぞっとして俺は目を逸らす。

 俺を見つめる彼女が目を輝かせている。理解不能な混沌……それを歓迎すべきことであるかのように。

 

「あそこからジャガナートが始まるんだ。あれはその予兆」

「ジャガ……ナート?」

「そう。この世界の(ことわり)の一端を破壊する現象――」

 

 不気味に発光する空が彼女を背後から照らしていた。

 

「あらゆる時空……三千世界の無数の縁起が、億に億を掛けても足りない可能性のひとつとして重なり合ったんだ。そこに立ち会った者は、この世界のあらゆる法則、束縛、宿命(さだめ)から開放される……それがどれほどのことか、キミに分かる?」

 

 世界を見下ろす神々のように少女が言葉を(つむ)ぐ。

 

「そのことに気付いた者達がそれぞれの思惑のもと、様々な世界からここへ向かっている。ジャガナートに立ち会えるなんて滅多にないからね。久凪くん、これは大きなチャンスなんだ」

 

 彼女が笑う。信じられないほど優しい微笑みだと思った。

 

「キミは使命を果たすためにこの世界へやって来た。だから苦しいのは当たり前さ。ここの住人じゃないんだから」

「……使命?」

「そう、向こう側へ戻るにはその使命を果たさなきゃいけない。でもね、もうひとつ方法があるんだよ」

 

 少女はあの恐るべき予兆を宿した中空へ顔を向ける。

 

「ジャガナートが起きたとき、その中心に立ち会えば、定められた制約を……運命をすら超えて、キミはもとの世界に戻ることができる」

 

 俺は魅入られたように、その巨大な渦の気配を眺めていた。ずっと、どこか遠くへ行きたかった。この現実から逃げ出せる巨大な災厄を待ち続けてきた。

 

「それが……“向こう側”? 苦しみのない世界ってこと?」

「そうだよ」

「……ほん、とに……そこへ行けるん?」

「大丈夫。ボクと行こう」

 

 彼女が俺を正面から見つめている。

 その背後に壮大な異形の世界が広がり、俺を誘うように光を瞬かせた。

 

「久凪くん、ボクはね……」

 

 彼女が微笑みながら――この日何度目だろうか――右手を差し延べる。

 

「キミを救うために来たんだよ」

 

 

 




救いってある種の怖さがあるなと思います。
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