――力が欲しい……
一番最初の切っ掛けはただの純粋な願いだった。
吹雪の中で自分達の前に現れた魔獣。
まだ九歳の子供だったリィンは妹を庇うことしかできず、たったの一撃で動けなくなるほどの傷を負った。
薄れていく意識の中、エリゼだけは守らないと。
そして、そのための力を望んだ。
――力が欲しい……
そして、今あの時と同じ様に思う。
地面に埋められ、身体は痛みで思うように動かないし、意識が霞んで行く。
まるであの時の再現。
「それじゃあとりあえずボースに繰り出すか。今日はレオの奢りだ」
魔獣の足音は猟兵たちの歓声。
人の命を簡単に摘み取る人間の形をした魔獣。
――させない……それだけは許さない……
リベールは、ボースはこんな得体の知れない自分なんかを受け入れてくれた。
あの温かで尊い人たちがいる場所を。
そして、自分が守るべき存在を。
あの時のように、理不尽に奪われて良いわけない。
ドクンッ、一際大きく胸が高鳴る。
脳裏に浮かぶのは記憶にない光景。
略奪を行う猟兵。燃え盛る家。知らない女の人の最後の笑顔。そして胸の痛み。
あれがボースの街で繰り返されるというのなら、拒絶していた力を解放することを躊躇わない。
――ああ、そうだ。俺は何度もこうする……
例え幼いあの時に自分の中の焔を自覚していたとしても、おそらくリィンは躊躇わなかっただろう。
そしてこれからも、守るべきもののために同じ選択を繰り返すだろう。
だから、どれだけ傷付き壊れても、後悔はない。
「だからもっとだ……」
足りない。
戦闘のプロである猟兵に鬼の力を使ってもまだ届かない。
それならもっと激しく焔を燃やせばいい。
「もっと力を寄越せっ!」
際限なく燃え上がる焔。
例え、全てを灰にすることになったとしても、俺は―――
*
「ここは……?」
目を覚ましたリィンが見たのはこの数ヶ月ですっかり見慣れた天井だった。
遊撃士ギルドの仮眠室、リィンが寝泊りしている一室。
窓の外から聞こえる音は穏やかないつもの日常。
そこに血と硝煙の気配はない。
「ああ……守れたのか……」
最後に覚えているのは鬼の力を解放させたところまで。
自分が猟兵をどうしたのかは分からないが、この街の営みを守れたことは少しだけ誇らしかった。
「…………」
リィンは未だに焔が燃えている胸を押さえ、息を吐く。
「ん……」
身動ぎしてもらした声にリィンはベッドの脇に突っ伏して眠っているアルティナの存在に気が付く。
「…………ごめんな」
看病してくれたのだろう。
それを労うようにリィンは彼女の頭に手を伸ばし――その手を引き戻した。
彼女を起こさないようにベッドから起き上がり、上着を羽織る。
そしてテーブルに置いてある鉛筆を取り、買い置きしていた便箋に伝言を書こうとして、筆圧に鉛筆は折れ、紙は破けた。
「っ……」
力加減が全く効かない。
それでもなんとか汚い字で一言だけの文章を作る。
テーブルの上にある鏡に目が向くが、確認するまでもない。
手紙をテーブルの上に残し、リィンは太刀に触れず、ドアのノブを細心の注意を払って開ける。
ギルドの中には誰もいなかった。
そのことにリィンは安堵し、数ヶ月過ごした家を出た。
「おせわになりました」
テーブルに残された手紙にはそれだけが残されていた。
*
霧降りの谷。
「オリビエさんが言ってたな。秘境に篭って、世俗を断つ。まさか本当にやることになるとは思わなかった」
胸を押さえ、荒い呼吸を繰り返しながらリィンは独り言を呟く。
目が覚めてからここまで、胸の中の焔は少しずつ大きく燃え上がり始めていた。
それに伴って込み上げてくる衝動。
寄りかかった木の幹を素手で握り潰す異常とその破壊に伴う抗い難い快感がリィンの思考を蝕む。
何でもいいから言葉を作って口にしていないと、自分が人なのか獣なのか分からなくなってくる。
「まだ……もう少し……」
焔が理性を溶かす。
身体を引きずるように歩くリィンに魔獣が寄ってくるが、ここに来るまでと同じ様に一睨みするだけで魔獣は慌てて逃げ出す。
もっと奥地へ行かないと。誰もいないところに。
「またこんなことしているってエステルさんに知られたら、怒られるだろうな」
琥珀の塔での出来事は今でも昨日のことのように思い出せる。
