朝の気配にリィンは意識を覚醒する。
どうやら気をつけていたおかげでエリゼはまだ来ていない。
身体の上の重みにリィンは呆れる。
まさかそこまで心を許してくれていたのかと、くすぐったいものを感じながら目を開く。
――と、すわった目のデュバリィと目が合った。
「ちっ……」
舌打ちをすると同時に逆手に持った小さなナイフがリィンの顔面に向けて振り下ろされる。
身体は彼女に跨がれて固定されている。
リィンはとっさに動かせる腕でナイフの刀身を白羽取りして受け止める。
「何をするんですかいったい!? というか正気ですか!?」
どうやって忍び込んだのかはこの際置いておくとして、皇宮で流血沙汰なんて起こせば無事で済むはずがない。
「わたくしのことなんてどうでもいいですわ……マスターにあんな顔をさせた咎人を滅することができるのなら、この身がどうなろうと安いものですわ」
「誤解です。俺は別に悲しませて――」
少しだけ心当たりがあり、リィンは言い淀む。
その躊躇いをデュバリィは見逃さず、抑え込まれた腕に更に力をかける。
「今回は警告で留めるつもりでしたが、やはり殺しておくべきですわね」
「は、話を聞いてください! っ……父さんとレンに何をした!?」
「安心しなさい。殲滅天使も貴方の父君も薬を嗅がせて眠らせただけですわ。そして遮音結界も抜かりなく……
ですので、安心して己が罪を懺悔して断罪されなさいっ!」
これだけ騒がしくしているのに目を覚まさないテオとレンへの疑問に答えはすぐに返って来る。
しかし、テオはともかくレンに気付かせない程の隠形をデュバリィが持っていたことに驚く。
「だから誤解です! 確かにリアンヌさんとは二人きりで話しをしましたけど――」
「リアンヌ……ふたりきり……」
デュバリィの目からハイライトが消える。同時にデュバリィは《鬼気》に目覚めたかのようなどす黒いオーラが溢れ出す。
「殺す殺す殺す殺す――」
壊れたラジオのように怨嗟の呪詛を漏らすデュバリィにリィンは力負けして――
「はい、そうですかってやられるわけにはいかないんだよっ!」
《鬼気》を解放してリィンは力を拮抗させ、首を逸らしてナイフを枕に逸らす。
「っ――」
かなり磨き込まれてきたナイフが掌を切るが、リィンは構わずデュバリィの胸倉を掴んで、一気に体を入れ替える。
「くっ……このっ……」
マウントを取られまいとデュバリィは激しく抵抗する。
「落ち着いて話を聞いてくださいっ!」
「うるさい! もはや語る言葉なんてありませんわ! 死んで詫びなさいっ!」
「くっ……何て力だ」
《鬼気解放》状態にも関わらず、それに力で対抗してくるデュバリィに戦慄する。
「っ!?」
しかし次の瞬間、途轍もない寒気を感じた。
「な……何ですの? この悪寒は……?」
同じものを感じたデュバリィは戦士の警鐘が激しく鳴ることで若干の冷静さを取り戻す。
そして、第三者の声が部屋に響いた。
「兄様……何をなさっているのですか?」
「エ…………エリゼ……」
「あ……う……」
いつの間にか扉の前には表情のないエリゼと顔を真っ赤にして手で顔を覆うアルフィンとミュゼがいた。
「こほん……」
ミュゼはおもむろに咳払いをして、部屋に踏み入る。
「部屋の中に入るまでは音が聞こえてこなかったのは結界のような術が敷かれていたからのようですね……
そしてテオ様とレンちゃんのお二人は薬で眠らされているようです」
部屋を一度見回したミュゼは次いで互いの腕を取って抑え込もうとしていた態勢のままのリィンとデュバリィに目を向ける。
「衣服の乱れ」
鎧姿ではないデュバリィの服はリィンが胸倉を掴んだ時にボタンが千切れ、その胸元が露わになっている。
更には揉み合った際にスカートが捲れ上がって健康的な太腿が惜しげもなくさらされている。
「シーツの赤いシミ」
