執務室の電源は明石によって修理され、壁に空いたナイフの穴はきれいにふさがっていた。そんな部屋の真ん中で、提督はうな垂れていた。
「はぁ……響に嫌われてしまったかもしませんね……」
「今日はやけに元気ないですね。ついに浮気がばれましたかぁ?」
「浮気なんてしようがないですよ……彼女とかいないですし」
「これは失礼しましたぁ」
提督の前で資料の整理をしている本日秘書艦担当の青葉が愉悦的な笑みを浮かべていた。どうやら先日の事をまだ根に持っているらしく、彼女の煽りから解放される目処はいまだに立っていない。
「――にしてもどうしたんですか? 冷静沈着、それでいて低姿勢な鎮守府一の性格イケメンさんが響ちゃんと仲違いするなんて流石の青葉も予想外ですぅ」
「褒めてるのか貶してるのかよくわからない評価はやめてください……」
「やだなぁ、貶してるに決まってるじゃないですかぁ」
「青葉、明日の夕食抜き……っと」
「わーごめんなさい! 魔が差したんですぅ、許してぇー!」
泣きつく部下で嗜虐心を燃やすほど、この提督は下衆でもSでもない。よって青葉は(今回は)許された。それに、青葉も提督の事を気遣って、元気づけようとしているのはよくわかったので、咎める気になれなかったのもある。
「……ともあれ、しばらくは響と気まずい関係になってしまったのはダメですよね。きちんと謝らないと」
「そうですねぇ。あ、土下座するんなら青葉撮りますよ? って、冗談ですからそんな怖い顔しないで!?」
この提督は満面の笑みの時が一番怖い、というのが艦娘たちの間で密かに共有されている常識である。この数か月後、その事実を知った提督が「心外だなぁ」と腕を組んで頬を膨らませる姿が「可愛い」と鎮守府に広まったのは当然の帰着だったとのこと(青葉談)。この提督、怒った顔をするのが下手なのだ。
「それでは、青葉はこのまま鎮守府に泊まりますぅ!」
「ええ、お互い良い休日を」
特別な作戦が無い日、この提督は8時に仕事を終える。提督と同じように翌日に休暇を割り当てた青葉は恐らく、冬の特別作戦に向けて秋雲辺りとの打ち合わせをするのだろう。機材の揃う(秋雲などの私物だが場所が無くて空き部屋に持ち込まれた)鎮守府の方が作業が捗るために今日は鎮守府に泊まるとの事だ。
「それでは、私は帰りますので、戸締りなどをしっかりしてください。体調を崩さないよう、暖かくして寝てくださいね」
「お心遣い恐縮ですぅ! お疲れさまでした!」
敬礼で見送る青葉に敬礼を返し、鎮守府を出る。
冷たく乾いた風がコートの隙間から提督の身体を撫でて、思わず身震いしてしまう。
「流石に日が落ちると冷えますね……飲んで帰りましょうか」
提督は門をくぐると、自宅のマンションとは逆方向、たまに仕事終わりに寄る隠れ家的バーへと足を向けた。寒かったというのもあるが、べっとりと張り付くような不安から一時でも逃れたいという考えも、背中を押した。繁華街に提督の姿が消えて行く。
「――あれ、提督さんじゃないですか。明日はお休みで?」
「ええまあ、そんなところです。いつもの席、空いてますか?」
父親から譲り受けたと言うトレンチコートを脱いで上着掛けに掛け、カウンターに座る。適度に目立たない壁際の席はマスターが提督の為にキープしている特等席である。実はこのマスターにも鎮守府や艦娘との少なからぬ関わりがあるのだが、それはまた別の機会に。
「それではマスター、いつものをお願いします」
「了解しました」
お酒にあまり強くない提督は飲む量も多くは無い。成人してからは洋酒を嗜む程度に飲むのが好きだ。ジンのグラスを傾けて、ほんの少しだけ、意識を現実から遊離させる。
「提督さん、今日はいつもより飲むんですね」
マスターが雑談の種としてそんな話題を振ってきた。確かに、提督はいつも、1~2杯飲めばそれで帰るのだが、今日は既に5杯目。提督からの返答がないことで何かを察したマスターはそれ以上深くは聞いてこなかった。
「……さて、明日二日酔いにでもなったら大変ですし、今日はこのくらいで。マスター、お水をいただけますか」
出された水を含みつつ、現実へと意識を少し引き戻す。このくらいの酔い加減で帰れば、ぐっすりと眠れることだろう。響の事は明日じっくり考えればいい――
「ん? 司令官じゃないか。奇遇だね」
「ぶふっ!?」
意識が完全に現実へと引き戻された。L字型のカウンターの向こう側、提督とは対角になる位置に響が座っていた。どうして気が付かなかったのかと提督は頭を抱えるが、彼はお酒を飲むと無口になるタイプで、あまり積極的に交流を図ったりはしない。その為店内に誰が居るのかという確認すら無意識上にもしていなかったのだ。
「隣、いいかな」
「え、ええ」
提督の隣へ腰を下ろす響。隣から聞こえる「マスター、さっきのをもう一杯」という言葉から、響はまだしばらくここに居るらしい。隣に座られた以上、提督も席を立つわけにはいかず、マスターの心配を押し切って、またお酒を注文した。
(思えば、誰かと並んでお酒を飲むという経験は初めてですね……)
「司令官」
「はっはい!?」
現実逃避気味に感傷に浸っていると、隣の響から呼ばれて声が裏返る。一体何を言われるのだろうか。先日の事に対して何か言うのだろうということは分かるが、見た目中学生の響に説教されでもしたら立ち直れる自信がない。
身構える提督に対し、響は小さく頭を下げた。
「この間はごめんなさい。予想外の事を聞かれたから、突っぱねてしまった」
「あっ、いえ、私も軽率に踏み込んでしまいましたし、響が謝る必要はないですよ」
「……」
「あ、あの……響?」
驚いた顔の響が提督の顔をじぃっと覗き込み、提督は目を逸らしたい衝動に駆られる。
「……もっと怒られるかと思ってた」
「いや、そんなことはしないですよ。私、怒るのがどうやら苦手みたいでして」
「そうなのか……」
意外そうな顔で思案する響を見て、提督は思わず笑みを零した。
「司令官?」
「……いえ、響が私に関して知らないことがあったのか、という驚きですかね」
「そりゃそうさ。私にだって司令官の事で知らないことは山ほどあるさ」
「まあ、そうですよね。私も、響と出会った時と今とで、随分印象が変わりましたし」
「……ふふ、なんだ」
「……私たち、互いの事を全然知りませんね」
くすくすと笑い合う二人を見て、マスターは黙って距離を取る。身内話は聞かないようにするのが彼のポリシーらしい。
「……さて、響?」
「うん?」
「ここに来たってことは、私に話したいことがあるんですよね?」
「……そうなるかな」
お互いにお酒が入り、気兼ねが薄れる。響にとっては、それを見越しての事のようだが。
「……そうだね、司令官に話すことがあるんだ」
「……」
「ただの昔話だけどね――」