「俺はどうやらここまでみたいです、ヨシュアさん……貴方は『闇』に飲み込まれないで下さいよ」
後戻りできない程に踏み込んだ。
もうすぐ自分が消え、獣になるとしてもそのことに後悔はない。
「まるで夢のような日々だったな」
ユミルに閉じ篭っていた時には想像もしなかった。
リベールで出会った温かく尊い人たち。
辛いこともあったが、こんな結末になってしまったがリベールに来てよかった。それだけは胸を張って言える。
「だからせめて……あの人たちの手を汚さないように、俺は……」
「それはいささか早計ではないかな?」
「……だれだ?」
独り言に応える声にリィンは掠れた声で顔を上げる。
そこには白い貴族のような衣装を着て、目元を仮面で覆い隠した怪しい男が立っていた。
「なに通りすがりのマジシャンだ。以後、お見知りおきを」
場違いな場所で優雅な一礼をする彼にリィンは困惑するが、込み上げてくる衝動に疑問を追いやる。
「誰だが知らないが……俺に近付かない方が良い」
「ほう、それは何故かね?」
「それは俺が……俺が化物だから……」
最後の時だからなのだろうか、その言葉は自分でも驚くくらいにすんなり口に出た。
「ふむ……何をもって化物と定義するかはひとまず置いておくとして……
私としては君にここで獣になってもらうのはいささか困るのだよ」
「何を……言っている?」
自分を取り巻く黒い気が見えないはずないのに、彼は少しも臆さずに訳の分からないことを言う。
しかし、リィンの疑問に答えることなく男はまた唐突に言う。
「君にこれを上げよう」
彼がパチンと指を鳴らすと、リィンの胸元で何かが小さく弾けた。
「これは……ペンダント?」
「知り合いの魔女殿によるお守りでね……
急拵えの上に、実物を見ずに造ってもらったので、大きな効果は望めないだろう……
それでも君の鬼の力を抑える切っ掛けにはなるはずだ……
《西風の旅団》を退けた君への報酬と思って、遠慮なく受け取るが良い」
「なっ!?」
「今の状態から君を元に戻すのにはそれだけでは足りないだろう。なのでもう一手」
再び男は指を鳴らす。
白い花吹雪がリィンを包み込むように舞い上がる。
「待てっ! お前はどうして鬼の力のことを知っている!? お前は一体誰なんだっ!」
服装からしてただ者ではないと思っていたが、自分の事情を知っている男にリィンは思わず叫ぶ。
花吹雪が彼の姿を覆い隠す。
「ふ……本来ならここで君と顔を合わせるつもりはなかったのだから、名乗りは控えさせてもらおう……
我が名を知りたくば二ヵ月後、この地で我らが引き起こす福音計画の中で合間見えた時に教えよう」
「福音……うぐっ!」
胸の疼きにリィンは膝を着き、一際大きな風が吹いて花吹雪が吹き飛ばされる。
「…………何だったんだいったい?」
気が付けば男の姿は何処にもなかった。
まるで幻を見たかのように、腑に落ちない状況だが胸に輝く蒼い石のペンダントが今のやり取りが本当だったことを証明している。
「くっ……」
再び焔がざわめき出す。
蒼い光を宿していたペンダントはその光を黒く変色させていく。
効果のないペンダントにリィンは苦笑して、顔を上げると彼女がそこにいた。
「アネラス……さん……どうしてここに?」
アネラスはリィンの言葉に応えず、二本持っていた太刀の一つを鞘から抜いて放り投げる。
太刀はリィンの前に突き刺さる。
それはギルドに置いてきたはずのリィンの太刀だった。
「剣を取りなさい。リィン君」
「アネラスさん」
「剣を取りなさい。リィン君」
繰り返される言葉にリィンは首を横に振って拒絶した。
「ダメですよアネラスさん……俺は見ての通り、もう戻れそうにないんです」
自分で分かるのは白く染まったままの髪のこと。それに加えて左目の違和感。
それらがリィンの今の状態を何よりも雄弁に表していた。
それこそ剣を取れば、正気を保っていられるか。
今、ここでリィンがわずかな正気を取り戻せているのは奇跡に等しい。
「ボースに迷惑はかけられません。それにみなさんの手を汚させるわけにはいかない。だから俺はここで俺を終わらせます……
こんな時のために、家族に出す手紙はちゃんと用意しておきました……思い残すことも……ありません」