リィンの手から滴り落ちた血を意味深にミュゼは呟く。
「手と手を取り合ったお二人。そして荒い呼吸……」
ミュゼはあえて枕に突き立つナイフに気付かないふりをして振り返り――
「昨晩はお楽しみ――いえ、まだお楽しみの最中のようですね」
「これがそんな楽しそうに見えるのか?」
ミュゼの言い分が理解できずにリィンは首を傾げる。
が、デュバリィの方はミュゼの言葉の意味を理解したのか、一瞬で顔を真っ赤に染め上げる。
「どきやがれですわっ!」
リィンとの間に足を割り込ませて蹴り飛ばす。
その反動でリィンから距離を取り、開いた胸元を押さえ、露わになっていた太ももを隠すようにスカートを直す。
「覚えてやがれですわリィン・シュバルツァーッ! 次は必ずその首を――」
「次……? 貴女に次があるとお思いですか?」
「っ――」
音もなく目の前に立ち塞がったエリゼに綺麗な笑みを向けられ、デュバリィは思わず上げそうになった悲鳴を呑み込む。
「と、とにかく覚えてやがれですわっ!」
そしてそのまま捨て台詞を叫び、転移陣を起動してその場から消え去った。
「はあ……」
朝からどっと疲れたリィンは《鬼気》を治めて、ため息を吐き――
「兄様、先程の女性について詳しくお話ししていただけますか?」
リィンの本当の戦いはこれからだった。
*
「いい加減機嫌を直してくれないかエリゼ?」
「別に私は怒っていません」
頬を膨らませながらの言葉には説得力はない。
そんな妹の拗ねた様子にリィンはため息を吐き、案内されたホテルを見上げる。
あれからバルフレイム宮は賊を探すために大騒ぎに――なることはなかった。
皇宮守護隊からすれば許されざる大失態なのだが、相手は転移術などという反則技の持ち主。
リィン達に宛がわれた部屋が皇帝や公爵などよりも警備が薄い部分だったこともあるが、大騒ぎになることは免れないはずだった。
リィンも心当たりを問い詰められ、デュバリィのことに加えリアンヌのことも話さなければならないと躊躇ったのだが、オズボーン宰相の一声がそれを止めた。
「新年早々、しかも各地の諸侯達が集うこの時期に賊の侵入を許したというのは皇宮守護隊にとって外聞の悪い事件だろう……
この件については緘口令を敷き、諸侯には内密に捜査することを提案する……
守備隊は警備のレベルを引き上げ、賊の捜査には鉄道憲兵隊に任せることにしよう……
それからリィン君は二度目の襲撃があるかもしれん。確か三日まで帝都に滞在する予定だったが市街のホテルに移動してもらうとしよう。護衛はこちらで手配させよう」
ギリアスの提案に守備隊をまとめるマテウスは彼の言う通り、この場でことを大きくすることは得策ではないと渋々と言った様子で頷いた。
「それからリィン君。君は昨日の御前試合で良くも悪くも注目を浴びている……
出来る限り、手配したホテルから出ないように頼むよ」
ということで今に至る。
外から見ても立派な造りのホテルにリィンは気後れして振り返る。
「クレアしょ――大尉、本当にここで合っているんですか?」
今日から大尉に階級が上がったクレアに尋ねる。
「はい。今日からリィン君にはこちらのホテルを使ってもらう様に閣下から指示されています」
皇宮に泊まることは貴族の必然と割り切ることができたのだが、流石に抵抗を感じてしまう。
「気にしないでください。元々賊の侵入を許してしまった私たちの不手際ですから……
むしろリィン君には窮屈な思いをさせてしまい心苦しく思っています……ご不便がありましたら何でも仰ってください」
まるで重要人物のような扱いにリィンは恐縮してしまう。
しかしここで駄々をこねても仕方がないとリィンは観念して待遇を受け入れる。
「そういうわけだから俺はホテルにいるけど、エリゼも付き合わなくていいんだぞ。帝都にいる間はアルフィン殿下に誘われているんだろ?