本当なら十年前の吹雪の中で誰に知られることもなく消え去る命だった。
それが何の巡り会わせの奇跡か、そんな命を養父が見つけ、今日まで生きることが出来た。
本当の息子、本当の兄として受け入れてくれた家族たち。
そして、このリベールで出会えた温かで尊い人たち。
辛いことはたくさんあった。だが、それ以上に生きていてよかった。そう思えるだけのものをたくさんもらった。
それは温かで優しい、夢のような幸せな日々。でも、夢はいつか醒めるもの。
「だから、もう十分です」
琥珀の塔の時の様な自暴自棄ではない。
こんな巨大な力、最初から御することなど不可能だった。
そう思い知らされても、胸には絶望はない。
こんな穏やかな気持ちで終わらせられるのなら、これ以上の望みはない。
「いい加減にしなさい」
「アネラスさん……」
「私を見なさいっ!」
「っ……」
「言いたいことがあるならちゃんと私の目を見て話しなさいっ!」
指摘され、リィンは俯いたまま話していたことに気が付く。
恐る恐る顔を上げて見た、彼女はいつもヒマワリの様に笑う笑顔ではなく静かに怒っていた。
「思い残すことがない? もう十分? そんな自分も騙せないような嘘で誤魔化さないでっ!」
リィンの言葉を嘘だと断じてアネラスは叫ぶように否定する。
「嘘なんかじゃ――」
「その言葉、ここにいるのがエリゼちゃんだったとしても同じことが言えるのっ!?」
「っ……だったら……だったら! どうしろって言うんだ!?」
そんなアネラスにリィンもまた、心に堪ったものを吐き出すように叫んでいた。
「この力は俺にも誰にも分からない。ユン老師だって何もできなかった……
誰のも手に負えない得体の知れない力。どうやって鎮めればいいんだよっ! それが分かるんだったら教えてくれっ!」
ずっと未熟と言われてきた。
だけど、それならどうすればいいのか教えてくれなかった。
力は所詮、力。
そんなことを言われても、手綱の場所さえ分からないのにどうすればいい。
「諦めたくなくても、もうどうしようもないんだ……」
結局、老師には分からない。
それがリィンの心の奥底にあった答えだった。
あの抑え切れない衝動も、理性を溶かす破壊の快楽も。
ただ未熟という言葉だけで済まされたことの辛さ。
鬼の力を持たない者には持つ者の苦しみなんて理解できるはずがない。
今、アネラスが消えようとしているリィンの前に立ち塞がっているが、彼女にできることは何もない。
どんなに真摯に向き合ってくれたとしても、鬼の力にはリィンが一人で立ち向かわなければならないのだから。
「どうしようもなくなんてない」
「気休めはやめてください……アネラスさんに何ができるって言うんですか?」
「じゃあ、それを今から証明してあげるよ」
「え……?」
リィンの拒絶の言葉にアネラスは当然のように応える。
いつもと変わらない明るい言葉にリィンは思わず顔を上げて、清々しいまでの笑顔を浮かべる彼女の顔を見た。
そして、剣を正眼に構え――
「風花陣っ! はああああああっ!」
気合を込めた雄叫び。
そしてアネラスから溢れ出す闘気にリィンは目を疑う。
禍々しい鬼の力とは違う。
荒々しい猟兵の『戦場の雄叫び』とも違う。
清廉な闘気を身にまとい、アネラスは剣を構える。
「私もこの二ヶ月、何もしてこなかったわけじゃないよ」
規模も質も違うが、それはまさしくリィンの鬼の力を真似た力だった。
「…………だけど――」
「リィン君」
それでも足りないという言葉をアネラスは遮って、笑った。
「お姉ちゃんに任せなさい」
ただそれだけの言葉。
根拠なんてないはずなのに、真っ直ぐに大丈夫だと言わんばかりの前向きな目。
それはリベールでリィンを最初に救い上げてくれた、彼女と同じ眼差しだった。
「だからリィン君。剣を取って、私に証明させて」
それ以上、アネラスは言葉を重ねずに太刀を構えたまま、リィンを待つ。
どれくらいの時間をただ向き合っていたのか、分からない。
それでもリィンは地面に突き刺さり、自分を待つ太刀をその手に取った。
「っ……」
手に取った瞬間、気持ちは自然と戦う方へ傾き、思考は鬼の力に染め上げられる。
塗り潰されていく意識の中で、リィンはアネラスを見る。
「八葉一刀流《中伝》アネラス・エルフィード」
アネラスはそんなリィンに笑みを返して、名乗りを上げた。
「行くよっ!」
*
「っ……!」
凄まじい速度で間合いを詰めて繰り出された一撃をアネラスは何とか太刀で受け止める。
しかし、その勢いまでは受け切れずに大きく弾き飛ばされた。
「くっ……」
今までの手合わせを遥かに越える速度と膂力。
これまでの手合わせの力を境界線を一歩だけ踏み越えた力だと表現するならば、今の力は境界線を大きく踏み越えた力。
少しでも臆すれば押し潰される。
そんな予感にアネラスは攻撃は最大の防御だと言わんばかりに前へ踏み込む。
「はああああああっ!」
力任せに振ってくる剣撃。
一撃一撃に全力を込めてアネラスは鬼と打ち合う。
例え、獣になってもリィンの血肉となっている八葉の型。
そしてこの数ヶ月ずっと手合わせしてきた経験からアネラスはなんとか鬼に食いついてみせる。
受け切れなかった太刀がアネラスの鎧を削る。
その太刀筋に背筋を凍らせながらも、何合も打ち合う。
そして、拮抗する打ち合いに鬼は焦れたのか、距離を取って太刀を縦に構えた。
「ホロビヨッ!」
黒い炎を纏った剣にアネラスは今までで最大の悪寒を感じて息を飲む。
だが、臆したのは一瞬。
アネラスは同じ様に自分の太刀に戦技の光を纏わせる。
「光よ。我が剣に集え」
踏み出したのは同時。
繰り出される必殺の三連撃を同じ三連撃で相殺する。
「くっ……」
互いの横を斬撃を浴びせて切り抜け、背中合わせになった状態でアネラスは膝を着いた。
必殺技の打ち合いで手が痺れている。
その上、風花陣の無理な強化で全身はバラバラになりそうな程に痛い。
それでも、アネラスは歯を食い縛って立ち上がり、気合を入れ直す。
「まだだよっ!」
極限まで振り絞って気合の技、風花陣をもう一度使う。
「…………今度はこっちから行くよ!」
鬼が動くよりも先に斬りかかる。
全身の力を振り絞り、一撃二撃と斬撃を重ねる。
息を吐かせない連続攻撃、八葉滅殺。
その技に鬼は力任せにそれに対抗してくる。
「まだまだまだまだまだまだぁっ!」
一刀一刀に全力を込めた連続斬り。
一撃がぶつかるごとに身体が軋む。それでもアネラスは一歩も退かずに前へと踏み込む。
我慢比べの末、先に根を上げたのは必然的にスペックに劣るアネラスの方だった。
一撃のぶつかり合いに力負けしたアネラスの太刀は弾かれて、腕が大きく撥ね上がる。
すかさず鬼は無防備なアネラスの首に向けて太刀を振り抜いた。
が、空を斬る。
弾かれた反動に抗わず、その力のまま身体を低く回転させたアネラスは鬼の一太刀を避け――
「落葉っ!」
下から力の限り鬼の身体を蹴り上げ、自身も跳躍してそれを追い駆ける。
「はぁっ!」
追撃の唐竹割りは太刀に防がれるが、その衝撃を空中で逃がすことは出来ずに地面に叩きつけられる。
そこにアネラスは高速で剣を振り抜き真空の刃、剣風閃を叩き込む。
その一撃は鬼を捕らえたが、耐えられる。
それでも今のアネラスの勢いに圧されたのか、鬼は仕切り直すために距離を取ろうと後ろに跳躍する。
「逃がさないっ!」
戦技の風が宙に跳んだ鬼の身体を捉えて引き寄せる。
その隙にアネラスは太刀を納刀する。
「四の型、紅葉切り」
すれ違う一瞬に抜刀からの一撃を叩き込む。
すかさず、背後を取ったアネラスは彼女の最大の技を放つ。
「はぁぁぁぁ、光破斬っ!!」
剣気を高めた光の刃が鬼の背に容赦なく叩き込まれ、彼方へと吹き飛ばす。
「はっ……はっ……はっ……」
息も絶え絶えに顔を伏せて喘ぐアネラスはガクガクと震える身体をなんとか支えて立つ。
土煙を盛大に上げて岩に叩きつけられた鬼は数秒の静寂の後に咆えた。
「おおおおおおおおおおおおっ!」
土煙を引き裂き、鬼は疾走する。
もはや立っているのもやっとなアネラスは伏せた顔を上げ――
「ぐっ!?」
未だに衰えない眼光に本能的な何かを感じた鬼は剣線を鈍らせる。
身体を沈みこませ、凶刃を紙一重で避ける。
髪を結ったリボンがその剣圧に引き裂かれて舞う。
「これで――」
最後の力を振り絞り、未だに剣気の光が残る剣を――
「終わりだよっ!」
アネラスは鬼の首に突きつけた。