それに市街はお祭りで賑わっているんだし、俺なんかに構ってないで友達と楽しんでくればいいのに」
「いいえ。そういうわけにはいきません」
エリゼは頑なな様子でリィンの提案を拒絶する。
「でもな……」
「あら、別に気にしなくていいじゃない。今度はレンが返り討ちにしてあげるんだから」
そんなリィンの懸念をレンが殲滅天使の顔で振り払う。
デュバリィにしてやられたことが頭に来ているようだった。
「……ミュゼ、君はどうしてここに?」
「そんな私だけ仲間外れにするんですか?」
エリゼと同じように旅行鞄を手に持ってきたミュゼはわざとらしくよろめく。
「でも君はカイエン公爵の娘じゃないのか?」
「現当主のクロワールは私の叔父です……
私は叔父に疎まれているのでそちらに行っても邪険にされるだけでしょう。オルディスには一度帰省するつもりですが急ぐ必要はありません……
それにリィンさんにはこの機会に是非エリゼ先輩のことをもっといろいろ教えていただきたくて」
「そうか……それじゃあ仕方がないか」
ちなみにこの場にアルフィンとセドリックはいない。
二人はこの後正午にドライケルス広場で行われる皇帝陛下の演説に同席するため別行動になっている。
「リィン君、ここで話し込むよりもまずはお部屋に御案内します」
「あ……すいません。クレアさん、お願いします」
クレアに促されてリィンはホテルに入る。
「あら……?」
丁度そこに艶やかな蒼いドレスを纏った女性が奥の階段から下りて来た。
「クロチルダさん? どうしてここに?」
「ふふ……それはこっちの台詞よリィン君、まさか帝都で貴方とまた会うとは思わなかったわ。てっきり皇宮に泊まっているものと思っていたけど」
ヴィータは女性でも見惚れるような笑みを浮かべる。
「ええ、そうだったんですけど、いろいろあって」
「リィン君。こちらの方は?」
クレアに尋ねられリィンは彼女の紹介をしようと口を開くが、それをヴィータは指で押し留め自分で名乗る。
「初めまして……
私はヴィータ・クロチルダ。オペラ歌手をしていて《蒼の歌姫》なんて呼ばれているわ」
「《蒼の歌姫》ですか……聞いたことがあったような」
「あら、エリゼ先輩知らないんですか? 帝都では有名な方ですのに」
「あははっ……有名だなんて言ってもオペラの世界でだけだもの……知らなくたって無理ないわよ」
俺も初めて知ったと言いそうになるのをリィンは堪える。
結社の《使徒》が何故、という気持ちはあるが話さないでほしいという彼女の意図をリィンは正しく察する。
「それにしても随分と親し気な御様子ですが?」
「ええ、リィン君とはちょっと人には言えない秘密の関係なの」
エリゼが冷めた眼差しを向けるが、ヴィータは簡単に受け流して反撃する。
「貴女がエリゼちゃんね。リィン君から話には聞いていたわ」
「……エリゼ・シュバルツァーです。よろしくお願いします」
「フフ……こちらこそ……
ごめんなさい。これからリハーサルなの、悪いけどこれで失礼するわ」
ヴィータはそう言ってリィン達の横をすり抜け――何かを思い出したように振り返った。
「そういえばリィン君。もしかしたら今度私のお婆ちゃんを紹介しに行くかもしれないから待っていてね」
そう言い残してヴィータはホテルから出て行った。
――お婆ちゃんか……
彼女の立場を考えれば結社に連なる者か、もしくは魔女なのだろう。
彼女には命を助けられた恩がある手前、邪険にし辛いのだがどうしたものかとリィンは悩む。
「兄様……」
「ん……? どうしたエリ……ゼ……?」
呼ばれて振り返ったリィンは思わず凍り付く。
絶対零度の微笑みを向けてくる妹に思わず体が震える。