「ぜっ……ぜっ……ぜっ……」
彼女の息遣いだけが響く静寂。
獣である鬼にとって、試合のような判定の一本などはない。
剣を止めたアネラスの行動は闘争の中では全く意味のない愚行。
自分の身体に寄りかかるようにして添えられた刃など簡単に振り払えるし、今なら簡単に斬り殺せる。
なのに鬼は剣を突きつけられたまま動かなかった。
「わ……私は……お祖父ちゃんや……カシウスさん……みたいに……」
アネラスは息も絶え絶えに言葉を作るが、うまくいかずに荒い呼吸を繰り返してから言い直す。
「私はお祖父ちゃんやカシウスさんみたいに『理』に至ってないから、大したことは言えない」
身体を鬼に預けながら、苦しそうに、それでも言葉を続ける。
「でも未熟者の私にもできることはないかって、ずっと考えて一つだけ見つけた」
アネラスは笑みを作ってその答えを口にした。
「リィン君、私は勝ったよ」
たったそれだけの、今の状況を表しただけの言葉。
『天然自然の理』でもなく、『そこにある力から目を背ける欺瞞』でもなく、『力に振り回される虚しさ』でもない勝利を誇る言葉。
「人は鬼の力なんかに負けない……」
それがアネラスがリィンに伝えたかった一言。
「…………どうして……?」
髪を白く染めたまま、その瞳に確かな理性の光を戻してリィンは呆然と呟く。
「たぶん……私も、お祖父ちゃんも、カシウスさんも本当の意味でリィン君の力になって上げることはできない……
だって私は鬼の力に飲み込まれる怖さを想像することしかできないんだもん。それはお祖父ちゃんたちも同じだと思う」
アネラスは突きつけた刃を放して、続ける。
「もしかしたら、『理』に至ってしまったからこそ、見えなくなってしまったものがあるかもしれない」
リィンの才能はアネラスから見てもすごいと思う。
今は鬼の力に振り回されているが、近い将来それを克服して自分のものにできていると確信のような期待はアネラスも感じている。
だが、そんな未来に果たしてどれだけの意味があるのだろうか。
才能、潜在能力、将来性。
『理』に至った目で見れば、この窮地さえもリィンなら一人で乗り越えられると彼らは言うかもしれない。
だが、アネラスにはそうは見えなかった。
才能も、潜在能力も、将来性も関係ない。
例え乗り越えられると分かっていても、リィンが今一人で苦しんでいるのなら、甘やかすことであったとしてもアネラスは手を伸ばす。
きっとその『甘え』さえも力にしてくれると、どこかで思いながらアネラスは伝えたかった言葉をもう一度繰り返す。
「私は勝ったよ……」
アネラスは寄りかかっていた身体を離す。
大きくよろめきながら、震える足で立ってみせたアネラスは自分のボロボロの姿を見せつける。
百回戦えば一回しか勝てないだろう。
そんなたった一回の勝利にアネラスは胸を張る。
「だから、リィン君も負けないで」
『人は鬼の力に負けない』それをアネラスは証明して見せた。
高みに至った『武』の至境の力もない、彼と同じ場所にいる未熟者が全身全霊をかけて届かせた言葉。
それはどんな金言よりも遥かにリィンの胸に響いた。
黒く染まっていたペンダントに蒼い光が戻り、それに伴ってリィンの髪が白から黒へ、瞳の色も含めて戻って行く。
「……どうして……どうして、そこまでしてくれるんですか?」
「ふふ……言ったでしょ。私は弟君のお姉ちゃんだからだよ」
二度と忘れられそうにない眩しい笑顔を浮かべたアネラスは――
「あ……もうダメ……」
胸を張ったまま、アネラスの身体は後ろに傾いて行き、音を立てて倒れた。
「アネラスさんっ!?」
未だに固く握っていた太刀を放り捨て、リィンは倒れたアネラスに駆け寄る。
「きゅう~」
目を回して気を失ってしまったアネラスだが、呼吸はしっかりしており、ボロボロだが命に関わる大きな傷はなさそうだった。
ホッと胸を撫で下ろしたリィンはそこでようやく自分の姿が元に戻っていることを自覚した。
「あ……」
胸に様々な感情が湧き上がり、何も言えなくなる。
だが、一つだけ確かに言える言葉はそこにあった。
「ありがとう、アネラス姉さん」
血が滲むほどに強く太刀を握り締めていたアネラスの手に、リィンはそっと手を重ねた。