「御説明していただけますか?」
「えっと……」
デュバリィと違って、あえて表の身分を名乗ったヴィータのことについてどう説明すればいいのかリィンは言葉に詰まる。
「意外と節操なしだったんですねリィン君。私と初めて会った時は女神だと言ってくれたのは何だったんでしょうか?」
「クレアさんっ!?」
少し拗ねた口振りでまさかのクレアからの追撃にリィンは驚く。
「あらあらあらあら」
ミュゼはそんな三人に目を輝かせる。
「フフ……流石リィンね。レンが何もしなくてもこんな風になるなんて」
そしてレンも笑みを浮かべるだけでリィンを助けようとはしなかった。
【速報】帝国時報特別版
新年二日目となるその日はリベールから大使が来訪する日だった。
《白き翼》と呼ばれる白亜の飛行艇《アルセイユ》。
半年程前、オリヴァルト皇子が凱旋した時のように、アルセイユは多くの帝国市民によってその来訪が迎えられた。
大使として訪れたのは次期女王に即位することが決定しているクローディア王太女殿下。
オリヴァルト皇子に出迎えられ、親善の握手を交わすものの、その後に皇子に同行していたリィン・シュバルツァーに王太女は観衆の面前で涙し、彼の生還を喜び抱擁を交わした。
リィン・シュバルツァーは去年の《リベールの異変》で生死不明だったことを考えれば王太女の喜びも理解できるが、二人の間にある空気はそれだけで説明できないものだった。
ある筋からの情報ではリィン・シュバルツァーはリベール滞在中にクローディア王太女と度々密会を行っていたという情報もあり、プライベートでは愛称で呼ぶ程の関係らしい。
またオペラ歌手《蒼の歌姫》ヴィータ・クロチルダとも親し気な様子が目撃されている。
更にはオリヴァルト皇子がアルフィン皇女殿下の婿候補として推薦しているという話もまことしやかに囁かれている。
その後の彼女IF
アリアンロード
「困りましたね。これはまた詫びに行かなくてはいけないでしょうか?」
アイネス
「流石筆頭、私たちにはできないことを躊躇いなくやってくれる」
エンネア
「ええ……
私たちでもブレーキを踏んでしまうことを、むしろアクセル全開で走り切るなんて流石《神速》を冠した筆頭だわ」
デュバリィ
「怒られた怒られた怒られた怒られた……
別に本気じゃありませんでしたのに……ただの警告だけのつもりでしたのに……
あの男がマスターの御名前を出すから……その名を教えていただくのにわたくしは何年もかかったのに……グス……」
アリアンロード
「泣かないでくださいデュバリィ。もう怒っていませんから……
貴女の気持ちは良く分かりました。今度またみんなで温泉にでも行きましょう」
彼女の呟きIF
リーシャ
「あ……リィン君。生きてたんですか」
【速報】クロスベルタイムズ
帝国で今や時の人となっている奇蹟の少年リィン・シュバルツァー。
帝国のオペラ歌手《蒼の歌姫》だけに飽き足らず、クロスベルのアルカンシェル新人女優のリーシャ・マオと接点があったことが発覚。
いつ、どこで出会い、どのような関係だったのかリーシャ・マオは固く口を閉ざしており、リィン・シュバルツァーもまた頑なに彼女との関係は黙秘し続けた。
マキアス
「ちっ……節操なしの貴族が……」
エリオット
「すごい人だと思ってたけど、やっぱり僕なんかと済んでいる世界が違うんだな……」
ハインリッヒ教頭
「ふむ……まあ貴族として顔が広いのはステータスの一種だから構わないが……このブロマイドにサインを……
いやいやいかんいかん。偉大なるトールズ士官学院の教頭たるもの公私混同などあってはならん! いやしかし――」
エリゼ
「ふうん……兄様ったら……クスクス……」